黄金の鍋

5.616万円のすき焼き鍋が売られているそうです。

売られているのは黄金製の鍋で、JR大阪三越伊勢丹で開催されている「黄金展」に出品されているそうです。

この催事で最も高額なのが、この鍋なのだそうで、スペックは材質24金製、直径30センチ、重量4.200グラムだとか。

どんな味がするんでしょうねえ。

その他の黄金商品は、パンダ、ミッキーマウスやミニーマウス、ドナルドダック、ハローキティ・・・

どういう方が買うのか、私は不思議でたまりません。

ところで実は、「ちんや」が黄金の鍋を使っていた、という記録があります。

永井荷風の有名な日記『断腸亭日乗』には、

大正11年の大晦日、ちんやに入り黄金製の鍋にて肉を煮る、

という一節があるのです。でも、その一箇所だけで、詳しい説明は無し。

「ちんや」側にも、黄金鍋を使った記録がなく、謎なんです。

以前から大変気になっているのですが、資料に乏しく困っています。何かご存知の方がおいででした、ご一報いただきたいと存じます。

ともあれ、話しを戻しますが、5.616万円お持ちの方は、是非JR大阪三越伊勢丹さんへ。

24日までです。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.568日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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佃煮最中

佃煮最中を作って食べてみました。

河治和香先生が「駒形どぜう」さんの三代目をモデルにした小説『どぜう屋助七』を書かれましたが、その小説ベースにした、「どぜう講談」を聞く会が開かれることになり、当然どぜう料理も付いているのですが、その講談を聞きにくるのは、以前からのどぜうファンばかりで、さんざん召し上がった経験がおありなので、何か新企画が欲しいね、それも小説の登場人物に関係する企画がいいね!

と、いうことで、この小説に登場する最中の皮屋の「種亀」さんと「ちんや」がコラボすることに成った次第です。

三代目の当時「ちんや」は未だ「狆屋」で、牛鍋屋に転進していないのですが、まあ、そういう細かいことを言うのは止めましょう。

禅は急げイヤ善は急げ、で試してみますと、結構旨いのです。

しぐれ煮とそぼろ煮のどちらが良いか、両方試してみましたが、両方ともまずまずでした。

良く考えましたら、最中の皮は元々米粉ですから、合わない理屈がないですね。やってみるもんです。

結局そぼろの方が甘いので、会にはそぼろ最中を出しましたが、しぐれ最中もいけると思います。

皆さんもお試しあれ。

あ、そう言っても、最中の皮だけはあんまり市販されていない・・・か・・

追伸

JALさんの機内誌『SKYWARD』の4月号

「JAPAN PROJECT 東京ようこそ、おもてなしの首都へ」に載せていただきました。在り難いことです。ご搭乗のおりにご覧ください。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.512日連続更新を達成しました。

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昭憲皇太后

<訂正とお詫び>

弊ブログの連続更新日数の計算を誤っていました。

4/14が1.500日と思っておりましたが、4/8に既に1.500日に成っていたようです。訂正いたします。1.500日目を楽しみにして下さっていた皆さん、スミマセン!

<ここから今日のブログです>

今年の4月11日は昭憲皇太后さまの100年祭(=没後100年)だそうで、記念行事や本の出版などが行われるそうです。

明治天皇の皇后、つまりは近代日本で最初のファースト・レデイーだった皇太后さまは、その後の皇室活動の先例となるような、様々な活動をなさったことが知られています。例えば、女学校や日本赤十字社の発展を支援したことなどです。

また生涯に3万首を超える和歌を詠んだことでも知られています。華族女学校の教育指針を詠んだ「金剛石」「水は器」は現在でも学習院女子中等科・高等科で歌い継がれている、と聞きます。

政治に関わることは一貫して避けておられましたが、一番印象的なエピソードは、日露戦争開戦時のエピソードでしょう。

開戦・断交により、駐日ロシア公使ローゼン男爵は帰国することになりましたが、その直前、公使夫人に銀製の花瓶一対を贈られたそうです。

贈り物に添えられた手紙には、

「懇ろにお付き合いをして参りましたけれども、残念なことにこういう結果になりました。しかし女性の情として、このままお別れするのは忍びない。私は行けないので女官を差し向けます。不幸にして戦争になりましたが、また日露の国交がもとに戻ったら、どうか日本に戻って来られ再会いたしましょう。」と書かれていて、

