すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に⑩

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開しています。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

フェイスブックなんてものはそもそも、自分がハッピーな姿を人様にひけらかすツールです。自分は、

・こんな高級な店に行けるほど、経済的に成功しているんだ!ということを示す画像か、

・自分は一緒に食事をする仲間に恵まれているんだ!ということを示す画像が必要です。

前者を志向している人は料理や内観をカシャカシャ、後者を志向している人は記念写真を撮りたがります。

そう、お客様はフェイスブックやツイッターにUPする写真を撮ることが最終目的で、すき焼き屋に見えているのです。だから、その写真が上手に撮れなかったら、盛り上がって見えなかったら、すき焼きが美味くても、目的が達成されたことにならないのです。

ですので、弊店のスタッフには、お客様が記念撮影をなさりたい場合は積極的にシャッターを押して差し上げよう。さらに!それだけでなく、最高の笑顔の写真が撮れるように盛り上げて差し上げよう、と言っています。

そこが滅茶滅茶重要だ、とハッキリ認識しないとNGです。

盛り上げるところまでが、我々の本業なんです。店サイドとしては「すき焼きを食べさせれば終わりで、そこまでが本業」と思ってしまいがちですが、間違いです。だいだい、ですね「シャッターを押して下さい!」と言われて押すだけなら、中世の召使いと同じレベルの労働ですね。

そこを一段階超えて、素晴らしい笑顔が撮れるよう、盛り上げて差し上げれば、きっと、「ちんや」のお姐さんが上手く盛り上げてくれたので、良い写真が撮れたなあ!と御客様の思い出の中に記憶して貰えます。それが働く者としての生きがいと言うものではないでしょうか。

SNS時代は、そこまでやって、それでやっと任務終了と思わないといけません。

で、具体的にその方法ですが、笑って下さい!笑顔下さい!は、あまり上手く行きません。むしろ緊張してしまいますね。

どうするか、と申しますと、 Su-ki-ya-ki!! と叫ぶことをちんやでは推奨しています。外人さんがSay Cheese!! と言う時は「チー」にアクセントがありますから、自然と口が横に拡がって歯が出て笑顔に見えます。

でも日本人が「ち~ず~」と言うと「ず~」にアクセントが付いて、皆オチョボ口に成ってしまいます。良くありませんね。

デパートやホテルなど接客業の皆さんは、出勤前に鏡を見てWhiskey!! と言うようです、これも「イー」で、口を左右に開く練習という意味で同じですが、やっぱり日本人ならウイスキーよりスキヤキですよね。

「スキヤキ~!」と叫べ、きっと思い出に残る、最高の笑顔の写真が撮れます。

この話しは皆さんには下らない話しに聞こえると思います。しかし、こういうことが大事だと私は断言します。

何故ならば、すき焼きという商品は売りにくいが、すき焼きの思い出という商品なら売れるから、であります。

その写真がネット上にUPされれば宣伝にもなります。これからは、SNS上にどれだけ、その店で撮られた画像がUPされているか、それが一つの指標に成ると思っています。

今日は鰻の「川松」さんも見えてますが、鰻屋さんで宴会をして、その後記念撮影するとしたら、なんて言いますか?はい、皆さんご一緒に「う~な~ぎ~!」ですね。

「常盤堂」さんも今日は見えてますが、なんて言いますか?「かみなり~!」「おこし~!」でも、どっちでもOKですね。是非是非採り入れていただきたいと思います。

もう一つ現場で出来る一つの実例をあげてみましょう。

<この話しは長いので14回に分けて公開しています。続きは明日の弊ブログにて。>

追伸①

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~感涙必須の旨い肉200軒 に「レストランちんや亭」の、ハンバーグとサイコロステーキを載せていただきました。

ご購入は、こちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.225日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に⑨

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開しています。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

とにかく、この十数年間は大変な日々でした。

そんな日々が続いておりましたが、人間いつまでも、マイナス志向のことばかりやっていられません。特に私達は、バブル学生の生き残りですから、勢いの在った日本を知っています。

このままじゃ残念だ。このままで良いはずがない。なんとかしたい。

っていう思いが、嵩じて来ました。リーマン・ショックの前辺りから、少しずつ、新しい取り組みを始めましたが、決定打となったのは、やはり今回の大震災です。

とにかく、すき焼き屋が、この世の中で何が出来るかのか、トコトン考えることにしまして、目の前の能率とか、単価とか客層とかは、この際考慮しないようにしました。

だいだいお客様の立場に立ってみれば、スタッフが能率良く働いている店に行きたいわけではないですね。余計なことにも取り組む・例え面倒臭くても取り組むこと、それ自体が差異性あるいは差別化の源ではないのか、そう考えることにしました。

