福澤先生と肉食②

今日の話しは昨日の弊ブログから続いています。昨日は「適塾」時代の福澤諭吉先生が牛鍋屋に行っていた件でした。

牛鍋屋は悪所にある下等な店でしたが、安かったので、飲みたい願望・食への好奇心が強かった当時の先生はかまわず行っていました。「不潔に頓着せず」だったのです。

その後先生は江戸へ出て蘭学塾を開きます。咸臨丸で渡米、文久遣欧使節に同行して渡欧、海外の見聞を広めます。

塾もだんだんに発展しますが、そんなおり、明治3年に先生はチフスにかかります。人事不省の状態が18日間に及んだというから、大変でした。

その時に栄養補給に重宝したのが、「築地牛馬会社」から手にいれた牛乳でした。

「築地牛馬会社」は御一新後に官営で設立された会社です。築地にリアルに牛がいて、乳をしぼったり、屠畜をしていたのだから驚きです。

先生は、その牛馬会社に助けられたので、肉食や牛乳、バターなどを推奨する一文を書きました。それが『肉食之説』(明治3年)です。

文の調子は、けっこう激烈です。

日本には、みだりに肉を嫌う者が多いが、それは、

人の天性を知らず人身の理をわきまえない「無学文盲の空論なり」と切り捨てています。

このころの先生は旧習に対する批判精神が高揚していた時期でした。四年後の『学問のすすめ』第六編「国法の貴きを論ず」では有名な「赤穂不義士論」を出します。

歌舞伎や講談で有名な赤穂義士の死に方は無益な死で、お使いの金を落として首をつった手代の権助(ごんすけ)と、無益という意味では変わらないと論じたのですから、大炎上しました。

ここに先生の、もう一つの気質が現れていますね。「炎上に頓着せず」です。昨日は「不潔に」でしたが、今日は「炎上に」です(笑)

法を施行できるのは政府のみで赤穂義士の敵討は私裁だと批判するのは議論として分かりますが、そこに権助を持ち出すのは、言い過ぎ感があります。それでも先生は権助を持ち出して世論を刺激しました。

『肉食之説』でも先生は結構刺激的なことを言っています。

当時世間には、肉はきたないものだと思う人が多かったのですが、その人達がありがたがって食べている食品を先生はコキ下ろします。

「日本橋の蒲鉾は溺死人を喰ひし鱶の肉にて製したるなり」

「春の青菜香しといえども、一昨日かけし小便は深く其葉に浸込たらん」

「先祖傳來の糠味噌樽へ螂蛆うじと一処にかきまぜたる茄子大根の新漬は如何」

うじ虫が漬物の糠床に入り込んで死んだ場合、糠床にいる微生物がそれを分解してしまうので、人体に影響は少ないです。うじ虫に腐敗菌が付いていたとしても糠床の中では常在の乳酸菌の勢力が圧倒的で、腐敗菌は駆逐されるのです。

が、気分として不潔感はどうしても、ありますね。そういう漬物を喜んで食べているのだから、諸君は肉だって食えるはずだというわけです。

肉は滋養や体力向上に良いのだから、是非食べるべきだと言うだけで済ませず、他の食品をあれこれ批判しているのは、これも言い過ぎ感がありますが、私は個人的には好きです。

旧習を止めさせ、肉食を普及させたいという情熱が、炎上しそうな表現に向かわせたのでしょうから、私は好ましく感じますが、蒲鉾屋さんや漬物屋さんは、さぞ不愉快だったでしょう。

このくだりが個人的にかなり好きなので、赤穂義士が炎上したのに、肉食がさほど炎上した形跡がなく見えるのは、私としてはむしろ不満に思っています。

(『肉食之説』が炎上していないかは、突き詰めて確認したわけではないです。今後どなたか史料にあたって確認して欲しいです) 以上、昨日・今日と福澤先生を肉食推奨に向かわせた、二つのエピソードをご紹介しました。暴論・雑感ですから、どなた様も真面目に読まないようにお願い申し上げます。

*追伸、「ちんや」が使っている千住葱の動画がNHKアーカイブスのサイトで見られるようになっています。この動画は、今年3月にNHK-BSで放送された「新日本風土記」を再編集した動画です。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし本日は3.826目の投稿でした。引き続きご愛読を。

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)