福澤諭吉のすすめ

『家庭画報』10月号が「福澤諭吉のすすめ」という特集を組んでいます。

雷門「三定」の女将さんが塾員なのですが、

私の知り合いが編集しているの! 住吉君も読んで!

と言うので、私も拝読しました。

・福澤先生の生涯の概説

・先生所縁の地を訪ねる旅

・各界著名人が、自分が大切にしている先生の言葉を挙げるコーナー

などが載っていました。

言葉は「独立自尊」を筆頭に「一身独立して一国独立す」「気品の泉源智徳の模範たれ」などあらためて読んでも素晴らしい教えが多いと思うと同時に、自分が全くそうなっていないことに呆れるばかりです。

私が好きなのは、先生の毒舌なんですよね。

「赤穂不義士論」(明治7年)はつとに有名ですが、

弊ブログの8月19日号でも紹介しました通り、先生は肉食を擁護するあまり、他の食べ物について毒舌を吐いています。

「日本橋の蒲鉾は溺死人を喰ひし鱶の肉にて製したるなり」

「春の青菜香しといえども、一昨日かけし小便は深く其葉に浸込たらん」

「先祖伝來の糠味噌樽へ螂蛆うじと一処にかきまぜたる茄子大根の新漬は如何」(明治3年)

今回『家庭画報』だけに、先生が『女大学』(貝原益軒)を批判した『女大学評論』も採り上げられていますが、その論法は、

『女大学』が「七去」と指弾する「子なき女」「淫乱な女」「嫉妬深き女」の「女」を「男」に入れ替えたらどうなるだろう。女だけが責められるのはおかしいじゃないか。

悪人はむしろ男に多く「男大学」を書いた方が良いくらいだ。ここも毒舌系ですねえ。

私が、この特集を編集するとしたら、

「福翁毒舌ベストテン」ですかねえ。「先祖伝来の糠味噌」は是非そこに入れたいです(笑)

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし本日は3.845目の投稿でした。引き続きご愛読を。

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福澤先生と肉食③

タイトルは「福澤先生と肉食」ですが、今日は肉の話しは出ませんで、その余談です。

昨今話題の嗅覚障害に福澤先生もなっていた!という件です。

先生が明治3年にチフスにかかって、18日間人事不省という重態となり、病後の栄養補給に牛乳を飲んだ件は昨日の弊ブログに書きました。

そのくだりを『福翁自伝』で確認しようと読んでみましたら、以下のように書かれていました。

「慶應義塾が芝の新銭座を去って三田のただ今の処に移ったのは明治四年、是れも塾の一大改革ですから一通り語りましょう。その前年五月私が酷い熱病にかかり、病後神経が過敏になったせいか、新銭座の地所が何か臭いように鼻に感じる。また事実湿地でもあるからどこかに引き移りたいと思い・・・」

残念ながら牛乳の件は書かれていないのですが、久しぶりに読み返して「!」と思いました。チフスで嗅覚が変わり、転居したくなったと言うのです。

芝の新銭座(しんせんざ)というのは、現在の浜離宮庭園の近く。海っぺりの湿地だった所に銭の鋳造所が出来て、後に町屋になったところですが、そこを先生は臭いと思うようになってしまったとか。

福澤塾が「慶應義塾」と命名されたのは、新銭座にあった時代なんですけどね。

「地所が何か臭いように鼻に感じる」という所を私は以前スルーしていました。転居の理由としては何だか変だなあ・・・くらいに思っておりましたが、コロナの時代に読み返して、そういうことか!と思った次第です。

以来義塾は現在地の三田山上にあります。

山の上に移ったのは低地がイヤだったから。授業に遅刻しそうな時に教室まで駆け上がるのは私も苦痛でしたが、学生がそういうハメになったのは、そういうわけです。

その発端はチフスで嗅覚が変わったから。

チフスがキッカケで先生は牛肉・牛乳を推奨する文を書き、義塾は現在地に移転した。

塾員の皆さん、ご存知でしたか?

