旧町名①

 旧町名を復活させよう、という動きが各地でおきつつあるようです。

 現在の地名の表示方法は、昭和37年(1962年)の「住居表示法」で決められたそうですが、この法律が施行された時に、由緒ある旧町名が廃止されてしまいました。

 日本橋や神田には、今でも旧町名を使っているところがありますが、浅草は廃止になってしまい、「浅草N丁目」「東浅草」「西浅草」といった味気の無い地名を、今は使っています。

 一方、いったん廃止された旧町名を復活させた所の代表は、金沢市だそうです。数年前にレストラン協会の総会が金沢であり、

 二次会は、主計(かずえ)町に行きましょう!

と誘われた時、とても粋な感じがしたものでした。その時は知らなかったのですが、その地名は、いったん廃止されて復活させた地名だそうです。

 浅草でも、旧町名復活の話しはありますが、あまり進展していません。

 そこで「ちんや」で勝手に旧町名の宣伝をすることにしました。実は以前から、「ちんや」の個室の名前には、浅草近辺の旧町名を使っていたのですが、その由来を簡単に書いたカードを各部屋に置くことにしました。

 そのカードを部屋に入った人しか見られないのでは、もったいないので、ここでも公開いたします。

 2日に分けて公開しますので、是非ご覧下さい。

<猿若町(さるわか)>

 現在の浅草六丁目付近の旧町名です。

 江戸幕府の老中・水野越前守忠邦は、天保の改革を断行するにあたって、風俗上の理由から江戸中心部での芝居興行を禁じました。これを受け、大歌舞伎三座=堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の河原崎座(いずれも現中央区)がこの地に移ってきました。

 移転先は、浅草寺裏の武家屋敷を公収して用意されました。役者や関係者が集団で住んだので、江戸歌舞伎の始祖、猿若勘三郎にちなんで猿若町と命名されました。

 現在は歌舞伎小屋はありませんが、小道具屋さんがこの地で営業しています。

<花川戸(はなかわど)>

 現在の花川戸一丁目、ニ丁目です。(「花川戸」は今も、使われている町名です。)

 古くから町屋が開けていて、承応の頃(1652〜55年)にはすでに奥州街道ぞいに商家が立ち並んでいました。

 歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」(通称「助六」)は、主人公「花川戸の助六」がこの地に住み、全盛期の吉原遊郭へ通ったという設定のお話しです。

 今は、隅田公園の桜と履物問屋街が有名です。

<象潟(きさかた)>

 現在の浅草四丁目付近の旧町名です。

 1677年(延宝5年)頃、この地に秋田の本庄藩主六郷邸が造られました。この六郷氏の領国にある鳥海山西麓の海岸には名勝の地 象潟があり、この地名をとって、明治5年(1872年)に浅草象潟町と名付けられました。

 象潟は風光明媚で、当時仙台の松島とならび称されるほどでしたが、文化元年(1804)の地震で土地が隆起し、現在では田圃となっています。

 町名を付ける場合、旧藩名を使う例は多いが、名勝地の名をとってつけられたのは珍しいと思います。

<待乳山(まつちやま)>

 現在の浅草七丁目付近の旧町名です。

 関東三聖天の一つ、待乳山聖天の周囲を指す地名です。

 聖天様は、十一面観音菩薩を本地仏と崇め信仰する御寺で、夫婦和合・商売繁盛等の御利益があります。大根と巾着が御寺のシンボルで、正月七日の七草粥の炊き出しが有名です。

 なお浅草の待乳山聖天の他、江戸川区平井の平井聖天、埼玉県熊谷市の妻沼聖天を「関東三聖天」と称するそうです。

(今日はここまで、明日も浅草の旧町名です)

追伸①

 「仙台牛」の販売を始めました。震災の当日にも「仙台牛」を仕入れましたが、それ以来の仙台牛です。データ=宮城県大崎市・遠山明牧場産、黒毛和種牝牛、個体識別番号:12041-78434。

 「食して繋がる、食して支える、浅草から東北へ。」

追伸②

 「青森・岩手・宮城・福島・茨城五県蔵元連合試飲会@浅草in三社祭が開催できない、その日に開催!」の様子を撮影した動画を、こちら(YouTube)にUPしましたので、是非ご覧下さい。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて480連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 「ちんや」創業130年記念サイトは、こちらです。「すき焼き思い出ストーリー」の投稿を募集しています。

