風俗画報
昨日弊ブログは目出度く1.000日連続更新を達成しました。
皆様から多数のメッセージを戴きまして誠に恐縮でした。ところが昨日は3連休中で、BSテレビ「幸福の一皿」の放映直後でもあって店が忙しく、また昨夜・今夜と二夜開催する「住吉史彦の会!」の準備作業がありました関係で、今だ個別にレスポンス出来ておりません。何とぞご諒承願います。さて、
ユニークな時代小説が有名な河治和香先生が、浅草を舞台にした小説を御執筆中だとかで、浅草へおいでになって、色々と調べておられます。
先日もお目にかかりますと、
住吉さん、面白いのを見つけたわよ!
と1枚のコピーを渡されました。
それは明治30年の「風俗画報」のコピーでした。
「風俗画報」と申しますのは明治・大正時代の風俗雑誌です。1889年に創刊、1916年まで続き、通巻478号というから、かなり長生きした雑誌です。
当時の風俗を伝える最大のメデイアと言っても良いでしょう。今日でも「〇×画報」という名前の雑誌がありますが、その名づけ方の元祖です。
その「風俗画報」の「東京名所図会」「浅草公園特集」に「ちんや」が出ている、というのです。
拝見しますと、たしかに出ています。花屋敷、凌雲閣、日本パノラマ館、常盤座、猛獣会、女相撲、猿芝居などと並んで「ちんや」も出ています。曰く・・・
「ちんやは広小路馬車鉄道踏切角。」
(広小路というのは弊店の前の通りのことです。今は雷門通りと言っています。そこに馬が車両を曳く鉄道が走っていましたが、その踏切の近く、という意味です)
「白壁塗り煉瓦造り二階家の割烹店なり。」
(この当時の様子は「ちんや」のホームページでご覧にいれています。)
「住吉安営業」
(やすさんというのは、私の祖先のことですが、この店を切り盛りして繁盛させた女傑だったと伝えられています)
「浅草公園内に平民的飲食店その数きわめて多しと言えども、おそらくはちんやの右に出づるものなし。」
(「公園」と申しましても、現在の日比谷公園のような公園ではありません。明治初期には、浅草にそういう公園を造るつもりだったらしいのですが、次第に遊興施設が立ち並び、盛り場になってしまいました。ですので「浅草公園」と言いますと浅草の盛り場一帯という意味です。その中で「右に出づるものなし」と言いますから、絶賛ですね。)
「天麩羅をその最たるものとなし・・・」
(「ちんや」が牛鍋専業になったのは明治36年で、それ以前は他の料理もやっていましたが、天麩羅が「最たるもの」とは。36年以前も牛鍋がメインのはずなんですけど・・・)
「注文に応ずべき品数ほとんど30数種。」
「調理の速にして価の廉なる、稀に見る処なるべし。」
そう、今とは大分雰囲気が違い、巨大な食堂といった感じです。
盛り場としてピークを迎えていた浅草には、こういう感じの店が必要だったのでしょう。
和香先生、面白いものを有り難うございました。
追伸①
ケーブルTV局J:COMの、「村野武範の馳走百景」に出演させていただきます。
是非ご覧ください。放送日は以下の通りです。
11/27(火)夜10時~
11/28(水)深夜0時30分~
この番組と視聴方法について詳しくはこちらです。
追伸②
ワイン専門誌『wi-not?』vol.3の「浅草老舗七人衆 「冬泡」を啜る」というコーナーに私が出演しています。
是非ご購読下さい!
この本について詳しくはこちらです。
ご購入はこちらです。
追伸③
「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。
この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。
その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。
現在の笑顔数は312人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.001日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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