粗相

 私は魚を食べる時、小骨の間の肉や、身と皮の際の肉を綺麗に取り外して食べています。

 いや、食べていました。

 そうするように親からきびしく躾けられたわけではありませんし、人様より食欲が旺盛というわけでもないのですが、とにかく魚の肉は取り外して食べます、徹底的に。

 ところが、です。いろいろと忙しくなってきてしまい、この習慣が守れなくなりつつあります。

 その理由ですが=忙しい最中に気も急いたまま、これをやろうとすると、手元が狂ってしまうことがあるのです。

 結果、肉は皿から飛び出し、粗相となります。私のネクタイやスーツには、無残な粗相の痕跡が印されています。食べながら読んでいた書類を汚してしまうこともあります。

 今春にメガネをカッコ良くしたことも災いしています。カッコ良いメガネは横に細長く、上下の視界が切れていて、切れた視界に魚があると、見づらいのです。さらに粗相しやすくなりました。

 だから、とても忙しい日の賄いが魚料理だと困ってしまいます。

 綺麗に食べてあげられないことを、「ごめんなさい」と魚さんに謝罪して、捨ててしまうこともあります。

 捨てると言えば、先日「かたづけコンサルタント」なる若い女性がテレビに出ていました。その人が書いた、かたづけの本は100万部売れたという話しなのですが、その人がモノを捨てる時のセリフは・・・

 「有難う」でした。

 なるほど「ごめんなさい」より「有難う」の方が良い感じですね。ものは言い様ですな。

 「有難う、魚さん。生まれ変わったら、私が忙しくない日の賄いに成っておくれ」

追伸

 11/27に第五回「ちんや」すき焼き通検定試験を実施します。

 年内最後の検定です。今年の内に、「自称すき焼き通を、公認すき焼き通に!」

詳しくは、こちらです。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて617日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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ギリシャ国債

 ギリシャの財政破綻が回避できそうで、まずは結構なことでした。

 ギリシャ政府が国債の返済を出来なくなると、その国債を持っている世界中のたくさんの人が破産するとかいう話しでしたが、そうはならずに済むらしく、金融関係の皆さんも、ひと安心でしょう。

 でも皆さん「?」と思いませんでしたか。なんでまた、ギリシャの国債を世界中の人が持ってるんですかねえ?

 普通の会社が社債を売り出す時は・・・

 我が社の発展のために、これこれこういう設備を購入したい!

⇒その設備を導入すれば、売上が、これこれこの位増えるに違いない!

⇒だから我が社の社債を買っていただきたい!

という筋道ですよね。

 ところがギリシャ政府の場合は・・・

 選挙の時に与党を支持してくれた連中を公務員として雇って、たいして働かなくても給料を支払いたい!

&脱税して税金を払わない国民に課税せず、このまま生活させて行きたい!

⇒だから、我が国の国債を買っていただきたい!

という筋道なんですよね。なんでまた、そういう国債を世界中の人が、好き好んで持ってるんですかね。不思議です。

 実は、明治時代のことを調べると、日本も無理無理にたくさんの国債を発行したことがありました。

 それは、日露戦争。

 この戦争は軍事的にも冒険でしたが、財政的にも冒険で、つまりはカネが無いのに戦争を始めてしまったのです。国民に税金をかけましたがそれでも足りず、ロンドンで国債を売ろうと考えます。

 ロシアに勝ちたい!

⇒だから、我が国の国債を買っていただきたい!

という筋道ですね。

 そのために派遣されたのが、後に「ダルマ宰相」と呼ばれようになる高橋是清でした。

 しかし高橋が営業して回っても、日本国債はサッパリ売れませんでした。英国は日英同盟の仲間でしたが、日本に投資して損をするのはイヤですから、買い手は多くありませんでした。

 その時、ひとりのユダヤ人の大富豪が現れて、日本国債の大量買い入れを申し出ます。この大富豪の御蔭で日本は戦争を出来たとすら言えます。

 彼は、ロシア皇帝が領内で多くのユダヤ人を虐殺しているのを憎んでいて、日本を支援しようとし、その手段が国債の買い入れだったのです。

 そして、彼の望みは達成されました。

 他にも、最近こういう事例もあります・・・3年前のことですが、台東区役所が樋口一葉を顕彰する「一葉記念館」の建物を建て替えるために区債=「一葉債」を売り出したところ、発売初日で売り切れたそうです。