*追伸、「ちんや」が使っている千住葱の動画がNHKアーカイブスのサイトで見られるようになっています。この動画は、今年3月にNHK-BSで放送された「新日本風土記」を再編集した動画です。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
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福澤先生と肉食②

今日の話しは昨日の弊ブログから続いています。昨日は「適塾」時代の福澤諭吉先生が牛鍋屋に行っていた件でした。

牛鍋屋は悪所にある下等な店でしたが、安かったので、飲みたい願望・食への好奇心が強かった当時の先生はかまわず行っていました。「不潔に頓着せず」だったのです。

その後先生は江戸へ出て蘭学塾を開きます。咸臨丸で渡米、文久遣欧使節に同行して渡欧、海外の見聞を広めます。

塾もだんだんに発展しますが、そんなおり、明治3年に先生はチフスにかかります。人事不省の状態が18日間に及んだというから、大変でした。

その時に栄養補給に重宝したのが、「築地牛馬会社」から手にいれた牛乳でした。

「築地牛馬会社」は御一新後に官営で設立された会社です。築地にリアルに牛がいて、乳をしぼったり、屠畜をしていたのだから驚きです。

先生は、その牛馬会社に助けられたので、肉食や牛乳、バターなどを推奨する一文を書きました。それが『肉食之説』(明治3年)です。

文の調子は、けっこう激烈です。

日本には、みだりに肉を嫌う者が多いが、それは、

人の天性を知らず人身の理をわきまえない「無学文盲の空論なり」と切り捨てています。

このころの先生は旧習に対する批判精神が高揚していた時期でした。四年後の『学問のすすめ』第六編「国法の貴きを論ず」では有名な「赤穂不義士論」を出します。

歌舞伎や講談で有名な赤穂義士の死に方は無益な死で、お使いの金を落として首をつった手代の権助(ごんすけ)と、無益という意味では変わらないと論じたのですから、大炎上しました。

ここに先生の、もう一つの気質が現れていますね。「炎上に頓着せず」です。昨日は「不潔に」でしたが、今日は「炎上に」です(笑)

法を施行できるのは政府のみで赤穂義士の敵討は私裁だと批判するのは議論として分かりますが、そこに権助を持ち出すのは、言い過ぎ感があります。それでも先生は権助を持ち出して世論を刺激しました。

『肉食之説』でも先生は結構刺激的なことを言っています。

当時世間には、肉はきたないものだと思う人が多かったのですが、その人達がありがたがって食べている食品を先生はコキ下ろします。

「日本橋の蒲鉾は溺死人を喰ひし鱶の肉にて製したるなり」

「春の青菜香しといえども、一昨日かけし小便は深く其葉に浸込たらん」

「先祖傳來の糠味噌樽へ螂蛆うじと一処にかきまぜたる茄子大根の新漬は如何」

うじ虫が漬物の糠床に入り込んで死んだ場合、糠床にいる微生物がそれを分解してしまうので、人体に影響は少ないです。うじ虫に腐敗菌が付いていたとしても糠床の中では常在の乳酸菌の勢力が圧倒的で、腐敗菌は駆逐されるのです。

が、気分として不潔感はどうしても、ありますね。そういう漬物を喜んで食べているのだから、諸君は肉だって食えるはずだというわけです。

肉は滋養や体力向上に良いのだから、是非食べるべきだと言うだけで済ませず、他の食品をあれこれ批判しているのは、これも言い過ぎ感がありますが、私は個人的には好きです。

旧習を止めさせ、肉食を普及させたいという情熱が、炎上しそうな表現に向かわせたのでしょうから、私は好ましく感じますが、蒲鉾屋さんや漬物屋さんは、さぞ不愉快だったでしょう。

このくだりが個人的にかなり好きなので、赤穂義士が炎上したのに、肉食がさほど炎上した形跡がなく見えるのは、私としてはむしろ不満に思っています。

(『肉食之説』が炎上していないかは、突き詰めて確認したわけではないです。今後どなたか史料にあたって確認して欲しいです) 以上、昨日・今日と福澤先生を肉食推奨に向かわせた、二つのエピソードをご紹介しました。暴論・雑感ですから、どなた様も真面目に読まないようにお願い申し上げます。

