御木本幸吉の真珠

大学時代の先輩が真珠の「ミキモト」社に入り活躍しておられます。

先日その先輩が学校の雑誌『三田評論』に寄稿なさっているのを発見しました。

『三田評論』には「社中交歓」という、短文を投稿するコーナーがありまして、毎月何かテーマを決めて、4人のOB・OGが投稿するのですが、だいたいテーマが軽めのお題であることが多く、文章も粋なので、私は大変楽しみにしています。ここが読みたくて広告を『三田評論』に出稿していると言っても良いでしょう。

で、6月号のテーマが、

「真珠」だったのです。

私が知らなかったのは、まず、

・かつて真珠は天然産にのみ限られ、世界の市場を独占していたのはアラビア湾奥、特にクウェート沿岸地域であったことです。

御木本幸吉の真珠養殖成功によりクウェートの真珠漁業は壊滅状態となり、

⇒別の収入源の確保に必死になったクウェート王家は、それまで拒んできた外資による石油採掘を許可、

⇒まもなく大規模油田が相次いで発見され、安価な石油が世界に大量供給されることと成った。(=世界のエネルギー地図が塗り替えられた。)

寄稿を読みますと、その先輩は、今アラビアの大金持ちに御木本の真珠を売り込む仕事をなさっているとか。面白い巡りあわせです。

もう一点私が知らなかったのは、

・御木本が、巡視に訪れた明治天皇に対して、

「世界中の女性の首を真珠で飾ってご覧に入れます」と言ったことです。

スゴい大見得です。

先輩はFBもやっておられるので、拝読したことと、この部分に注目したことを書き込みますと、

「御木本幸吉がほんとうに偉かったと思うのは、単なる発明家に終わらず、自分の名前をつけたプロダクトを世界中の最終消費者に届けると云う強いビジョンを何故か最初から持っていたことです。教育も無かったのに、正に驚くべき明治のベンチャー精神ですね!」

と返信が。

実際、御木本在世中に、海外に何箇所も支店が開かれているのです。

伊勢志摩サミットでも、おそらく話題に成ることでしょう。

はい、まったく驚くべきベンチャー精神ですね。

 

追伸

すき焼き思い出ストーリーの投稿を募集しています。

すき焼きは文明開化の昔から、日本人の思い出の中に生きてきた料理です。でも残念ながら、その思い出話しをまとめて保存したことはなかったように思います。

ご投稿くださったものは、「ちんや」創業135周年を記念して本に纏め、今後店の歴史の資料として、すき焼き文化の資料として、末永く保存させていただきます。

どうぞ、世界に一つだけの、すき焼きストーリーを是非、私に教えて下さい。

既にご応募いただいた、50本のストーリーはこちらです。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.930日連続更新を達成しました。

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酪農王国

国際観光日本レストラン協会の総会が伊東市の「盧歓談(ロカンダ)」さんであり、翌日は「酪農王国・オラッチェ」に足をのばしました。

搾乳場に、売店やレストラン、体験施設、地ビール工場まで併設された施設です。見学しながら、

ああ、今時の「六次産業」の施設かなあ、と思っていましたが、よくよくこの施設について調べましたら、

!!!でした。

今日は、その驚きの内容をご説明しますが、まず場所から説明しないといけません。

「酪農王国」は丹那トンネルの真上に在ります。

丹那トンネルは東海道本線の熱海駅〜三島駅間にあるトンネルで、総延長7.8キロ、完成当時は鉄道用複線トンネルとしては日本最長でした。

1909年(明治42年)に計画が立てられてから1934年(昭和9年)に開通するまで、数十人の人命の損失を含む多大な苦労を乗り越えて建設されたトンネルです。

なぜ、難工事だったのか。

それは、この辺りこそ、伊豆半島が本州に衝突している所だからです。

最近箱根・大涌谷の噴火を伝える報道の中で伊豆半島がプレートに乗って来て本州にぶつかり・潜り込んでいる図が放送されていますが、あれがまさにこの場所です。

地震帯であるがために、トンネルの工事中の1930年に、なんと、ここを震源とする「北伊豆地震」が起きてしまいました。

掘削工事が断層に到達したところで大量の湧水が発生、地下水がトンネル内に抜けてしまいました。日本の土木関係者がそれまで経験したことのない量の湧水だったそうで、その上の丹那盆地は渇水に見舞われます。

