芯の喜び

着物の「竺仙」のご主人の講演会がありましたので、聞いてきました。
その講演会は、神田の明神様が主催する「明神塾」という、神社主催のカルチャー教室のようなものでしたが、広い会場に100人近い人が聞きに来ていて大盛況でした。
さて「竺仙」さんと言えば、最高水準の江戸小紋の版を持っていることが有名ですね。
あまりに染めのドットが細かいので、遠目には無地にしか見えないのに、接近すると、版づくりの職人と染めの職人が最高の業で造ったものだと分かるというシロモノです。
現代では、その版を造れる人がもういないのに、「竺仙」さんには、まだ古い版のストックがあるのだそうです。流石という他言葉がありません。
一方私が「へええ!」と思ったのは、お客様(着物を買いに来る女性)とのやりとりです。
自分が着たいものを買いたい!
という方は、良い買い物を出来ないんだとか。それは私もなんとなく分かります。しかし店側からの、
これがお似合いです!
もダメなんだとか。
そんな時、ご主人は、お客様に尋ねるそうです。
人に、どんな風に見られたいですか? どんな人だと思われたいですか?
これが客の「芯の喜び」を引き出す言葉なんだとか。
「芯」と言うところが秀逸と存じます。
流石、初代が俳諧の人だというだけのことはありますね。
勉強になりました。

追伸、夏季の「ちんや」の、臨時営業のご案内です。下記の日は火曜ですが、営業いたします。どうぞご利用下さいませ。
8月14日(火曜、お盆)

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて3.073日連続更新を達成しました。
すき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦でした。

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山廃仕込み

会津若松の方々が見えました。
このたび旧知の「末広酒造」新城さんが会津若松観光ビューローの理事長に就かれたのですが、新城さんは会津=浅草の観光ルートを創りたいと言います。会津鉄道・野岩鉄道・東武鉄道を経由して、会津と浅草が直結しているからです。
で、東武・浅草駅で観光キャンペーンをなさるとか。猛暑の最中でしたが、青年部の方も含めて15人ほどの、御一行様でした。
施主が酒蔵のご主人ですから、交流会は当然「酒盛り」となりました。すき焼きには「山廃仕込み」のお酒を燗するのが良いということをあらためて確認致しました。
さて、この「山廃(やまはい)」という言葉ですが、日本酒業界の分かり辛い言葉の代表例と申せましょう。頻繁に使われていますが、どういう味がするのか、どういう理屈でそういう味になるのか、ヒジョーに分かり辛い言葉だと思いますので、ここで何とか、分かり易くしてみたいと思います。
この醸造方法は、国立醸造試験所が明治42年(1909年)に開発しました。それ以前は、蒸した米・麹・水を混ぜ粥状になるまで人力ですりつぶす工程があり、その工程を通称「山卸(やまおろし)」と言っていましたが、それをなくすことに成功したので、「山廃」なのです。
明治以降、日本の醸造業も機械化が進み、精米を機械で行なえるようになったので、「山卸」をして、懸命に米と麹を混ぜ合わせなくても、麹の酵素が米の内部に入り込んで行けるようになりました。
で、醸造試験所が「山卸」した酒と「山廃」した酒の成分比較を行ったところ、大きな差がなく、それならこの工程を廃止しても良かろうという話しになりました。人力で「山卸」をすることは、非常につらい肉体労働だったので、止めましょう、ということになったのです。
その「山廃」という言葉を、現代の酒蔵さんが、自慢たらしくPRに使用しています。
ここが分かり辛い点です。工程を近代化して、伝統製法から離れたことを何故自慢するんでしょう?
蔵元さんは、その後に登場した「速醸」という方法に比べて、伝統的だということを言いたいのです。
「速醸」では工業的に造った、純度の高い乳酸を酒のもとに加えます。
そもそも酵母を増殖させる工程では、乳酸が必要です。乳酸で酒のもとを酸性にして、酵母以外の雑菌を死滅させないと、失敗醸造(「腐造」と言います)になってしまうからですね。
「山廃」は、その「速醸」はやっていないのです。「山卸」は止めましたが、乳酸菌を自分で育てて、その乳酸菌に乳酸を造らせている、という点では、「山廃」以前の伝統製法(=「きもと造り」)と同じなのです。
じゃあ、どういう味がするのか?
テクニカルなことが分かっても、味が分からないと意味がありませんよね。
「山廃」は一言で申しますと、複雑な味がします。
いきなり「人工乳酸」を使って、酵母以外の雑菌を死滅させて、酵母がすくすくと育つようにしますと、シンプルな風合いの日本酒になります。
逆に、自然に蔵の中にいる乳酸菌を培養して、それが雑菌とサバイバルを繰り広げるようにすると、複雑な酒になるのです。乳酸が雑菌を死滅させるまで時間もかかります。
「山廃」は「山卸」は止めていますが、この過程は廃止していないのです。
結果、「山廃」でも伝統製法のような、複雑で濃厚な味の酒ができます。
結局薬局、濃厚な味の料理、例えばすき焼きや乳製品に合わせると良いのですね。芽出度し、芽出度し。
それにしても、もう少し、なんか味をストレートに連想させるような言葉ってないんでしょうか、ね。

