ありがとう・また逢う日まで

上野公園に在る「旧東京音楽学校奏楽堂」は、耐震補強工事に入るため、3/28-3/31の「ありがとう・また逢う日までコンサート」を最後に、当分の間休館します。

「奏楽堂」は、昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存されたのですが、その時の用談に弊店がしばしば使われました。その経緯については、弊ブログの2012年1月5日号・6日号をお読み願いたいのですが、その経緯がありますもので、弊店は長年協賛広告を出して来ました。

それで、今回のコンサートにも招待していただけることになり、館長さんが見えました。

聞けば「奏楽堂」は、2011.3.11の時は、細いクラックが壁に入った程度だったそうですから、外壁の剥離があった「ちんや」よりマシなのですが、重要文化財ですので、補強が必要と判断されたそうです。

工法は未だ決定してないそうですが、解体再建となると工事に3年とか、かかってしまう模様です。

お名残り惜しいことです。

今後も「日本歌曲コンクール」「木曜コンサート」は、合羽橋の「ミレニアム・ホール」で続けて行くそうですが、建物の趣がまったく違いますので、オールドファンにご満足いただけるか、心配されるところです。

ともあれ、日本最古の洋式コンサート・ホールである、この楽堂で音楽を聴けるのは、今月いっぱいです。

皆様も是非お出かけ下さい。

追伸①

BSジャパンの、『空から日本を見てみようplus』に出演させていただくことになりました。
雲に乗った気分で見てまわる「新感覚空撮地理バラエティー!番組」です。
今回は「空から見る東京の下町」というテーマで、下町のおこり・変遷・現在を歴史的・地理的観点から紹介する、という内容です。
本日3月12日(火曜)20:00~オン・エア予定。
是非ご覧ください。
http://www.bs-j.co.jp/sorakara/

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は336人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.104日連続更新を達成しました。あと7日で1.111日連続更新です。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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ハリス領事の御寺

父が避寒のため下田の温泉に行き、玉泉寺にも寄って来たようです。

玉泉寺には、食用に屠殺された牛を供養するための「牛王如来」があり、それを建立した発起人の一人が私の先祖・住吉忠次郎なのです。

皆さんは、御寺の境内で牛の屠殺とは意外に思われるでしょう。

実は、この御寺に日本最初のアメリカ総領事館が置かれて、ハリス領事が来日、それで食肉が必要になりました。

そういう事情で、ここが最初の屠牛地であることから、供養塔を建立したわけです。昭和6年4月8日のことです。

ハリス領事は当然、江戸に入ることを望みましたが、幕府は拒否。それでこの御寺を舞台に、日米修好通商条約の締結交渉が行われたそうです。

ハリスが、ここに滞在すること2年10カ月。

やがて井伊直弼が大老に成ると、通商条約締結に踏み切り、江戸に公使館が開かれたので、ハリスは玉泉寺の領事館を閉館して、初代の公使館である元麻布の善福寺に移りました。

個人的には、その善福寺が福澤諭吉先生の墓所でもあるので、初代の領事館と初代の公使館の両方に縁があって、不思議な感じがします。

私自身は、玉泉寺はまだ未訪問ですので、お訪ねしないといけないと思っています。

追伸①

藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は336人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.067日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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とんび

すき焼き=明治イメージと当然私は思っているのですが、

すき焼き=昭和イメージと思っている人も多いようです。

それで昭和が時代設定のドラマに、よくすき焼きが出てきます。

今TBSで連続放送しているドラマ『とんび』にも出て来たようです。

「・・・ようです。」と書きましたので、すき焼きが出て来たという回を、私は見逃したからです。

「究極の家族愛の物語」という宣伝文句がどうも大げさ過ぎだよ!と思ったのと、

「愛とゲンコツで息子を育て上げる」のゲンコツが体罰を連想して、タイミング悪いなあと思ったのが見なかった理由ですが、すき焼きが出て来たとなると考え直さないといけません。

