民謡酒場

三ノ輪の「鈴木酒販」さんが創業60年を迎え、記念誌を出されました。
「鈴木酒販」さんは1959年のご創業。台東区北西部を中心に多くの飲食店に酒を卸している会社さんです。弊店の取引先ではないのですが、記念誌を頂戴して拝読しておりますと、高度成長期の、この辺りの飲食業の歴史を知ることが出来て面白く読めました。
例えば、民謡酒場が何故このエリアに多いのか?
しかも何故東北地方の民謡酒場ばかりなのか?
それは、集団就職で「金の卵」と言われて東京にやって来た若者たちが憩える店だったからです。
当時の東京の北の玄関口は上野駅でした。東北地方から東京へ着く列車は東京駅へは乗り入れておらず、全て上野駅発着でした。そういう形で東京で働き始めた大勢の若者が、方言丸出しで飲める場所が民謡酒場だったのです。
そして鈴木酒販の創業者・鈴木藤吉自身も山形から出て来た人でした。
当時は数十軒の民謡酒場が大繁盛していたそうで、今も台東区千束にのこる、有名な「追分」さんなども、そうした一軒です。
中には吉原の遊郭を業態転換?した民謡酒場もあったとか。1957年に売春が禁止になったからです。吉原の遊郭には大きな物権もあり、それが転換して300畳敷の大会場のある民謡酒場になったそうな。
全盛期には、その300畳が人で満杯になり、酒場の店員だけでは下足取りが間に合わず、鈴木酒販の営業マンが下足番を手伝っていたと言います。
朝は早くから働き始め、夜はこうして飲食店の手伝いまで買って出たのに営業の人達は何も辛くなかったと言います。
高度成長ですねえ。東北の若者達の青春時代で、日本の青春時代でもあったのが、この頃です。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
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トンカツの旨さ

浅草で私が好きなトンカツ屋さんは、寿3丁目の「すぎ田」さんです。
「すぎ田」さんの最寄り駅は大江戸線の蔵前駅で、歩いて行くと10分くらいかかるのですが、30年前までは浅草通りにお店があり、それで今でも浅草料理飲食業組合に入っておられます。個人的にも存じ上げているので、たまに食べさせてもらっています。今月の初めにも、繁忙期に向けて景気を付けようと、ロースカツを目指して行くことにしました。
で、美味しくいただき、そのことを書こうとして、私は悩み始めました。上手い説明が思いつかないのです。
「すぎ田」さんについて雑誌などで語られていることと言えば、
・低温と高温の二つの油で「二度揚げ」すること。
・白木のカウンターが清々しいこと。
・店の清掃が徹底していて、営業は20時で終わるのに、掃除は22時過ぎまでやっていること。
などでしょうか。不思議なことに直接肉について、あまり語っていません。・・・と考えている内に、私も登場させていただいた本『浅草老舗旦那のランチ』(小学館、2012年)に「すぎ田」さんが採り上げられていたことを思い出し、どんな表現だったか、確認してみようと思いました。
本を引っ張り出して、見出しは、
「なんと言っても肉の旨さですね」
となっていたので、「おお!」と思い読み進めましたが、やはり、直接肉について、あまり語っていません。この本を参考にしても上手い説明が思いつきません。
そして、ついでに思ったことは、浅草の店の美味しさって、表現し辛いよなあ・・・ということでした。
浅草の美味しい店に行っても、食材のブランドを前面に掲げている店はあまりないです。掲げている店もありますが、最近の店ですね。
今時は豚のブランドもたくさんありますが、「すぎ田」さんは何も掲示していないです。壁に掲げられているのは「ヒレカツ」「ロースカツ」「エビフライ」といったメニュー名のみ。愛想なく感じる人もいるでしょう。しかし食べれば問答無用で旨い。
私自身も元々は「食べれば旨い」を良しとしていたのですが、2017年の「適サシ肉宣言」ですっかり「つべこべ派」の人間と思われるようになってしまいました。元々は「食べれば旨い派」でしたが、17年当時メデイアの人達が次々にやって来て、あれこれ質問するので、答えていたら情報量が増えてしまったのです。それまでは肉の仕入れ方を掲示したりしていませんでした。
「すぎ田」さんや、浅草の店の美味しさって、表現し辛いです。
いつかAIが普及すれば、美味しさを数値化してくれるかもしれませんけど。