客層というフレームもやめました。

世間には「ウチの客層は〇歳代~△歳代で、年収は×百万円位」とか決めて営業している店が多いようです。イケメンシェフのなんとかさんもそのようですが、私は、そういう考え方を採りません。

「ちんや」は基本的には年配で、年収が多い方が支払いをなさるケースが大半ですが、若い方でも会食の主催者に成ることは、あり得ます。

例えば、今はボーナスの時期で皆さんは払う方だから、イヤな時期と思いますが、貰う方は嬉しいですね。特に就職したばかりの若い方は、「人生初ボーナス」ですから、それでご両親に食事を御馳走する、ということがありまして、それが「若い方が会食の主催者に成る」ケースです。

ですから、「ちんやの客層」は「親孝行をしたい若い方」なんであって、年収が少なくても「客層」です。そう考えるようにしています。

そのように考えることが出来るように成るまで、私は10年以上かかってしまったわけですから、大変な遠回りです。最初からプラス志向の社長さんが聞いたら「なんだかかあ!」という話しを今していることは、百も二百も承知ですが、今日の所は、マイナス志向の経営をしっかり実体験した経営者からのアドバイスとお考えいだだければ、と思います。

さて、マイナス志向もいい加減ウンザリだ、マイナス志向からなんとか抜け出たい、と考える中で、そのシンボルとして出て来た標語が「心に残る思い出を!」でした。

せっかく作りましたので、この標語が全ての働き方の指針に成らないといけません。そう、私達は、すき焼きを売るわけではなく、思い出を売る人間です。ですので、例えば、現場の働き方を一つご紹介してみますが、すき焼きをご提供すること自体と同等に重要な職務としてデジカメ撮影を位置づけています。デジカメ撮影がすき焼きと同等です。

何のことか、少し長くなりますが、ご説明しましょう。既に我々はSNS時代に突入していますね。で、飲食店の現場が今どうなっているか、ですが、飲食店それも上等な料理を提供する店は、当然ながらSNSにUPする格好のネタですから、連日デジカメでカシャカシャする方たちがいます。

フェイスブックなんてものはそもそも・・・

<この話しは長いので14回に分けて公開しています。続きは明日の弊ブログにて。>

追伸①

「ぴあMOOK 旨い肉 2014 首都圏版」

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この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.224日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に⑧

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開しています。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

私が「ちんや」の六代目を継ぎましたのは2001年8月です。

2001年と言えば、元々景気の悪かった時です。ひどい閉塞感の中から「唯一の希望の星」として小泉首相が登場し、ワン・フレーズ政治を展開して、大変な人気を集めましたことは、皆さんの記憶にまだ新しいかと思います。

その景気の悪い所へ加えて、2001年9月BSE問題が起きました。日本で初めてBSEにかかった牛が発見されたのです。

これは重大な事態でしたが、それは私が社長に成った、翌月のことです。

事態は、「そういう牛が発見された」というだけで終わりませんで、底無しの状態へ進んでいきました。

問題の在った牛の「流通をストップさせた」と発表しながら、実際には肉骨粉にしてしまったということが発覚したからです。また、それ以前にも、BSEが日本に入って来る危険性を指摘する声があったのに、農水省がその意見を退けていた、というのも非常にマズい点でした。

こうして病気そのものの怖さも勿論在りましたが、これを機会に、プラスして行政不信・業者不信という、恐ろしい感情が一般消費者の間で爆発してしまいました。

人間の生き・死にに関わる事態なのに、無責任な態度をとる人がいたのは最悪な話しでした。そして、腹立たしいことに、そのトバッチリは、無責任な当人ではなくてですね、その食品を商う人間・商売人が一手に引き受けることになります。

こうしてBSE問題は、その後もたびたび繰り返される食品事件の典型的な経過を辿って行きました。

そんな話しが連日テレビなどのメデイアで報道されましたので、2001年10月、11月の売り上げは一気に前年比50%台まで落ちました。ヒドいことでした。それでもマシな方だったことは、後から同業者から聞きました。

そんな状態が続きまして、売り上げが復旧するには、結局3年間以上かかりました。

小泉首相の在任中には、経済が少し活性化した時期もありましたね。ホリエモンこと堀江貴文さんが世間を賑わしていた頃の話しですが、その頃肉の業界は、まだBSE問題からの復調途上で、とても良い業績などあげることは出来ませんでした。