なんでも、この小説は角川文庫の「みんなが選んだ角川文庫 感動する第1位」に選ばれているそうです。

主人公の父親は、妻を失って、不器用ながらも男手ひとつで息子を育てるのですが、その親子の絆を描いた物語なのだとか。

TBSのサイトで、そのすき焼きの場面の画像を見ると、参加しているのは主役家族だけでなく、幼なじみのお坊さんとその父の住職、さらに行きつけの居酒屋の女将までと大勢。近隣まで巻き込んでとても家族的な様子で、それを表現する手段として、すき焼きを使っているわけです。

あくまでイメージですが、昭和のすき焼きは、明治のすき焼きより家族イメージが濃厚なような気がします。

明治のすき焼きは、本郷のすき焼き店「江知勝」さんが帝国大学御用達であったことから分かり通り、家族以外の仲間と食べるイメージがあります。

しかし、昭和となると家族イメージが濃厚です。

最近日本が自信を失い、昭和を懐かしむ風潮の中で、昭和=家族=すき焼きという場面を見かけることが多いような気がします。

すき焼きがドラマに出るのは有り難いですが、理由まで考えて行くと複雑な気分です。

頑張ろう、日本。

追伸①

藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は336人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.066日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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住吉史彦の十大ニュース2012

お待たせしました!

今年も「住吉史彦の十大ニュース」の時間がやってまいりました。

え? 誰も待っていないって?

そういう声は無視して、どんどん行きましょう。

今日はポイントだけを書きますので、詳しい内容を知りたい方は、アンダーラインのある所をクリックして下さいね。さて、

 

2月 第11回「すきや連」を松阪市「和田金」さんにて開催しました。

かの有名な和田金牧場を見学させていただきました。流石の御仕事ぶりに一同感心しきりでした。

3月「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を、2012.3.11よりスタートさせました。

この計画では東北の牛を食べていただき、食後のお客様の笑顔画像を特設サイトにUPして行きます。画像が千人に達するまで続行します!

笑顔画像はこちらでご覧になれます。

4月「ニッポン全国彪友会―台東万博!」を開催しました。

二条彪先生に師事する経営者の皆さんに、全国から浅草へお集まりいただきました。かつてなく熱い会になったと思います。

6月 月刊『料理通信』に服部幸應先生が連載なさっている「世界に伝えたい日本の老舗」というコーナーに載せていただきました。

ご評価いただき大変有り難いことでした。

7月 福島県酒造組合さん・福島県清酒アカデミーさんのお招きにより講演をさせていただきました。演題は「老舗の生き抜き方」。

講演後には蔵主の皆さんと会津若松市東山温泉で楽しく懇親させていただきました。役得でした。

7月「すきや連」番外編「カレーすき焼きの会」を「茅ヶ崎館」さんにて開催しました。

カレー粉とすき焼きが、あんなに合うとは新鮮な発見でした。

8月 第12回すきや連を米沢市「登起波牛肉店」さんで開催しました。

契約牧場を見学させていただき、牛さんを大事にする姿勢に感動しました。

9月 「老舗ボッサ」を開催しました。

すき焼きとボッサノーバ!御機嫌でした。

11月 BSテレビ朝日の番組『幸福の一皿~美味しさの物語』に出演させていただきまいた。

まるごと1時間すき焼きだけを採り上げて下さいました。ご出演の二代目中村吉右衛門さんの語りも流石の上手さで、実に有り難いことでした。

11月 第13回すきや連を「人形町今半」さんで開催しました。

長期熟成肉のすき焼きをいただきました。すき焼きにチャレンジなさる姿勢に感心しきりでした。

 

そして、もう一つ番外ニュースですが、ご存知の通り、

11月 弊ブログが連続更新1.000日を達成しました。

この1.000日間には、あまりに多くのことがあり、決して一生忘れることのないだろう日々だと思います。

 