夫人は感泣し言葉もなかったと伝えられています。

また公使一行に対する警護も厳重なもので、その対応に公使は非常に感激、

「これが日本が敵国に尽くした礼儀である。いったい世界の文明は、それ以後進歩しただろうか」と評価したと伝えられています。

とかく明治時代というと富国強兵・帝国主義一辺倒の野蛮な時代と思ってしまいがちですが、そうした時代の最中でも、より良く生きようとした人のことは記憶しておきたいと思います。

追伸

JALさんの機内誌『SKYWARD』の4月号

「JAPAN PROJECT 東京ようこそ、おもてなしの首都へ」に載せていただきました。在り難いことです。ご搭乗のおりにご覧ください。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.503日連続更新を達成しました。

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Marketing and Consumption in Modern Japan

薄井和夫先生(埼玉大学経済学部長)の、

Marketing and Consumption in Modern Japan

という新著に「ちんや」が所蔵する開化絵「東京府下第一大区尾張街通煉化石造商法繁盛之図」が載りました。明治6年の銀座煉瓦街を描いた作品です。

御本を在り難く戴いたのですが、拝見しますと、全部英語で字が多いこと・・・十年の歳月をかけた、という大著です。それが全部英語・・・

日本語版もあるのだろう、と思ったら無いのだとか。

この御本は日本の「アマゾン」でも売られているのですが、内容紹介がやはり英語・・・でした。

This book explores the development in Japan throughout the twentieth century of marketing and consumerism. It shows how Japan had a long established indigenous traditional approach to marketing, separate from Western approaches to marketing, and discusses how the Japanese approach to marketing was applied in the form of new marketing activities, which, responding to changing patterns of consumption, contributed considerably to Japan’s economic success. The book concludes with a discussion of how Japanese approach to marketing is likely to develop at a time when globalisation and international marketing are having an increasing impact in Japan.

この文を自動翻訳の「エクサイト」に入れてみましたら、

「この本はマーケティングと消費者保護の20世紀を通じての日本で開発を調査します。

それは、日本がマーケティングへの長い確立している固有の従来のアプローチをどのように持っていたか示します、マーケティングへの西洋のアプローチから分離する、またマーケティングへの日本のアプローチがどのように新しいマーケティング活動の形で適用されたか議論する、どれ、日本の経済的成功に相当に寄付された消費パターンの変更に応答すること。その本は、マーケティングへのアプローチがグローバル化と国際マーケティングが日本で増加するインパクトを持っている時でどんなに日本だろうかの議論で締めくくります。」

全然違うぞ!!!

って言うか、日本語に成ってないぞ!!!

って言うか、笑えるなあ。

これだけコンピューターが発達しても、あいかわらず翻訳って出来ないんですねえ。

仕方ないから、自分で訳すか・・な。

その開化絵の画像はこちらでご覧になれます。

追伸、

3/25と4/1は火曜日で通常なら休業日ですが、春休み中ですし、隅田公園桜祭りも開催されますし、臨時営業いたします。行楽のお帰りなどに、どうぞ御利用下さい。

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割烹着

先日先輩に連れられて銀座に遊びに参りましたら、ママさんが割烹着を着ていました。

老舗高級クラブに長年勤めた後、現在の店を独立開業・オーナーに成った、素敵な方です。

おや、今話題の割烹着ですねえ!

とひやかしてみましたが、ママさんは疑惑の研究者と一緒にされるのが面白くないのか、反応が冷ややかでしたので、それ以上割烹着の話しをするのは止めました。

もう一軒の割烹着の店「りけん」は、オボカタさんを割烹着で「演出」したのではないか、という「疑惑」について、

「そのような事実はありません」と全面的に否定したそうですが、どうも、その回答だけが妙に明快だなあと思えてしまいます。

ともあれ、どんな制服にも興味を抱く男はいるもので、蓼食う虫も好きずきですから、「割烹着で演出」の話しは、この位にしておいて、割烹着の歴史について、ここで簡単に見ておきましょう。

