「陸奥」のすき焼き

浅草の新仲見世を歩いていたら、「横須賀海軍カレー」と大書した幟が置いてありました。

なんと、浅草で横須賀のカレーの店をやるのか!と思いきや、さにあらず。その幟は、最近できたミリタリーショップで売っている商品、つまり幟自体が売り物でした。

で、今日は「海軍メシ」の件ですが、「海軍メシ」というジャンルが既にあるようです。

横須賀のカレーは既に有名ですし、西の軍港である呉にも「呉海軍グルメ研究会」というのがあるそうです。

そして、その「呉海軍グルメ研究会」が戦艦「陸奥」のすき焼きを紹介しています。

「陸奥」は就役当時「世界七大戦艦」の一観と言われた大戦艦ですが、「陸奥のすき焼き」の記録は艦内新聞です。昭和13年1月28日に昼食として出されたそうです。

レシピ(2人分)は、

・牛ロース肉(薄切り):150g ・玉ねぎ:2個 ・モヤシ:1袋 ・豆腐:1丁

・醤油:適量 ・砂糖(あるいはザラメ糖):適量 ・ごま油:適量

割り下を使わない「関西風」ですね。

煮るための水分を確保する具材としては白菜ではなく、海上で保存がきく玉ねぎが充てられています。そして艦内で生産できるモヤシを使っています。

海軍料理らしい工夫です。

胡麻油はとくに海軍が常用していた油で、肉ジャガも胡麻油で作っていたそうです。

そして、すき焼きの出る日は「すき焼き会」と称して、乗員が皆楽しみにしたとか。

海軍のすき焼きは、地方のすき焼きの変わり種の一種と言えるかもしれません。

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地下鉄

本日は「地下鉄記念日」です。

1927年の今日日本最初の地下鉄が開業したからでして、その区間は、浅草=上野間でした。

現在の東京メトロ銀座線ですね。

路線の名前が「銀座線」なのに、浅草=上野間しか開業しなかったのは、関東大震災のせいです。

元々は浅草から新橋までつなげることを目指していましたが、1923年の大震災による不況で全面開通できず、高収益が期待できる浅草=上野間だけを先行開業させたわけです。

当時浅草は日本一の繁華街で、しかも他に鉄道が乗り入れていなかったので、儲かる区間と見込まれたんですね。

開業日には10万人もの人が乗車したと伝えられています。

年末年始のご参詣には、どうぞ地下鉄をご利用下さいませ。

追伸、すき焼き「ちんや」再開のおしらせです。

2022年3月18日に、浅草花川戸「金泉ビル」(台東区花川戸2丁目16-1)で再開させていただきます。

すき焼き店のほか、精肉売店も併設致します。

「株式会社 WDI」さんとの御縁により、私の当初の見込みより早めに再開できることとなり、嬉しく思っております。

新店舗には旧店舗のスタッフも、私も従事致しますし、旧店舗の調度品を持ち込みますので、味や雰囲気を保てるものと考えております。

今後詳細が決まり次第順次こちらのサイトにて公開してまいります。ご期待いただけましたら幸いです。

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三百年祭

最近の大河ドラマで、「東京開市三百年祭」を渋沢栄一はじめ旧幕臣が中心になって祝った場面が放送されていました。

「東京開市三百年」とは、徳川家康が天正18年(1590年)に江戸に入ることになってから300年目が1890年だったというわけです。

しかし当時、明治政府に媚び憚って前政府の創業者・家康をうとんじる風があり、それで「江戸開府」ではなく「東京開市」になってしまったようです。

これについて福澤諭吉は「政権の新陳交代は政事の常」「徳川二百七十年の善政があったからこそ、明治新政わずか二十余年で国会開設が可能になった」と大いに批判しますが、名前は変えられなかったようです。

それはさておき、その式典のメイン会場は上野公園不忍池畔の競馬場でした。競馬場の様子は「ちんや」が収蔵する錦絵で見ることができます。

上野での三百年祭は「朝野新聞」によれば「非常の群集」で賑わったと伝えられています。

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立志と学問

さて12月となり、今年の顔である渋沢栄一の大河ドラマも残り少なくなりました。

そんなおり、久しぶりに「論語と算盤」を読んでおりましたら、

?!

