活弁
雑誌・月刊『浅草』に東洋興業会長・松倉久幸さんの「浅草六区芸能伝」が連載されていて、おもしろいです。
松倉さんは、2016年に刊行された拙著『浅草はなぜ日本一の繁華街なのか』の中で私が対談させていただいた、浅草の九人の旦那衆の一人ですが、その松倉さんの連載が、このところ『浅草』の巻頭に連載されているのです。
さて、その松倉さんの今月号は「活弁」のことでした。
先日松倉さんが経営する「東洋館」で上演された浅草オペラに「活弁士」が付いていたからです。今回の浅草オペラ上演では、その方面で有名な曲が次々に歌われる形式でしたが、その司会進行を「活弁士」が担当しました。見事な進行だったと思います。
と、書きましても「活弁」だけでは通じないかもしれません。
活弁=活動弁士(かつどうべんし)とは無声映画(サイレント映画)の時代に、上映中に傍らでその内容をナレーションしていた演者のことです。単なる解説ではなく、映画俳優の声色や情景の描写なども行い、弁士の創意・伝え方によって、映画の感じがだいぶ変わることもあったそうです。人気弁士が現れるようにもなりました。
活弁士が必要とされたのは、映画が無声だった、ごく短期間だけです。トーキー(音付き)映画の登場で、活弁士は無用の存在になったのですが、それでも日本芸能界で活弁の存在は重要です。
トーキー化によって、多くの弁士が廃業に追いこまれ、その多くが漫談や講談師、紙芝居、司会者、ラジオ朗読者などに転身して芸能界で活動を続けたからです。弁士には話術が高く要求されたため、その優れた話術が活かせたのです。
「活弁のスピリットが後生の芸人たちの中に脈々と受け継がれている」と松倉さんは言います。
そして貴重なことに、今回の浅草オペラに登場した弁士のように、現代でも少数ながら活動している弁士がいるのです。麻生八咫・麻生子八咫の父子は、その代表的な人です。
こうして活動が続いていることに、私は日本の芸能の中における、「語り物」の根強さを感じます。
弁士は、日本で映画が初めて公開された1896年(明治29年)から存在したそうです。音の無い映画だけでは場が保てない、興行として成り立たせるためには説明者が必要だと思われたのです。
そういうことをしたのは日本人だけです。当時の日本人には人形浄瑠璃が馴染みのあるものでしたから、映画も、浄瑠璃の義太夫のように、人が語った方が良いと思ったのだと思います。
そして、その感覚は、映画というものが様変わりした後でも生き続け、今回は浅草オペラに登場しました。面白い話しです。
本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は3.565本目の投稿でした。