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消費拡大キャンペーン

本日9日から全国料理業生活衛生同業組合の事業として、
「映像コンテンツを使ったSNSの活用による消費拡大キャンペーン」
が始まります。
その映像の中に、「ちんや」も全国のすき焼き店の代表で出ています。映像は公開されますので、良かったら見てやって下さい。
この事業は消費増税対策の事業です。軽減税率の導入で、総菜・弁当が8%なのに対し、料理屋は10%となり、競争上不利な状況になります。
そういう中で、これまで料理屋にあまり親しんでいない人達にPRするには「動画」「Facebook」「YouTube」だということで、動画を製作して、FacebookとYouTubeに上げます。
下記URLでもご覧になれますので、どうぞよろしく。
https://www.ifys.jp/zrr/

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三大タワーまつり

本日浅草の六区ブロードウェイとオレンジ通りで、
「東京三大タワーまつり」が開催されます。クイズに参加し、正解すると商品券がもらえるそうです。
「三大」とはスカイツリー、東京タワーの前に日本一のタワーだった「凌雲閣」のことです。1890年から1923年まで浅草六区に立っていました。
その遺構が、昨年浅草旧六区(現浅草2丁目14番)の商業ビル工事現場で発見されたことで、浅草では今「凌雲閣」再発見の機運が高まっていますが、ご存知ない方も多かろうと思いますので、念のため書きますと、
浅草「凌雲閣」の設計者はウィリアム・K・バルトン。東京における高層建築物の先駆けであり、東京観光でまず行くべき場所として有名でした。地元では「十二階」と呼ばれましたが、関東大震災で倒壊しました。
その様子は多数の絵や写真に収められており、「ちんや」が所蔵する楊斎周延の「浅草公園遊覧之図」にも描かれています。
「東京三大タワーまつり」どうぞ、ご参加を。

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閣下の視察会

東京商工会議所さんが主催して駐日大使館向け視察会が開催され、途中の昼食を「ちんや」で摂っていただきました。
これは、2020大会を控え、駐日大使館関係者に東京の魅力を知ってもらう視察ツアーですが、商議所の主催ですから観光旅行にするわけには行かず、ウチ以外の訪問先は素晴らしい会社さんばかりです。
そんな中、ウチではすき焼きを召し上がっていただき、さらに私がスピーチもせよというご要望でした。どの位の知識をお持ちか分からない方を相手に話しをするのは簡単ではないですが、気合でお引き受けしました。
ツアーのご一行が見えまして、当初の話しでは15~20名様と伺っていましたが、最終的には30人以上に増えました。大使閣下ご本人も、何人か見えていると聞き、光栄なことでした。
さて皆さん、ここで雑学タイムですが、大使様には「大使閣下」と呼びかけないといけません。英語では、
Your/His Excellency
ですね。
呼び方の分野では未だ戦前が生きているようです。戦前は、省庁の次官や府県知事などの官僚や将軍を「閣下」と呼びました。大使も立派な高等官僚でしたから「閣下」ですね。それを相手国の大使にも適用しているわけです。
と、いうわけで閣下が大勢見えました。
すき焼きって、そもそも高等な方に向いた料理ではありませんが、喜んでいただけたようです。良かったです。

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川柳の掲示板

地下一階の廊下に「すき焼き川柳コンクール2019」の優秀句を掲示する場所を作りました。
すき焼き「ちんや」の入口の左に、肉の食べくらべレストラン「ちんや亭」へ降りて行く入口があります。中へ入ってすぐ地下へ降りる階段がありますから、それを降りていただいてすぐの所に句を掲示しました。どうぞ、ご覧くださいませ。
「ちんや亭」は昨年8月に「肉の食べくらべレストラン」になり、全メニューに「ちょい食べサイズ」ができました。その際に以前使っていた料理の蝋細工が要らなくなり、蝋細工を入れていたショー・ケースが要らなくなってしまったので、それを使って川柳を掲示することにしたわけです。
そういう次第なので、川柳と「肉の食べくらべ」とは、ハッキリ申して、あんまり関係がないのですけど、まあ、細かいことは気になさらないで、どうぞ、ご覧くださいませ。