そして、その後「少し上向いたかな」と思ったら、今度はリーマン・ショック。また、どん底行きです。そして、そのリーマン・ショックからなんとかまた上向いて来たかな、と思ったら、その次は大震災です。

食品の世界では、その間にも鶏インフルエンザ問題もありました。すき焼き屋は卵を使うから関係あるんです。宮崎の口蹄疫もありました。

次から次へ、実に色んなことがありました。

こうした事態を受けて、「食の安全」を確保するため、新しい制度が導入されました。牛の個体識別番号が導入され、その番号を表示することが義務化されましたのも、この時期です。で、私たちは、その対応に追われまくりました。

そういう対応に追われている間も、業績は大変悪いわけですから、さきほど申しました通り、マイナス志向の経営を推進しないといけません。経費削減、合理化の類いは一通り、メニューをこなした記憶があります。

とにかく、この十数年間は大変な日々でした。

そんな日々が続いておりましたが・・・

<この話しは長いので14回に分けて公開しています。続きは明日の弊ブログにて。>

追伸①

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この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に⑦

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

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<以下本文>

え~何でしたっけ?そう、そう、「記念日割引」という制度の話しですが、この制度の良い点は、どういう理由でお客様が見えたのかハッキリすることです。

割引と申しますものは、要求されるとイヤなものですが、記念日割引は「されて嬉しい」割引なんですね。そしておめでたい日であれば、おめでたい趣向でサプライズのサービスが出来ます。

そのやり方は、のちほどお話ししようと思いますが、とにかく、個々のお客様の記念日を店が知っている、ということが大事だと思います。

何故なら、生活不要品であるすき焼きを、人生の必需品にしたいからです。こうした努力をしつこく続けて行けば、浅草のすき焼きを、その方の人生における必需品に入れていただくことも可能ではないか、イヤ絶対に可能だと確信しております。

実際の問題としては、お客様にリピートしていただく、それも10年に30回、20年に60回、30年に90回といったペースでリピートをしていただく、ということを目指しております。

浅草はそれが可能なんです。浅草と上野の間には寺町があってお墓がありますから、そこへ正月、春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸と多くのご家族が通って来ます。春には墨堤の桜が咲きます。是非ともそういう機会にリピートをしていただきたいと思っています。

30年の間にはお爺さんが亡くなるかもしれません。しかしリピートは終わりません。30年の間に、お孫さんが成長して結婚して⇒そこにお子さんが生まれて、つまりかつてのお父さんがお爺さんの位置に上がりまして、新たな3世代が揃って「ちんや」へ来て下さいます。

人間の個体の単位で考えれば、お爺さんは死んじゃったんですから二度とリピートできませんが、家族単位ではリピートできるんです。生まれたお子さんにモノ心がついたら、今度のお爺さんつまりかつてのお父さんから聞かされるでしょう、

オマエの曾爺さんの代から、ウチの家族はこの店に来てるんだぞ!って。それが弊店の理想形であります。

以上<商品としてのすき焼き>という段を纏めますと、

①すき焼きという商品は売り易くない、しかしすき焼きの思い出という商品は結構、売り易い、

②生活不要品であるすき焼きは、人生の必需品に成り得る。そう申し上げておきます。

だいだい、そうでなくては所謂「老舗」の存在意義なんてものはありません。そして、さらにもう少し申せば、家族を統一するのは味覚だと、私は思っています。

そうしたご家族の平凡な幸せに貢献すること・平凡な思い出づくりのお手伝いをさせていただく、それが私と「ちんや」の役割・私と「ちんや」のミッションです。

さて、私はすき焼きという商品について、このように考え・販売しているわけですが、社長に成ってからすぐそうしたわけではありません。最初は、すき焼きの特徴を上手く活かすことが出来ず、マイナス志向の経営をせざるを得ませんでした。

経費削減、合理化の類いはたいてい経験しています。そういう時期がございました。

当時そうせざるを得ないほど、重大なショックが在ったからなのですが、ここでそのことを少しお話ししておきます。

私が「ちんや」の六代目を継ぎましたのは・・・

<この話しは長いので14回に分けて公開しています。続きは明日の弊ブログにて。>

追伸①

「ぴあMOOK 旨い肉 2014 首都圏版」

~感涙必須の旨い肉200軒 に「レストランちんや亭」の、ハンバーグとサイコロステーキを載せていただきました。

ご購入は、こちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

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現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.222日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に⑥

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開しています。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

さて、すき焼きの歴史を、ざっくり見て来ましたので、今度は<商品としてのすき焼き>はどういうモノか、考えてみましょう。

すき焼きという商品の特徴は「生活不要品」、つまり在っても無くてもOKな商品だ、ということです。そう申しますと、

そんなことないですよ!すき焼きは立派な食文化ですよ!