工事前までは、豊富な水を使って稲作やワサビ栽培などが行われていましたが、人々は鉄道省から渇水補償金を貰って、酪農に転換、今では丹那盆地は伊豆でも有数の酪農地帯となっています。

これが丹那盆地の酪農業だということでした。

うーむ。

アイスクリームを喰いに行っただけなのに、

地球のプレート活動や、

昭和の難工事に想いを致すことになるとは。

おなかいっぱいです。

追伸

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木村荘平の正体

テレビの取材で木村荘平について語って欲しいと言われ出演しました。(放送は未だです)

でも時間を秒単位でしかいただけないテレビのこと、また内容的にも制約があって、まったく説明不足に終わったと思います。ですので、この場で捕捉しておきたいと思います。

まず、木村荘平についてご存知ない方は、私のブログの以下↓の号を読んでいただきまして、その後でこの文を読んでいただきたいと存じます。

2013年4月27日号

2013年6月4日号

2014年7月11日号

2014年7月12日号

さて、木村荘平は、日本初の牛鍋チェーン「いろは」を築いた人物です。

20店ほどの店の店長として、自分の妾を据えたことで大変有名ですが、今回の話題は荘平が何故チェーンを築けたか、ということでした。

その理由を番組では「本部一括仕入れ・薄利多売」に求めていました。

この回答は、まあ、当らずと言えども遠からず、という感じです。

荘平の正体は、牛鍋チェーンを展開した人というより、東京の家畜市場(屠殺場)を、政治力を使って独占的に支配した男というのが正しい姿です。

川上を支配したからこそのチェーンであったのであって、単なる一括仕入れではありません。

本来ならば、

荘平は明治政府の薩摩閥にコネ(「貸し」)があった。

薩摩閥が警視庁を支配していた。

その警視庁が家畜市場を支配していた。

という時代背景を押さえないとスッキリ分からない話しなのですが、

それを説明する時間は無いし、

またそういうことを伝える番組ではないし、

昼間のお子さんも視る気軽な番組だし、

むしろ現代のチェーン・レストランと比較して話した方が分かり易いということで「本部一括仕入れ・薄利多売」と成った次第です。

そう、藩閥とか妾とか屠殺とか、気軽な番組には合わない話題が満載なんですよね、荘平は。

だいたい「妾」は放送NGです。「愛人」ならOKですが、妾と愛人は違いますよね。

いつか深夜番組とかで、全部言ってOKな番組があれば、再度出てみたいですね。

局の方、ご検討下さい。

追伸

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すき焼きは文明開化の昔から、日本人の思い出の中に生きてきた料理です。でも残念ながら、その思い出話しをまとめて保存したことはなかったように思います。

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94連敗

連敗記録を更新し続けていた東大野球部がついに勝ち、記録は94連敗で止まったそうです。

相手は法政。延長戦の末に白星を挙げ、2010年に早稲田に勝って以来の勝利となりました。誠におめでとうございました。

ほとんど高校野球経験者でかためた他校に東大が勝つのは大変なことで、実に素晴らしいと思います。最近は元巨人軍の桑田真澄さんがコーチしていたそうで、それが効いたらしいですが、そういうことは各スポーツ紙に書いてありますので、ここでは、

今日早慶戦が行われているのは、東大のおかげである、という歴史をご紹介しようと思います。

実は1903年に始まった早慶戦は1906年から1925年まで中断されていたのです。

理由は遺恨。

当時はプロ野球が未だなくて、早慶戦が野球の最高峰だったのですが、両校の応援団があまりに興奮して危険な状態に成ってしまったのです。

1906年秋、第1戦に勝利した慶應の学生が大隈重信邸に押しかけて万歳を唱えて騒ぐと、第2戦に勝利した早稲田の学生が今度は福澤諭吉邸に押しかけて騒ぐという具合です。