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水たき日本一

新宿の「玄海」さんをお訪ねしました。国際観光日本レストラン協会のの、今年の納会でした。
「水たき日本一」で有名な鶏の水たきのお店です。いつもながら絶品でした。
「玄海」さんは九州出身の初代が昭和3年に創業、最初は九州の郷土料理という感覚でしたが、二代目の時に「伊達鶏」へと変更。全国の鶏を調べ、試食し、「伊達鶏」がもっとも玄海に合うという確信を持って採用したそうです。
現在では日本の鶏料理を代表する存在と言って良いと思います。水たきばかりでなく、胸肉の低温調理などにも取り組んでいて、そちらも素材の味わいを堪能できるものでした。
ご馳走様でした。

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懇切なるメッセージをありがとうございました。

昨日は私の誕生日に際し、大勢の方から懇切なるメッセージを頂戴しました。
誠にありがとうございました。恐縮でした。
皆様のお役にたてますよう、精進してまいりますので、引き続きご指導下さいませ。

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悔しくてたまりません!

マラソンが札幌に行っちゃって、浅草の人は、さぞ残念でしょうねえ!
と、いまだにお客様から言われます。
たしかに移転決定直後はテレビ局の人が浅草をウロウロして、そういうインタビューを集めていましたから、その放送を視た人は多いかもしれません。それが未だ続いています。
別に・・・の女優さんは先日逮捕されましたが(笑)、マラソンのインタビューで、別に・・・と答えると浅草愛が薄いような感じを与えかねませんから、
もの凄く残念です!悔しくて悔しくてたまりません!
と言った人が、まあ、いたかもしれません。
それにしても、マラソンコース沿道の商店街はいくらでもあるのに、テレビの人は何故浅草ばかり撮っていたのでしょう。そこが不思議なところです。
きっとテレビ局サイドは、
浅草の人なら、別に・・・と言わずに、悔しくてたまりません!と言ってくれるに違いないと想像したのでしょう。
そしてインタビューを受ける側も、その期待を忖度してしまう。
そう、忖度って、元々は悪い言葉ではないですよね。
「マラソン残念ですよね」問答も、「桜を見る会」問題も、そろそろ終わって欲しいもんです。

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活弁

雑誌・月刊『浅草』に東洋興業会長・松倉久幸さんの「浅草六区芸能伝」が連載されていて、おもしろいです。
松倉さんは、2016年に刊行された拙著『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』の中で私が対談させていただいた、浅草の九人の旦那衆の一人ですが、その松倉さんの連載が、このところ『浅草』の巻頭に連載されているのです。
さて、その松倉さんの今月号は「活弁」のことでした。
先日松倉さんが経営する「東洋館」で上演された浅草オペラに「活弁士」が付いていたからです。今回の浅草オペラ上演では、その方面で有名な曲が次々に歌われる形式でしたが、その司会進行を「活弁士」が担当しました。見事な進行だったと思います。
と、書きましても「活弁」だけでは通じないかもしれません。
活弁=活動弁士(かつどうべんし)とは無声映画(サイレント映画)の時代に、上映中に傍らでその内容をナレーションしていた演者のことです。単なる解説ではなく、映画俳優の声色や情景の描写なども行い、弁士の創意・伝え方によって、映画の感じがだいぶ変わることもあったそうです。人気弁士が現れるようにもなりました。
活弁士が必要とされたのは、映画が無声だった、ごく短期間だけです。トーキー(音付き)映画の登場で、活弁士は無用の存在になったのですが、それでも日本芸能界で活弁の存在は重要です。
トーキー化によって、多くの弁士が廃業に追いこまれ、その多くが漫談や講談師、紙芝居、司会者、ラジオ朗読者などに転身して芸能界で活動を続けたからです。弁士には話術が高く要求されたため、その優れた話術が活かせたのです。
「活弁のスピリットが後生の芸人たちの中に脈々と受け継がれている」と松倉さんは言います。
そして貴重なことに、今回の浅草オペラに登場した弁士のように、現代でも少数ながら活動している弁士がいるのです。麻生八咫・麻生子八咫の父子は、その代表的な人です。
こうして活動が続いていることに、私は日本の芸能の中における、「語り物」の根強さを感じます。
弁士は、日本で映画が初めて公開された1896年(明治29年)から存在したそうです。音の無い映画だけでは場が保てない、興行として成り立たせるためには説明者が必要だと思われたのです。
そういうことをしたのは日本人だけです。当時の日本人には人形浄瑠璃が馴染みのあるものでしたから、映画も、浄瑠璃の義太夫のように、人が語った方が良いと思ったのだと思います。
そして、その感覚は、映画というものが様変わりした後でも生き続け、今回は浅草オペラに登場しました。面白い話しです。

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