日本にすき焼きが無くては困ります、

という反応がたいてい返ってきますが、それなら税金で補助して貰えるんでしょうかね。貰えませんね。歌舞伎すら松竹さんの民営ですから、すき焼きも民営で頑張る他ないですが、では、さきほど「そんなことないですよ!すき焼きは食文化ですよ!」と言っておいだった人は、果たして頻繁にすき焼きを食べて下さいますでしょうか?そこが、心もとないんです。

口で言うのはタダ。FBで「いいね!」するのもタダですが、我々が成り立つためには、時間を作り、予約を入れて、お金を貯めて、わざわざ浅草へ来て下さる人が大勢いないと困るわけです。

だいたい、今時はすき焼き以外にも美味い食べ物がいくらでもありますね。浅草以外にも遊びに行く所はあります。

だから「なんか美味いものを食べたいな」という程度の意識のお客様がいるだけではダメなんです。歌舞伎見物が生きがいという方がいますが、同様にすき焼きが無ければ自分の人生真っ暗、という位に、メンタルに入れ込んで下さる方を獲得することが大事だと思います。

言い換えれば、その方の人生における必需品の中に、すき焼きを入れて貰わないといけない、と思っております。

すき焼きを必需品にって、そんなことが出来んの?っていうことですけど、出来なくもないんです、すき焼きには。

出来る理由は、すき焼きのイメージです。すき焼きは明治時代と結びついていて保守的なイメージだと、さきほど申しましたが、その保守的な感情が、家族で食事をする時の感情と結びつきます。それがすき焼き商売の原動力と思っております。

保守的な感情と申しましても「憲法96条を改正したい」とか、そういうことじゃあないんです、勿論。具体的には「正月は家族揃って浅草に初詣に行きたいね」「お参りの後は、すき焼きって我が家は毎年決まってるんだ」というような感覚を「保守的」と言ったわけです。

そこに弊店が上手く嵌っていくことが、他の何より大事と思っています。

ところが、です、私はそう願っているんですが、ある年の暮に、ある御家族のお嬢さんが色気づきまして、お父さん、芸能人は正月はハワイに行くのよ、私もハワイに行ってみたい!と言い出しました。

何言ってるんだ、お爺さんもお婆さんも、オマエとすき焼きを食べるのを楽しみにしてるんだぞ!えーやだー、浅草とかすき焼きとか、私、前からダサいと思ってたのよ。それに私、英語を勉強したいの!

そう言われてお父さん、そうか、英語も習わせないとなあ、ということで、この一家はハワイへゴー、憐れ、お爺さんとお婆さんだけが浅草へ行きました。行きはしたものの、

オイ婆さん、オマエと二人ですき焼きじゃあツマラナいなあ。

何よ、お爺さん、アタシだってアナタとじゃあツマラナいわよ、今日は帰りましょう!あららら~っていうことにならないようにするのが、浅草のすき焼き屋の、最も大事な仕事です。

私は、そう確信しまして、この10年ほど御家族づれ、それも3世代・4世代で「ちんや」へ来ていただくことに努力を集中して参りました。まず弊社の経営理念は「心に残る思い出を!」という文言にしました。弊社は「すき焼きを売るのではく思い出を売る」という次第です。

勿論パクりの理念ですけどね、

not computer,but utility の。

具体的には例えば、ですが、「記念日割引」という制度を作りまして、その日は割引率が倍になるんですが、お客様が自分の好きな日を登録できる、というのがミソです。

勿論自分の誕生日を登録してもOKなのですが、むしろ多いのは奥様の誕生日とか、結婚記念日とか、お孫さんの誕生日、あるいはご先祖の命日もあります。不祝儀でも良いんです。会社をやっている人は創業記念日を登録して社員さんを連れて見える、というようなパターンがあります。

傾向を見ておりますと、男性は結婚記念日を登録なさることが多いですが、女性は自分の誕生日です、ゼッタイに。恐ろしいことですね、はい。

え~何でしたっけ?