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会津と郡山

会津若松の方々が見えました。
このたび旧知の「末広酒造」新城さんが会津若松観光ビューローの理事長に就かれたのですが、新城さんは会津=浅草の観光ルートを創りたいと言います。会津鉄道・野岩鉄道・東武鉄道を経由して、会津と浅草が直結しているからです。
で、東武・浅草駅で観光キャンペーンをなさるとか。猛暑の最中でしたが、青年部の方も含めて15人ほどの、御一行様でした。
さて、施主が酒蔵のご主人ですから、交流会は当然「酒盛り」となりました。すき焼きには「山廃仕込み」のお酒を燗するのが良いということをあらためて確認致しました。
そのお酒のことも当然書きたいのですが、それはややテクニカルな話しになるので、後日にまわすことにしまして、今日は二次会で話題になった、会津と郡山の食文化の違いについてです。
もんじゃ焼きの「おすぎ」さんが週末の夜中にバーをやっているので、会津の方々と行ったのですが、その時、
会津は牛をあまり食べない、豚が中心。郡山の方が牛を食べる。
という話しが出ました。
そうですね、私もそう思っていました。
福島県、新潟県、北関東3県は「豚食い文化圏」でして、すき焼きも豚でする人が多いのですが、そんな中でも郡山だけは牛を食べます。「京香」さんという、明治17年(1884年)ご創業のすき焼き店もあります。
食が違うのは歴史が違うからです。
会津若松の歴史は14世紀まで遡れるのに対して、郡山は明治時代に発展した街です。
明治11年(1878年)安積疏水を掘削するために人が集められて街が出来、やがて疎水の水で水力発電が始まって工業化が進み、さらに鉄道がひかれた時に郡山が分岐点になって発展。郡山は県庁所在地でないのに県内最大の都市になって行きます。
一方の会津は朝敵だったこともあり、大きく発展することはなく今日に至っています。
さてポイントなのは、疏水を掘削するために、どういう人が集まったか、です。
疏水掘削と安積原野開拓は、「士族授産」事業でした。明治9年(1876年)の「秩禄処分」により禄がなくなった士族に仕事を与えるための事業だったのです。
だから、全国の色んな地方から人がやって来たのです。今回の二次会で、未確認情報ですが、久留米から来た人が多かったと聞きました。
この時代の福島は新時代と旧時代が同居していたとも言えます。
そういう次第ですから、郡山には新しい食も入ってきました。
牛鍋もその一つで、「京香」さんのご先祖が、郡山における「食の開化」の担い手でした。
明治150年。街に歴史あり。食文化あり。

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サムライ

西野ジャパンが劇的に敗退してしばらく経ちますが、今でも話題になるのは、やはり「パス回し」を行った対ポーランド戦ですよね。
皆さんは、どうお考えですか?
FIFA憲章に反している、というのが正論だとは思うのですが、私は批判する気にはなれないです。
だって「一次リーグ突破」という目標・ミッションが設定されていたのですから、監督以下のチームは、それを実際問題として実現する立場にありました。忠実に仕事をしたのだから、気の毒と思います。
私がどうも違和感を抱くのは、目標・ミッションとニックネームの「サムライ」が合致していなかったことです。「サムライ」という言葉は、「義」「勇」「仁」といった言葉と結びついていて、思想性を帯びています。
映画『ラストサムライ』(2003年)に出て来る、不平士族の領袖・渡辺謙さんのイメージですね。この映画のもう一人の主役・トム・クルーズは、元々明治政府に雇われた軍事顧問でしたが、謙さんの精神世界に惚れ込んで、やがて謙さん達が政府への反乱を起こした時、勝ちを見込めないにも関わらず、謙さん側に立って参戦します。
そのイメージをスポーツ選手に充て込むと、「パス回し」はして欲しくなかったということになりますね。「パス回し」してる謙さんなんて、想像できません。この不一致が問題です。
だいたい、「サムライ」って、誰がどういう目的で言い出したんでしょうか。私は存じませんが。おそらく宣伝目的でしょう。
目標・ミッションが、そもそも「勝ちより義・勇・仁」であったら、どうなったのかあ・・・と考えてしまいます。
明治150年、今年は、どうもスポーツの精神面が話題になる年ですね。

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8月14日(火曜、お盆)