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震災後の東京人

 GW連休後半の浅草は、久しぶりの賑わいを見せています。

 で、今年の特徴が1点。標準語の人=東京人が多いですね、今年は。例年GW連休に東京人は海外や温泉に出かけますから、浅草には方言を話す方が多いです。しかし今年は違いました。

 JTBさんのアンケートなどでも「日帰りできる、近場で過ごす」という回答の方が多かったので、予想はしていましたが、ここまでの人出があるとは予想以上でした。

 有り難い反面、今この瞬間もお客様が少なくて辛い思いをされている、地方の旅館の方・ホテルの方がおいでと思うと心苦しいです。

 ところで、つかぬ事をうかがいますが、

 浅草は東京ですか。浅草は江戸ですか。

⇒はい、正解を申し上げます。

① 浅草は東京です。最初から東京です。明治新政府が江戸という呼び名を廃止して東京と命名した時から、浅草は東京の一部でした。

②では浅草が最初から江戸だったかと言うと、違います。太田道灌が日比谷に城を築き始めた時、その場所と浅草の間には、湿地帯があって市街地が続いていたわけではありません。途中、寂しい辺りを通らないと浅草へは行けませんでした。

 そもそも浅草は江戸城とは成り立ちが違うのです。

 浅草の成り立ちはハッキリしませんが、奈良時代に集落があったのは確実らしく、もちろん太田道灌より遥か昔のことです。太古の昔は浅草辺りが、隅田川が海に注ぐ河口で、浅草は周囲より少し小高かったので、港が出来ていたようです。その港の近くに浅草寺が建立されたわけです。

 そうです、浅草はそもそも港町だったのです。ご存じでしたか?!

 さて徳川家康が江戸にやってきた時も、まだ江戸と浅草は完全には連続していませんでした。

 江戸が浅草を吸収する直接のキッカケは、米蔵の建設です。武士の給料は米でしたから、米蔵が必要です。そこで江戸幕府は1620年(元和6年)に、現在の蔵前や駒形辺りに「浅草米蔵」の建設を始めました。蔵前や駒形というのは、浅草のすぐ南方です。これをキッカケに江戸と浅草の間の往来が激しくなり、街道ぞいが市街地化したと考えられています。

 その後のことですが、浅草の街の性格を決定的にしたのは、吉原と歌舞伎の移転です。

 まず1657年(明暦3年)に日本橋葺屋町(現在の中央区)にあった遊廓・吉原が浅草北方の千束に移されました。しばらくして1842年(天保13年)に、その吉原の手前の浅草7丁目に「中村座」「市村座」「河原崎座」の江戸歌舞伎三座が移転してきました。

 現在皆さんがイメージしている、浅草=江戸の盛り場という状況が完璧に成立したのは、この頃と言って良いと思います。

 当事の奉公人は、泊りがけで奉公先を休むことを、めったに許されませんでしたから、日帰りで行ける楽しい所=浅草へ出かけるのが御約束でした。浅草が賑わったのは、浅草が江戸からすぐ近くで、しかし、いっとき江戸の奉公先のことを忘れられる、そういう土地柄だったからです。

 そして、それから350年。震災後の江戸っ子あらため東京人は、余震や原発が心配だからと泊りがけで奉公先を留守にすることを諦めたようです。だから日帰りで行ける、楽しい所=浅草へ出かけて見えたのでしょう。

 有り難い反面、今、この瞬間もお客様が少なくて辛い思いをされている方がおいでです。その方々が失業すれば、やがて日本経済全体が沈むこと、間違いありません。

 浅草人は、今の景況が自分の実力などと決して思ってはならず、もし儲けが出たのなら、懐に貯めてはいけません。

 5/3にこのブログで紹介した、二本松市の檜物屋酒造店さんからの、メッセージを再度掲載します。

「有り難うございます。皆様方の心からの応援に深く感謝申し上げます。東北福島の素晴らしい自然の恵みから育まれた、おいしいお酒を皆様にお届けします。私達は頑張ります。日本は一つ、東北は一つ、福島は一つ。絶対に負けません。」

