東京地下鉄道
東京商工会議所が発行している『東商新聞』には「壱号機紙上博物館」というコーナーがあり、私は毎回楽しみにしています。
2015年5月20号に掲載されていたのは、1927年に東洋初の地下鉄として浅草―上野間を走った第一号車でした。
新橋―横浜間の、日本初の鉄道は国策として設立されましたから、地下鉄も都の政策として設立されたと思っている方が多いかもしれませんが、地下鉄は違います。
一人の民間人がベンチャー企業として設立したのです。
その民間人=「日本地下鉄の父」は早川徳次という人です。
今大変なことに成っているシャープの創業者も早川徳次ですが、別人でして、シャープの方は「とくじ」で地下鉄の方は「のりつぐ」です。
さて、その早川のりつぐは、早稲田大学在学中に内務大臣・後藤新平の書生となり、そのコネで東武鉄道の根津嘉一郎とも知り合って鉄道の世界に入ります。
1914年にロンドンを視察して、日本に地下鉄をつくることを決意、最初は公共交通として鉄道省や自治体に建設を働きかけたものの、当時彼の先見性は理解されなかったそうです。理由は、
・東京の軟弱地盤の地下に構造物を建設するということについて、技術的・資金的に無理だと判断された。
・事業として成り立つか不透明であった。
ということだったとか。
そこで早川は、まず自分で地質を調べ、軟弱な地層の下に固い地層があり、そこに建設すれば問題がないと確信。
続いて、独自に交通量調査を行って、事業として十分成り立つと、こちらも確信。目論見書を作って、少しずつ賛同者を募ります。
投資家や金融機関を、苦労を重ねつつ説得。遂に1919年独力で鉄道院から地下鉄営業免許を取得したのであります。
その後も建設中に関東大震災が起きるなど困難の連続で、ようやく開通にこぎつけたのは、1927年12月30日のことでした。
実にスゴいベンチャー精神です。
浅草周辺は以前から店や住宅が密集していましたから、地下鉄以外に鉄道で近づく方法はなく、東京地下鉄道の開通によって、初めて浅草に鉄道が通じました。
続いて1931年に今度は墨田区側から東武鉄道が松屋デパートの2階へ乗り入れ。こちらの建設もなかなか困難な工法だったと聞きます。
それだけの困難を乗り越えてでも浅草に近づきたかったわけで、この頃が、繁華街としての浅草の全盛期であったと言えるのではないでしょうか。
ともあれ、この記事は早川のベンチャー精神をしのぶ良い機会でした。
追伸
『日本のごちそう すき焼き』は、平凡社より刊行されました。
この本は、
食文化研究家の向笠千恵子先生が、すき焼きという面白き食べ物について語り尽くした7章と、
全国の、有志のすき焼き店主31人が、自店のすき焼き自慢を3ページずつ書いた部分の二部で構成された本で、
この十年の「すきや連」活動の集大成とも言える本です。私も勿論執筆に加わっています。
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