浅草繁昌記
河治和香先生が編集なさった、
『駒形どぜう 二百余年あれこれ』という御本をいただきました。
その一部に明治43年の『浅草繁昌記』という本を紹介したコーナーがあり、そこに「ちんや」も出て来るからです。
さて、そこに登場する「ちんや」は、現代仮名遣いに直しましたが、
「広小路にあり、牛鳥鍋の料理を以て其(そ)の名を知らる。」
⇒「広小路」とは浅草広小路のことで、今は「雷門通り」と言っています。要するに現在地と同じです。
江戸幕府は火除けの為に、何か所か「広小路」を造りましたが、浅草広小路もその一つでして、私は、その歴史的名前を使った方が良いのに!とつね日頃申しております。
⇒当時は、牛料理と鳥料理が分業されていないことが多かったらしく、業種の分類として「牛鳥鍋」「牛鳥肉」と表記した史料をよく見かけます。
「支店は神田小川町にあり、肉味の佳良にして量の多きは言わずもがな」
⇒そう、短期間ですが、神田小川町に「ちんや」の支店が在ったこのは間違いないのですが、あまり史料の持ち合わせがありません。どなたか、詳しい方のご教示をお待ちしています。
「其の設備すこぶる整頓して衆人群衆するも毫もならず、快く飲食せらるるは、その特長とや言わん。」
⇒当時の「ちんや」は、現在の「浅草中央通り」まで敷地があって、相当な大型店だったようです。大規模な設備を構えて、大勢の御客様を迎えていたようでです。
「衆人群衆する」店で、それが特長だという表現に、当時の勢いを感じさせます。
明治38年に六銭だった、どぜう汁が1.750円になるまでの表も面白いです。
結構な御本に載せていただき、ありがとうございました。
追伸①
単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。
21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。
時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。
くわしくはこちら↓です。
追伸②
ビジネスマンの方を対象に、忘年会に関する意識調査を実施させていただました。
目的は、もちろん、日本の会社の忘年会を、もっとワクワクするもの、もっと意義あるものにしたいからです。
忘年会は毎年惰性でやっている…では悲しいですよね。
ビジネスマンの皆さんは、どんな忘年会なら出席したいのか、逆に、どういう忘年会はパスしたいのか、
その答えがここにあります。
会社の忘年会から、この国を元気にしていきたいと思います。
この調査結果は、そのための参考にしていただきたいと思います。
さてさて、大ショックの調査結果はこちら↓から。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.385日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。