先ず獣身
『グルマン福沢諭吉の食卓』(小菅桂子)(中公文庫、1998年)という本があります。料飲三田会が小菅先生に委嘱して書いていただた本です。
そこには「慶応義塾の創立者であり、明治を代表する啓蒙思想家であった福沢は、“食と健康の思想”の普及にも熱心な食通だった。」と書かれています。私もその通りだと思います。
『肉食之説』(明治3年)も、その一つです。その中で先生は、肉を忌み嫌う者の論は、
「畢竟人の天性を知らず人身の窮理をわきまへざる無学文盲の空論なり」
とまで言っています。相い変わらずイケズ・キャラ全開ですな、先生。
先生は、元々緒方洪庵門下の医学者でしたから、そういう先生が食と健康に大きな関心を持っていたのは当然のことです。当時の医学というのは、今日の分類で言うところの解剖学+栄養学くらいしかカバーしておらず、抗生物質もDNAも知らなかったので、食と栄養は医学にとって大変重要だったのです。
先生の子育て論に「先ず獣身を成して後に人心を養う」という言葉がありますが、この言葉も、その前提で読んだ方が良いはずと私は思っています。
このように先生にとっては、食は重要な関心事でしたが、義塾の教育の中ではやがて、「先ず獣心」はスポーツを指すようになり、食は「マナー」「文化」と考えられるようになります。例を挙げれば、
(慶應義塾豆百科 No.28 幼稚舎の創始)
「幼稚舎で最も意を用いたのは、強健な身体の育成であった。体育は学科の中で最重点科目であった。蓋し福澤先生の初等教育における立場は、「まず獣身を成して而して後に人心を養う」ことにあり、幼稚舎教育の理想もそこにあった。」
(「小学校受験新聞」というサイトで幼稚舎が表明している「教育の目指すもの」)
「給食も食を通した文化と規律を学ぶ教育の場であり機会であると考えて、食堂の使い方や食事のマナーなどについても教えています。」
こうなったのは何故か、私の想像では、
・その後医学が発展し、先生の知っていた医学が「昔の医学」と見做されるようになったから。
・義塾が農学部を持たなかったから。
と思います。
しかし最近医療の世界で、病気に対処するだけの医療を超えて、そもそも健康づくりをすることが医療だと考える人が増えました。またスポーツの世界でも、ひたすらトレーニングするだけでは良い結果が得られないと考える人が増えました。
さらには湘南藤沢キャンパスの、若い学生さんが農業に関心を寄せ、藤沢が義塾の農学部かと思う様相です。
間違いなく、今は「先ず獣身」という言葉を考え直す好機であると、私は思います。
追伸、「ちんや」年内の予約状況のご案内です。
28日(木)は未だ空いております。よろしくお願い申し上げます。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.854日連続更新を達成しました。すき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦でした。