全国民の慶事
オリンピック!と唱えれば泣く子も黙る御時勢です。
しかし浅草の過去を知っている人にとっては微妙な感じがします。
1964年のオリンピックで痛い目に遭っているからです。
ここで最初に、戦前の浅草公園六区の写真を画像検索で探してみて下さい。その壮大さにびっくりさせられることと思います。
興業街には立派な建物がひしめくように並んでいます。そのほとんどが劇場・映画館・寄席・見せ物小屋といったエンタメ関係の建物です。
名前も「金龍館」「電気館」「帝国館」「富士館」とご大層。どの館も幟を沢山たてて賑々しい感じです。夜間も電灯を煌々と点けて営業し「不夜城」と形容されたそうです。
しかし、その栄光を一つの技術があっと言う間に過去のものにしました。テレビジョンの登場です。
1959年に皇太子明仁親王様(=今の天皇陛下)の御成婚が決まると、その中継を視ようと、一般人がテレビを争って買い求めるようになりました。この時点では白黒でしたが1960年にはカラーに。
そして1964年の東京オリンピック。
わざわざ浅草などへ出かけなくても、茶の間で世界一流の競技が視られるのですから、従来からの、出かけて行くタイプの興業街・興業界に与えた影響は甚大でした。
六区からは大きい資本が潮が退くように退いて行きました。特に私が子供の頃=70年代がひどかったように思います。六区の劇場は軒並み閉館していてまさに廃墟。
今だから言えますが、「ちんや」が在る「浅草中央町会」辺りの子供達は「なるべくあっちへは行かないように」と言われていました。
全国民の慶事のように見えて、実はそうでもないってコトがあるんです。本当の話しです。
それと同時に、私は今、この浅草の暗黒時代=テレビの全盛時代を生き抜いて来た先人に興味を持っています。
テレビの影響で、浅草から大きい資本が手を引いて行く中で、小資本が街を支えられるのか?
それをやった人がいたんですね。
そうした先人のやったことに今私はとても興味を持っています。
追伸
慶應義塾の機関誌『三田評論』の10月号に出演させていただきました。
『三田評論』には毎月「三人閑談」といって、三人の卒業生が対談するコーナーがあるのですが、今月のテーマが「和牛を食す」で、そこに入れていただいた次第です。
『三田評論』は基本的には定期購読者のみが読む本ですが、紀伊國屋書店の新宿本店で小売りしているそうですから、ご興味のある方はどうぞお求めください。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて2.042日連続更新を達成しました。