いよいよ2012年の弊ブログも本日が千秋楽となりました。万感胸に迫り、大したことは書けません。

まずは御礼だけを申し上げます。

読者の皆様、ご愛読いただき誠にありがとうございました。

2013年もご愛顧を賜りたく、心よりお願い申し上げます。

東西、東〜西〜

神社の格付け

年末・年始は江戸のこと、昔のことを想いたくなる季節ですね。そこで「ちんや」では、江戸・東京の御酒「豊島屋本店」さんの『金婚』をお勧めしています。

さて、その「豊島屋本店」さんは江戸・東京最古の企業の一つと言って良いと思います。

ご創業は、なんと太閤秀吉の晩年・慶長年間と言いますから気が遠くなります。当代の社長さんは十六代目だそうです。

創業当時、江戸の街はまだ建設途中、関東にはレべルの高い酒造技術が無かったため、関西から酒を買い入れて販売していたそうです。

明治時代になってから、自前の酒蔵を東村山市に建設して⇒酒造業に進出したそうで、現在は酒造りをされていますが、酒造技術が関東に普及する前から酒を売っている、という話しは、この会社以外にあまり聞きません。

「豊島屋本店」さんの、もう一つスゴい所は、

明治神宮、山王日枝神社、神田明神という、東京の主要三大神社に御神酒を納めている、という所です。

え? 東京の三大神社って言ったら、浅草・鳥越・富岡じゃないの?と思った方は、たぶん祭り好きの方なんでしょう、でも、残念ながら、祭りの盛り上がりと神社の社格は一致しません。

戦前のことを調べてみますると、東京には「官幣大社」が二社ありました。明治神宮と山王日枝神社です。

この内、明治神宮は勿論明治天皇の没後にお祀りした御宮ですから明治時代には存在していませんでした。

山王日枝神社は古い神社ですが、関係者の請願が実って「官幣大社」に昇格したのは大正時代のことです。元々は江戸城内に在った神社でしたので、皇居を鎮守するという意味合いを込めて「官幣大社」に上げてもらった、というのが実態のようです。

このように当時の東京に格の高い神社が少ない中で、旧官幣大社二社中二社に『金婚』の御神酒が入っている、というのはスゴいことです。

この他に全く別格の存在として靖国神社が在りましたが、話しがややこしくなるので、今日はパスしておきましょう。

一方、神田明神は「東京府社」でした。江戸の「総鎮守」なのに「府社」でした。

だいたい当時の神社業界は実に西高東低でして、徳川家の信仰が篤い神社でも、皇室にあまり御縁がなければ、格下と成ります。神田明神と言えば平将門伝説で有名ですが、それもプラス要因ではなかったのでしょうね。

芝神明、根津権現、亀戸天神、富岡八幡宮といった大どころも「府社」の一軒でしかなく、浅草はと申しますと、そのさらに格下の「郷社」でした。

浅草神社は、何しろ祭神が浅草寺の観音様を拾い上げた人ですから、明治維新まで浅草寺と完全に一体のもので、神仏分離が行われていませんでした。その辺も格付けに当たってはマイナス要因だったのでしょうね。

そういう次第で、色々申しましたが、「豊島屋」さんの御縁で、皆さんも神社の格付けに詳しく成りましたね。

有り難や。

追伸①

ワイン専門誌『wi-not?』vol.3の「浅草老舗七人衆 「冬泡」を啜る」というコーナーに私が出演しています。
是非ご購読下さい!

この本について詳しくはこちらです。

ご購入はこちらです。

追伸②

藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸③

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は327人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.020日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

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風俗画報

昨日弊ブログは目出度く1.000日連続更新を達成しました。

皆様から多数のメッセージを戴きまして誠に恐縮でした。ところが昨日は3連休中で、BSテレビ「幸福の一皿」の放映直後でもあって店が忙しく、また昨夜・今夜と二夜開催する「住吉史彦の会!」の準備作業がありました関係で、今だ個別にレスポンス出来ておりません。何とぞご諒承願います。さて、

ユニークな時代小説が有名な河治和香先生が、浅草を舞台にした小説を御執筆中だとかで、浅草へおいでになって、色々と調べておられます。

先日もお目にかかりますと、

住吉さん、面白いのを見つけたわよ!