さてさて、まずはその起源ですが、「赤堀料理学園」の前身「赤堀割烹教場」の創立者・赤堀峯吉が考案した、という説が有力のようです。峯吉や赤堀菊は日本女子大学校でも日本料理の教師をしていて、その後開設された各地の女子大が、このスタイルを真似たようです。

と、この文も勿論コピペーですが、私が発見したとは一言も書いていませんから、盗用には当りませんよ、悪しからず。

割烹着の話しを続けますが、このように初期の頃には割烹着=イケてるイメージだったはずです。女子大という日本に初めて登場した、近代的でスペシャルな所に通う女性が身に着ける服でしたから、当然、イケてるイメージです。

それがイケてないイメージに決定的に転換したのは、昭和戦前のことで、「国防婦人会」が原因でした。

「国防婦人会」は「国防は台所から」というスローガンを掲げ、出征兵士の見送り、軍人遺族の慰問といった活動をしましたが、そうした活動をする際に着たのが割烹着でした。

「国防婦人」たちは、そうした奉仕の場面だけではなく公式の場にも、どんどん割烹着姿で出席したので、すっかりその格好がトレードマークになった模様です。

戦時中を描いた映画やドラマを見ると、女性が皆揃って割烹着を着ていますが、その理由が、これです。

このように、どんな物も考案された当初は、イケてる存在だった筈なのです。すき焼きもそうです。物の魅力を取り戻すには、考案当初の感覚を取り戻すこと。そうすれば色々な物が、きっと魅力的に現代に蘇ると思います。

出直して欲しいです、オボカタさん。

追伸、

25日は火曜日で通常なら休業日ですが、春休み中ですし、隅田公園の桜も咲きそうですし、臨時営業いたします。行楽のお帰りなどに、どうぞ御利用下さい。

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毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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牛肉を扱うお店の店主から見た馬肉の良い点と今後の展望②

桜鍋店「中江」のスタッフの皆さんの食事会を「ちんや」で開きたい、という申込みがあり、在り難くお請けしたのですが、あの御主人のこと、普通に食事をするだけでは収まらないらしく、私に話しをしろ、とおっしゃいます。しかも、

「牛肉を扱うお店の店主から見た馬肉の良い点と今後の展望」について話しをしろ!というムタイなことをおっしゃいます。私が渋っていると、

「先入観や感情丸出しで大いに脱線したお話を!」とのこと。

そういうことならガッテン招致、いや招致するのはオリンピックでしたな、ガッテン承知仕りました。

「先入観」=それを大いに話題にしましょう。

馬肉と牛肉の栄養学的な比較とか、これまで嫌というほど聞かされてきた、ツマンない話しをする気は、私はモートー無いですからね。

そう、肉食の話しを、時代を遡って致します。そういう話しをする時は、当然先入観や偏見についても触れないといけないから丁度良いですな。上等です。覚悟してお聞き下さい・・・

<と、いうことで昨日から始まりました、この話しは長いので2回に分けてUPしています。まず昨日の弊ブログをお読みいただき、その後で、この下(↓)をお読みください。>

さて、やっと馬の話しです。この頃=つまり明治時代に馬はどうなっていたのでしょう。牛同様に熱心に飼育されるようになりますが、目的は違います。軍用馬として育てられるようになったのです。

この絵を見て下さい。『上野不忍大競馬之図』という明治17年(1884年)の絵です。上野の不忍池の周りに競馬場が設けられて、そこで開催された競馬会に明治天皇が親臨なさっています。

陛下は馬に大金を賭けていて、その結果が気になって見に来たんじゃあないですよ。明治政府は軍馬改良の為に競馬を奨励していて、この競馬会も、その一環なんです。

陛下自身も馬術が大変お好きで、毎日馬を乗りまわしていた時期もあるそうです。

もともと陛下は京都のお公卿さんですから、牛車(ぎっしゃ)に曳かれて移動するのが本来なのですが、帝国主義華やかな、この時代にあっては、牛をやめて馬に切り替えてしまったのです。

お分かりですね、当時馬は強い軍隊の象徴であり、皇室の栄光の象徴だったのです。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだ人もおいでと思いますが、主人公の秋山大将は騎兵隊の司令官でしたね。日本の騎兵隊を一から育て上げ、ロシアのコサック騎兵と闘った秋山大将が、この時代のシンボルだったのです。

