ベンチャースピリット
福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をしました。
震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりと聞き、一生懸命お話ししよう、と思つつ参りました。
で、その翌日ですが、郡山市のすき焼き屋さんに立ち寄ることにしました。
8月に開催予定の第12回「すきや連」に、郡山の「京香」の御主人が参加して下さるものですから、事前にご挨拶にうかがった次第です。
セミナーがあった会津若松から郡山に入り、地元の「笹の川酒造」さんとまず合流しました。「京香」の御主人のことは、「ちんや」と取引がある、「笹の川」さんが紹介して下さったのです。
で、向かいますと、御店は駅から5分ほどの、町の中心部に在りました。
ご創業は明治17年だとか。土壁の塀がまわり、かなり立派な店構えです。
ここで「!」と思いますのは、明治17年に創業なさっていることです。
だいたい、古いすき焼き専門店というのは、明治初期に既に都市化していた所(=東京・横浜・京都・大阪・神戸など)か、牛の産地(=松阪・米沢など)にしかないものです。
ところが郡山は違います。
江戸時代に宿場町ではあったものの、お城は無く、明治12年(1879年)に始まった、安積野原野開墾事業と安積疏水工事で発展が始まった町なのです。
この工事のために、全国から失業士族が集められて、ようやく人が集まり始めたのです。だから明治初期には、大した町ではなかったのです。
やがて明治16年に安積疏水が完成して灌漑開始、さらに今度は、その疎水の高低差を利用した沼上水力発電所が明治32年に発電開始、これで産業が発展します。一方明治20年に鉄道が開通したことで、郡山は発展の軌道にのります。
明治維新の時点で郡山より都会だった会津若松や福島を抜いて、郡山が福島県下第一の都市・東北圏全体でも第二位の都市にのし上がったのは、そういう経緯です。
会津と郡山で食文化が違うのも、こうした事情があるからです。
会津では「赤ベコ」を尊重していて伝統的に牛肉をあまり食べませんが、郡山では食べます。で、その「食べます」の先駆者が「京香」さんの御先祖なのです。
郡山で最初の肉屋さんがこの御店で、自前の食肉処理場まで持っていた時代もあったと言いますから、スゴいです。やがて、すき焼き部門が発展して今日至っています。
ここで明治17年に「京香」さんが創業なさった時のことを想像してみましょう。郡山の、その後の発展を確実に見通せていたでしょうか。まず、かなりの冒険だったと思います。
ここに明治のベンチャースピリットを観ることが出来ます。
震災の時は、食器がたくさん割れるなどの被害があったそうですが、去年の4月にはもう再開されたとか。
牛の放射線の全頭検査の体制も整って、復興を感じせてくれました。
なお「京香」さんのすき焼きの「タレ」(=われわれが割り下と言っているもの)は、調味料だけでなく複雑な出汁スープを合わせるのが特徴。
ザクのネギを他のザクとは別に盛って運んで来て、そのネギと肉を最初に焼くのが「ちんや」式と似ています。「ちんや」以外でこのやり方を見るのは、八王子の「坂福」さんに次いで2回目です。
地のもの中心のザクには白菜も入っていて、〆はうどんを鍋で煮るのが決まりだそうです。
御主人、「笹の川」さん、御馳走様でした!
追伸①
藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。
他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。
是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)
追伸②
「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。
この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。
その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。
現在の笑顔数は270人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
参加者の方には、特典も!
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて869日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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