と1枚のコピーを渡されました。

それは明治30年の「風俗画報」のコピーでした。

「風俗画報」と申しますのは明治・大正時代の風俗雑誌です。1889年に創刊、1916年まで続き、通巻478号というから、かなり長生きした雑誌です。

当時の風俗を伝える最大のメデイアと言っても良いでしょう。今日でも「〇×画報」という名前の雑誌がありますが、その名づけ方の元祖です。

その「風俗画報」の「東京名所図会」「浅草公園特集」に「ちんや」が出ている、というのです。

拝見しますと、たしかに出ています。花屋敷、凌雲閣、日本パノラマ館、常盤座、猛獣会、女相撲、猿芝居などと並んで「ちんや」も出ています。曰く・・・

「ちんやは広小路馬車鉄道踏切角。」

(広小路というのは弊店の前の通りのことです。今は雷門通りと言っています。そこに馬が車両を曳く鉄道が走っていましたが、その踏切の近く、という意味です)

「白壁塗り煉瓦造り二階家の割烹店なり。」

(この当時の様子は「ちんや」のホームページでご覧にいれています。)

「住吉安営業」

(やすさんというのは、私の祖先のことですが、この店を切り盛りして繁盛させた女傑だったと伝えられています)

「浅草公園内に平民的飲食店その数きわめて多しと言えども、おそらくはちんやの右に出づるものなし。」

(「公園」と申しましても、現在の日比谷公園のような公園ではありません。明治初期には、浅草にそういう公園を造るつもりだったらしいのですが、次第に遊興施設が立ち並び、盛り場になってしまいました。ですので「浅草公園」と言いますと浅草の盛り場一帯という意味です。その中で「右に出づるものなし」と言いますから、絶賛ですね。)

「天麩羅をその最たるものとなし・・・」

(「ちんや」が牛鍋専業になったのは明治36年で、それ以前は他の料理もやっていましたが、天麩羅が「最たるもの」とは。36年以前も牛鍋がメインのはずなんですけど・・・)

「注文に応ずべき品数ほとんど30数種。」

「調理の速にして価の廉なる、稀に見る処なるべし。」

そう、今とは大分雰囲気が違い、巨大な食堂といった感じです。

盛り場としてピークを迎えていた浅草には、こういう感じの店が必要だったのでしょう。

和香先生、面白いものを有り難うございました。

追伸①

ケーブルTV局J:COMの、「村野武範の馳走百景」に出演させていただきます。

是非ご覧ください。放送日は以下の通りです。

11/27(火)夜10時~

11/28(水)深夜0時30分~

この番組と視聴方法について詳しくはこちらです。

追伸②

ワイン専門誌『wi-not?』vol.3の「浅草老舗七人衆 「冬泡」を啜る」というコーナーに私が出演しています。
是非ご購読下さい!

この本について詳しくはこちらです。

ご購入はこちらです。

追伸③

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は312人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.001日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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誓文

ブログ更新に熱中している内に、今年も残りわずかになってしまいました。あと30数日ほどで平成25年です。

平成も、もう四半世紀なのだなあ、と思うと同時に、来年自分は年男だ、ということにも気づかされます。

干支が四回転し、もう人生の後半戦に入るのです。

そういえば今までの年男の時は、私は何をしていたのでしょう。いつから現在の私が出来て来たのか、突然ですが思い出してみたくなりました。

三回転前の12歳の頃、私は受験勉強の最中でした。慶応中等部に入るため、勉強以外のことは何もしない年でした。

受験勉強で習ったことの大半は、その後忘れてしまいましたが、覚えていることもあります。

覚えているどころか、人生の方向性を決めたこともありました。

それは「五箇条の御誓文」です。

「御誓文」とは明治元年に明治天皇が新政を始めるに当り、公家や諸大名に示した、施政の基本方針のことです。

新帝が百官を従えて天地の神々に誓う、という形式をとったため、「御誓文」と呼ばれています。

以下五箇条の順番を無視して、私の気にいっている順に、現代語表記に変えて引用します。曰く・・・

・旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。

この一条だけは木戸孝允が自ら発案して挿入したと言われています。維新後は政治の主導権を摂り切れなかった木戸ですが、最後まで理想家肌の人だったと伝えられています。

木戸の理想と覇気は、今日まで私を含めた多くの人々を魅了します。

ドナルド・キーン先生のように、この一条は何を言いたいのか曖昧だ、という方もおいでですが、私は好きです。カッコ良いと思います。

・官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

庶民にも志を遂げさせ、人心を健全に保つべき~この条文は、由利公正が起草した原案では第一条に置かれ、最も重視されていたそうです。この考えが「治国の要道」とみなされていたからです。

