老舗の生き抜き方

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。 

 その原稿が準備できましたので、弊ブログで先行公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPします。本日は、その第一回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

 皆さん、こんにちは。私がすき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦です。本日はお招きいただき、有り難うございます。今回福島県酒造組合の新城会長から清酒アカデミーで話しをして欲しい、というお話しがありました時、私「これは必ず行かねばならない!」と思いました。

 その理由は勿論、今晩東山温泉の芸者さんが接待してくれるから、であります。

 「・・・」

 あ、スミマセン、ここは笑っていただくところだったんですけどね、まあ、いいでしょう、早速始めますね、そういう次第で浅草から会津へやって参りました。

 本日は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、という御題でございますので、そういう方面の話しをさせていただきます。本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。御参考になれば嬉しいです。

 さて、この話しをお聞きいただくに当たって、以前の浅草がどれほど繁栄していたか、それから20世紀の前半に、どれだけ手ひどく被災したかを、まずお話ししておきます。それを知っていただかないと、本編の話しにリアリテイーが持てないと思いますので、まずはそこから始めますが、おつきあいいただきたいと存じます。

(予備知識①=江戸時代までの浅草)

 さて浅草という街は、太田道灌が日比谷の辺りに江戸城を築くかなり前から存在していました。浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。

 この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。ですので、なにしろ江戸の街が出来る遥か昔から、浅草が在ったのは確実で、つまりは街の成り立ちが違います。この段階では、まだ浅草は浅草寺の門前町という位の街でしたが、そういう街が江戸とは別にあった、ということを、まずはご記憶下さい。

 その浅草の南西に江戸城が出きまして、そこへ今度は徳川幕府がやってきます。話しが長くなるので、細かい話しは割愛しますが、この位置関係が、この後の浅草の歴史を決定づけてきます。

 まず江戸幕府は、浅草と江戸城の間つまり浅草の少し南に米蔵を建設します。武士の給料である米を蓄えるためですね。最初の江戸市街は、現在の千代田区と中央区を合わせた位の広さしかなく、その北の土地は空いていました。

 AKBの秋葉原なんて、文字通り原っぱだったわけです。はい、サシ子さんねえ、残念でしたけどねえ。え~何でしたっけ?

 そうそう、江戸と浅草の間に土地がありまして、なおかつそこは隅田川から荷卸しをしやすい場所でした。今の地名で「蔵前」と言っているところですね。ですので、そこへ蔵を建設したわけです。場所は、お分かりになりますか?都営地下鉄浅草線で、浅草から日本橋方面つまり南方向に乗りますと1個目の駅、それが蔵前です。

 さて、この時イキナリ浅草のすぐ南に大きな大きな経済力がやって来ました。この蔵の米を商う「札差」という商人たちは、大層な金持ちだったと歴史に出てきます。皆さん、歴史にくわしいとこういう時に自慢できますね。

 やがて幕府は浅草の北方の田圃の中に吉原を造営しました。公認の遊郭ですね。遊郭は風紀を乱すので、江戸市街から追放して、鬼門である北の方へ、ということです。北の皆さんには申し訳ないですけどね。

 そして続いてさらに、浅草と吉原の間に歌舞伎町を建設しました。歌舞伎町って言っても、キャバクラやお姐の店が在る街じゃないですからね、「暫」とか「助六」とか、そういうお芝居を演る街です。当時の歌舞伎は芸術ではありませんで、ショー・ビジネスでしたから風紀を乱しますね、それで江戸の中心からどけたわけです。 

 この場所に今行ってみますと、吉原は戦後に売春禁止になりましたので、ソープ街に変わっていまして、かつての文化度はありませんね。かつての吉原は、当時の工芸美術・服飾美術の粋を凝らしたものだったわけですから、現状はやはり残念としか申す他ありません。

 歌舞伎座のあった所はごく普通の街になっています。明治時代に銀座へ移転したからですが、まあ、そういうことは後の話しです。今は、この時点=1850年頃の浅草の状況を想像してみて下さい。

 さあ、どうなっていたでしょう。

①浅草の中心には浅草寺(=宗教)があり、その北に、

②猿若町(=歌舞伎エンターテインメント産業)があり、さらにその北に、

③吉原(=セックス産業)が並んでいました。そして、

④浅草の南には米蔵(=経済力)が集中していました。

 どうです、バチカンとラスベガスとウオール街が同居してるようなもんですね。これほどのラッキーさの中で、天下一の盛り場・浅草は成立したのだ、ということを、是非把握しておいていただきたいです。この状況に比べると、スカイツリーくらいは大したことがないということが、すぐわかります。

 さて明治時代です・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第一回でした>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて856日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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