馬肉が、栄養学的には大変優れたものなのに、食卓の主役の座を牛に譲った理由・譲った時代背景は、これです。是非理解しておきましょう。勿論牛の方が飼い易いという事情もあったと思いますが、馬は皇室と軍隊のイメージだから、食べにくかったんです。

ここで強調したいのは、まさに、この時代に「中江」さんは馬肉料理を始めた、ということです。

そこを押さえておくと共に、そんな中でも馬肉を売ろうと試みた中江さんの意志の強さに思いを致さないといけません。

そして、さらに申し上げますが、そこを理解することは現代社会に於いても深い意義が在ると思います。

今時は獣の命を戴く、ということにリアリテイーが無さすぎます。スーパーに行くとスライス済みの肉しか売ってないですからね。

思いまするに、食事の前に「いただきます」と唱えることは日本人の精神の神髄であって、実は私は、このItadaki-masと Gochiso-samaを是非世界語にしようと思っております。これからオリンピックまでに、それをやろう!と思っています。

Itadaki-masと Gochiso-samaという言葉の裏にある日本人の思想を英語で解説した小冊子を作りまして、料理屋に見えた外人さんがそれを上手に唱えたら、冊子の裏に記念のスタンプを押す、という企画を考えています。「中江」さんにもご協力いただきたいのですが、まあ、その話しはさて置きましょう。

生き物の命を戴くことへの恐れと神聖な気持ちが失われましたら、食の大切さということも理解しにくくなりましょう。

そして、それを体感し易い店が、皆さんの御店です。

牛より食べにくく、猪や熊よりも食べにくい馬を食べさせることの意義は、現代社会においては、ますます高まるものと考えます。

日々の業務に精励されますよう。

追伸、

2/24にインターネットラジオ局CROSSWAVE☆SENJUの番組「ビジネスチャンネル~この人に聞きたい」に出演させていただきました。

過去の放送は、こちらのURLで聞けますので、よろしかったら、是非。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.466日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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ぷくぷく、お肉