険悪な状況を危惧した両校当局が第3戦を中止して、以後早慶戦は行われなくなりました。

その後明治が入って早慶明3校のリーグが出来ても早慶戦だけは無し。

法政・立教が加わって5校のリーグに成っても、やはり早慶戦だけは無し。

この間復活を目指す動きが再三起こされたものの、その都度OBの強硬な反対で頓挫したと伝えられています。

その状態に突破口となったのが、東大(当時は東京帝国大学)の加盟でした。

この時現在と同じ6校の「東京六大学野球連盟」が創設され、ようやく19年ぶりに早慶戦が実現したのでありました。

その後も、応援団はすぐに紳士的に成ったわけではなく、1933年には早稲田側応援席からグランドに投げ込まれたリンゴを慶應サードの水原茂が投げ返すという事件(いわゆる「水原リンゴ事件」)が発生したりしていますが、なんとか早慶戦は今日まで開催され続けております。

応援団が騒ぐ場所も、

早=新宿

慶=銀座と

我々が学生の頃には既に固定されていて、両校が接触することもなくなりました。

めでたし、めでたし。

東大のおかげです。

 

追伸

『日本のごちそう すき焼き』は、平凡社より刊行されました。

この本は、

食文化研究家の向笠千恵子先生が、すき焼きという面白き食べ物について語り尽くした7章と、

全国の、有志のすき焼き店主31人が、自店のすき焼き自慢を3ページずつ書いた部分の二部で構成された本で、

この十年の「すきや連」活動の集大成とも言える本です。私も勿論執筆に加わっています。

是非是非お求めください。

弊店の店頭でも販売しますし、こちらからネットでも購入できます。

是非。

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東京地下鉄道

東京商工会議所が発行している『東商新聞』には「壱号機紙上博物館」というコーナーがあり、私は毎回楽しみにしています。

2015年5月20号に掲載されていたのは、1927年に東洋初の地下鉄として浅草―上野間を走った第一号車でした。

新橋―横浜間の、日本初の鉄道は国策として設立されましたから、地下鉄も都の政策として設立されたと思っている方が多いかもしれませんが、地下鉄は違います。

一人の民間人がベンチャー企業として設立したのです。

その民間人=「日本地下鉄の父」は早川徳次という人です。

今大変なことに成っているシャープの創業者も早川徳次ですが、別人でして、シャープの方は「とくじ」で地下鉄の方は「のりつぐ」です。

さて、その早川のりつぐは、早稲田大学在学中に内務大臣・後藤新平の書生となり、そのコネで東武鉄道の根津嘉一郎とも知り合って鉄道の世界に入ります。

1914年にロンドンを視察して、日本に地下鉄をつくることを決意、最初は公共交通として鉄道省や自治体に建設を働きかけたものの、当時彼の先見性は理解されなかったそうです。理由は、