侍と庶民が同人種とは思えぬほどに違った生き方をしていたこの時代に、ここまで庶民を重視した態度には驚かされます。

まさに、この考え方こそ帝王の心得であり、そして経営の心得でもあると、今は思っています。

・上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

も同趣旨ですね。下層階級の人々も国家の「経綸」に参加すべし、というのは革命的です。

この文言を読めば、明治維新は単なる徳川家から天皇家への権力移動ではないと分かります。

・智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

・広く会議を興し、万機公論に決すべし。

私という子供はこうした条文を読むことで、進歩的な考えと伝統的な政治制度が同居しうる日本という国の貴重さを知りました。

私は今日まで割合と調べものが好きですが、そうなったのは、調べていけばこういう素敵な文章に出遭えるのだ、そう分かったからだと思います。

ところで、この「御誓文」は、福澤諭吉先生の代表作『西洋事情』と類似点が多いと指摘されています。たしかに私が読んでも近い感じがしますね。

多分近い感じだから、その後十年間慶應義塾に学籍を置いて、私は違和感が全くありませんでした。

そして、そう言えば自分の家は明治時代に起源がある商売をしている・・・

さて、これから私の人生も後半戦ですが、

「天地の公道に基づくすき焼き店!!!」

~は流石に大げさですかね、やっぱり。

ますます御高配を賜りたく、心よりお願い申し上げます。

 

これにて弊ブログは1.000日連続更新を達成。

1.000日間に渡ってお読みいただき、本当に有り難うございました。

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:00 AM

郷土料理伝承学校

「郷土料理伝承学校」が開講しました。

主催は農水省の外郭団体ですが、その「校長」は「すきや連」でお世話になっている向笠千恵子先生、出講する講師陣の中にも各地の「すきや連」メンバーが入っているので、私も聴講することにしました。

農水省が「農山漁村の郷土料理百選」を平成20年に選定した時、

向笠先生が選定委員の一人として選考にあたられましたが、その時識者の委員会の他に一般からの人気投票も行われました。

配布された資料によりますと、集まった7万通以上の投票では、山形県の芋煮と鹿児島県の鶏飯が圧倒的な票数を集めていました。

山形出身・鹿児島出身の方々がそれほど大勢いるはずはありませんから、他県人が投票しています。郷土料理が地域を結びつけるだけでなく、既に日本全体を結びつける食にもなっていることが分かります。

実際、観光の目玉になっていることも多いですね。

だんだん郷土料理に光が当たって来たのは、そういう事情と思います。「△▽グランプリ」のように、いささか逸脱気味の「郷土料理」もありますが、全般的には良い傾向と申せましょう。