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この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

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現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.221日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に⑤

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開します。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

手前共の御先祖は実は、江戸時代から浅草で犬の狆(ちん)の、狆屋をしておりました。

当時の大名家や豪商などは、ペットとして狆を飼う習慣がありました。現代でも犬を可愛がる方がおいでですが、狆もたいそう可愛がられたそうで、狆の墓があったりする位です。

その狆の、良い血統を、手前どもの御先祖が押さえていたようでして、現代風に言えば、狆のブリーダーですね。そして、売った狆の具合が悪くなれば獣医として治療したりもしていたようです。

その狆屋が、明治時代になりまして、すき焼き屋(牛鍋屋)に商売変えしました。理由を書いた書類はありませんので、想像するのみですが、犬の趣味が変わったことが大きいのでは、と私は思っています。

天下泰平の江戸時代には可愛いペットが愛されました。特に狆を飼うのはお旗本の奥方とかでしたから、狆は女イメージの犬でした。ところが、続く幕末・明治は戦争や政争が続く騒乱の時代ですから、世の中の犬の趣味が変わりました。

上野の西郷さんは犬を連れていますが、狆ですか?違いますね。西郷さんは猟犬を連れて、野山を歩き回るのが趣味だったようですが、そういうワイルドな世相の時代に狆は可愛い過ぎで、かつ旧時代のイメージに見られたと思います。

要するに、時代が変わって、商売としての「狆屋」の将来性が脅かされましたから、手前どもの御先祖は、狆を捨てて、牛鍋に走ったものと思います。全盛時代の浅草に店を構えているのですから、狆屋をやるより、飲食店の方が儲かると考えたのだと思います、あくまで想像ですが。そんな経緯で、浅草にすき焼き屋が多いのです。

さて、この段の最後に、関東風と関西風の話しもしましょうかね。

ご存知と思いますが、関東風は割下ですき焼き、ですけど、皆さん、割り下のことをタレっていうのは止めて下さいね!そういうのは「Eバラ」さんだけにして欲しいです、ホントに。関西風すき焼きは、醤油と砂糖で、すき焼きと言っています。松阪はじめ中京圏も醤油と砂糖で、すき焼きです。関東風と関西風の境目はご存知ですか。それは豊橋でして、家によって両派混在しているそうです。また豊橋には「小林」さんという、醤油と砂糖なのだけど、最初に野菜を入れる珍しい店があります。

トリビアですよね。飲み会トークのネタにして下さい。

はい、ここまで大丈夫ですか、徳兵衛さん、起きてますか、ここでストレッチしますね。はい結構でした。

さて、すき焼きの歴史を、ざっくり見て来ましたので、今度は<商品としてのすき焼き>はどういうモノか、考えてみましょう。

すき焼きという商品の特徴は「生活不要品」、つまり在っても無くてもOKな商品だ、ということです。そう申しますと、

そんなことないですよ!

すき焼きは立派な食文化ですよ!日本にすき焼きが無くては困ります、

という反応がたいてい返ってきますが、それなら税金で補助して貰えるんでしょうかね。貰えませんね。歌舞伎すら松竹さんの民営ですから、すき焼きも民営で頑張る他ないですが、では、さきほど「そんなことないですよ!すき焼きは食文化ですよ!」と言っておいだった人は、果たして頻繁にすき焼きを食べて下さいますでしょうか?

そこが、心もとないんです。口で言うのはタダ。FBで「いいね!」するのもタダですが、我々が成り立つためには、時間を作り、予約を入れて、お金を貯めて、わざわざ浅草へ来て下さる人が大勢いないと困るわけです。

だいたい、今時は・・・

<この話しは長いので14回に分けて公開しています。続きは明日の弊ブログにて。>

追伸①

「ぴあMOOK 旨い肉 2014 首都圏版」

~感涙必須の旨い肉200軒 に「レストランちんや亭」の、ハンバーグとサイコロステーキを載せていただきました。

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追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.220日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に④

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開します。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

生産地の地名がブランドになるのは、1935年(=昭和10年)以降のことでありまして、松阪牛が『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになりました。しかし、この後すぐに日本は戦争に突入してしまいまして、第一回の松阪肉牛共進会が開始されたのは、戦後の1949年(=昭和24年)のことでした。

この辺りが牛のブランド化のさきがけです。これ以前は、肉牛の生産と申しましても、最初は田圃で使役するわけです。ですので1960年頃(昭和30年代中頃)まで「肉用牛」とは言わずに、「役肉用牛」と言われていました。最初から肉牛として育てていなかったんですね。