 こういうのを「住民参加型地方債」と言うそうで、結構なものと思います。

 一方のギリシャ国債は、チト志が足りなかったんじゃあないですかね。

 あ、でも日本人がギリシャを笑えるかどうかは微妙です。笑うのは、これから売り出す「復興債」をしっかり売ってからですよね。

 さて現代の財務省に高橋是清はいるのか・・・

追伸

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祝!開業80周年

 館林の分福酒造さんが、北千住の「丸井」さんに出店していたので訪ねました。

 その御酒のことは、いずれここに書こうと思いますが、とりあえず今日は、その話しはさて置きます。で何を書くのかと申しますと、東武鉄道浅草駅の話しです。

 北千住に向かおうとして、浅草駅に入り、まず気がつきましたのは「祝!開業80周年」という飾り付けでした。11/1が開業記念日だったそうで、記念ストラップは売り切れたとか。

⇒全然知りませんでした。そういうことを私たちにも教えてくれれば良いのに、と思いつつ、壁に掲示されていた、この駅の歴史を読んでみました。

 浅草駅が開業する前、東武鉄道は、現在は浅草の次の駅である業平橋駅から発着していたそうです。ぎょうへいばし、じゃあないですよ。在原業平の、なりひら橋です。

 当時この駅には北関東からセメントなどを運び込むための貨物駅もあって、実は、その貨物駅の跡地に、今回スカイツリーが立つわけですが、その業平橋駅から浅草駅まで東武鉄道が伸びたのが、80年前という次第です。

 しかし、この工事は簡単ではなかったようです。浅草に松屋デパートが建設されたのにあわせ、そのデパートの2階に線路を引き込んだわけですが、そのためにほぼ直角の急カーブが出来てしまいました。

 線路が業平橋駅から浅草駅へ向けて東西に伸びて来ているのに対し、松屋デパートは南北に長いので、デパートに入る直前、隅田川を渡った所で直角にカーブするのです。

 正確に申しますと、カーブがあまりに急なので曲がり切っておらず、ホームの業平橋寄りの端っこは、少し曲がっています。だから車列の、後ろの端っこも曲がったまま停車します。⇒それでホームと車両の間に、結構な広さの隙間があるのです。キケンです。

 また、駅に入れる車列の長さにも限界があります。

 こういう「問題在り」の駅が、しばらくの間、ターミナルとして機能しました。

 しかし、やがて東京の鉄道業界は、「ターミナル乗り継ぎ」の時代から「相互乗り入れ」の時代へと移り、東武鉄道も浅草とは別ルートで、地下鉄・半蔵門線へ「相互乗り入れ」できるようになりました。

 半蔵門線は直角に曲がったりしないので、長大な車列のまま、北関東から東京の地下へそのまま乗り入れできます。便利ですね。

 一方、これによって不便な東武浅草駅の乗降客は減少を始めました。浅草の人達が「浅草駅が盲腸線に成る」ことを心配していたのは、この頃です。

 私も「盲腸線化」のトレンドは避けられないと思い、冗談で、「車両の外壁に盲腸の絵を描いて、ウケを狙ったらどうだろう?」とか言っていました。

 そのトレンドが、劇的に変わりました。理由は、もちろんスカイツリーです。

 来年、直角にカーブしたまま、浅草駅は、スカイツリー観光の大勢のお客様を迎えることになります。業平橋駅は「東京スカイツリー駅」と名前が変わるそうですが、カーブはそのままです。

 皆さんも、スカイツリー観光の後で、浅草駅へ向かう際は、車列の一番後ろの端っこにお乗り下さい。

 とてもデンジャラスでスリリングな隙間を体験することができますよ。ひひひひ。

追伸

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レンタル着物

 七五三のシーズンですね。

 この時期に活躍するものはなんでしょう? それは・・・

 レンタル着物。

 弊店でも小さなお子さんの可愛らしい、着物姿を見かけます。

 思えば、レンタルというのは便利なものです。是非使ってみたい物だけど、ごくたまにしか使わない物を、購入せずに借りる、というのは合理的です、至極。

 でも、手放しで「レンタルいいね!」というわけにはいかないようです。

 レンタルとは要するに使いまわしですから、容易に洗えて、汚れが付きにくい着物でないといけません。だからどうしても、洗い易い生地の着物に、偏ってしまうようです。

 そのせいで洗い易くない生地の生産は、細る傾向にあると聞きました。その生地がとても良い素材であっても、「レンタル向きでない」という理由で、細る傾向にあるとか。

 これは、とても残念なことです。 

 私は、日本文化の特徴の一つに「マテリアルへのこだわり」があると思っています。陶芸などが、その典型例と思います。だからレンタル向きでなくても、良い生地は頑張って生産してもらいたいと思っています。