さて、その初回の講義は向笠校長ご本人の講義。各地のユニークな郷土料理の紹介があり、試食品も配られました。

その中で私が面白いなあ、と思ったのは北九州小倉の「糠(ぬか)炊き」です。鰯や鯖などの青魚を煮つける時に、糠も入れるのです。

糠味噌由来のアミノ酸や有機酸が旨味をもたらすだけでなく、乳酸がpHを低下させるので青魚独特の臭みが抑えられるます。今回初めて試食しましたが旨いものです。

そもそも糠味噌料理は、小倉藩主・小笠原家の、戦場での保存食だったようですが、やがてそれが小倉の旧家や庶民の間にも広まったようです。

そして、さらにそれが青魚と結びついたのは、なんと日本の近代化と関係があるそうです。

明治以降九州で八幡製鉄所や筑豊炭鉱が操業を始めましたので、多くの肉体労働者が必要になり、当然その労働者の胃袋を満たす料理が必要になりました。

安い青魚をおいしく食べることができ、しかも甘辛くて沢山の白飯を食べたくなる、「糠炊き」が重宝された理由は、そこです。食の近代化遺産と言っても良いと思います。

「糠炊き」は、製鉄業や鉱業の衰退にともない、いったん衰えますが、それが再度、向笠先生のような識者に再発見されて、注目されるようになったようです。

私は久しく小倉に行っていないので存じませんでしたが、高級糠炊き料理店があったり、通販サイトさえあるようです。

日本には、こういう歴史を感じさせて、かつ健康的な食品がまだまだあるのだなあ、と感心しますね。今後の講義が楽しみです。

ところで、この講義に向かう時、私はタクシーに財布を忘れました。

講義の前に次回「すきや連」の打ち合わせがあったのですが、時間が延びて、講義に遅刻しそうになり、大慌てで車を降りたので、その時にうっかりしたようでした。

で、その財布は、私が講義を聞いている間に戻って来ました。

タクシーが引き返して来て、しかも運転手さんは、私が

3時からの講義なので、少し急いでます!

と言ったのを覚えていて⇒講演会場の守衛さんに相談して⇒「3時からの講義」の参加者リストの中から、落とし主(=私)の名前を発見したのです。

落とし主は、全く気付かず、講義に熱中していたんですけどね。

マルコ―タクシー株式会社の、車番0014の運転手さん、有り難うございました。

まだまだ、あるんですね、美談が、この国には。

追伸①

 BSテレビ朝日「幸福の一皿」~美味しさの物語 に出演させていただきます。是非ご覧ください。

 「食卓の華!すき焼き」

 11月23日(金) 20:00~20:54 オン・エアです。

 この番組について詳しくはこちらです。

追伸②

ケーブルTV局J:COMの、「村野武範の馳走百景」に出演させていただきます。

是非ご覧ください。放送日は以下の通りです。

11/20(火)夜10時~

11/21(水)深夜0時30分~

11/27(火)夜10時~

11/28(水)深夜0時30分~

この番組と視聴方法について詳しくはこちらです。

追伸③

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は300人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて987日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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再開発

 10/24の東京新聞を見て「お!」と思った方がたくさんおいでかと思います。

「日本の常設映画館発祥の地、浅草六区(東京都台東区)に、明治・大正時代のランドマークタワー「凌雲閣(りょううんかく)」の復活が計画されていることが分かった。六区最後の映画館が二十一日に閉館したが、その跡地に建つ再開発ビルの一角に再現される。」

と書いてありました。

 この映画館が閉館したことで、浅草には映画館が1館も無くなり、非常に残念なのですが、そのことはさておき、その跡地に建てる再開発ビルに「凌雲閣」を再現する、というのです。

 「凌雲閣」と申しますのは、1890(明治23)年、英国人建築家バルトンの設計で浅草六区に完成した、八角柱の観光高層タワーのことです。

 レンガづくりの12階だてで、高さは約52メートル。この塔に登ると関東一円が見渡せたそうです。当時のスカイツリーといった感じでしょう。

 1923(大正12)年の関東大震災で崩壊するまで帝都随一の観光名所でした。

 名所だけに当時の「開化絵」の画題になることも多かったらしく、そうした絵を弊店も所蔵していますので、御来店いただければ「凌雲閣」や周囲の様子を見ていただくことができます。

 そのタワーを浅草六区に再現するそうです。

 ただし今回、高さは36メートル。

 しかも普通の四角形のビルの横に、タワー状の新「凌雲閣」を貼り付ける形になるそうです。

 か、かなり奇妙な建物になりそうですが、まあ、浅草には、もう変わった建物がいくつもありますからね。

 施主は興業の松竹さん。2014年春完成予定だそうな。

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

  「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は300人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて970日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 
Filed under: 憧れの明治時代,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

駅舎復元

 先日国際観光日本レストラン協会の研修会が奈良県大和郡山市であり、出張して来ました。その内容は昨日の弊ブログに書きましたが、今日はその行き帰りに通った東京駅のことを書いてみます。 

 さて東京駅のエキナカ・ビジネスは大盛況のようです。

 辰野金吾の、美しい駅舎が復活したのは勿論私も嬉しいのですが、JRさんのエキナカ・ビジネスについては、好感を持ちません、私は。

 おや、また住吉がヒネくれたことを書いてるなあ って?

