平塚西ロータリークラブさんの、卓話の講師としてお招きいただきました。
平塚の海岸近くにある名店「竹万」の御主人とは、国際観光日本レストラン協会で旧知なのですが、その御主人が今年平塚西RCの会長に成られました。その招集ですので、馳せ参じないわけにはまいりません。
30分以内ですき焼きクイズもやって欲しい、という御要望でしたので、その時間を除くと話すのは20分位ですね。
どんどん行きましょう。
前半は、すき焼きの歴史をザックリとお話ししますね。
現代のすき焼きに直結しているのは、江戸の街で密かに営業していた「ももんじ屋」または「ももんじい屋」の料理で、けものの肉を鍋物にして食べさせていたようです。当然、当時表向き肉食はタブーですから、「薬喰い」と称して、アングラで食べていました。
「百獣の屋」がなまって「ももんじ屋」ですね。
獣の産地は江戸郊外で、農民が害獣である猪や鹿を駆除した時、それを利根川で江戸へ運んでいたそうです。牛や馬は害獣でなく役にたつ動物ですから、さらにタブー感が強かったはずですが、それでも牛肉・馬肉を食べさせることがあったようです。ここで食べられていた料理が今日のすき焼きの、直接の原型です。
彦根藩も江戸時代から、将軍家に牛肉を供給していましたが、味噌漬けや塩漬けといった塩乾物の形でして、鍋の祖先は「ももんじ屋」です。
今でも両国で1718年創業の「ももんじや」さんが営業していますね。両国橋を渡ると、すぐ右手のビルの外壁にイノシシが逆さまに吊るしてありますから、行けば「おおっ!」と思うはずですが、あの御店はそうした御店の生き残りです。
で、その「ももんじや」で食べられていた、牛鍋が明治時代になりまして解禁になるのですが、その前に幕末に「プレ解禁」がありました。「プレ解禁」の原因は言うまでもなく、日本に入って来た外国人の影響です。1859年に横浜が開港しますと、居留地の外国人の需要に応えて、肉を調達する必要が生じました。当時は日本に畜産業がなかったため、農耕作業に使った牛を、退役させて潰して食用にするようになりました。
1864年には横浜に屠牛場が開設され、幕府から公認もされたようです。この頃になると牛鍋屋も、もはやアングラではなく、公然と開業し始めます。高橋音吉が「太田なわのれん」を創業しましたのは、そんな中のことでありまして、1868年すなわち明治元年のことでございました。
やがて牛鍋屋の開業ブームは横浜から江戸にも飛び火します。1867年に中川嘉兵衛という人が江戸のはずれ荏原郡今里村に屠牛場を設立しまして、江戸の牛鍋屋にも牛肉が供給されるようになります。
その場所は現在の白金台2丁目です。その辺りは今では、シロガネーゼのお洒落な街ということになっていますけど、当時は田舎だったんですね。
で、この屠牛場は近代的な屠殺場であったようです。当初は外国人向けが主でしたので、衛生的な取扱いには気をつかっていたようで、それで、今日の感覚からすると少し驚く話しですけど、この屠牛場で屠殺した牛がブランド牛になって行きます。どこで飼われていたか、ではなくて、どこで屠殺されたか、がブランドだったんです。今でも「今半」さんとか、「今朝」さんというすき焼き屋さんが在りますが、「今」の字が入っているのは「ウチは今里村屠牛場~後には「東京共有屠牛場」という名前になりますが、そういうチャンとした所から牛を買っている、チャンとした店だ!」ということを主張しているですね。
ももんじや系の店でも牛鍋を出していたわけですが、「同じような料理だけど、私屠殺の牛は使ってないよ!」という意味が店の名前に込められているわけです。トリビアでしょう!次にカノジョと「今半」さんに行ったら話して自慢してみましょう。
さてさて、1872年ついに明治天皇が初めて牛肉を召し上がりました。そのことが報道されて、肉食は完全に解禁。解禁どころか、文明開化のシンボルになります。1877年の東京における牛鍋屋の数は550軒を超えるほどであった、と伝えらえていますから、いかに当時の牛鍋のブームがスゴかったか、お分かりいただけると思います。
今日すき焼き屋を続けている店のほとんどが、この頃に開業した者の生き残りです。ただし、言い方は変わっていますね。関東では大正時代まで「すき焼き」と言わず「牛鍋」と言っていましたから、我々は牛鍋屋の生き残り、というのが正確です。