 ところが、一生に一回しか着ない着物のマテリアルに、客がこだわって借りるわけもなく、どうしても「洗える着物全盛」となっています。

 さらにもう一つ申しますが、日本文化の特徴として、「骨董品の使いまわし」があると思います。使ったことによって生じた汚れ自体を面白がる、という発想です。典型例は茶道の御道具です。

 そう思えばこそ、洗える着物全盛は残念ですね。

 着物レンタル業界の方が、七五三や成人式、卒業式といった行事を盛り上げて下さっていて、我々は、そのオコボれに与る立場ではあるのですが、やはり残念は残念ですね。

 で、ご提案なのですが、

 レンタルではなく、分割払いにしたら、どうでしょう。

 短大の卒業式の袴は、短大が購入して所有するようにして、支払いを数年単位の分割にするのです。そうすれば着物業者側の売上は、レンタルの時とさほど変わりません。もちろん、保管の契約はします。

 品物は良い生地を使い、洗えない袴で良いのです。ある年の卒業生のPA子ちゃんが、その袴を汚してしまっても、それを面白がって使っていくのです。PA子ちゃんと親しかった、一学年下のBU子ちゃんが、あえて立候補して、その汚れた袴を着たら、先輩=後輩の絆が深まり、一生忘れられない卒業式になると思います。

 七五三さんの着物は、やや難しいですが、町会で所有してはどうでしょう。

 去年は7番地の喫茶店の娘のDON子ちゃんが来て→コーヒーで汚した着物を、今年は8番地のお好み焼き屋のPON子ちゃんが着て→ソースで汚す、という塩梅です。

 どうでしょう? ど素人考えですが。

追伸

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如何なる星の下に

 編集者をしている知人が、「文芸文庫の担当になりまして、今度これを出しました。」と言って、新刊本を一冊下さいました。

 その本を見て私は、ヘえーと思いました。その本は・・・

 高見順の「如何なる星の下に」(1939年)

 その方は私と同世代なのですが、そういう方がこういう話しに興味を持っておられて、しかも商業的に出版しようというのですから、二度、ヘえーと思った次第です。

 今や「如何なる星の下に」をご存じない方は多いと思いますので、念のため説明しますが、この話しは昭和十年代の浅草を舞台にした、高見の私小説風の小説です。

 舞台は、日本が太平洋戦争へと突き進む頃。一方浅草のエンターテイメント業界つまり少女レビューやお笑い芸が、最後の輝きを放った時代でもあります。

 主人公の作家「倉橋」は山の手から、そういう浅草に移り住んで執筆を始め、ぐうたらな空気と生存本能が交錯する、この町をこよなく愛するようになります。

 「倉橋」は、別れた妻で女優の「鮎子」への未練や、レビューの少女に対する恋心を、一人称で吐露しつつ、浅草に集う人々の姿を描写していきます。

 この本を発表した当時高見は「天才」とまで評されました。この時代の浅草のことをこれまで全くご存じなかった方でも、この一冊と、それから川端康成の「浅草紅団」を読めば、すぐに感じがつかめると思います。

 さて、私がこの作品を読むのは、久しぶりです。と申しますか、ちゃんと読んだのは初めて、と言えます。

 以前読んだ時は、どうも浅草のぐうたらな部分ばかりが描かれていると思い、また「ちんや」が出てくる場面もあるのですが、カッコ良くは書かれていなかったので、途中から読み飛ばしてしまいました。

 ある夜、広小路(=「ちんや」のある通りのこと)で火事があって、「倉橋」が見物に行くと、「ちんや」の住み込み女中が大勢、2階の窓から首を出して見ていて、皆化粧を落としているので、ひどくブ格好に見えた、というのが、「ちんや」が出てくる場面です。

