「饗応・居留地・牛鍋」講演台本③
7/3は旧東京音楽学校奏楽堂での、平野正敏さんのコンサートに出演し、食べ物の話し=日本人が、西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のことをお話ししました。
お運びいただいた皆さんに御礼申し上げます。
タイトルは「饗応・居留地・牛鍋」にしました。半年がかりで準備しましたので、ブログ読者の皆さんにも、公開しようと思います。
長いので、3回=3日間に分けて公開しています。今日は、その3回目です。
以下講演台本です。ご笑覧下さい。
まず最初に1点指摘させていただきたいのは、この時代の、医学の方は、実は進化を遂げている最中だった、ということです。ウイルスとか抗生物質のことは、まだまだでした。栄養学の中でも、ビタミンとか脚気のことは、わかっていません。分子レベルでの治療なんて、当然まだです。
そういう状況ですので、この時代、薬や手術は既にあることはありましたが、医療や健康管理の中で、治療として食べ物を食べること、当時は「養生」と言っていましたが、その養生のウェイトが現代より結構高かった、ということが理由としてあったと思います。それが、1つ目です。
もう一つの理由は、人の気持ちの部分で、これも推測ですが、激動の時代の中で、生命とか寿命に対する欲求が、日本人の間で爆発したからではないか、と思っています。この時代に、元気をつけて、上手く生きて、懸命に仕事をすれば、偉くなったり、金持ちになったりできる、そういう時代が来たんだ、是非偉くなりたい、ということを、日本人の相当数が願ったんだと、私は思います。
日本の歴史は、もの凄く平穏な時代と、爆発的なバトルの時代が交互に来ますが、幕末明治は、言うまでもなく、バトルの時代で、それはイーコール、貧しく生まれても偉くなったり、金持ちになったりする時代でした。そのために是非、体に元気をつけたい、そう思ったとしても不思議はないと思っています。
さきほど御紹介した、福沢諭吉の話しも、当事日本中で一番勉強のできる連中が、今の時代で言えば、新宿の歌舞伎町のような所に行っていた、という話しです。
そういう時代だから、新しい食べ物が入ってきた時、日本人は、永年のタブーも、ものともせず、西洋料理や肉料理に、どんどん向かっていったんだと推測しています。
翻って、いきなり現代の話しですが、皆さんのまわりにいませんか? やたらと食の細い、若者が。そういう手合いがいましたら、是非、説教してやっていただきたいと思います。
「明治の人を見習って、今すぐ牛鍋屋へ行け!」ってね。(=ここは笑っていただく所)
お後がよろしいようですので、私の話しは、この辺で。(退出)
*この話しは、これにて終わりです。最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
*なお、このコンサートの模様は、ケーブルテレビ「J:COM台東」でもご覧になれます。(契約されている方のみ視聴可能)
<放送時間>
7月29日(木)、31日(土)、8月3日(火)
9:20〜、13:20〜、17:20〜、21:20〜
8月1日(日)
10:00〜、14:00〜、18:00〜、22:00〜
*平野正敏さんについては、こちらです。