関東で「牛鍋」という言い方が「すき焼き」に変わったのと、すき焼きが高級化した時期はかぶるようです。当初、具材の内容は野菜がとても寂しくて、ネギのみの場合も多かったようです。ネギは臭み消しのスパイスとして必需品だったので、ネギは必ず入っていたと思われますが、他の具が少なかったようです。それが明治20年代辺りから大正時代にかけて、すき焼きは高級化を始めて具体的にはザクの具が増えます。この頃白滝や豆腐が使われ始めましたが、この皿はザクザクと切ることから「ザク」と通称されるようになりました。
そして高級化では、関西の店の方がやや先行していた模様です。現存してはおりませんが、関東大震災の後に関西から東京へ進出したすき焼き屋があったと聞いています。店が現存していませんので、どういうすき焼きだったか、ハッキリとは分かりませんが、わざわざ東京へ進出する位ですから、創意工夫をこらし、気合いを入れて出て来たと考えて間違いはないと思います。で、この傾向は東京勢つまり関東式の牛鍋屋には相当脅威であったようです。
関東大震災が起きて打撃を受けたところへ高級なライバルが現れたので大変だったと思います。関東の牛鍋屋が「牛鍋」と言うのを止めて、「すき焼き」と言うようになったのは、この頃でして、中には、もう廃業した御店ですが『高等すき焼き』という名前にした店すらありました。ザクの具材も、おそらく「高等」にするために増やしたんだろう、と想像します。この御店は10年位前まで現存していて、最後まで『高等すき焼き』というメニュー名を使っていまいた。「牛屋」と蔑まれているようでは、やっていけない、という恐怖感が、こんな滑稽な名前のメニューを産み出したんですね。
勿論牛鍋という名前に誇りをもって護っておいでの店もありますが、かなりの数の関東の牛鍋屋が名前を変えました。その背景は、そんな感じだったと御理解下さい。
さて、牛の話しよりザクの話しが先になってしまいました。牛のブランド化の話しもしておきましょう。今では全国各地に牛のブランドがありまして、牛と言えば「〇〇ぎゅう」ですが、ブランド化の歴史は、実はそんなに長くありません。
日本初の牛のブランド=神戸ビーフは生産地のブランドではなく、流通経路の途中の集積地の地名でした。神戸の居留地の外国人が肉を求めたことが、神戸ビーフの「そもそも」でありまして、ブランドと言いましても、今とはかなり感覚が違います。「伊万里焼」は伊万里で焼かれておらず、伊万里は積み出し港の地名でしたが、それと似ていますね。
今現在は兵庫県北部の但馬地方の牛のことを「神戸ビーフ」と定義していますが、明治時代には事情が違っていましたので、ご注意願います。
生産地の地名がブランドになるのは、1935年(=昭和10年)以降のことでありまして、松阪牛が『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになりました。しかし、この後すぐに日本は戦争に突入してしまいまして、第一回の松阪肉牛共進会が開始されたのは、戦後の1949年(=昭和24年)のことでした。
この辺りが牛のブランド化のさきがけです。で、肉質も変わって行きまして、今日皆さんが良く目にする所謂「霜降り」の肉が登場するわけです。
以上、すき焼きの歴史をザックリ追ってみました。この辺について詳しく知りたい方は、新刊本『日本のごちそう すき焼き』をお読みください。
次に、手前どもの話しです。
<この話しは、未だ続きますので、明日のこのブログにUPしますね>
追伸、
一冊丸ごと「すき焼き大全」とも申すべき本が出ました。
タイトルは『日本のごちそう すき焼き』。11月19日平凡社より刊行されました。
この本は、
食文化研究家の向笠千恵子先生が、すき焼きという面白き食べ物について語り尽くした7章と、
全国の、有志のすき焼き店主31人が、自店のすき焼き自慢を3ページずつ書いた部分の二部で構成された本で、
この十年の「すきや連」活動の集大成とも言える本です。私も勿論執筆に加わっています。
是非是非お求めください。
弊店の店頭でも販売しますし、こちらからネットでも購入できます。
是非。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.740日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。