『ぷくぷく、お肉』という本を読みました。

この御本は随筆集で、色んな作家さんが書いた、32篇の「肉」にまつわる随筆が集められています。

すき焼き、ステーキ、焼き肉、とんかつ、焼き鳥・・・

「古今の作家たちが「肉」について筆をふるう随筆アンソロジー」という触れ込みです。

なんでも「おいしい文藝」第1弾だとかで、出版社はこれをシリーズ化したいようです。

勿論すき焼きの話しだけではないのですが、冒頭はすき焼き。

阿川佐和子「スキヤキスキスキ」

開高健「エラクなりたかったら独身だ、スキヤキだ」

古川緑波「牛鍋からすき焼きへ」

山田太一「すき焼きの記憶」

村上春樹「すき焼きが好き」

すき焼き以外では、

赤瀬川原平「ビフテキ委員会」

馳星周「世界一のステーキ」

向田邦子「味噌カツ」

檀一雄「ビーフ・シチュー!」

・・・といった顔ぶれです。

さて山田太一さんの小説『異人たちとの夏』の、重要な場面設定が「雷門のすき焼き屋」であることは比較的有名かと思います。

今回の本の中で太一先生は、その場面設定が是非そうであらねばならないかった理由について書いておられます。幼少期の御本人の体験がそうさせたのです。

主人公は夏に幽霊と会うというのに、それでも「雷門のすき焼き屋」なのです。

「雷門のすき焼き屋」としては在り難い限りですね。

一方、読んで実に面白く勉強になったのは、古川緑波の「牛鍋からすき焼きへ」。

明治末期の、すき焼きがまだ牛鍋と言われていた頃から、緑波は色々な牛鍋屋を食べ歩いていて、どの店がいつ頃どんな食べ方だったかをハッキリと記憶しています。

頻繁に来てくれたわけではないようですが、「ちんや」も出て来ます。

実に色々な店が在ったようです。

四谷の「三河屋」=肉に割り下が最初からかけてあった。卵は無し。

新橋の「うつぼ」=肉がブツ切り、味噌煮込み。

両方とも今は無い店ですが、生気と猥雑感が溢れる、往時の牛鍋屋の雰囲気が分かって、実に面白い1篇でした。

追伸、

2/24にインターネットラジオ局CROSSWAVE☆SENJUの番組「ビジネスチャンネル~この人に聞きたい」に出演させていただきました。

過去の放送は、こちらのURLで聞けますので、よろしかったら、是非。

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肥前の妖怪

今年の台東区若手経営者サポートセミナーには「宿題」があり、読書感想文を提出することになっていますが、その提出日は1/14でした。

この時期は仕事上一年中で最悪に疲労している時期で、困りました。

お恥ずかしい話しではありますが、今回は短編で勘弁してもらいましょう。そうそう、読み残しの短編がありました。

司馬遼太郎の連作短編集『酔って候』に四作の短編小説が収録されていますが、その内の二作だけを読んで、二作を読み残しているのを思い出しました。それにさせていたくことに致しました。

その四作は、いずれも幕末の大名の生涯を描いたもので、

『酔って候』は土佐藩主の山内容堂の話し、

『きつね馬』は薩摩藩の島津久光の話しですが、この2作を読んで、そこで止まっていました。残りは、

『伊達の黒船』は宇和島藩主の伊達宗城の話し、

『肥前の妖怪』は佐賀藩主の鍋島閑叟の話しです。

で、今回感想を書きますのは鍋島閑叟(かんそう)の『肥前の妖怪』ですが、まずそのことを書く前に、話しは飛びますが、上野の彰義隊戦争のことに触れないといけません。

明治維新で江戸は「無血開城した」と言われていますが、上野の山だけは、そうは行かず、彰義隊と新政府方の銭湯がありました、イヤ戦闘がありました。

この戦いについて、私たちのような江戸の人間は彰義隊側から視ることがほとんどです。例えば上野近辺の老舗さん、例えば「羽二重団子」さんには彰義隊ゆかりの遺品があります。上野から敗走する隊士が店に乱入、刀や槍を縁の下に隠し、百姓の野良着に変装して北へ落ちのびた、と聞きます。

浅草は上野にごく近く、私個人も「羽二重」の御主人SW田さんと面識があったりしますから、どうしても、この戦いのことは彰義隊側から視ますが、今回『肥前の妖怪』を読んで、新政府方の視点を持つことが出来ました。

さて、ここでやっと上野と佐賀藩とがつながりますが、彰義隊を負かしたのは、実質的には鍋島閑叟だったと言えなくもないのです。

当時の錦絵を見ますると、戦災で寛永寺の伽藍が炎上する様子が描かれていますが、この火災を引き起こしたのは、佐賀藩が行った砲撃でした。

佐賀藩は本郷台の加賀藩邸つまり現在の東大構内に、アームストロング砲を引っ張り上げ、なんと不忍池を越えて砲弾を撃ち込みました。彰義隊がこの長距離攻撃に対抗し得るはずもなく、戦いは一日で終結。寛永寺は壊滅的被害を蒙りました。

へええ、そうだったの!

で終わってしまっては、しかし感想文に成りません。

本当に面白いのは、この戦いの経緯ではなく、そうした近代兵器を持つに至った、閑叟の生涯・閑叟の藩経営です。佐賀藩は幕府には秘密で兵器を開発し、銃や玉を生産していたのです。

その為に閑叟は、まず一代で藩財政を好転させ、その財力で軍需産業を築きました。小説の中の閑叟は、こう語ります、

「わしは襲封以来、商人のごとく厘耗の費えも惜しみ、銃砲陣、海軍をつくりあげてきた。半生のうち、庶人がするほどの贅沢もしたことがない。」

このように司馬遼は閑叟のことを、軍事力と経済力を信奉する異様な合理主義者=妖怪として描いています。そして、そういう人格が出来上がった理由として、若き日の2つのトラウマを挙げています。

・浪費家の父の遊興で藩財政が悪化し、借金取りの商人達によって、動き出した大名行列が止められてしまった事件。

・長崎湾にイギリスの軍艦が侵入した時、当時長崎守衛を任さていた佐賀の兵がまったく役にたたなかった事件。

この悔しさから閑叟は出発し、ついには薩長両藩をも恐れさせる軍事力を得たのです。

しかも、その全行程を幕府にはナイショで、藩内整然と成し遂げます。

自分は合理主義者なのに、藩士には『葉隠』武士道を強制し、後に早稲田を創立する大隈重信なども押さえつけます。下級武士が活躍できた薩長の雰囲気とはゼンゼン違うのです。