*追伸、「ちんや」が使っている千住葱の動画がNHKアーカイブスのサイトで見られるようになっています。この動画は、今年3月にNHK-BSで放送された「新日本風土記」を再編集した動画です。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし本日は3.826目の投稿でした。引き続きご愛読を。

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福澤先生と肉食①

福澤諭吉先生と明治の食文化について考えるという、ステキな研究をしている方が訪ねて来られたので、私の知っている限りで「福澤先生と肉食」についてお話ししました。

以下は論文には到底ならない私の暴論・雑感ですが、「先生と肉」で重要だと私が思うのは、

『肉食之説』(明治3年)と

『福翁自伝』(明治32年)の「緒方の塾風」(適塾のくだり)です。

出版年代としては『肉食』が先ですが、中身の年代では『福翁』が先なので、そちらから行きますと、先生は安政2年(1855年)から緒方洪庵の「適塾」で学びました。『福翁』には、その頃牛鍋屋に通っていたと書いてあります。

幕末の大阪には牛鍋屋が2軒。内1軒の難波橋のたもとに在った店は「最下等の店」で「ゴロツキと緒方の書生ばかりが得意の定客」の店。

「何処どこから取寄せた肉だか、殺した牛やら、病死した牛やら、そんな事には頓着なし」「牛は随分硬くて臭かった」とか。

ゴロツキばかりと言うのですから、その場所は所謂「悪所」です。現代大阪にも飛田とかに風俗街が在りますが、牛鍋店の場所はそちらの方角ではなく、北浜の証券取引所が今ある所の近くにありました。今ではもちろん金融街です。ビックリですね。北浜には18世紀半ばから金相場会所や俵物会所があって、大阪の経済の中心だったわけですが、そのすぐ傍に遊郭があったとは意外なことです。

「適塾」は淀屋橋にありましたから、そこから北浜の方向(東)に向かうと、難波橋に牛鍋店。ゴロツキが関係していた蟹島遊郭は、牛鍋店の場所からさらに1ブロック東にあったようですが、明治後半から寂れて1911年に消滅しました。

先生が牛鍋屋に行ったのは、滋養強壮というよりズバリ安く飲めたからです。「便利なのは牛肉屋だ」と言っています。当時の先生は「少しでも手許てもとに金があれば直すぐに飲むことを考える」「酒を飲むことでは随分塾風を荒らした事もあろうと思う」といった調子であったようです。

後に先生は『肉食之説』で「今より大に牧牛羊の法を開き、其肉を用ひ其乳汁を飮み滋養の缺を補ふべき」と推奨しますが、この頃はそういうことより飲むのがお好きだったようです。

ここで気づくことは、先生には清潔でない環境に対する免疫があったようだということです。先生だけでなく緒方の塾生は皆「不潔に頓着せず」という風で、暑い時季は全裸で過ごしたりしていたそうですが、この環境から多くの偉人が育ちました。

いくら酒好きで安く飲みたいと思っていても、不潔な店を我慢できなければ行けませんよね。コロナ恐怖症の現代日本人は、この牛鍋屋に行けません、ゼッタイ(笑)

先生が平気だったのは、幼い頃貧乏したからか、病人に接する医者を志していたからか。

ともあれ「不潔に頓着せず」という気質があったので平気で安い肉を食えたのです。

だいたい一般に食への好奇心が強い人は清潔にこだわらない人が多いです。不潔への懸念を食への好奇心が凌駕していて、なんでも食べてしまう人がグルマンになることが多いです。『福翁』には「私は大阪に居るとき颯々と河豚も喰えば河豚の肝も喰って居た」とも書かれていて、いくらグルマンでもこれは危険ですね。先生が河豚の肝で亡くなっていたら、日本の近代化はだいぶ遅れたことでしょう。

先生は、そうしたグルマンの一人で、その気質が先生を肉食へ向かわせたと私は思っています。

やがて先生は肉食に「滋養」という理屈を付けるようになりますが、それは明日の弊ブログで。

*追伸、「ちんや」が使っている千住葱の動画がNHKアーカイブスのサイトで見られるようになっています。この動画は、今年3月にNHK-BSで放送された「新日本風土記」を再編集した動画です。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
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三方よし