・東京の軟弱地盤の地下に構造物を建設するということについて、技術的・資金的に無理だと判断された。

・事業として成り立つか不透明であった。

ということだったとか。

そこで早川は、まず自分で地質を調べ、軟弱な地層の下に固い地層があり、そこに建設すれば問題がないと確信。

続いて、独自に交通量調査を行って、事業として十分成り立つと、こちらも確信。目論見書を作って、少しずつ賛同者を募ります。

投資家や金融機関を、苦労を重ねつつ説得。遂に1919年独力で鉄道院から地下鉄営業免許を取得したのであります。

その後も建設中に関東大震災が起きるなど困難の連続で、ようやく開通にこぎつけたのは、1927年12月30日のことでした。

実にスゴいベンチャー精神です。

浅草周辺は以前から店や住宅が密集していましたから、地下鉄以外に鉄道で近づく方法はなく、東京地下鉄道の開通によって、初めて浅草に鉄道が通じました。

続いて1931年に今度は墨田区側から東武鉄道が松屋デパートの2階へ乗り入れ。こちらの建設もなかなか困難な工法だったと聞きます。

それだけの困難を乗り越えてでも浅草に近づきたかったわけで、この頃が、繁華街としての浅草の全盛期であったと言えるのではないでしょうか。

ともあれ、この記事は早川のベンチャー精神をしのぶ良い機会でした。

追伸

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五姓田義松の軸

大阪北浜の名店「花外楼」さんの建て替え工事が終わり、新店のお披露目会がありましたので行って来ました。

「花外楼(かがいろう)」さんは天保年間のご創業、明治8年の「大阪会議」の会場として有名です。

「大阪会議」は明治の元勲である大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文・井上馨らが会同し、政府の体制を協議した会議です。

当時、征韓論をめぐる明治6年の政変で、征韓派の参議・西郷隆盛や板垣退助・江藤新平らが下野し、明治政府は大分裂の状態に陥っていました。

残った幹部は、大久保を中心に岩倉具視・大隈重信・伊藤・井上らが建て直しを図りますが、台湾出兵をめぐる意見対立から、長州閥のトップ木戸までが辞職・帰郷する事態となり、政府は一層弱体化します。

この間、政府に対する不満は全国で沸騰し、佐賀の乱や岩倉暗殺未遂事件などが起きて、困った大久保らが木戸・板垣をなだめすかして大阪まで呼び出し、復帰するよう説得したのが「大阪会議」でした。

料亭で会議とは不謹慎だとか言う勿れ。幕末の志士や明治の元勲の間では、飲むのと会議するのが一体だったのです。

そういう御縁で「花外楼」さんには、木戸や伊藤・井上といった明治の元勲が遺した額がたくさんあります。「花外楼」という店名自体も、1ヶ月におよぶ議論の妥結を喜んだ木戸が、それまで「加賀伊」と言っていた店名を「花外楼」に改名しようと提案、自ら看板を揮毫したと伝えられています。

今回も当然そうした額が展示されていて、在り難く拝見しましたが、1点見慣れないお軸も掛けられていました。

そのお軸について、ご主人に伺いますと、以前の店主夫妻の像だと言います。

自分の家の主の像を座敷にかけるのもどうかと思って、これまでかけて来なかったけれど、今日は新店お披露目で、来客は料理関係者ばかりなのでかけさせて貰いました、とのこと。

で、説明を聞いていきますと、なんと、モッタイナイ。

その、かけて来なかったお軸の絵師は五姓田義松(ごせだ・よしまつ)でした。

1855年生まれの、明治期に活躍した画家です。

陸軍士官学校に図画教師として勤務したことがあり、1878年に明治天皇が北陸・東海地方を巡行なさった際には御付画家として同行したそうです。

つまり明治天皇を描いた人が「花外楼」の御主人も描いたわけで、身分意識の強かった当時としては珍しいことです。ご主人も、その経緯はよく分からないと言っておいででした。元勲の誰かが紹介したのでしょうか。

ともあれ在り難く、そのお軸を拝見。

後はもちろん大宴会です。

「花外楼」の御先祖様と五姓田義松に感謝しつつタラフクいただきました。

うーい、ひっく。

追伸

日本橋三越本店の催事「お江戸日本橋 EDO style展」で精肉の販売を致します。

どうぞ、お出かけ下さい。

会期:5月20日(水)~25日(月)

会場:本館7階催物会場

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伊藤博文公

GW連休中のある日レジの中身を確認していると、

お、伊藤博文公!