結局、幕末の動乱期に薩摩では西郷隆盛・大久保利通、長州では木戸孝允といった志士が活躍して時代を旋回させましたが、肥前においては、異様な人格の殿様がいて、その殿様が営々と築いた軍事力が大きな力を発揮しました。

一個の殿様の人格が、どの程度世の中を変えたのか、私は勿論正確なところは分かりません。でも小説なのですから、やはり面白い方が良いですね。

そこを司馬遼ですから、面白く納得的に筋を進めます。ここには書き切れませんが、閑叟の変わり者ぶりを描写するのに、きつね顔であるとか、癇病持ちとか、極度の潔癖家で性行為の後に何十回も手を洗ったとか書いています。

ともあれ、このようにして彰義隊は壊滅し、新政府は薩長土肥の四藩によって占められる結果となりました。

歴史というものは、色んなタイプの人物に登場の機会を与えるものですね。

明治維新は、カッコ良い人物のカッコ良い物語として描かれる場合が多いですが、この小説のおかげで他の捉え方もできました。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.421日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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住吉史彦の十大ニュース2013

お待たせしました!

今年も「住吉史彦の十大ニュース」の時間がやってまいりました。

え? 誰も待っていないって?

そういう声は無視して、どんどん行きましょう。

今日はポイントだけを書きますので、詳しい内容を知りたい方は、アンダーラインのある所をクリックして下さいね。さて、

 1月 母校・慶應義塾中等部(=慶應大学の付属中学校)の「キャリア講座」に出講しました。演題は「会社を継ぐ、という人生」でした。

2月 第14回「すきや連」を「ニューオータニ岡半」さんで開催しました。今回も募集開始後すぐ満員の盛況でした。

 5月 全国料理業組合「芽生会」関東甲信ブロック研修会で講演しました。演題は「すき焼きの歴史と現在」でした。

 5月 国際観光日本レストラン協会関東支部・副支部長に就任いたしました。

 5月 料飲三田会・総会を「ちんや」で開催しました。会員の佐渡の蔵元「尾畑酒造」さんの御酒を土鍋で湯煎して飲んでいただきました。

 6月 「すき焼きを食べて、九ちゃんのCDが当たる週間」を開催しました。歌曲「上を向いて歩こう」(=スキヤキソング)が1963年に全米チャートで第1位を獲得してから50周年を記念したイベントでした。

7月 「浅草法人会」の研修会に出講しました。演題は「すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に」でした。

7月 ハート型牛脂の名前『牛ゅっとハート』が、商標として正式に特許庁に登録されました♡登録第5599742号♡商品区分♡第29類♡牛脂♡商標権者♡株式会社ちんや♡登録日♡平成25年7月19日⇒記念日のお食事に是非ご注文下さい。

 7月 第15回すきや連を彦根市の「せんなり亭・伽羅」さんで開催、近江牛を堪能しました。中川畜産さんの畜舎を見学させていただきました。

 11月 第16回「すきや連」をみなと横濱牛鍋処「荒井屋」さんで開催しました。横浜の肉食の歴史について、小林照夫先生のご講演いただきました。

いよいよ2013年の弊ブログも残りわずかとなりました。まずは御礼だけを申し上げます。読者の皆様、ご愛読いただき誠にありがとうございました。

2014年もご愛顧を賜りたく、心よりお願い申し上げます。

東西、東〜西〜

 

 明日は「すき焼き川柳」の結果発表です。

 

<年末の、精肉の販売に関するお知らせです>

年内渡しの予約受注は12/28で終了いたしまして、12/29-12/31はフリー販売です。

12/29-12/31は大変混み合いますので、時間の余裕と防寒具をもってお越し下さい。

営業時間は10時~20時ですが遅い時間は品切れの心配がありますので、なるべく早めにお出かけ下さい。

 

 