「100年経営研究機構」さんから会報誌「百年経営」が届き拝読しておりましたら、意外なことが書いてありました。
近江商人の精神として大変よく知られている「三方よし」という言葉は、江戸時代には使われておらず、昭和に登場した言葉なのだそうです。
だから江戸時代に設定されたドラマで登場人物がこれを言うのはおかしいとか。
へえ、存じませんでした。
近江商人の経営を「三方よし」と表現したのは、経済史学者で滋賀大学経済学部長だった小倉栄一郎(1924年~1992年)が1980年代に用い始めたのが先例なんだとか。意外と最近なんですね。
もっとも「三方よし」という言葉自体は、それ以前から使われていました。
麗澤大学の創立者で「モラロジー」(道徳科学)の提唱者だった廣池千九郎(1866年~1938年)が「自分よし、相手よし、第三者よし」と言っていたそうです。
小倉と廣池のつながりは不明です。
廣池は「モラロジー」に基づいた教育活動に大変熱心で、昭和戦前滋賀県でも講習会が盛んに開かれていたので、小倉が廣池の活動に接した可能性は考えられるものの、確たる証拠はないとか。
江戸時代に起源のある滋賀県の企業が「三方よし」を掲げていることがありますが、最初から言っていたと思い込まない方が良いようです。

*すき焼き・しゃぶしゃぶは、鍋でウイルスを加熱殺菌してすぐ食べるので、非常に安全な食べ方です。安心してお召し上がり下さいませ。
こちらで通信販売もしています。
よろしくお願い申し上げます。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし本日は3.776本目の投稿でした。引き続きご愛読を。

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ニッポンチ!最終回

小学館の文芸雑誌「qui-la-la」(きらら)での、河治和香先生の連載「ニッポンチ!」が最終回を迎えました。
和香先生が、「駒形どぜう」の三代目を主人公にした小説『どぜう屋助七』(2013年)にウチのご先祖を登場させて下さって以来、新しい連載が始まるのを楽しみにしておりますが、今回は明治の浮世絵師を主人公にした小説です。登場する絵師の作品がウチにあったりしますので、なおさら楽しみな連載でした。
登場するのは歌川国芳門下の絵師たちと娘の芳。国芳には歌川芳虎、芳艶、芳藤、落合芳幾、さらには月岡芳年、河鍋暁斎といった弟子がいましたが、国芳が幕府に逆らう位の人だったので、弟子達の性格も皆ユニークで。その人物描写もまた、この小説の面白いポイントでした。
最終回では、時代が関東大震災後まで進んでいて、その時点から芳の人生を回想する形になります。
芳も弟子達も、江戸時代の画工が、そのまま生きているような人達ですので、御一新後の時世に翻弄され、写真とか新しい技術にも翻弄されつつ、なんとか、そこまで生き延びました。孫弟子・曾孫弟子世代には、水野年方、鏑木清方、伊東深水などが出たりしました。一方生き延びなかった弟子もいました。
なんか、コロナ後の料理屋に重なります(泣き)
そんな人達を語る中で最終回では、絵師だけでなく、摺り師や彫り師の話しになります。そうした職人達は、最後にどこで亡くなったのか、生没年や、名前が本当の名だったのかすら分からない人が多いとか。
最晩年の国芳のように、病床に臥せって力ある絵が描けない人の作品でも、売れるように仕上がったのは摺り師や彫り師の腕のおかげでしたが、忘れ去られました。芳は、こう言います、
「明治になってから、立身出世や世間に名を売ることが大事なような風潮になりましたけれど、江戸っ子というのは、もっと奥ゆかしいものでございましたよ」
秋には単行本化するそうで楽しみです。

追伸
すき焼き・しゃぶしゃぶは、鍋でウイルスを加熱殺菌してすぐ食べるので、非常に安全な食べ方です。安心してお召し上がり下さいませ。
こちらで通信販売もしています。