 「ちんや」ではないのですが、他のすき焼き店が「動物園払い下げの熊」を使って、熊鍋を出しているという場面もあります。

 ・・・ですよね。

 戦争という背景や、高見自身の帝大卒→左翼運動→逮捕→転向という経緯を知らないと、「倉橋」が浅草を愛した理由が腑に落ちないかもしれませんし、浅草の描き方は、デフォルメが効いているのかもしれませんが、読めば当時の様子はつかめると思います。

 なお、高見が愛した浅草エンターテイメント業界は、その後の戦争で全焼し、完全に再建されることはありませんでした。

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継続は力

 継続は力なり、と申します。

 でも私は、全面的には賛成できません。継続が力にならないことも多いからです。

 どういう場合に力にならないか、と申しますと、カネのかかる催事などがそうだと思います。

 例えば、ですが、飲食店が催事に出ると損をすることがあります。設備のレンタル費や運搬費などがかかるからです。アルバイトを雇えば、それも勿論費用です。

 売上が全部自分のものになれば救われますが、たいていは主催者が運営費用の分担を各出店に求めます。催事の運営自体にもカネがかかるので、それを誰かに分担させないといけません。

 そのイベントが一回コッキリの、記念イベント的なものなら、飲食店側も「損をしてでも協力しよう」と思うことがあります。でも毎年継続するとなると話しは別です。毎年損するのは困ります。損をしないためには、食べ物の原価を削らないといけませんから。

 そんな中で、その催事の継続にこだわれば、「原価を削って⇒美味しくないものを出すのはイヤだ」と考える飲食店は、回を重ねるごとに出店を辞退するようになり⇒その催事から美味しい店が姿を消して行きます。

 代わって出店してくれるのは、原価を削ることを厭わない店ばかりとなります。この場合、継続は力なり、と言えるでしょうか。

 パフォーマンス系の催事も同じことです。

 パフォーマンスで人を魅了することの出来る人(=スターさん)は、世の中に多くはなく、出演をお願いすれば、当然高額のギャラを支払う必要がありますが、主催者がそのカネをケチれば、素人さんしか出演してくれません。

 そのイベントが一回コッキリの記念イベント的なものなら、「安ギャラでも、ここは協力しよう」と思うスターさんがいたりすることもあります。でも毎年継続するとなると話しは別です。他の出番を断ってまで、毎年協力するのはイヤですからね。

 そんな中で、その催事の継続にこだわれば、出演してくれるのは、素人さんばかりとなり、当然、見ていてツマらないものになります。

 ここで確認しておきたいのは、同じ名前の催事なのに、カネが無いまま継続するうち、内容が変質してしまう、という点です。

 美味い催事⇒不味い催事 という変質は、まだ許されるかもしれないですが、パフォーマンス系の催事の場合、

 スターが出ている催事⇒素人が出ている催事 という具合に変質するわけですので、観に来た御客様が許してくれるか、ビミョーです。

 だから私は、催事の継続は力にならないことがあると思っています。

 催事を継続するためには、主催者がよほどのスポンサーを見つけてくる必要があります。そこが主催者のツラいところですね。頑張っていただきたいです。

 一方、ブログの継続は力になると思いますよ。タダですからね、これは。

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厨BO

 浅草料理飲食業組合の皆さんと一緒に「厨BO」を訪ねました。

 「厨BO」と申しますのは、東京ガスさんが、飲食業界用の商談のために、広い敷地に最新式の厨房設備を備え、口舌爽やかなコンパオニオンのお姐さんを配置した、それは素晴らしいショールームです。

 一時は東京電力さんの「オール電化」攻勢で、東ガスさんは劣勢にまわっていましたが、フクシマの悲劇が追い風になって、このショールームも賑わっているように見えました。

 まず、ガスと電力とエネルギー効率を比較した数字や、味覚テストの数字などをビデオで勉強し⇒お姐さんの案内で「涼厨(スズチュウ)」を実現する設備などを見学⇒その後ガスで調理した料理を頂戴しました。

 この日見学した設備は、眩しく素晴らしいものばかりでした。特にガスの裸火を覆って、そこから出る排気を配管で逃がすことによって、厨房の温度を7-10℃下げることに成功した設備=それを「涼厨」と言うのだそうですが、これには感心しました。