と思う一節がありました。

第2章「立志と学問」で自身の前半生を「ムダ」と言っていたのです。

以前に読んだ時は読み飛ばしてしまったようですが、今回かなりハッキリ「ムダ」と言っていて少し驚きました。

渋沢は、はじめ尊王攘夷運動に関わり、やがて大きく方針転換して徳川慶喜の臣下となり、さらに転換して明治政府に入って、政府の近代化を進め、またさらに転換して、実業界に移ります。

実業界を盛り立てることが、結局自身の「立志」であって、それまでの、30歳くらいまでの活動は、

「青年時代の見当違いなやる気で、肝心の修養すべき時期を、まったく方向違いの仕事でムダに使ってしまった」と。

ムダという表現を?!と思ったのは、今年の大河ドラマで前半生の部分が長かったからかもしれません。

渋沢栄一って、明治時代の実業家と聞いていたのに、なんでずっと江戸時代の話しが続くんだ?と思った方も多かったと思います。ドラマとしては、そちらが面白いですからね。

しかし、ご本人はムダと言っておられましたよ、はい。

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フィクションドキュメンタリー

日本堤消防署さんの研修会で、

フィクションドキュメンタリー「荒川氾濫」

を視ました。

東京都北区のJR鉄道橋付近で堤防が決壊した場合と、東京都足立区の鉄道橋付近で堤防が決壊した場合を想定・作成された動画です。映画感覚の動画でした。

その設定では、浅草雷門は決壊から6時間で1メートル程度浸水すると放映されていました。

東京駅や銀座もやがて水没、東京の地下鉄は全部止まるという想定でした。

浅草は、実は1910年(明治43年)に水害に遭ったことがあります。

「明治43年の関東大水害」と言われるもので、死者769人・行方不明78人・家屋全壊2.121戸、家屋流出2.796戸にも上る大参事だったそうです。

これ以降浅草は水害に遭っていませんが、水害に遭わなくなったのは、1910年の大水害に危機感を覚えた当時の政府が荒川の流路掘削を決意したからです。

江戸時代、荒川と隅田川はつながっていて、水運の大動脈でした。荒川が隅田川へ流れこんでいるのですから、水量が多く、物資の輸送には便利でしたが、ひとたび水害が起きると惨事になったのです。

1910年の惨事を受けて、政府は「荒川放水路」を掘削することを決定します。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)まで、17年がかりの難工事の結果、荒川の水はかなり東方・現在の江東区・江戸川区の境へと流れることになりました。

この新しく太い流路が、やがて荒川の本流と認定され、江戸時代には荒川の本流であった現在の「隅田川」つまり岩淵水門より下流の部分が「隅田川」と呼ばれるようになったのでありました。