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第25回研究会

本日開催される、100年経営研究機構さんの第25回研究会のテーマは
「100年企業に見る、コロナウイルスに関する対策と状況」です。
今回の緊急事態宣言が発令された頃、100年機構さんが、日頃から関係のある100年企業の皆さんにお見舞いの連絡をしたところ、多大な影響を受けながらも即座に状況の変化に適応すべく対策を取り、さらには事業の方針を転換させるような意思決定をされている企業が多数存在する事実が判明したそうです。
そこで、100年機構さんでは、この状況を、アンケートを実施して把握しようと考えられました。
大変結構な試みと思いましたので、私自身が回答したのはもちろん、知り合いの老舗企業経営者の皆さんに拡散を致しました。
日経ビジネス電子版などメデイアにも注目されて結構なことだと思います。
その結果報告が今回の研究会です。
今日は私も関係先として5分間コメントを依頼され、話すこと自体は嫌いではないのですが、今回はオンライン形式(ZOOM)。
ZOOMって、どうも勝手がちがうんですよねえ。
最近床屋も行ってないし・・・

追伸、
肉の売場で実施している医療関係者応援割引は、これまで「5月31日まで」と申しておりましたが、まだ病床が空き切っていないことから、6月15日まで続けます。ゆるりとご利用下さいませ。

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「紺碧の空」と「若き血」

NHKの朝ドラ「エール」で早稲田の応援歌『紺碧の空』や古関裕而について詳しくやっているので、対抗上義塾の応援歌『若き血』と堀内敬三について紹介しないわけにはまいりません。
さて早速その堀内敬三ですが、古関裕而と比較すると国民的ヒット曲が少ないのは事実です。知られているのは『蒲田行進曲』くらいでしょうか。
♪虹の都 光の港 キネマの天地♪という、あれです。あの歌詞は堀内が書いたものです。塾員の皆さん、ご存知でしたか?
私は最近まで知りませんでした。たまたまJR蒲田駅を利用する用事があって、駅ホームのメロディーが『蒲田行進曲』だったので、「誰の曲だったかな?」と検索して→「作詞が堀内敬三?若き血の?」と驚いたのです。
この件を塾出身でも知らない人は多いと思います。映画『蒲田行進曲』がヒットした1982年に私は慶應高校に在学していましたが、教わりませんでした。
それに、風間杜夫(銀ちゃん)・平田満(ヤス)・松坂慶子(小夏)と堀内とは時代が合わない。不思議でしょ?
はい、以下をお読み下さい。
「浅田飴」オーナー一族の三男として1897年に生まれた堀内は裕福で多才。若い内は音楽と工学の二足のワラジを履いていました。工学の勉強のためアメリカに留学して新しい音楽に触れていたので、斬新な応援歌を欲しがっていた慶應応援団に見込まれて依頼を受けました。
そして1927年『若き血』は大成功。早稲田を苦しめただけでなく、堀内本人は、これを機会に音楽の道に入って行きます。松竹蒲田撮影所の嘱託音楽家になり、ここで蒲田と縁ができます。
ただし1982年まで蒲田に勤めたわけではないです、堀内は1983年に亡くなっていますから。『蒲田行進曲』は実は1929年の『親父とその子』という映画の為のもので、評判が良かった為、蒲田撮影所の「所歌」的存在になり→松坂慶子の映画の中でも使われて→それで国民誰もが知る曲になった次第です。
比べると実際、似てますよ。
(蒲田)青春もゆる命はおどる
(若き)若き血にもゆる者
(蒲田)白日の夢あふるるところ
(若き)見よ精鋭の集うところ
(蒲田)面影の消えては結ぶ幻の国
(若き)希望の明星仰ぎてここに
どんな曲か思い出せない方はどうぞ、蒲田駅へお出かけ下さい。

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緊急アンケート

<業歴100年以上の企業経営者の皆様に緊急アンケートのお願いです>
老舗企業を経営学の観点から調べている「100年経営研究機構」という団体があります。立派な研究実績をあげておられるだけでなく、「世界一の老舗大国」として日本を発信していく活動もなさっています。
その100年機構さんが今、コロナショック最中に日本の老舗企業がどう対処しているか、知りたがっておられます。私は、これこそ国の叡智を集める一つの方法だと思います。
該当する方は是非、この緊急アンケートにお答えいただき、またお知り合いに拡散していただければと存じます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

