下り酒
菊正宗酒造さんが女性愛飲者向けに開設している、「和モダン.com」というサイトがあります。
このサイトの趣旨は、
「和モダン.com」は、現代に生きる女性に、和文化の素晴らしさ、日本の伝統文化である日本酒の良さを、さまざまな角度から提案していきます」
ということで、レシピ提案が掲載されていたり、会員向けのイベントが行われたりしています。
そのようなイベントの一つ“老舗名店×菊正宗”が先日「ちんや」で開催されました。
女性向けですから、参加者は50人全員女性。しかも全員日本酒党。これだけ集結すると迫力ありますね。
サイトの会員だというだけが共通項の方々ですが、大量の御酒を召し上がり、初対面で大盛り上がりに盛り上がった宴会でした。GJ。
他人同士ですき焼きということを少し危惧したこちらが不見識でした。今時の飲めない男子に、彼女達の爪の垢を煎じて飲ませたいものです。
この日宴会の前に菊正の若旦那・嘉納さんが縷々御酒の説明をなさっていましたが、その中に「下り酒」の話しがありました。
菊正はじめ、灘・伏見の酒がなぜ東京でたくさん飲まれているのか、特に浅草で灘・伏見の酒をだしている料理屋がなぜ多いのか、その説明が「下り酒」ですので、このブログでも紹介しておきたいと思います。
さて「下り酒」とは江戸時代に上方から江戸へ海路で運ばれて来た酒のことを言います。
現在は東京が首都ですから地方から東京へ向かう電車が「上り」ですが、当時は逆です。それで「下り(くだり)」と言ったわけです。
酒は酒樽に詰められ、輸送には大海原を走ること1週間から2週間かかったそうです。灘は海に面していて船積みに便利だったので、特に大量の酒を移出しました。
酒が運ばれた理由は、勿論醸造技術に格差があったからです。
醸造量石高の面でも上方が圧倒的で、当時日本最大の繁華街であった浅草が消費する酒を供給しました。浅草で灘・伏見の酒を出している料理屋が今でも多い理由は、これです。
明治時代になり、首都が東京に遷っても「下り酒」の優位は続きました。名前は「上り酒」に変えなかったようですね。
「下り」の優位が続いたのは、日本酒の醸造に科学のメスが入ったのが、意外に遅くて明治20年代のことだった、という事情が関係しています。
国立醸造試験所が設置され、付属する技術者の研究団体・日本醸造協会が結成されたのは明治37年。この辺りから新技術が全国に普及し始めますが、それまでは技術も量も上方優位で、関東の酒は「田舎酒」と呼ばれて安値で取引きされたそうです。
要するに、浅草が繁華街として絶頂期にあった頃に、灘・伏見の醸造業も絶頂期にあったと言えるのです。
え? そんな話ししてないで「ちんや」さんもお飲みなさいよ! って?
アタシ、my猪口持って来たから、それで飲んで下さらない? ですって?
おお、粋ですなあ。
って言うか、こっちは仕事中なんですけど、姐さん。
追伸①
年末年始の営業案内です。
年末=11月26日から12月31日まで休まず営業致します。
年始=1月1日のみ休業し、2日から12日まで休まず営業致します。
どうぞ御利用下さい。
追伸②
一冊丸ごと「すき焼き大全」とも申すべき本が出ました。
タイトルは『日本のごちそう すき焼き』。11月19日平凡社より刊行されました。
この本は、
食文化研究家の向笠千恵子先生が、すき焼きという面白き食べ物について語り尽くした7章と、
全国の、有志のすき焼き店主31人が、自店のすき焼き自慢を3ページずつ書いた部分の二部で構成された本で、
この十年の「すきや連」活動の集大成とも言える本です。私も勿論執筆に加わっています。
是非是非お求めください。
弊店の店頭でも販売しますし、こちらからネットでも購入できます。
是非。
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