以来浅草は水害に遭っておりません。が、それから110年を経て、地球は温暖化し、放水路を掘削した今の荒川でも危なくなってきた、というのが、今回の研修です。

水害ばかりは、逃げるしかないですねえ。

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最初のホテル

11月20日は「ホテルの日」だそうです。

そんな日があったのか、何故今日なのか、と思ったら、明治23年(1890年)に帝国ホテルが開業した日だからだとか。

他のホテルの人は祝ってるんでしょうか・・・

最初の西洋式ホテルは帝国ホテルではありません。

「築地ホテル館」が明治元年(1868年)に開業していて、そちらが日本人が設立した、最初の西洋式ホテルです。

江戸幕府が築地に外国人居留地を設置するのに伴い、諸外国に対して建設を約束しましたが、開業は幕府が倒れてから、明治維新後のことでした。

設計はアメリカ人ブリッジェンス。

施工は清水建設の創業者・清水喜助が請け負いましたが、喜助は工期を急がせ、わずか1年で完成させたと言いますから驚きます。

この建物は東京に出現した、最初の洋風建築の一つで、実に堂々たるものです。文明開化のシンボルとして、市中の大きな話題を集めたようです。

外国人の評判も悪くなかったようなのですが、明治5年の大火で焼失し、再建されることはありませんでした。残念ですね。

そのホテルを描いた錦絵を「ちんや」が収蔵していて、ネットでも、こちらからご覧になれますので、後でゆっくり観て下さい。

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日本初

毎年11月10日は「エレベーターの日」です。日本エレベーター協会が決めています。

この日は、実は浅草に大いに関係ある日なのですが、経緯を観て行くと、トホホな点もあります。

さて、何故この日が「エレベーターの日」なのか、ですが、

1890年(明治23年)11月10日に、日本初の電動エレベーターが浅草「凌雲閣」で公開された日だからです。

浅草「凌雲閣」は当時帝都東京随一の展望塔で、当初11月10日に開業予定でしたが、開業式の来賓の都合で翌11日に繰り延べられました。

「エレベーターの日」は、何故か、最初の11月10日の方を採用しています。

そして、もう1点トホホなことが、

エレベーターは開業当日より故障が頻発。危険だということで、翌1891年5月には警察から使用中止が出てしまいました。訴訟沙汰にもなったとか。

そういう次第で、目出たさも中くらいなので、この「エレベーターの日」です。

もっとも、面白い副産物もありました。

エレベーターが動かないので、12階まで階段で昇る人を楽しませようと、「東京百美人」

という、写真の展示が行われました。

東京の美人芸者100名の写真を階段に展示して、その中から人気上位5名が表彰されるというものでした。そんなイベントは、勿論日本初でした。

今は知っている人も少ない「凌雲閣」ですが、最近「鬼滅」で再び注目されました。エレベーターと百美人も話題になりましたら、さらに面白いと思います。

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論語とすき焼き

大河ドラマで、ようやくすき焼きのシーンがありました。

明治時代の話しだから、すき焼きのシーンがあるはずだと、ずっと視てきましたが、一瞬でした。

すき焼きが一瞬だったのは、その場面が大事な場面だったからです。

渋沢栄一たちがすき焼きを食べたのは、蚕卵紙の買い上げ・焼却の成功を祝う為でした。

横浜の外国商人が結託して、日本の蚕卵紙を買い控え、値崩れを起こさせようとしていたところ、栄一たちが政府の公的資金で買い上げ・焼却して、対抗したのです。

それが成功したので、栄一や渋沢喜作らはすき焼きで気勢を上げていたのですが、盛り上がった勢いで、栄一は、「論語」の大切さを語り出します。

後に渋沢と言えば「論語と算盤」となりますが、その始めがすき焼きのシーンでした。

同じ場面では、もう一つ大事なセリフも。

その場に来ていた、三井の三野村利左衛門が、皆が金を崇拝する明治の世が心配だと発言をするのです。

金の面では大成功者だった三野村が、そう渋沢に言うことで、今後の渋沢の行動に影響を与えます。

と、いうことで、肉が美味いとか、そういうセリフはなかったのですが、重要なシーンだったので、一応私は満足致しました。

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開校記念日

稲門の皆様、本日は創立記念日おめでとうございます。

稲門以外の皆様にお知らせしますが、本日は、1882年に早稲田大学の前身である「東京専門学校」が設立された日です。創立者は大隈重信(1838~1922年)。早稲田にあった、大隈侯の私邸の隣に開校しました。

今年は大河ドラマに大隈侯が長時間登場していて、しかも政党を創る前の時代が採り上げられているので、一般人が久しぶりに侯に注目した年になるかもしれませんね。

これまで大隈侯と言えば、まず「早稲田」。それから「立憲改進党」が知られている位でしたよね。

しかし、大隈侯は実は、立憲改進党を創る前は明治政府の中枢にいて、数々の革新的な政策を推進していました。その頃に渋沢栄一が部下だった為、今年の大河に長時間出ているわけです。

そろそろ渋沢は明治政府を離れてしまうので、大隈侯の出番も減るかと思います。稲門の皆様は、それまでしばしお楽しみくださいませ。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.254本目の投稿でした。

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築地梁山泊

今だに酒に関して「8時まで」「4人まで」と言われている現代東京ですが、

かつては国家の大事を酒席で決めていた時代がありました。

大河ドラマ「青天を衝け」の第29話には、こんな(↓)シーンがありました・・・

大隈重信と渋沢栄一が酒を飲み、殖産興業について激論し、やがて大隈は、

「よし!官の中で養蚕のことば一番知っとるとは渋沢や!養蚕のことは君に任す!」

と言って、渋沢を明治政府の養蚕担当者に決めてしまいます。

渋沢は元々養蚕農家の出身だったので、従弟の尾高惇忠を説得して政府に入れて、官営富岡製糸場を開設します。

このように幕末から明治の「志士」「国士」たちは酒が好きでした。

大隈と渋沢が飲んでいた大隈の、築地の私邸は「築地梁山泊」と言われ、夜ごと宴会が繰り広げられていたと言います。その場所は、今は料亭「新喜楽」になっています。

現代日本も早く酒を解禁しないと、国家の大事が決まらないかと・・・

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