洋食思い出ストーリー
平成27年の5月、浅草の街がゴールデン・ウイークで賑やかな頃私の母の転倒事故が頻繁になりました。うちどころが悪い場合は出血する場合があり、病院の外科に何度も世話になる在り様でした。
母が転んだ理由はパーキンソン病でした。
パーキンソン病は、脳内のドーパミン不足を原因とする神経変性疾患の一つですが、治療が困難なことから日本では「特定疾患」つまり難病に指定されています。典型的な症状として、手や足のふるえ・動きの鈍化・筋肉のこわばり・体のバランスの偏りが見られます。
発病から十年ほどで亡くなることが多い病気だそうですが、この頃母もそのステージに入って来たのです。
病気ですから、病院に行かねばなりませんが、ある日診療の為に訪れた日本医大の前で転倒、頭から出血、出勤途上の看護婦さんに案内されて救急救命センターに転がり込みました。センターで怪我の処置だけでなく、ご丁寧にMRIまで撮っていただき実に在り難いことでした。
母と一緒に外食をとったのは、この、救急の日が最後です。
驚かれると思いますが、母は救急治療の後、この日の朝相談した通りに根岸の洋食店「香味屋」さんで昼食を食べたいと言い張ったのでした。
日本医大の在る根津から根岸は近くて、浅草へ帰るルート上に在ることは在るのですが、それにしても大した食への執着です。付き添っていた父はやむなく、その言葉に従ったようでした。
さて母が店にやって来て、待っていた私も嫁も、それからお店の人も驚きました。頭に包帯を巻いていたからです。しかし母は意に介さず、注文をし始めました。
今日は白ワインを飲みたいわ!
この頃には病いの進行とともに母の性格も変容していて、言い出したら極端に強情。ワインを止めることは誰も出来ず、父と私達夫婦はワインのご相伴に預かりました。
やはり病の進行で食事の量も細っていたことから、御店には申し訳ないことながら四人で四人前は頼めず、たしかビーフシチューとメンチカツ、ホタテのソテーを頼んだと思います。
食後に母はバニラアイスまで頼み満足げに店を後にしました。
この日から家族は臨戦体制を敷きました。母を片時も一人に出来なくなったからです。ふらつきながら料理や掃除、洗濯それから趣味の書道をやろうとする母を家族は交代で見守りました。
そんな暮らしがいつまで続くのだろうと思い始めた頃、「その日」は突然やって来ました。
全くもって突然でした。その前日には、頭の傷も少し癒えたことだし、そうだ、また洋食を食べに行こうと母を誘っていたところでした。
母も応じて、そうだね、この前は楽しかったね、また行きたいね!と言っていたのですが、その翌朝母は起き上がれませんでした。全く起き上がらない母を不審に思った父が119番、搬送された病院で極度の低血糖と診断されました。
低血糖に誘発されて心肺機能も低下、十二日間の入院生活の後最終的な死因は肺炎でした。
しかし肺炎という言葉がイメージさせるような激しい闘病はなく、だんだん全身が衰えてきて、上手く申せませんが、体がこの世からの卒業を希望しているように私には見えました。
母が逝ったのは平成二十七年七月九日、浅草寺で「ほおずき市」が開かれている日。七十六歳と一日でした。
「四十九日」は遺族が人の死を受け止める為の期間と申しますが、お陰様でその「四十九日」の支度もおおよそ出来ました。
今日たまたまこのブログが連続更新二千日目でありますので、この一文を公表して天国の母に捧げます。
南無観世音菩薩。