下駄ダンス・フェスティバル
「浅草下駄ダンス・フェスティバル」を見物して来ました。
ある日、このイベントの仕掛け人である、浅草花川戸のSWAさんと飲んでいて、
観に来てよ~
・・・との要請を請けて行ってみましたら、おお、本当に下駄で踊っていました。
歌舞伎の「高坏」のように高下駄を使うのかと想像しておりましたが、そうではなく、歯の背丈は低いですが、本当に下駄は下駄でして、それをすっぽ抜けないよう、足首に紐で縛りつけて踊ります。
この日の主役・このイベントのトリのパフォーマーは「下駄っぱーず」の皆さんでした。
この下駄集団はメンバーが若い人ばかり。忍者のような格好をして登場、全身から元気を発散させ、下駄を踏み鳴らして踊りまくっていました。
この日は晴天に恵まれ、通りすがりの外人さんも大喜びの様子でした。
彼らの正体は、実は早稲田大学の現役学生で、結成は2004年・・・
ん?
ワ・セ・ダ?
私、急速に関心が薄まってきました。我が義塾以外の学校にはゼンゼン興味が持てないんですよねえ。急速に関心が薄まってきました。
え? 観たんだから感想ぐらい書けよ って?
そうですねえ、若いって羨ましいなあ!っていうところですかねえ、オジサンとしては。男の子は可愛いし、女の子は頼もしいし。
それより、実は別に書きたいことがあるんですよね。そう、このブログはご高承の通り、ひねくれブログですから、ダンスを観たからと言って、ダンスのことを書くわけではありません。
私は、この日ダンスの横のテントに展示してあった、浅草花川戸の下駄問屋街のことが気になってしまいました。
かつて浅草東部の花川戸一帯には、日本最大の下駄問屋街が在りました。
「花川戸に入れば目にも鮮やかな色彩がぱーっと目に飛び込んでくる。花緒屋の店先は日よけの棒にまで花緒をつるし、花緒をかき分けなければ店内に入れないくらいだ。一方下駄屋では赤塗、黒塗、白木と明暗の色分けに積まれた下駄が今にも崩れそう(中略)色彩は百花の如く爛漫たり…」と伝えられています。
全国から下駄がここへ集められ、東京中へ売られて行ったのです。この日の展示には、その当時の「初荷」の様子など、往時を偲ばせる写真がかけられていました。
賑やかだった時代があると聞いてはおりましたが、本当に大盛況だったんですねえ。
しかし、その後問屋街は衰退の方向へ向かいます。
日本人の生活様式が洋風化するにつれて、問屋さん達は化繊の靴やスリッパに商売を転換しましたが、これが結果的に上手くありませんでした。
製造技術がさほど難しくない、こうした製品を作る業者は、やがて台頭してきたアジア諸国の同業者からキャッチUPされてしまったのです。その状況で今日に至ります。
一方、そんな街にあって中には本物の下駄を守って来た人達もいました。
浅草には祭りもあり、花柳界もあります関係で、少数ながら下駄に対する需要があり、なんとか伝統を守って来た業者さんもあるのです。そしてなお復活の時を待っておいでです。
その皆さんが今回、
「復古趣味に留まらない伝統はきもの文化の復活」
「下駄の新しい可能性」
をテーマに掲げて企画したのが、今回の「浅草下駄ダンス・フェスティバル」です。
合羽橋の食品サンプルは、今ではサンプルというより、面白グッズ・東京土産として売られていますから、下駄をダンス・シューズとして売ることなど、なんら邪道ではありません。
人間、苦しい局面では、結構面白いアイデアを思いつくもんです。
この試みが成功することを、心より祈念いたします。
ガンバレ、ガンバレ、早稲田!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.694日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。