その数日前には聖徳太子様も来ました。珍しいことが続いたので、FBに画像をUPしますと、

次に岩倉具視来ますね。

板垣退助かも。

とコメントが。はい、期待しましょう。

さて、これを機会に伊藤公のことをウイキぺデイアで調べてみました。神戸の人達が公のことを神戸ビーフの恩人と位置付けているからです。

でも、肉の件は出て来ませんでした。ウイキぺデイアをコピペーしますと、

(生活ぶり)「食住には頓着しない性格で、大磯で伊藤と隣り合わせで住んでいた西園寺公望は食事に招かれても粗末なモノだったものばかりで難渋した」

(ふぐ料理とのかかわり)「古来から毒魚とされ、明治維新後も食用を禁止されていたふぐ料理を明治21年(1888年)、周囲の反対を押し切って下関にて食した際に大変気に入り、当時の山口県知事に解禁するよう語って食用・商用のきっかけをつくったと伝えられている」

となっていて、肉のことは出ていませんね。

このブログの2013年9月11日号に書きました通り、

神戸に牛肉を普及させ「神戸ビーフ」の基礎を築いた外国人キルビーとハンターの生涯を扱った小説『夜明けのハンター』には、二人と当時兵庫県知事だった伊藤公の交流が描かれています。その尽力もあって「神戸ビーフ」が有名になって行った、という筋です。

神戸肉流通推進協議会のサイトにも、

「神戸港開港と同じ年に、かの伊藤博文が兵庫県初代知事に就任。英国留学帰りの国際派として鳴らした伊藤は、神戸の外国人居留地の整備に力を注いだ人物としても知られています。そんな彼が、神戸ビーフを好んで食べていたという逸話が残っています」

と書かれています。

伊藤公は憲法制定とか、立憲政友会創立とか、韓国統治とか、業績が多過ぎて、肉のことは注目されにくいかもしれませんが、ご記憶いただくと良いかもしれません。

追伸

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郷土・資料調査室

台東区立中央図書館の郷土・資料調査室に行って来ました。

昨年出版しました『日本のごちそう すき焼き』を寄贈したいと申し出ましたら、収蔵して下さったので、館長さんにその御礼を申し上げるためです。

中央図書館に着きましたら、まずどの棚に在るのか確認しないといけませんが、検索用のパソコンが置いてあって、すぐ調べられます。

検索しますと、分類番号は「郷09」。「郷」というのは郷土・資料調査室のことです。

『日本のごちそう すき焼き』は、題名通り、日本のごちそうである、すき焼きについて書いた本なのであって、郷土資料ではないです。

たまたま著者の一人として私が加わっているだけなのですが、その本人=区民が寄贈を申し出たので、「郷09」に成ったと思われます。

それはマズいね。抗議すべきだ!って?

それがですね、台東区の郷土・資料調査室はメッポウ面白いのです。

へえ、こんな面白い資料があるの!

というのがゴロゴロと置いてあります。

その資料の中核は、昭和52年(1977年)に浅草観光連盟によって設立された「浅草文庫」です。

「浅草文庫」は設立後やがて東京電力さんの支援を受けるようになり、合羽橋本通りに在った「テプコ浅草館」で保存展示されてきました。

「テプコ浅草館」は、浅草の歴史・風俗を学べる、なかなかなミニ博物館だったのですが、2011年3月11日に東電さんは、そんな博物館を運営している場合でなく成り、あえなく閉館。

で、資料は台東区に寄贈されて、今中央図書館内にあります。

そういう次第でこの資料室は大変充実しています。テプコ時代に比べると、かなり狭いですが展示室も在って、この日は「百貨店の時代―昭和初期の上野松坂屋」という企画展をやっていました。

当時の広告チラシは実に面白いものでした。

皆さんも是非一度お訪ね下さい。

追伸

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福澤諭吉の衛生感覚

先日墨堤で開催された「第84回早慶レガッタ」では、我が義塾が4連覇を果たしました。

早稲田艇がコース外を進行したため失格!という、かつて聞いたことの無い事態でして、なんとも複雑な4連覇でしたが、何故コースを外れたのか、今日のところはさて置きまして、ところで同窓生諸君、

