新道のすき焼き②

新潟県新発田市の、すき焼き店「八木」さんの続篇です。

「八木」さんは、新発田初の肉屋として明治初期に創業なさったそうです。

今の女将さん(=キイさん)は「三代目」と名乗っておいでですが、それは、昭和30年代にすき焼き専業になってからの、すき焼き屋としての三代目でして、肉に携わり始めたのは、それよりかなり前のことです。

当時は屠殺場も自社で所有していて、関西方面から、生体の牛を仕入れ⇒処理して販売していたそうです。新発田における「肉のパイオニア」と申して間違いありません。

以前に郡山市の「京香」さんにうかがった時も、

最初は屠殺場も自社で所有していて、米沢から、生体の牛を仕入れていた。

⇒戦後すき焼き専業になった。

という、似たような話しをうかがいました。

「京香」さんも「八木」さんも、それぞれの街に肉を導入する、という使命を帯びて創業なさった方です。

小規模経営で屠場を営むのは問題点がありましたから、やがて大規模化・公営化されます。その流れの中でパイオニアの皆さんは、撤退なさったようですが、今もすき焼き屋として生き残っておられるのは素晴らしいことです。

そういう方の知遇を私が得ることが出来ましたことを、本当に嬉しく思います。

さて、その新発田を「昭和10年の新発田の大火」が襲います。西暦では1935年ですね。

今の「八木」さんの店舗は、その後建てられた木造建築です。

新発田は、陸軍が居たのに太平洋戦争の空襲の被害が小さく、今日でも、その建物ですき焼きをいただくことができます。

今の女将さんが、そこへ嫁いで来たのは1965年(昭和40年)。当時の新道花柳界は芸者衆が50人近くいて賑やかだったそうですが、以来かれこれ50年、女将さんは新道の盛衰の全てを眺めつつ、独自のすき焼きの方法を創って来られました。

さて、酒肴の豆とキンメダイをいただきましたら、即すき焼きです。

まず、女将さん、シラタキを大量に鍋に投入します。

私は当然、あちこちですき焼きを食べますが、「まずシラタキ投入」に軽い衝撃を覚えました。

すぐに、その上に、ネギとタマネギ、豆腐と椎茸が、投入され二層になります。

そして、三層目に、肉です。

肉は米沢牛のロースのみ。勢いよくドンドン載せます。

三層に成る位ですから、当然鍋は深いです。

そして、割り下をその上からかけます。

実に豪快。勢いが在ります。

同行して下さった、金升酒造さんの「柱焼酎仕込み」の燗酒を合わせて御機嫌です。

いや、満喫しました、「肉食新発田」を。

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様

*おかげ様にて満員になりました。ありがとうございます。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.215日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)