ザックリ浅草史

 4/20に「ニッポン全国彪友会―台東万博!」~200人の差異​性祭り

を開催します!そして、その翌日には「浅草観光をしたい」という遠来の皆さんのために、地元民が案内するツアーを御用意しました。その内の一つが、

 「浅草仲見世・すき焼き殿コース」です。

 内容は、と申しますと、

・・・浅草一受けたい授業「1時間で分からせる、浅草の昔と今」&すき焼き宴会。

 講師と御案内役は、かく申す住吉史彦です。 

10時―11時 「ちんや」店内にて、私の授業

11時―12時 腹ごなしの浅草散歩(雨天決行)

12時―14時 すき焼き宴会!

14時 散会

といった感じです。

 まあ、浅草にお詳しくない方のために、浅草の、おおよそのことを話すのであれば、別段ネタの仕込みは不要ですが、原稿位は用意しないといけません。

で、用意しました。浅草の歴史を、超ざっくり見渡したものです。

どうぞご覧下さい。長いので4日に分けてUPしますね。

<さて>

 ええ皆さん、このたびは「ニッポン全国彪友会」のオプショナル・ツアーにご参加いただきまして、ありがとうございます。早速話しを始めさせていただきます。 

 おや大丈夫ですか?夕べの酒が残ってませんか。私は残ってますけどね、思い切り。

 では大丈夫な方だけ聞いて下さい。

 今日は「ザックリ浅草史」という御題で話させていただきますが、そもそも、何で東京の盛り場の一つに過ぎない浅草のことをつべこべ語らないといけないんでしょうかね。自分で題を設定しておいてナンですけど。

 そのことを考える前に、ですね、成田空港は東京か?っていうことを、まず考えてみると分かりやすいです。成田空港は東京の首都機能の一部として建設されたわけですから東京ですね、当然。特に外人さんから見たら、完全に東京です。

 でも成田という街は新勝寺さんを核に東京とは別に元々あった街ですよね。浅草もそうなんです。江戸とは別に、太田道灌が日比谷に城を築く前から在った街なんです。

 成田は東京とは別に出来た街ですが、東京首都圏に吸収されました。浅草も江戸とは別に出来た街ですが、江戸に吸収されました。そこが似ているんです。

 では、ざっくりと話していきましょう。最初に御断りしますが、今日の話しはいたって、ザックリです。細かい年代とか数とかは言わないことが多いと思います。だって、ネットで調べられますからね、細かいことは。アウトラインだけを、お分かりいただくようにしますので、よろしくお願い申し上げます。

 さてイキナリ時代を遡りますが、浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。

 縁起の筋は、隅田川で漁をしていた人が、川から仏様を網ですくいあげて、それを安置する御堂を建てた、という例の有名な話しです。この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。

 ですので、浅草が道灌より古いことは間違い無いです。つまり江戸を築かれる遥か昔から、浅草は在ったわけで、街の成り立ちが違いますので、東京の盛り場の一つに過ぎない、とは言えないわけなんですね。

 浅草の方から見ると、江戸の方が後から出来てきた、ということになるわけです。

 もっとも、江戸とは別に成立していた浅草は、この当時は、まだ盛り場っていう感じではなかったと思います。隅田川の水運の拠点として、浅草寺の門前町として、まあ、それなりの賑やかさっていう位だったと思います。日本一の盛り場という感じにはまだゼンゼン成っていません。

 そこへ徳川家康がやって来ます。やって来て江戸時代になりましても、江戸初期の江戸の市街地は、現在の千代田区と中央区位の大きさでしたから。まだ江戸と浅草は別物でした。17世紀までは別だったと考えられています。

 その間の、アキバなんて所は湿地帯でした。あきばはらって言う位ですから。アキバの原っぱだったんですね、あの辺は。後に、ハとバが入れ替わって、あきはばらになりますけどね。

 その江戸と浅草をくっ付けたものは、なんでしょう?

<今日の所は、この辺で。この話しは長いので4日に分けてUPしますね。>

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて779日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)