浅草広小路

 『100年の味 店100選』なる御本が毎日新聞社から出るそうです。

 「ちんや」も、そこにお採り上げいただくことになり、取材のライターさんが見えました。

 そういう題の御本ですから、取材内容も昔の話しです。そこで明治末から大正の頃の、「ちんや」の写真をご覧にいれました。

 この写真は、元々モノクロで、その上に着色するという手法で加採した写真です。当時は、東京土産として売られていたようです。

 ご覧にいれて、ライターさんの目にとまったのは、その写真のタイトルです。

 「(帝都名所)浅草広小路雷門通り」

というのが、その写真のタイトルです。

 現在は、この、「ちんや」の前の広い通りは、「浅草雷門通り」と称していますから、ライターさんとしては、現在の通りとどこがどう違うのか、当然気になったご様子です。

 で、正解ですが・・・

 「浅草広小路」というのは、この通りの、江戸時代以来の古い名前で、その旧称と近代的な名前の「雷門通り」を合体させたのが、この写真のタイトルなのです。

 現在でも、「上野広小路」という古い名前が地下鉄の駅名として残っていますが、通りの名前は「中央通り」ですね。だから、この通りのことを「上野広小路中央通り」と呼べば、「浅草広小路雷門通り」と言うのと同じです。

 おそらく写真を撮った当時、新しい「浅草雷門通り」という名前がつけられたものの、古く慣れ親しんだ名前も捨てがたくて、合体させてしまったものと思われます。

 ちなみに「広小路」が、どの位古いかと申しますと、明暦(1657年)の大火の後に、幕府の防火政策の一環で出来たものです。

 この大火で、江戸の市街の大半は焼失し、10万人以上の死者を出したそうです。そこで幕府は広い通りを作り、火事が延焼するのを防ごうと考えました。それが「火除け地」としての「広小路」です。

 浅草、上野の他に両国にも作られ、この三箇所が「江戸三大広小路」と言われたそうで、その近辺は人の往来が増えて、盛り場となった次第です。結果的には、火事が町の発展に貢献しわけですから、皮肉なものです。

 私個人は、「浅草雷門通り」という名前は、なんとなく、普通っぽ過ぎて愛着がわいてきません。

 「浅草広小路」という言い方を復活させたら、粋で、なおかつ瞬時に歴史に思いをはせることができるように思います。

 「浅草広小路の ちんや」とか「浅草広小路の住吉史彦」とか名乗ろうかと思案しています。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて604日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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Filed under: 憧れの明治時代,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)