それがブランド化の進展と並行して、「役」が取れていったわけです。で、肉質も変わって行きまして、今日皆さんが良く目にする所謂「霜降り」の肉が登場するわけです。

ここでもう一回整理しますと、「今半」「今朝」と言った場合、それは近代的で衛生的な屠殺場から牛を仕入れている、という意味のブランドで、次に神戸ビーフと言った場合は、牛が売られている土地のブランドで、その次に松阪牛と言った場合は、牛の生産地のブランドという具合に、ブランドの意味あいが変化してきたわけです。

3番目の産地ブランドが確立したのが昭和30年代のことでした。そして、さらに申せば、それ以降は、あまり画期的はことが起きていなくて、今は個人ブランドが2~3在ったりしますが、全体的にはあまり進歩していない、と申すことができます。

これ以上話すと愚痴が入りますが、なんか新しい発想ってないの?って私は思いますし、誰も出さないなら、オレが出そうかな!って最近は思ったりしています。

このように、たいていの料理は、時間をかけてだんだんに日本人の間に定着して来たのに対し、すき焼きは幕末から明治初期の、ごく短期間に国民食になりました。すき焼きは明治時代という特定の時代と結びついています。日本人が近代化へのチャレンジを始めた時代つまり現代へと続く道を歩み始めた時代の、民族的な強烈な記憶とすき焼きはつながっています。

この点が、すき焼きを商売にする人間にとっては非常に大事な点ですので、ここであらためて指摘させていただきました。

次に、浅草にすき焼き屋が多いわけもお話ししておきましょう。

これは特に深い理由はなく、結果的にそうなっただけと思われます。明治5年~15年頃に、牛鍋屋の流行がありまして多数の店が開業しました。 既に明治10年には東京府下に488軒もの牛鍋屋があった、と言いますから、かなりすさまじいブームだったようです。

この時期が、浅草の繁華街としての全盛期に当たっていて、浅草は日本随一の繁華街でしたので、店を開業しようとする者は、場所として浅草を選んだと思われます。すき焼きとか洋食は、その時代の新文化・新ビジネスですから、ビジネスとして成立させるために、経済力のありそうな土地へ出るのは当然のことで、浅草に店が出来たのは当然の成り行きと思います。

例えば、今半さんと米久さんは、地方から上京して来て、浅草を選んで開業しています。逆に、以前から浅草で商売をしていた者が、牛鍋の大ブームを見て、商売がえした者もいます。浅草が栄えていたので飲食店の方が儲かると考えた者がいたんですが、そう、手前どもの御先祖のことです。御先祖は実は・・・

<この話しは長いので14回に分けて公開します。続きは明日の弊ブログにて。>

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この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.219日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に③

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開します。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

ここで昔の調理方法のこともお話ししておきましょう。

横浜の「なわのれん」さんの食べ方は味噌煮込みですが、このやり方は、今では珍しいですが当時は珍しい方法ではなかったようです。

明治初期の牛肉は、そもそも肉用に育てられていませんから固くて、また放血の仕方が上手でなかったために獣臭さがキツかったようです。それで、臭さを緩和し、また肉をやわらかくするために、ぼたん鍋や紅葉鍋に類似した方法で調理したようです。つまり味噌仕立ての味付けでした。

後に肉質が良くなるにつれて、味噌から醤油と砂糖などで作る割下で煮る方法が主流になっていったようです。一方、関西では、皆さんご存知の通り、醤油と砂糖を事前に煮合わせないで、鍋の上で混ぜる方法が主流です。

具材の内容ですが野菜は最初は寂しくて、ネギのみの場合も多かったようですが、ネギは臭み消しのスパイスとして必需品だったので、ネギは必ず入っていたと思われます。

ネギというのは大変便利な食べ物でして、生だと辛味があってスパイスになります。しかし加熱すると甘くなってきて野菜として美味いです。重宝な食べ物なので、ネギはすき焼きの第二の主役なのです。

その後明治20年代辺りから大正時代にかけて、すき焼きは高級化を始めたようです。

具体的にはザクの具が増えます。この頃白滝や豆腐が使われ始めましたが、この皿はザクザクと切ることから「ザク」と通称されるようになりました。そして高級化では、関西の店の方がやや先行していた模様です。

