ザックリ浅草史②

<この話しは長いので、昨日から4/20まで四日間に分けてUPしています。>

 「ニッポン全国彪友会」のオプショナル・ツアー用の講話「ザックリ浅草史」は、江戸時代に入ってまいりました。

・・・さて、その江戸と浅草をくっ付けたものは、なんでしょう?

 それは、蔵です。

 蔵と申しましても酒蔵じゃあないですよ。いいですか、酔っ払いの皆さん、米蔵です、お米の蔵です。江戸時代、武士の給料は米で支払われていましたから、当然そのお米を保管しないといけないですね。で、そういう倉庫をたくさん建設したわけです。

 当時の輸送手段は舟ですから、隅田川ぞいに蔵を建設しました。場所は、浅草から地下鉄で1駅南の蔵前という所、つまりは江戸と浅草の間ですね。

 現在でも東京郊外に行くと、倉庫が立ち並んでいる地帯がありますが、似てますね。そういう次第で米の倉庫が、江戸の北側の郊外で、浅草のすぐ南の、蔵前に建設されました。

 もっとも蔵前に蔵が建設された、っていうのはおかしいですね。蔵が建設されたから、蔵前っていう地名になったんですよね。

 さて、ここに蔵が出来たことが、浅草の運命を大きく変えます。ごく普通の門前町が天下一の盛り場へと変貌を遂げる、そのスタート地点がこの頃です。

 変貌の主役は「札差」という商人です。武士たちのために、米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる「札差」という商人が出てきましよね、歴史の教科書に。習ったでしょう。覚えてませんか。勉強はしておくもんですよ。

 この取引からは莫大な儲けが出たらしくてですね、さらに儲けを金貸しに回して、さらに儲けたようです。それで、「札差」が大きな力を持つようになったそうです。

 浅草が発展した軍資金は、この札差マネーです。大富豪となった札差たちには当然豪遊する場が必要ですから、遊興できる店が出来るようになります。これが浅草のホップと言えます。

 そして、ステップとジャンプは、1657年と1841年でした。

 まず1657年すなわち明暦3年の出来事ですが、「明暦の大火」という大変な被害の出た火事の後、幕府は都市整備に着手します。そして、その一環で、現在の中央区にあった、公認の遊郭である吉原遊郭を浅草北方の千束に移転させます。

 遊郭は当然風紀を乱しますので、江戸の中心部からどけたいですね。それで江戸の外の、しかも方角の悪い北東へ追いやったわけです。

 方角が悪いって失礼な話しですけどね、だいだい江戸が浅草の南西に出来たから、北東に成っただけで、こっちのせいじゃあ、ないんですけどね。

 ともあれ、吉原が浅草の頭の上に移転して来ました。移転して来ましたので、「新吉原」と呼ばれたそうですが、ここがまさに天下の豪遊の場となります。

 今や、お金持ちが居て、お金を使う場がようやく出来ました。その間に浅草があって、観音様もあるわけですから、ここにお金が落ちないわけはありませんね。このステップは大きかったようです。

 そしてそしてジャンプは江戸時代も、もう後期に入った1841年(天保12年)です。これまた歴史の時間に習わされたと思いますが、「天保の改革」が実行されます。

 江戸市中に散在していた歌舞伎座が、風紀を乱す、ということで、これまた、北東に追いやります。場所は、浅草北部の浅草六丁目で、浅草寺と吉原の間です。

 勘三郎さんの御先祖の中村座、それから市村座、河原崎座といった小屋ですとか、操り人形の結城座なんていうのもできました。役者さんも集合して住まわせ、浅草猿若町と名づけました。

 これが浅草の発展のジャンプです。

 なにしろ、当時江戸市中でお金が集まる所と言えば、魚河岸と吉原と、猿若町だったそうです。魚河岸の場所は築地じゃないですよ、この頃はまだ日本橋にありました。

 そして残りの二つは浅草の、近所です。浅草が天下第一の盛り場になったのは、この頃と言えます。

<今日の所は、この辺で。この話しは長いので、4日に分けてUPしますね。>

  本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて780日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)