震災後の東京人

 GW連休後半の浅草は、久しぶりの賑わいを見せています。

 で、今年の特徴が1点。標準語の人=東京人が多いですね、今年は。例年GW連休に東京人は海外や温泉に出かけますから、浅草には方言を話す方が多いです。しかし今年は違いました。

 JTBさんのアンケートなどでも「日帰りできる、近場で過ごす」という回答の方が多かったので、予想はしていましたが、ここまでの人出があるとは予想以上でした。

 有り難い反面、今この瞬間もお客様が少なくて辛い思いをされている、地方の旅館の方・ホテルの方がおいでと思うと心苦しいです。

 ところで、つかぬ事をうかがいますが、

 浅草は東京ですか。浅草は江戸ですか。

⇒はい、正解を申し上げます。

① 浅草は東京です。最初から東京です。明治新政府が江戸という呼び名を廃止して東京と命名した時から、浅草は東京の一部でした。

②では浅草が最初から江戸だったかと言うと、違います。太田道灌が日比谷に城を築き始めた時、その場所と浅草の間には、湿地帯があって市街地が続いていたわけではありません。途中、寂しい辺りを通らないと浅草へは行けませんでした。

 そもそも浅草は江戸城とは成り立ちが違うのです。

 浅草の成り立ちはハッキリしませんが、奈良時代に集落があったのは確実らしく、もちろん太田道灌より遥か昔のことです。太古の昔は浅草辺りが、隅田川が海に注ぐ河口で、浅草は周囲より少し小高かったので、港が出来ていたようです。その港の近くに浅草寺が建立されたわけです。

 そうです、浅草はそもそも港町だったのです。ご存じでしたか?!

 さて徳川家康が江戸にやってきた時も、まだ江戸と浅草は完全には連続していませんでした。

 江戸が浅草を吸収する直接のキッカケは、米蔵の建設です。武士の給料は米でしたから、米蔵が必要です。そこで江戸幕府は1620年(元和6年)に、現在の蔵前や駒形辺りに「浅草米蔵」の建設を始めました。蔵前や駒形というのは、浅草のすぐ南方です。これをキッカケに江戸と浅草の間の往来が激しくなり、街道ぞいが市街地化したと考えられています。

 その後のことですが、浅草の街の性格を決定的にしたのは、吉原と歌舞伎の移転です。

 まず1657年(明暦3年)に日本橋葺屋町(現在の中央区)にあった遊廓・吉原が浅草北方の千束に移されました。しばらくして1842年(天保13年)に、その吉原の手前の浅草7丁目に「中村座」「市村座」「河原崎座」の江戸歌舞伎三座が移転してきました。

 現在皆さんがイメージしている、浅草=江戸の盛り場という状況が完璧に成立したのは、この頃と言って良いと思います。

 当事の奉公人は、泊りがけで奉公先を休むことを、めったに許されませんでしたから、日帰りで行ける楽しい所=浅草へ出かけるのが御約束でした。浅草が賑わったのは、浅草が江戸からすぐ近くで、しかし、いっとき江戸の奉公先のことを忘れられる、そういう土地柄だったからです。

 そして、それから350年。震災後の江戸っ子あらため東京人は、余震や原発が心配だからと泊りがけで奉公先を留守にすることを諦めたようです。だから日帰りで行ける、楽しい所=浅草へ出かけて見えたのでしょう。

 有り難い反面、今、この瞬間もお客様が少なくて辛い思いをされている方がおいでです。その方々が失業すれば、やがて日本経済全体が沈むこと、間違いありません。

 浅草人は、今の景況が自分の実力などと決して思ってはならず、もし儲けが出たのなら、懐に貯めてはいけません。

 5/3にこのブログで紹介した、二本松市の檜物屋酒造店さんからの、メッセージを再度掲載します。

「有り難うございます。皆様方の心からの応援に深く感謝申し上げます。東北福島の素晴らしい自然の恵みから育まれた、おいしいお酒を皆様にお届けします。私達は頑張ります。日本は一つ、東北は一つ、福島は一つ。絶対に負けません。」

 日本は一つ、と浅草からも申し上げたいと思います。

追伸①

 「青森・岩手・宮城・福島・茨城五県蔵元連合試飲会@浅草in三社祭が開催できない、その日に開催!」の、蔵元さんからの出品の申込締切日は5/2でしたが、一部から延長要請がありましたので、5/6までのばしました。よろしくお願いします。

追伸②

 仙台牛メニュー提供しています。普段より高い値段で、お買い求めいただき、利益を被災地の畜産関連団体に贈ります。弊社も利益の一部を供出いたします。

 その仙台牛ニューに、寄席文字の橘右之吉師匠(@unokichit)の「がんばろう日本」千社札シールを貼り付けたら、売れ行きが格段に上がっています。さすが伝統の文字。

 在庫が少なくなってきましたので、早めにご来店を。

 なお牛は、宮城県登米市・千葉正憲牧場産、黒毛和種牝牛、個体識別番号=03686-13232。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて431連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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