現存してはおりませんが、関東大震災の後に関西から東京へ進出したすき焼き屋があったと聞いています。店が現存していませんので、どういうすき焼きだったか、ハッキリとは分かりませんが、わざわざ東京へ進出する位ですから、創意工夫をこらし、気合いを入れて出て来たと考えて間違いはないと思います。

で、この傾向は東京勢つまり関東式の牛鍋屋には相当脅威であったようです。関東では牛鍋屋は当時「牛屋ぎゅうや」と言われて、あいかわらず下卑た店、という認識でした。

「牛屋の女中」といいますと、下品で愛想が悪いが体力はある、という意味でして、これでは高級化できません。関東大震災が起きて打撃を受けたところへ高級なライバルが現れたので大変だったと思います。

関東の牛鍋屋が「牛鍋」と言うのを止めて、「すき焼き」と言うようになったのは、この頃でして、中には、もう廃業した御店ですが『高等すき焼き』という名前にした店すらありました。

ザクの具材も、おそらく「高等」にするために増やしたんだろう、と想像します。この御店は10年位前まで現存していて、最後まで『高等すき焼き』というメニュー名を使っていまいた。

「牛屋」と蔑まれているようでは、やっていけない、という恐怖感が、こんな滑稽な名前のメニューを産み出したんですね。勿論牛鍋という名前に誇りをもって護っておいでの店もありますが、かなりの数の関東の牛鍋屋が名前を変えました。その背景は、そんな感じだったと御理解下さい。

さて、牛の話しよりザクの話しが先になってしまいました。牛のブランド化の話しもしてに誇りをおきましょう。

今では全国各地に牛のブランドがありまして、牛と言えば「〇〇ぎゅう」ですが、ブランド化の歴史は、実はそんなに長くありません。

日本初の牛のブランド=神戸ビーフは生産地のブランドではなく、流通経路の途中の集積地の地名でした。神戸の居留地の外国人が肉を求めたことが、神戸ビーフの「そもそも」でありまして、ブランドと言いましても、今とはかなり感覚が違います。

「伊万里焼」は伊万里で焼かれておらず、伊万里は積み出し港の地名でしたが、それと似ていますね。今現在は兵庫県北部の但馬地方の牛のことを「神戸ビーフ」と定義していますが、明治時代には事情が違っていましたので、ご注意願います。

生産地の地名がブランドになるのは、1935年(=昭和10年)以降のことでありまして、松阪牛が『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになりました。この後すぐに日本は・・・

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現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

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毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に②

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。

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なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

時に皆さんは15代将軍・徳川慶喜のあだ名を知ってますか?

「暴れん坊将軍」じゃないですよ!それは松平健さんですからね。慶喜は豚が好きで食べるので、「豚将軍」「豚一殿」とあだ名されていたんですね。

将軍が豚を食べる位ですから、牛鍋屋も、もはやアングラではなく、公然と開業し始めます。

高橋音吉という人が牛鍋屋「太田なわのれん」を創業しましたのは、そんな中のことでありまして、時は1868年すなわち明治元年、場所は横浜末吉町でございました。

やがて牛鍋屋の開業ブームは横浜から江戸にも飛び火します。1867年に中川嘉兵衛という人が江戸のはずれ荏原郡今里村に屠牛場を設立しまして、江戸の牛鍋屋にも牛肉が供給されるようになります。

その場所は現在の白金台2丁目です。その辺りは今では、シロガネーゼのお洒落な街ということになっていますけど、当時は田舎だったんですね。

で、この屠牛場は近代的な屠殺場であったようです。当初は外国人向けが主でしたので、衛生的な取扱いには気をつかっていたようで、それで、今日の感覚からすると少し驚く話しですけど、この屠牛場で屠殺した牛がブランド牛になって行きます。

どこで飼われていたか、ではなくて、どこで屠殺されたか、がブランドだったんです。今でも「今半」さんとか、「今朝」さんというすき焼き屋さんが在りますが、「今」の字が入っているのは「ウチは今里村屠牛場~後には「東京共有屠牛場」という名前になりますが、そういうチャンとした所から牛を買っている、チャンとした店だ!」ということを主張しているですね。

ももんじや系の店でも牛鍋を出していたわけですが、「同じような料理だけど、私屠殺の牛は使ってないよ!」という意味が店の名前に込められているわけです。

トリビアでしょう!次にカノジョと「今半」さんに行ったら話して自慢してみましょう。

さてさて、1872年ついに明治天皇が初めて牛肉を召し上がりました。そのことが報道されまして、肉食は完全に解禁。解禁どころか、文明開化のシンボルになります。

1877年の東京における牛鍋屋の数は550軒ほどであった、と伝えらえていますから、いかに当時の牛鍋のブームがスゴかったか、お分かりいただけると思います。今日すき焼き屋を続けている店のほとんどが、この頃に開業した者の生き残りです。ただし、言い方は変わっていますね。

