すき焼きの歴史と現在~若き料理屋さん達のために⑤
全国料理業組合「芽生会」関東甲信ブロック会議で、すき焼きについて講演することになりました。
「芽生会」と申しますのは、各料理屋さんの若手後継者の集まりです。講演場所が同業の名店「太田なわのれん」さんなので、正直かなり話しづらいですが、若い料理屋さん達の参考になりますよう、頑張って原稿を準備しました。
ここでも公開してまいりますので、ご覧下さい。長いので5/12から5/21まで10回に分けて公開いたしますね。
<以下本文>
この辺りが牛のブランド化のさきがけです。
これ以前は、肉牛の生産と申しましても、最初は田圃で使役するわけです。ですので1960年頃(昭和30年代中頃)まで「肉用牛」とは言わずに、「役肉用牛」と言われていました。最初から肉牛として育てていなかったんですね。
それがブランド化の進展と並行して、「役」が取れていったわけです。で、肉質も変わって行きまして、今日皆さんが良く目にする所謂「霜降り」の肉が登場するわけです。
ここでもう一回整理しますと、「今半」「今朝」と言った場合、それは近代的で衛生的な屠殺場から牛を仕入れている、という意味のブランドで、次に神戸ビーフと言った場合は、牛が売られている土地のブランドで、その次に松阪牛と言った場合は、牛の生産地のブランドという具合に、ブランドの意味あいが変化してきたわけです。
3番目の産地ブランドが確立したのが昭和30年代のことでした。そして、さらに申せば、それ以降は、あまり画期的はことが起きていない、今は個人ブランドが2~3在ったりしますが、全体的にはあまり進歩していない、と申すことができます。
これ以上話すと愚痴が入りますが、なんか新しい発想ってないの?って私は思いますし、誰も出さないなら、オレが出そうかな!って最近は思ったりしています。
歴史の段の最後に、すき焼きと牛鍋について一回整理しましょう。先に結論を先と申しますと、すき焼きと牛鍋の間に何か重要な違いが在って明確に二つに分けられるわけではなく、すき焼きー牛鍋という合体した一つのカテゴリーの中に、結構色々な方法がある、というのが実態です。
まず、こちらの御店「太田なわのれん」さんは非常にユニークな方法で、サイコロステーキのような角切り肉を味噌で煮込みますが、料理名としては「牛鍋」です。ところが横浜の、ここから歩いて数分のところに「荒井屋」さん、「じゃのめや」さんという御店が在りまして「牛鍋」と称していますが、内容は「なわのれん」さんとは違いまして、普通の割り下を使う関東風のすき焼きです。浅草には「米久」さんという店がありまして、「牛鍋」と言っていますが、やはり普通のすき焼きです。
一方「すき焼き」と言っているのは「今半」系統の4社、新橋の「今朝」さん、小伝馬町の「伊勢重」さん、湯島の「江知勝」さん、神田の「いしばし」さん、銀座吉澤さん、それに「ちんや」です。
関西風すき焼きは、ご存知の通り割り下を使わず、醤油と砂糖で、すき焼きと言っています。松阪はじめ中京圏も醤油と砂糖で、すき焼きです。
また東京で関西風をやっている店として「岡半」さんという御店がありますが、さきほど申しました「関東大震災の後に東京に進出した店」ではありません。皆さんご存知の料亭「金田中」の創業者・岡副鉄雄さんが出したすき焼きの店が「岡半」さんで、開業は昭和28年です。
関東風と関西風の境目も押さえておきましょう。それは豊橋でして、家によって両派混在しているそうです。また豊橋には「小林」さんという、醤油と砂糖なのだけど、最初に野菜を入れる珍しい店があります。
トリビアですよね。飲み会トークの小ネタにして下さい。
では次に、ここで<食べ物としてのすき焼き>を別の観点で考えてみましょう。まず、すき焼きは、そもそも・・・
<本日分は終わり>
この話しは長いので5/12から5/21まで10回に分けて公開いたします。明日もよろしくお願い申し上げます。
追伸①
TV東京『和風総本家』に「ちんや」が登場します。
「ちんや」に豆腐を納めて下さっている「市川食品」さんを密着取材する特集の中で登場します。
本日5月16日(木)21時~放送です。ご覧ください。
http://www.tv-osaka.co.jp/ip4/wafu/
追伸②
「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。
この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。
その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。
現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.169日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。