 日本は一つ、と浅草からも申し上げたいと思います。

追伸①

 「青森・岩手・宮城・福島・茨城五県蔵元連合試飲会@浅草in三社祭が開催できない、その日に開催!」の、蔵元さんからの出品の申込締切日は5/2でしたが、一部から延長要請がありましたので、5/6までのばしました。よろしくお願いします。

追伸②

 仙台牛メニュー提供しています。普段より高い値段で、お買い求めいただき、利益を被災地の畜産関連団体に贈ります。弊社も利益の一部を供出いたします。

 その仙台牛ニューに、寄席文字の橘右之吉師匠(@unokichit)の「がんばろう日本」千社札シールを貼り付けたら、売れ行きが格段に上がっています。さすが伝統の文字。

 在庫が少なくなってきましたので、早めにご来店を。

 なお牛は、宮城県登米市・千葉正憲牧場産、黒毛和種牝牛、個体識別番号=03686-13232。

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  TVの撮影がありました。

  日本テレビの、昼の帯番組「ヒルナンデス!」の中に、毎週木曜日にやっている、「百年超えてるンデス!」というコーナーがあるのですが、今回はそこにお採り上げいただきました。

  この地球上に、およそ200を数える、世界中の国々の中で、

 日本が誇れるもの…!それは老舗の数!

 その数、東京だけで、なんと2000以上!

 世界に名だたる老舗大国、それがこの日本なのだ!

  創業100年を超える老舗に隠された伝統や技術を学び、

  この厳しい現代を生き抜く術を見つけ出せ!

という企画なのだそうです。

 ご出演は光浦靖子さま、「関ジャニ∞」横山裕さま、村上信五さま。

 で、このコーナーのキーワードは「掟」だそうです。各店で「掟」を探すのが決まりごとなのだとか。弊店についても「掟」はあるのか、とご質問がありました。

 どうも、テレビの人って、こういう言葉が好きですよね。

「掟」はありませんよ、手前どもは忍者じゃないですから。そういう言葉は使っていません。

  在るのは、お客様あるいは世間に対する、お約束、です。

 「ちんや」に文書になった「掟」はないので、私が「ちんや」の歴史を調べた中で、「こういうことかな」と思っていることを申しますと・・・

 まず①店の者が品質について自己満足して、②そういうものだけお出しする、ということを世間に対して「お約束」して、③それを相当の長期間、意地でも、ルールとして守り続ける、という3つが、ポイントと思っています。

  品質については、私は自己満足という単語を悪いニュアンスで使いません。商売は自己満足している姿を世間に見せていくのが大事だと思っています。

  ハッキリ言って、世間には味のお分かりにならない方が沢山おいでです。そういう方々の「違いがわからない!違わないんだから安い方が良い!」なんて声を真に受けてイチイチ動揺していたらダメですよね。信頼感が揺らぎます。

 一方、相当の長期間というのは、世間の人を驚嘆させる位長期間でないといけません。しかも途中ゼッタイ休んではいけません。「24時間テレビ」という番組がありますが、あれも24時間でなければダメなわけで、8時間や12時間じゃダメですよね。

 じゃあ、「ちんや」さんでは、どういう数字が「相当の長期間」なんですか、ってご担当のの方に聞かれましたので、そうですねえ、個人での継続ということを考えたら、365がまず最初のボーダーだと思いますね、ちなみに私のブログは410日続いてますよ。正月も、三社の日も、地震の日も。

とお答えしたら、冗談で言ったんですけどね、その担当者さん、随分感心したらしく、

「それ、収録で言って下さい!」

という次第で、言っちゃいました、テレビで。ブログの宣伝を。

 どうしようかなあ、そういう人がここへ見に来たら。

追伸①

 雑誌「ノジュール」2011年4月号に載せていただきました。「50代からの自分ライフを格好よく!」というコンセプトの雑誌です。

 その「ザ・東京めし これぞ江戸の味!」というコーナーに載せていただきました。

 JTBパブリッシング社より発行。定価750円だとか。

追伸②

 仙台牛メニューの提供を開始しました。普段より高い値段で、お買い求めいただき、利益を被災地の畜産関連団体に贈ります。弊社も利益の一部を供出いたします。

 宮城県登米市・千葉正憲牧場産、黒毛和種牝牛、個体識別番号は03686-13232。

 美味しく食べて被災地支援を!