関東では大正時代まで「すき焼き」と言わず「牛鍋」と言っていましたから、我々は牛鍋屋の生き残り、というのが正確です。

ここで昔の調理方法のこともお話ししておきましょう・・・

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毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」です。

おかげ様にて募集定員を超えて満員になったとかで。実に恐縮なことです。

このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開します。

なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。

<以下本文>

住吉でございます。ただ今よりすき焼きの話しをさせていただきますが、なんか、今日は「知り合い率」高いっすねえ、河原さん、こんにちは。涌井さんも、どうもありがとうございます。

ねえ、こんな身内のメンバー構成で、果たしてですよ、公益性の高い講演会とは言えるのか!疑問が生じてまいりましたけどもね、存じ上げない方も、ちらほらとはおいでのようですので、はい、私が住吉でございます。一応、真面目に、軽口は無しで国会答弁のように進めたいと思いますので(笑い)、よろしくお願い申し上げます。

そう、真面目にやった方が緊張しないんですよ、ウケようとして滑ると緊張しますからねえ。

え?早く始めろって?はいはい、畏まりました。

では、早速参りますが、今日はですね、最初にすき焼きの歴史の話しを、30分程度時間をとってさせていただきます。そこを押さえていただきませんと、この世の中におけるすき焼きの位置づけというものが分かりませんで、位置づけが出来ませんと、結局経営の話しも出来ませんので、最初の30分は料理業組合の勉強会みたいな話しをします。

ご退屈とは存じますが、どうぞご勘弁いただきたいと思います。

さてまずルーツの話しからです。

いくつか説がございまして、魚介類と野菜を杉の箱に入れて味噌煮にしたから「杉焼き」だとか、農具の鋤の上で焼いたから「鋤焼き」だとか、、肉を剝(す)いて薄くするので「剝き焼き」だという説もありますが、本当にそうした文献上の料理が受けつがれて来て、やがてすき焼きに成ったのか、私はわかりませんし、多分調べようがないですし、正直私はあんまり関心が無いです。それに皆さんも、そういう話しはつまんないですよね、だから「へえ、そういう説があるのね」位にしておいて、先に行きたいと思います。

はい、この部分に興味を抱いていた方には、ゴメンナサイでした。

現代のすき焼きに直結しているのは、江戸の街で密かに営業していた「ももんじ屋」または「ももんじい屋」の料理で、けものの肉を鍋物にして食べさせていたようです。

当然、当時表向き肉食はタブーですから、「薬喰い」と称して、アングラで食べていました。獣の産地は江戸郊外で、農民が害獣である猪や鹿を駆除した時、それを利根川で江戸へ運んでいたそうです。

牛や馬は害獣でなく役にたつ動物ですから、さらにタブー感が強かったはずですが、それでも牛肉・馬肉を食べさせることがあったようです。ここで食べられていた料理が今日のすき焼きの、直接の原型です。

今でも両国で1718年創業の「ももんじや」さんが営業していますね。両国橋を渡ると、すぐ右手のビルの外壁にイノシシが逆さまに吊るしてありますから、行けば「おおっ!」と思うはずですが、あの御店はそうした御店の生き残りです。

で、その「ももんじや」で食べられていた、牛鍋が明治時代になりまして解禁になるのですが、その前に幕末に「プレ解禁」がありました。

「プレ解禁」の原因は言うまでもなく、日本に入って来た外国人の影響です。1859年に横浜が開港しますと、居留地の外国人の需要に応えて、肉を調達する必要が生じました。当時は日本に畜産業がなかったため、農耕作業に使った牛を、退役させて潰して食用にするようになりました。

1864年には横浜に屠牛場が開設され、幕府から公認もされたようです。維新の4年前の話しです。

時に皆さんは15代将軍・徳川慶喜のあだ名をご存知ですか?

<この話しは長いので14回に分けて公開します。続きは明日の弊ブログにて。>

追伸①

「ぴあMOOK 旨い肉 2014 首都圏版」

~感涙必須の旨い肉200軒
に「レストランちんや亭」の、ハンバーグとサイコロステーキを載せていただきました。

ご購入は、こちらです。

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「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.216日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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