ある呑み屋へのオマージュ
今年の師走のある夜、学校の同期生が、さる御偉い方を接待するのに弊店を使ってくれました。
その御方を弊店へ連れて来たのは、事実としては確かに同期生なのですが、私には、その場にはいない別の人が連れて来てくれたように感じられました。
「別の人」が誰かと申しますと、今は閉店してしまった、ある呑み屋のママさんが連れて来てくれたように感じたのです。その御方と私は、ともにそのママさんの店の客だったからです。
「ともにその店の客」と申しましても、実は、その店が営業している間に御一緒する機会は、残念ながら一度もありませんでした。だから今回が初対面です。
その御方は、私の父とほぼ同年代の年齢で、その店の40年を超える歴史の中では前半の客でした。私はと申しますと終盤の客でした。それで、通った時期が重なっていないのです。
その店が開店したのは、私の生まれた年と同じ1965年で、私が通うようになったのは、「開店35周年」の少し前の頃でした。
そのすぐ後、その御方は偉くなりました。それまでは文筆の御仕事をされていたのですが、見識を買われて公職に就かれました。それも国民経済の枢機に参画する要職でした。
この御出世を、ママさんは当然喜びましたが、店の業績には、どちらかと言うとマイナスの結果となったようです。要職に就いてしまったものですから、そう頻繁に店を訪ねることが出来なくなったのです。当時ご体調もベストでなかったようでした。
それでママさんは、その偉くなった御方が書いた御本を、他の客に読ませることにしました。店の棚に御本が並べてあって、それを読むように勧めるのです。
正確には「勧める」とうよりは、半強制でした。
「住吉さん、アナタ! この本、お読みになったこと、あるの?!」
「駄目よ、アナタ! お読みにならなきゃあ!」
いつも「アナタ」の「ア」にアクセントが付いていました。
この他にも、ママさんは客の画家の展覧会のチラシを私に渡して、観に行くことを強制しました。そうやって客同士を懇意にさせるのが、ママさんはとても好きで、同時に商売の手法でもありました。
そういう調子で、店は今世紀に入ってもしばらく営業を続けましたが、次第に客の高齢化が目立ってきました。
話していても「○○さんが死んじゃったの」「△△さんは肝臓が悪くて、もう飲めないの」という話題が増えました。開業から40年近いのですから、仕方のないことです。
そんな中、私は客の中では新参で、最年少の部類でした。「開店40周年」を祝うパーテイーでは、「最年少の客」としてスピーチを求められました。ママさんのことを褒め称えましたよ、当然ですが。
しかしその頃、店の周囲が再開発の対象になり、またママさんの御母上の介護が大変になってきたことから、数年前、その店はついに惜しまれて閉店しました。閉店したことは新聞記事にもなりました。
結局その店で、私はその偉い御方と御一緒する機会はありませんでした。
でも御本を読んでいたので、今月初めてお目にかかった時に困りませんでした。ママさんの話しで盛り上がることも出来ました。嬉しいことでした。
私にとって、その店の記憶は、30歳過ぎから40歳を少し超える時期までの記憶です。
たぶん、その御方にとっても壮年期の、バリバリ書きまくっていた頃の記憶の中の店なのだと思います。一度も御一緒しなくても、そこが共通項なので、話しが噛み合ったのだと思っています。
「懐かしい記憶の中の店」、それがある有り難さを感じた、歳の瀬でした。
追伸
12/29-12/31の三日間、「ちんや」精肉売店の店頭は、正月用のお肉をお求めの方で、大変混雑いたします。「長時間行列したくない」と思う方は、必ず12/28までに肉の予約をして下さいますよう、お願いいたします。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて665日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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