いろは大王②
昨日の話しの続きです。
「いろは大王」こと木村荘平の生涯を、生地・京都府宇治田原町の郷土史研究家が冊子にまとめた、というニュースをFBにUPしましたら、
京都の知人から
「博善社の創業者って京都出身だったのか。」
というコメントが入りました。
この知人は京都人なのに明治時代にお詳しい、という奇特な方で、荘平が京都人で明治人なだけに、余計に興味をそそったようでした。
さて博善社についても説明しておかないといけませんね。
このブログでは荘平については、牛鍋チェーン「いろは」のオーナーとしか説明して来ませんでしたが、荘平は「大王」の文字通り、手広く事業をやっていました。その一つが、ここに書かれている東京博善社です。
荘平は牛鍋屋を展開する傍ら、日暮里村の火葬場運営を請け負う東京博善会社を設立。理事を経て社長となりました。
今でも、浅草辺りの人が死にますと、たいてい東京博善・町屋斎場の世話になります。とても身近な存在ですね。
政界にも進出して、政友会の星亨の派閥に属し、東京市会議員・東京府会議員も務めました。
今あらためて、荘平の生涯をながめてみますと、つくづく明治人の一生だなあ、と感じます。
そもそも京都人・荘平が東京に進出できたのは、薩摩出身の警視総監・川路利良の招きを受けたからです。明治政府から官営屠殺場の払い下げを受けて成功、そこから牛鍋チェーンに展開していったのです。
その薩摩藩のコネを獲得したキッカケは、生地の近くで起きた、鳥羽・伏見の戦いでした。この戦いで薩摩藩の御用をつとめたからです。
今日の倫理観で見れば、荘平はコネと戦争を利用して成りあがった政商にしか見えないかもしれません。
それに、多数の愛人・妾がいて、東京市内20箇所にのぼる「いろは」の支店に、その愛人をそれぞれ配置して経営に当たらせた、なんて面白過ぎです・・・
おっと、そんなことを申しますと、都議会のアヤカ先生に叱られそうですので、ただ今の発言は、たしかに私の発言であったことを率直に認めて謝罪会見致します・・・
ともあれ、そういうタイプの人間が時代を活気づかせていたわけのも事実なわけで、そこが歴史の面白い所です。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.595日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。