 これまでIH厨房が涼しいのに対してガス厨房は暑い、というのがガスの弱点だったわけで、そこを克服したわけですから、今後は東電さんも大変でしょう。

 ただ、私個人はと申しますと、この日テンションは低め。ガスをたくさん使う、佃煮用の大きい回転釜を去年買ってしまったため、今のところ商談がありません。

 それより気になったのは、壁に貼ってあった、明治初期の都市ガス計画の図面です。

 明治初期、ガスは当時の文明の最先端の技術でした。そのガスを、東ガス本社のある金杉橋から、新橋・銀座・日本橋を経由して浅草橋まで配管しよう、というのが、この図面です。現在の中央通り・江戸通りを縦断する大規模な計画です。

 たかが図面ではありますが、手書きの図面なものですから、なんだか、文明の先端の仕事に取り組むのだ!という壮気が画面から感じられ、見ていて心躍ります。

 これを見ていたら、さしあたって商談したくない私にも、東ガスの社員さんが近寄って来たので、この図面をネタにして煙に巻くことにしました。

 いやあ、東ガスさんも、料理屋相手にチマチマとガス売るより、瓦斯灯を100本くらい、浅草に建ててくれませんか?!風情が出て良いと思うんですけど。

と私が言うと、やはり御店の改築を終えたばかりで、商談のないTさんも参戦。

 いいねえ、それ!瓦斯灯100本なら浅草として大歓迎ですよ。そう言えば、ウチの店のある「合羽橋本通り」は、景観を良くするために、電線を全部地下に埋めるんですよ。そこに建てましょう、100本。

 ほほお。っていうことは「東電は地下で、東ガスは地上!」ってことですね。いいんじゃないですか、今時。

・・・ちとブラックでしたかね、ジョークが。

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DM

 行ったことのないキャバクラから年に4回ほどDMが来ます。

 くどいですが、本当に行ったことがありません。私が掲載されている名簿が売られたに違いありません、くどいですが。

 しかしですね、今日のテーマは、個人情報流出のことではなく、そのDMの豪華さと執拗な発信ぶりについてです。個人情報の話しはさて置くことにします。

 さてまず、そのDMの豪華さについてですが、このDMはB5版フルカラー×24ページという豪華さで、DMというよりカタログです。何のカタログかって?

 そりゃ、女の子のカタログですよ。ほとんどの子にB5版×1ページ全面が与えられていて、勿論ちょっとセクシー。

 女の子の画像をこれだけ引き伸ばすわけですので、カメラマンのギャラもはずんだでしょうし、撮影場所を借りる費用・衣装代もかかったはずです。印刷費以外にもカネがかかりますね。

 それから、執拗な発信ぶりについて=このDMが来るようになって、おそらく四年ほどがたち、その間一度もその店に行ったことがないのに、あきらめずに送り続けてきます。

 いったい、この豪華なDMを何人に送っているのでしょう。それも既存顧客でなく見込み顧客に送っているのです、多大な費用をかけて。

 弊店の場合・・・

既存顧客(ちんやメンバーズ・カード会員様)⇒紙媒体で販促

見込み顧客⇒ネットで販促

と仕分けておりまして、「この手法で間違いない」と信じていたのですが、このDMを受け取り続ける内に信念が揺らいできました。

 来店経験がまったく無い人でも、しつこくDMを送れば反応するんでしょうか。

 それに、です。震災以降、このDMには領収書のコピーが封入されてくるようになりました。何と売上の10%を日本赤十字に寄付しているとかで、赤十字社の領収書のコピーが封入されて来るのです。その金額も結構な数字です。

 うーん、スゴい人なのかなあ、ここの経営者。

 追伸

 11/3浅草では「東京時代祭」が開催されます。そういう日に何書いてるんですかねえ、私は。

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季節感ー夜中の「酉の市」

 11/2は鷲神社(オオトリ・ジンジャ)の「酉の市」の日です。

 季節感を感じづらい都会において、冬の到来を感じることが出来るのは、こうした伝統行事があるからです。大きな熊手を肩に担いだ人が浅草の街を歩いているのを見ると、

 ああ、今年も残り少なくなったなあ。

と思います。特に今年は、その感慨がひとしおです。

 ただ、今年の「一の酉」の日は、やや、季節をしみじみ感じにくいかもしれません。それは・・・

 まだ暖かいから。

 11月だというのに、日中ひなたにいると、ポカポカしてきますね。温暖化のせいでしょうか。

 節電になって良いかもしれませんが、「酉の市」の日が暖かいのは、どうも雰囲気が出なくて物足りません。でも「酉の市」は「11月の酉の日に開催」と決まっているので、酉の日が11月の最初の方であっても、当然開催、となります。