福澤諭吉先生の、食品衛生に関する感覚が、実はかなりワイルドだったことをご存じでしょうか。

先生は緒方洪庵の塾で学んでいた頃から肉食の経験があり、後には『肉食之説』という、肉食を推奨する文を書きましたが、その推奨の仕方がワイルドなのです。

当時肉と言えば「けがれたもの」という感覚です。その肉食を推奨するのですから、肉が特段けがれていないと主張しなければなりません。そこで先生は、

牛肉牛乳に臭気あるといはんか。

松魚(かつお)の塩辛くさからざるにあらず、

くさやの干物最も甚し。

先祖伝来の糠味噌へ螂蛆うじと一緒にかきまぜたる茄子大根の新漬はいかん。

皆是人の耳目鼻口に慣るると慣れざるとに由て然るのみ。慣れたる物を善と言ひ、慣れざる物を悪しと言ふ・・・

「しおから」と「くさや」は臭いを放つ醗酵食品の代表です。糠味噌もやはり醗酵食品で、その中にウジ虫が落ちた場合、微生物が分泌する酵素によって分解されてしまいます。

発酵食品の中は善玉菌が支配していて、悪玉菌が繁殖するのを許しません。それが「醗酵」なのか「腐敗」なのかは、その菌を人が好むか(善)好まないか(悪)の違いなのであって、菌がはびこっていることは同じです。

そういう状態の食品を古来日本人は好んできました。

一方の肉ですが、冷蔵庫のない時代ですから、肉の表面は、置いておけば腐敗が進みます。加えて、牛の屠殺の時に放血が不充分だったでしょうから、臭いはあったでしょう、かなり。

しかし繰り返しますが、腐敗も醗酵も起きていることは同じです。

旧弊の人々が嫌う目新しき物と似たようなものが、古来から在る物の中にも在るぞ、という論法は先生の得意とするところです。

醗酵食品にもこの論法を適用して、肉を嫌う者は、

畢竟人の天性を知らず人身の窮理をわきまへざる無学文盲の空論なり(!)

と断じています。

ウジ虫が落ちても糠味噌は平気で食えるぞ。みんな食って来たじゃないか!と言うのですから、相い変わらずイケズ・キャラ全開ですな、先生。

だいたい、先生は中津藩の下級武士でした。泰平の世に大人しく藩の御用を務めていれば、おそらく、白米、味噌汁、漬物、魚の干物などを常食して一生を終えたことでしょう。

それが何を血迷ったか、先生は緒方塾に入り、その頃には、彫りを入れた町のゴロツキと緒方塾の書生しか常連がいないような、アウトローな牛鍋屋に行くようになってしまいました。

思いまするに、世の中を変えるには、

白米、味噌汁、漬物、干物ではダメなんじゃないでしょうか?

ワイルドに行きましょう、同窓生諸君。

 

追伸

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懐かし写真館

3/26の『秋山幸雄の懐かし写真館』は、隅田川の桜の情景でした。

『懐かし写真館』は、浅草橋在住の写真家・秋山さんが読売新聞下町版に毎週木曜に連載しているコーナーで、私はとても楽しみにしています。

浅草橋に生まれ育って1907年(明治40年)創業の洋食店「一新亭」を経営する秋山さんは、15歳のころから写真を始め、東京下町の情景を撮り続けてきました。

で、今回は隅田川の桜の情景。

川に多数の花見屋形船が浮いている写真や、隅田公園で三味線を弾く老人の写真が掲載されていました。

今回そうした写真も印象的だったのですが、より印象的だったのは写真に付けられたコラムです。

コラムでは3年前に亡くなった弟さんのことが語られているのですが、弟さんは、

今年も桜が観られるかなあ、

と言って果たせず、3月上旬に他界されたとか。

想えば、桜って日本人にとってはそういう花ですよね。

何度も観ているのに、今年も観たい。

そういう感覚を持つ花って、他にはあまりありません。

花を観ていながら、今を生きていることを確認しているような、そんな気持ちを起させるのが花見なのであって、言ってみれば、初詣や忘年会・お彼岸のようなものです。

弊店へも花見がてらのお客様が多数見えますが、そのことを分かってお迎えしたいものです。

毎年その時季にしか見えないお客様でも、毎年見えていれば「ちんや」では立派な常連さんです。毎週通わないと常連扱いしてくれない銀座の店とは、そこが違うのです。

追伸

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