すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に③
「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただきました。
演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。
おかげ様にて募集定員を超えて満員になり、実に恐縮なことでした。
このページでも公開して参りますので、ご笑覧下さい。長いので14回に分けて公開します。
なお内容は、「法人会」さんが相手ですから、経営者の方向きにアレンジしてございます。
<以下本文>
ここで昔の調理方法のこともお話ししておきましょう。
横浜の「なわのれん」さんの食べ方は味噌煮込みですが、このやり方は、今では珍しいですが当時は珍しい方法ではなかったようです。
明治初期の牛肉は、そもそも肉用に育てられていませんから固くて、また放血の仕方が上手でなかったために獣臭さがキツかったようです。それで、臭さを緩和し、また肉をやわらかくするために、ぼたん鍋や紅葉鍋に類似した方法で調理したようです。つまり味噌仕立ての味付けでした。
後に肉質が良くなるにつれて、味噌から醤油と砂糖などで作る割下で煮る方法が主流になっていったようです。一方、関西では、皆さんご存知の通り、醤油と砂糖を事前に煮合わせないで、鍋の上で混ぜる方法が主流です。
具材の内容ですが野菜は最初は寂しくて、ネギのみの場合も多かったようですが、ネギは臭み消しのスパイスとして必需品だったので、ネギは必ず入っていたと思われます。
ネギというのは大変便利な食べ物でして、生だと辛味があってスパイスになります。しかし加熱すると甘くなってきて野菜として美味いです。重宝な食べ物なので、ネギはすき焼きの第二の主役なのです。
その後明治20年代辺りから大正時代にかけて、すき焼きは高級化を始めたようです。
具体的にはザクの具が増えます。この頃白滝や豆腐が使われ始めましたが、この皿はザクザクと切ることから「ザク」と通称されるようになりました。そして高級化では、関西の店の方がやや先行していた模様です。
現存してはおりませんが、関東大震災の後に関西から東京へ進出したすき焼き屋があったと聞いています。店が現存していませんので、どういうすき焼きだったか、ハッキリとは分かりませんが、わざわざ東京へ進出する位ですから、創意工夫をこらし、気合いを入れて出て来たと考えて間違いはないと思います。
で、この傾向は東京勢つまり関東式の牛鍋屋には相当脅威であったようです。関東では牛鍋屋は当時「牛屋ぎゅうや」と言われて、あいかわらず下卑た店、という認識でした。
「牛屋の女中」といいますと、下品で愛想が悪いが体力はある、という意味でして、これでは高級化できません。関東大震災が起きて打撃を受けたところへ高級なライバルが現れたので大変だったと思います。
関東の牛鍋屋が「牛鍋」と言うのを止めて、「すき焼き」と言うようになったのは、この頃でして、中には、もう廃業した御店ですが『高等すき焼き』という名前にした店すらありました。
ザクの具材も、おそらく「高等」にするために増やしたんだろう、と想像します。この御店は10年位前まで現存していて、最後まで『高等すき焼き』というメニュー名を使っていまいた。
「牛屋」と蔑まれているようでは、やっていけない、という恐怖感が、こんな滑稽な名前のメニューを産み出したんですね。勿論牛鍋という名前に誇りをもって護っておいでの店もありますが、かなりの数の関東の牛鍋屋が名前を変えました。その背景は、そんな感じだったと御理解下さい。
さて、牛の話しよりザクの話しが先になってしまいました。牛のブランド化の話しもしてに誇りをおきましょう。
今では全国各地に牛のブランドがありまして、牛と言えば「〇〇ぎゅう」ですが、ブランド化の歴史は、実はそんなに長くありません。
日本初の牛のブランド=神戸ビーフは生産地のブランドではなく、流通経路の途中の集積地の地名でした。神戸の居留地の外国人が肉を求めたことが、神戸ビーフの「そもそも」でありまして、ブランドと言いましても、今とはかなり感覚が違います。
「伊万里焼」は伊万里で焼かれておらず、伊万里は積み出し港の地名でしたが、それと似ていますね。今現在は兵庫県北部の但馬地方の牛のことを「神戸ビーフ」と定義していますが、明治時代には事情が違っていましたので、ご注意願います。
生産地の地名がブランドになるのは、1935年(=昭和10年)以降のことでありまして、松阪牛が『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになりました。この後すぐに日本は・・・
<この話しは長いので14回に分けて公開します。続きは明日の弊ブログにて。>
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現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.218日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。