 そこで、ですが、同じように物足りなく感じておられる方は、夜中にお出かけになってはいかがでしょうか。

 「酉の市」は、深夜0時から翌深夜24時までやっています。だから11/1の深夜に出かけて0時になるのを待ち、日付が変わったところで参拝しても良く、また11/2の深夜に出かけても勿論良いのです。今年は11月に酉の日が3回(=11/2と11/14と11/26)ありますから、それぞれ当日の夜中と、前日の夜中の、あわせて6回も、夜中の「酉の市」を楽しむチャンスがあるわけです。

 夜中の「酉の市」の風情は、とても良いもので、しかも今年は、境内の照明を全てLEDに変えたとか。

 「酉の市」は夜中に行くもの、と決めている人も多いです。どうもウオーター・ビジネス業界に、そうしたご趣味の方が結構いるようで、ママさんが女の子と客の男を引き連れて、参拝しているのを見かけたりします。それも、また一興かと。

 え? それじゃ、寒いというよりポカポカしてきちゃうじゃないかって?

 そうですねえ・・・

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文化の日

 11月3日は「文化の日」ですね。

 浅草的には「東京時代祭」の日ですが、国民的には「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日です。この日には皇居では文化勲章の授与式が行われ、また、この日を中心に文化庁主催の「芸術祭」が開催されたりしています。

 しかし最初から「文化の日」だったわけではなく、この日は本来、明治天皇のお誕生日でした。最初は「天長節」と呼ばれ、陛下が亡くなった後も、「明治節」という名前で祝日でした。それが太平洋戦争後に「文化の日」に化けたわけです。

 弊店は、明治時代に起源のある店ですので、どちらかと言うと「明治天皇のお誕生日」として祝っています。

 ただし、です。11月3日が明治天皇のお誕生日というのは、暦の読み替えです。

 明治天皇がお生まれになったのは、嘉永5年(1852年)の9月22日でして、この時は勿論旧暦を使っていましたから、太陽暦を採用した時に読み替えをしないといけなくなってしまいました。それで明治6年(1873年)に11月3日が「天長節」になった、というのが経緯のようです。

 どうも、明治6年以前に起きた出来事を記念する祝日は、この暦の読み替えでテンションが下がりがちです。

 例えば、「鉄道の日」は10月14日ですが、実際の鉄道の開通は明治5年旧暦9月12日でした。この出来事も明治6年より前のことなので、まだ旧暦を使っていたのです。

 さらに、テンションが下がる祝日もあります。

 それは、ああ我が義塾の開校記念日=4月23日。

 この日は、明治4年旧暦3月23日に慶應義塾が芝新銭座より現在地の三田に移転した日のはずなのですが、慶應義塾の公式ホームページを見ると、それを否定するようなことが・・・

「・・・この日を義塾の開校記念日と定めたことには、今日の目から見ていくつかの問題が残る。その第一は、4月23日という日の設定に当たって、旧暦を太陽暦に換算したとあるが、明治4年の3月23日を陽暦にすると、5月12日が正しいことになる。

 どこでこんな単純なミスを生じたか分からないが、強いて探せば4月23日が旧暦3月23日に当たるのは前年の明治41年である。或いは開校記念日の制定に当たって、前年の暦によったともいえなくもないが、あくまで憶測の域をでない。」

 はあ、単純なミスだって? さらに!
 「いま一つの問題は、新銭座から三田の現在地に移転したのが、旧暦の3月23日だとする史料的根拠がきわめて薄弱な事である。この移転に関して最も信頼できる史料は「荘田平五郎日記」であるが、それによると4年の1月16日から一部の引越しが始まり、2月の16日の集会でいよいよ三田移転のことを決し、同21日には荘田自身が引越し、塾総体が三田に移ったのは3月16日とある。

 また『慶應義塾五十年史』でも「義塾が新銭座より悉皆三田丘上へ移り了りしは明治4年3月16日なりし」とあり、その限りでは3月16日をもって移転の記念日とするのが最も妥当のようにも思えるのだが、それがどうして3月23日とされたのか。

 あまりそんな詮索をしないのが、いかにも慶應だといえなくもない。ともあれ義塾にとって、三田に本拠を定めた事の意義を改めて考える日でもあろう。」

 いかにも慶應だと言えなくもない・・って? うーん。

 早稲田はちゃんとしてるんですよねえ。

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