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洪水ノ実況

「浅草公園六区洪水ノ実況」
という絵葉書があります。
たまたま歴史好きの知人がSNSに上げていたのを見かけたのですが、そのすぐ後に西日本で水害が起こり、なんとも申し上げようがありません。
この絵葉書を見ると、六区興行街の中心部が、人の腰の高さまで浸水している様子に驚くとともに、その写真を絵葉書にして売るという商魂にも驚かされます。
この水害が起きたのは、明治43年(1910年)です。「明治43年の関東大水害」と言われるもので、死者769人・行方不明78人・家屋全壊2.121戸、家屋流出2.796戸にも上る大参事だったそうです。
これ以降浅草は水害に遭っていません。
水害に遭わなくなったのは、明治43年の大水害に危機感を覚えた当時の政府が荒川の流路掘削を決意したからです。
江戸時代、荒川と隅田川はつながっていて、水運の大動脈でした。弊ブログの6月25日号でご紹介した、ギャラリー・エフさんの蔵が建てられたのも、水運がもたらす富が浅草に落ちたからです。荒川が隅田川へ流れこんでいるのですから、水量が多く、物資の輸送には便利でしたが、ひとたび水害が起きると惨事になったのです。
そこで政府は「荒川放水路」を掘削することを決定します。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)まで、17年がかりの難工事の結果、荒川の水はかなり東方・現在の江東区・江戸川区の境へと流れることになりました。
この新しく太い流路が、やがて荒川の本流と認定され、江戸時代には荒川の本流であった現在の「隅田川」つまり岩淵水門より下流の部分が「隅田川」と呼ばれるようになったのでありました。
以来浅草は水害に遭っておらず、現在の水害ハザードマップでは荒川周辺の危険度が高いと評価されています。
地球温暖化の時節、荒川流域にお住まいの皆様は、充分にお気をつけいただきたいと存じます。
最後になりましたが、このたびの豪雨で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

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7月10日(火曜、浅草寺の「ほうずき市」)
8月14日(火曜、お盆)

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陸軍御用

不勉強なことに、そういうすき焼き屋さんがあったことを存じませんでした。
報道で初めて、その旧店舗が取り壊されたことを知りました。
取り壊されたのは、老舗すき焼き料亭「信田(のぶた)」さんの店舗です。
所在地は、以前は群馬県内有数の花街として知られた高崎市柳川町。2010年に営業終了した後も姿をとどめていたそうですが、この6月に解体・撤去されたそうです。
「信田」さんは明治20年代の創業と言われています。西洋料理もやっていて、すき焼き専門というわけではなく、戦前は陸軍の将校たちが通う社交場という感じだったようです。
新潟県の新発田には料亭風のすき焼き店「八木」さんがあり、かつては陸軍歩兵第16連隊に愛され、今でも自衛隊の人たちに愛されていますが、高崎も事情が似ていて、ここには第15連隊がありました。
こういう土地には、大勢で宴会を出来て芸者衆を呼べる店が自然と出来ました。で、メインの料理がすき焼きだったということだろうと思います。
戦前の「信田」さんの広告を見ると、「陸軍御用」「牛肉」「西洋御料理」と書かれていて、仲居さんはエプロンを付けています。
今回の報道を受けて、群馬の肉方面の知人から「群馬のすき焼きを語る折には欠かせぬ店」だったと惜しむ声が届きました。
廃業なさった2010年は、私が「すきや連」を始めた2008年の少し後で、その時は営業されていたのですから、丁寧に調べて、ご縁を創っておけばよかったと悔やまれます。
今回、建物を残して古民家再生することも出来なかったようです。残しておけば「かつてすき焼き屋だった」ということが記憶されるはずですが、完全取り壊しなので、それも叶わないようです。残念ですね。

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西郷どん

大河ドラマ「西郷どん」が景況に入ってきたようです。
横浜で英国人が島津久光の大名行列を妨害したため、薩摩藩士が英国人を斬り殺し、復讐のため英国艦隊が鹿児島へ攻めて来ます。この時西郷どんは、久光に疎まれて遠ざけられていたのですが、急転する時局に対応するため、鹿児島へ呼び戻されます・・・と維新史でも大変有名な局面ですね。
で、思い出しました。年始に放送していた、西郷どんが食べていた料理を再現するという番組を。豚肉料理だったんですよね、それが。
西郷どんは牛鍋を好きだったですけどねえ。
鹿児島と言えば豚だろう→やっぱり豚で行かないとねえ・・・
という感じだったんでしょうか。
小説『翔ぶが如く』の終盤には、西郷どんが牛鍋を食べるシーンがあります。
それは西郷どんが討幕を実現し→やがて下野→西南戦争を起こした後の話しですが、西郷の薩軍は本営を熊本に置いていました。しかし政府軍が九州北部から進撃してきて、熊本北方の田原坂で激突。薩軍の大半は田原坂方面に出てしまって、河野主一郎の隊だけが熊本に残ります。
で、その河野と西郷どんが、北方の戦況を心配しながら牛鍋を食べる、というシーンです。
さて大河では、牛鍋シーンはあるんでしょうか。
やっぱり豚かなあ。