(以下は趣意書の転載です)
 私ども100年経営研究機構(以下「機構」)では約1か月前、従前からお世話になっている長寿企業の皆様に、機構としてのお見舞いのメールを差し上げたところ、多数お返事をいただきました。その結果、甚大な影響を受けながらも、このピンチをチャンスに変えるべく工夫をこらし、奮闘を続ける長寿企業が少なくないと判明しました。
 これこそ、まさに過去幾多の困難を乗り越えられてきた日本の長寿企業の強さであり、機構として皆様の奮闘を応援しつつ、より多くの情報の共有ならびに発信によって少しでもお役立ちをしたいと考えております。戦後最大ともいわれる経済危機の長期化が懸念されるなか、創業100年を超える長寿企業の皆さまは、過去の大震災や敗戦、さまざまの社会経済の変化など幾多の困難を乗り越えて来た経験と教訓をお持ちであり、知恵と総意を結集して臨めば必ず未曽有の危機を突破できると信じております。
 そこで機構では、コロナショックに対する国内の長寿企業の考え方や対応について、改めて定量的なデータを含む実態把握をするため、緊急にアンケートを実施させていただくことにしました。
 このアンケートを通じて、過去に幾多の困難を乗り越えられてきた日本の長寿企業の現状と対応を集約し、苦境脱却のために情報発信させていただければ幸甚に存じます。アンケート結果は、機構が発行する会員向け、一般向けの情報媒体での活用、各種マスコミ対応などに活用致します。また、皆様が直面する悩みも把握し、関係各方面への働きかけなどを通じて皆様の危機突破と長期存続に全力で貢献する所存です。
 本アンケート調査に要する時間は約5分です。ご多用中、誠に恐縮ではございますがご協力の程どうぞよろしくお願いいたします。
(一般社団法人100年経営研究機構 代表理事 後藤 俊夫)

*ご回答はこちらから。

追伸、
緊急事態が延長だそうなので、肉の売り場でやっている医療関係者応援割引(半額!)も31日まで続行します。
割引開始以来180人以上の関係者の方にご利用いただき嬉しく思っています。

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避病院

昨今のコロナ治療の最前線に立っているのは都立墨東病院・都立駒込病院といった都立病院の中でも「感染症に強い」と言われている病院です。
関係者の皆さんに心より応援のメッセージを贈りたいと思います。
が、私の祖父(故人)は、これらの病院の名前を耳にすると、あまり良い顔をしませんでした。その世代の人達にはイメージが悪かったからです。
イメージが悪かったのは都立墨東病院・都立駒込病院のルーツが明治時代の避病院にあるからです。
避病院(ひびょういん)は1870年代に、当時大流行したコレラに対処するため建設されました。
名前に「病院」と付いてはいますが、当時はコレラ菌が発見される前のこと、治療法が無いので、出来ることはほとんど隔離のみでした。死亡率も大変高かったので、「死病院」と恐れられました。
当然迷惑施設ですから、東京の郊外に建てました。位置的には、その少し手前が浅草でした。昔の下町っ子なまりでは語頭の「ひ」は発音できず、「し」と発音してしまう傾向があったので、「ひびょういん」と言おうとすると「しびょういん」になってしまいました。
後にコレラが治せる病気になり、正式名称が「伝染病院」と変わってからも、昔のイメージを持ち続けている老人は少なくなかったのです。
時代は巡り、そういう方々も亡くなり、そもそも感染症に対処するために出来た病院が今はウイルスとの戦いの最前線になっています。墨東病院は苦労してるようですが。
頑張れ、避病院。

すき焼き「ちんや」と「ちんや亭」(つまり飲食部門)は、コロナ拡大抑止に協力するため営業自粛しております。再開時期は未定です。
精肉売店は時短営業(11時~19時)しておりますので、皆様、すき焼きはご自宅でどうぞ。
通販もやってます

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