林芙美子とすき焼き

 9/17に「ちんや」創業130年記念ホームページがオープンしました。このサイト上では「世界に一つだけの すき焼き思い出ストーリー」の募集を始めています。

 初日に投稿が2通あり、まずは一安心ですが、もう少し増やしたい!と思って、昨日から「投稿をお待ちしています!」「お待ちしてます!!」という内容のメールやFAXを、たくさんの人に送りつけています。

 このブログの読者の方にも、FAX送りつけ被害に遭われた方もおいでと思います。ご愁傷様です。被害と言っても交通事故よりはマシですので、まあ、我慢して投稿してみて下さい。

 そんな中、ブログ読者の方から連絡があり、林芙美子の随筆「貸家探し」の中に「ちんや」さんのことが書かれていますよ!と教えて下さいました。昭和10年に都新聞に掲載された随筆です。

 以下に、私の解説付きでコピペーしますので、お読み下さい。

<以下は林芙美子の「貸家探し」(昭和10年)、( )の中は私の解説>

(芙美子は、花屋敷・浅草公園・観音様・仲見世とまわった後に・・・)

 雷門へ出ると、ますます帰るのが厭になり、十年振りに私はちんやへ肉を食べに這入ってみた。何十畳とある広い座敷の真中に在郷軍人と云ったような人たちが輪になって肉をたべていた。私は六十八番と云う大きな木札を貰って、女中に母娘連れの横へ連れられて行った。

(昭和10年は「ちんや」の敷地が一番広かった時ですね。「六十八番」というのは下足札のことです。)

 「しゃもになさいますか、中肉、それにロースとございますけど」太った銀杏返し(いちょうがえし)の女中はにこにこしてしゃべっている。私はロースを註文してばさばさと飯をたべ始めたが、さっきの鍋焼きで、腹具合はいっぱいだった。

(この当事は、すき焼き屋で鶏鍋も出している店が結構あったそうです。)

 働いている女中は、みんな日本髪で、ずっこけ風に帯を結び、人生のあらゆるものにびくともしないような風体に見える。うらやましい気持ちであった。

(この当事「牛屋の女中」というのは、こういうイメージだったようです。)

 私はロースの煮えたのを頬ばりながら、お客の顔や、女中たちの顔を眺めていた。

 まるで銭湯のような感じで、紅葉の胸飾りをしたおのぼりさんたちもいる。バスケットを持った田舎出の若夫婦、ピクニック帰り、種々雑多な人たちが小さい食卓を囲んでいる。
 私の隣の母娘は、もう勘定だ。この母娘は二人で平常暮らしているのじゃなくて、たまたま逢ったのだろうと思えるほど、二人の言葉や服装に何か違いがあった。娘はクリーム色の金紗(きんしゃ)の羽織を着て、如何にも女給のようだったし、母親は木綿の羽織に、手拭いで襟あてをしていた。

(この当事は、服装ですぐ身分がわかったようですね。)

 浅草から帰ったのが七時半ごろ、貸家も何もみつからなかったが朝の憂鬱をさばさばと払いおとした気持ちであった。

<林芙美子の随筆「貸家探し」(昭和10年)のコピペー終わり>

 「朝の憂鬱をさばさばと払いおとした気持ちであった。」というのが良いですね。街や店にとっては、そういうことが多分大事なのだと思います。

 あ、でもその前に、こっちの不景気の憂鬱をさばさばと払いおとさなきゃ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (1)