奏楽堂

 クリスマスイブの日のことですが、嬉しいことがありました。

 夕飯にしては早めの時間に「これから奏楽堂の、クリスマス・コンサートに行きます」というお客様が2組、同時に弊店で食事をされ、さらに同時にそれぞれ「ちんやメンバーズ・カード」に入会されたのです。同じ用向きの方が同時に見えたのも奇遇ですが、さらに2組とも入会されたので、少し驚き、嬉しく思いました。

 まず「奏楽堂」について、ご説明しないといけませんね。

 正確には「旧東京音楽学校奏楽堂」と言います。東京芸術大学にも「奏楽堂」がありますが、「旧」の方は台東区が管理しています。

 芸大の方が新式のホールであるのに対して、台東区の方はと言うと、明治23年に建造された、日本最古の木造のホールで、昭和63年には重要文化財に指定されています。

 かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を披露し、三浦環が日本人による初のオペラ公演をした由緒あるホールです。ここで有名・無名の多くの音楽家が初舞台を踏みました。

 この「旧」の方の「奏楽堂」が「ちんや」とどういう関係なのか、それをお分かりいただくためには、台東区がこのホールを管理するようになった経緯を知っていただかないといけません。

 さて台東区に移管される前、このホールは芸大のもので芸大の敷地内にあったのですが、新しい現代的な建物を建設するに当たって邪魔になり、「明治村」への移築が決まりました。

 ところが、この移築話しに故・芥川也寸志先生、故・黛敏郎先生が異を唱えました。「由緒ある「奏楽堂」は上野の杜にこそ相応しい。移築は反対だ。」と。

 対する芸大執行部も「移築推進」で強硬だったため、この問題は、ちょっとした紛争になりました。昭和の終わり頃のことです。

 そこに割って入ったのが当時の台東区長・内山栄一先生でした。代替地を上野公園内に用意し、移築費用を区が負担する、と決めたのです。これは英断でした。

 ここで、やっとこの話しに「ちんや」が登場します。

 芸大執行部の強硬姿勢を前に困った芥川先生・黛先生が、内山区長に相談を持ちかけた、その場所が、「ちんや」だったのです・・・

 この話しは、まだ続きますが、長いので今日のところは、これにて。

  本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて675日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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Filed under: 今日のお客様,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)