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すき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦でした。

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北海道と松阪

旧知の歴史小説家・河治和香先生が新作を発表され、その出版記念会がありましたので、参加しました。
和香先生は、これまで「有名」とまでは言えないが、ユニークな歴史上の人物を小説にして来て、以前「駒形どぜう」さんの三代目越後屋助七を主人公にした小説『どぜう屋助七』を書かれたことがありました。(ちなみに当代は七代目)
その『どぜう屋助七』の中で、「ちんや」の先祖を登場させていただいたことをキッカケに、弊店へもお越しいただいたりしています。
今回の記念会の会場はアサヒビール本社のゲストルームで、当然アサヒさんのゲストしか入れない所ですが、その会場も「駒形」さんのツテで取ったようです。
さて、その和香先生の今回作は、
『がいなもん 松浦武四郎一代』。
江戸後期から明治にかけて北海道を六度探検し、北海道の名付け親になったとされる松浦武四郎(1818~88年)の生涯を描いた作品です。
出身地は松阪。当時の松阪は伊勢商人の街で、牛は未だ盛んになっていないので、私が招待されてはいますが、牛は関係ありません。
記念会当日も、北海道と松阪の話しということで、両市・道の関係者が参加していて、合同地方創生の感がありました。
話しの中に登場するということで、豆腐料理「笹乃雪」(根岸)のご主人や「長命寺桜もち」(向島)のご主人も見えていました。
出版&ご盛会誠にお芽出とうございました。
皆様、是非ご購読を。
『がいなもん 松浦武四郎一代』(小学館)
ISBN-10: 4093865108
ISBN-13: 978-4093865104

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がいなもん

旧知の歴史小説家・河治和香先生が新作を発表されました。
和香先生は、これまで「有名」とまでは言えないが、ユニークな歴史上の人物を小説にして来て、以前「駒形どぜう」さんの三代目越後屋助七を主人公にした小説『どぜう屋助七』を書かれたことがありました。(ちなみに当代は七代目)
その『どぜう屋助七』の中で、「ちんや」の先祖を登場させていただいたことをキッカケに、弊店へもお越しいただいたりしています。
さて、その和香先生の今回作は、
『がいなもん 松浦武四郎一代』。
江戸後期から明治にかけて北海道を六度探検し、北海道の名付け親になったとされる松浦武四郎(1818~88年)の生涯を描いた作品です。
「がいなもん」は武四郎の出身地・松阪の方言で「途方もない、とんでもない」という意味だそうです。松阪から探検家が出たというのは、一見意外な気もしますが、松阪は以前は牛の街ではなく、伊勢商人の街でしたから、視野の広い人が多かったと言えるかもしれません。
皆様、是非ご購読を。

『がいなもん 松浦武四郎一代』(小学館)
ISBN-10: 4093865108
ISBN-13: 978-4093865104

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再開

台東区芸術文化財団の方が、奏楽堂が今年11月に再開すると言ってこられました。
芽出たいです。
「奏楽堂」とは正確には「旧東京音楽学校奏楽堂」。
東京芸術大学音楽学部の前身・東京音楽学校の校舎として明治23年(1890年)に建造された建物です。かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台です。
その奏楽堂も昭和40年代(1965年~)に入ると、建物の老朽化が目立つようになり、芸大は校舎を都外へ移設する計画をしますが、その時台東区が芸大から、この建物を譲り受けて、保存・活用することとなりました。
昭和62年(1987年)に現在の地へ校舎を移築・復原し、一般への公開を開始しました。日本最古の洋式音楽ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けてもいます。
この移築・復元の経緯に「ちんや」は少し関係しています。(詳しくは、こちらをご覧ください。)
以来奏楽堂は、「生きた文化財」として、建物の公開のほか、演奏会や音楽資料の展示を行ってきましたが、、そこからまた30年が経って、耐震補強が必要になりました。また建物の名物であるオルガンの調子が悪いという難点もあって、その為平成25年(2014年)から今年まで工事休館していました。
それが、今年11月に再開と決まったのです。
開館当時のコンサートが再現されるとかで、芽出たい限りです。

■ ちんや臨時営業について
平成30年5月2日(水曜)
営業時間:12:00~15:00、16:30~21:30(昼・夜席とも営業)
地下1階「ちんや亭」も営業いたします(11:30~15:00) 
どうぞ、ご利用下さいませ。

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