 そんなにヒネくれてますかねえ。

 私は旧官有物件を使って商売するのがキラいなんですね。だって国策のために整備した物件ですよねえ、あの駅は。そこで商売って、なんかアンフェアな感じがするんです。

 少なくとも早慶両校ご出身の方には御賛同いただきたいです。

 だってですよ、早慶両校が今日の形になった減点イヤ原点は、明治14年の「官有物件払い下げ問題」です。そのことを思い出していただきたいものです。

 それで、やや長くなりますが、この話しは明治14年に飛びます。

 この当時政府の役職は、まだ薩長土肥の藩閥の面々が独占していましたが、それに対して在野の民権党や新聞などの言論機関が「藩閥打倒」を叫ぶようになっていました。

 そこへ、北海道開拓使の「旧官有物件払い下げ問題」が起きます。

 この頃は、北海道が、薩摩の黒田清隆の下で開拓され⇒成果があがってきたのを受けて、そろそろ事業を民間に移そう、というタイミングでもありました。問題になったのは、その払い下げ価格がメチャンコ安かったことです。しかも払い下げ先は薩摩出身の政商。

 このアンフェアな取引を知って、元々アンチ藩閥だった世論は沸騰しました。

 さて、その情勢の中で微妙な動きをしたのが、後の早稲田の創立者・大隈重信でした。

 大隈は肥前出身で藩閥の一角であったものの、薩長勢力に押されて主役には成り切れていませんでした。その大隈が変な動きをしてしまったのです。

 在野の世論に迎合したような、民主的な内容の憲法草案を独自に書いて、それを薩長の面々に読ませず、公家出身の大臣を経由して密かに明治天皇に奉呈したのです。

 抜け駆けされた、黒田をはじめ薩長の面々は当然怒り、怒るだけでなくて妄想しました。 

 大隈が在野勢力と結託して薩長を追放しようとしている!

~そう疑ったのです。

 大隈にどの程度の野心があったのか、今となっては分かりません。情勢を利用して政局を主導しようと考えただけだったかもしれませんが、あえなく薩長連携のクーデターによって罷免されてしまいました。弁明のため参内しようとしたものの、実力で阻止されてしまったようです。

 大隈の煽りを食ったのが慶應義塾出身の人々です。

 慶應出身の人々は、まだ早稲田を創っていなかった大隈の誘いによって政府に入っていました。犬養毅・尾崎行雄が有名です。その一方で新聞社にも多数の慶應出身者がいました。

 それで「大隈=慶應連携による薩長打倒」と疑われてしまったのです。

 かくして大隈と犬養・尾崎ら慶應出身者は政府から追放されましたが、明治天皇は、このクーデター劇を喜ばす、喧嘩の片一方の薩摩にも成敗を加えました。すなわち払い下げの中止です。

 黒田の開拓事業は成果をあげていたのに、最後の最後でミソをつけ、この後政局の中心は、伊藤博文・山縣有朋といった長州の政治家が握るようになって行きます。

 一方大隈は、これ以降野に在って立憲改進党を設立、さらに早稲田大学を創立します。また政府に入れなくなった慶應の卒業生は、民間の実業界に進むようになって行きます。

 これが明治14年の「官有物件払い下げ問題」です。

 それから今日まで長い時間が経っていますが、私は旧官有物件で商売するのが好きではありません。自分は純民間の実業界に在りたい、と思っています。

 東京駅のエキナカについては、駅舎復元の費用を稼ぐために、まあ、仕方ないとは思います、勿論。

 でも、JRさん、儲け過ぎたら、その時は何か国のために使って下さいね。

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

  「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は300人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて967日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。