浅草六区芸能伝~第八幕
月刊『浅草』に東洋興業会長・松倉久幸さんの「浅草六区芸能伝」が連載されていて、おもしろいです。
松倉さんは、2016年に刊行された拙著『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』の中で私が対談させていただいた、浅草の九人の旦那衆の一人ですが、その松倉さんの連載が、このところ『浅草』の巻頭に連載されているのです。
さて今月の「第八幕」では、ついに「コント55号」が結成されます。浅草六区の全盛時代と言っても良い時期に入って行きます。
「55号」の、欽ちゃんと二郎さんには共通点がありました。なかなか芽が出なかった点です。
欽ちゃんは「東洋劇場」三代目座長の東八郎さんに弟子入り、この東さんが、親切丁寧に指導したことで腕を上げて行きますが、元々歌手だった二郎さんにも恩師がいて、それは当時「フランス座」の座長だった安部昇二(「アベショウ」)でした。
二郎さんは後に「55号」でのボケが有名になりますが、そのボケはアベショウ譲りだったと言います。
芸能の世界にほんの一握りのスターが登場する背景には、陰ながら貢献した人の存在があったのでした。松倉さんは、そういう人達を今回の「芸能伝」で紹介しています。
欽ちゃんと二郎さんには、もう一つ共通点がありました。
最初テレビで上手く行かなかったことです。
テレビには秒単位のカット割りがありますが、浅草では激しい動きやアドリブが芸のメインですから、合わなかったのでしょう。
二人とも別々にテレビに出て→失敗、そこで、たまたま、コンビになります。
「東洋劇場」と「フランス座」とで芸人を交換してみよう!という試みで、欽ちゃんと二郎さんがコンビになったと言いますから、人生何が飛躍のキッカケになるか分からないものです。
テレビ進出が失敗した後二人は浅草で腕を上げ、やげて日劇出演を契機に中央へ進出、昭和40年代前半に浅草を去って、時代の寵児になります。
そして、この時期に浅草六区興行街は全盛期から大きな転換を始めます。そして、ついでに申しますと、私がリアルに知っているのは、この辺りからです。
六区にとって、浅草にとっても辛いことの多かった、次の時期は、第九幕以降で語られるのでしょう。
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8月14日(火曜、お盆)
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すき焼き「ちんや」六代目の住吉史彦でした。