きんのと変わらぬけふの味

河治和香先生の歴史小説『どぜう屋助七』が、単行本に成りました。

で、その出版記念会がありまして、私も登場人物の子孫として御招待いただき、光栄にも鏡割りなどさせていただきました。

さて内容紹介です。ネタばれを避けるため、ほどほどに紹介しないといけませんが、この御本は、

浅草駒形にある、どぜう屋の主人・三代目越後屋助七を主人公にした小説です。(ちなみに当代は七代目)

三代目は料理屋の店主としては破天荒な人物で、剣の腕前がスゴく、趣味はと言うと粋な新内流しなので女にモテ、当初店の仕事は「ほったらかし」だったのですが、時代は幕末=御一新の激動期ですから、否応なく歴史の渦に巻き込まれて行きます。

政治の変動以外にも、火事・安政の地震・物価の騰貴と大変な時代でした。

そんな時代に、三代目も、店に集う人々も、江戸っ子の意地と持ち前の明るさで、暖簾を守ろうと頑張りぬく~そういう筋です。

ここに【目次】をコピペーしますと、

一、君は今駒形あたり どぜう汁

二、アメリカが来ても日本はつつがなし

三、恋は思案の外欲は分別の内

四、鯰もおごる神の留守事

五、鯨汁椀を重ねて叱られる

六、冥土の旅へコロリ欠け落ち

七、きゅうりごしんしんごしん

八、風の神雷門に居候

九、江戸の豚都の狆に追い出され

十、きんのと変わらぬけふの味

この話しの脇筋で私の祖先が登場します。

当家は、江戸時代から続いた狆の商いをやめて、牛鍋に転向したわけですから、実はやったことは、どぜう屋さんより大革新だったりしますが、この話しの年代は、それよりもう少し前のこと。狆屋をしていた最後の頃の話しです。

あんまり詳細に書けませんが、私の祖先はどじょうを狆に食べさせたり、狆をペリーに献上したりとユニークなエピソードが満載です。

やがて御一新、狆屋が「ちんや」と成ったのと前後して、駒形の三代目は亡くなり、この小説は終わります。その後のことは・・・このブログでも、まあ、お読み下さい!

ともあれ、なぜ浅草は昔も今も賑わっているのか、なぜ美味いものは昔も今も美味いのか、この話しに出て来るような人達がいたからだと私は思います。

「十、きんのと変わらぬけふの味」という最終章のタイトルに、その意味が込められています。

「きんの」とは今はもうあまり使われない下町方言で、昨日のことです。

河治先生が「変わらぬ今日の味」を評価して下さり、その為に生涯を捧げた浅草人のことを描いて下さったことが嬉しいです。

是非お読みください。 是非。

追伸①

 

クリスマス・イベントを開催します。

「イブすきの日に、指宿の焼酎を!」

とうことで、12/24に「ちんや」お座敷(=個室・大広間)で、すき焼きを頼んだ方に、指宿市の芋焼酎グラス一杯をサービスに致します!

堂々オヤジ・ギャグです。

サービス品だからと言って、質が悪いわけじゃあございません。

白露酒造さんの『岩いずみ』という品ですが、

指宿市山川地区の「黄金千貫」を主に使用。

また国土交通省「水の郷百撰」に認定された、開聞岳の麓より湧き出す天然水(軟水)を使用しています。

白麹仕込と黒麹仕込という製造方法の異なる焼酎を絶妙にブレンドしてありまして、実にマイルドです。

さらに1年熟成させることにより、味わいと甘い余韻を醸し出しています。このメーカーさんは熟成に重きを置いておいでなので、「ちんや」の味に合うと私は思っています。

と、いう次第で「イブすきの日に、指宿の焼酎を!」

お後がよろしいようで・・・

追伸②

ビジネスマンの方を対象に、忘年会に関する意識調査を実施させていただました。
目的は、もちろん、日本の会社の忘年会を、もっとワクワクするもの、もっと意義あるものにしたいからです。
忘年会は毎年惰性でやっている…では悲しいですよね。
ビジネスマンの皆さんは、どんな忘年会なら出席したいのか、逆に、どういう忘年会はパスしたいのか、
その答えがここにあります。
会社の忘年会から、この国を元気にしていきたいと思います。

この調査結果は、そのための参考にしていただきたいと思います。
さてさて、大ショックの調査結果はこちら↓から。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.389日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。