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玉泉寺と曽祖父

 このブログの、昨年の7/8号の続篇です。

 その号で、下田市(静岡県)の玉泉寺という御寺に、日本で初めて牛を屠殺したという碑が建っていて、建立者の中に、私のご先祖が入っている、ということを書きました。

 下田の玉泉寺という御寺は、日米関係史の中では、とても重要な所で、ペリー来航の後、最初にアメリカ総領事館が置かれた所です。1856年から3年弱、タウンゼント・ハリス総領事がここに滞在して、幕府との条約交渉に当たっていたのです。

 総領事や館員が住みますので、当然「牛肉を食べたい」ということになり、大変皮肉なことに、御寺の境内で殺生が行われたのです。
 境内の「仏手柑樹」(ぶっしゅかんじゅ)の木に牛がつながれ、屠殺されていったそうです。そして、この仏手柑樹の木の立っていた所に、屠殺されていった牛を弔うべく、昭和6年4月8日、東京の牛肉商たちによって、「牛王如来」が建立されました。 

 その建立の費用を寄進した人物の中に、私の曽祖父・住吉忠次郎と「今朝」Fさんのご先祖様が入っているのです。

 驚きましたのは、その「牛王如来」の、お披露目式の様子を撮ったビデオが出てきたことです。ビデオと言っても、昭和6年にビデオはありませんから、当事のニュースフィルムをビデオにコピーしたものですが、なにしろ、父の資料の中に在ったのです。

 それは10分ほどの、白黒の動画ですが、見ていてさらに驚いたのは、その派手な様子です。

 経をあげるお坊さんが、大勢、たぶん7〜8人いるだけでなく、お稚児さんが20人ほどぞろぞろと動員されています。全員に稚児の衣装を着せてあります。

 見物人も多数います、群衆と言っていい位大勢います。

 何で、こんなに人がいるんだ、という疑問は、見ていてその後すぐに解けました。経をあげ終わった後、御寺で芸者さんの踊りが披露されているのです。その数30人以上。「下田技芸組合」という大きな垂れ幕の下に、仮設舞台が造ってあり、そこで踊っています。群衆のお目当ては、そっちでしょうね、間違いなく。

 どうです、派手ですよね。

 でもザンネンながら、曽祖父の顔は確認できませんでした。

 なぜだか分かりませんが、画像の撮り方が上手くないのです。被写体をパンする時、カメラを振るのが、妙に速くて、上下にフラついていて、しかも左右に行きつ戻りつするのです。

 下手だなあ、撮影。

 それで曽祖父の顔は確認できず、でも「ちんや」の幟だけは確認できました。幟には、なぜだか「ちんや本店」と書かれていて「本店」の意味が不明ですので、そこはこれから調べたいところです。

 それにしても、派手ですよね。当事の肉屋って、儲かったんでしょうかね。生まれる時代を間違えました。

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山縣有朋の庭

 年始の激闘営業も、1/10「成人の日」をもって一応ひと段落、1/11火曜日は休業させていただきます。

 さて、椿山荘の庭に「錦水」という料亭がありますが、最初の火曜日に、その料亭の個室で日本料理を戴くのが、ここ数年の我が家の慣習になっています。

 椿山荘は、明治の元勲・山縣有朋の造営した庭です。

 山縣は長州・奇兵隊の出身で陸軍に入り、日清・日露の戦役で日本を勝利に導きました。その辺りはエラかったのですが、やがて政界に転じてからは、内務大臣や司法大臣、総理大臣を歴任する内に、あちこちに子分を配置して一大派閥網を造り、その勢力を背景に、政党が政権を獲るのを妨害し続けました。それが業績です。

 その一方山縣は趣味人でもあって、和歌に長じ、造園を趣味にしていました。そうした庭の一つが椿山荘で、今や数少ない東京の別天地とも言うべき場所です。こういう場所に来ると気分の入れ換えができます。

 その昔、この庭を望む、フォーシーズンズ・ホテルで結婚披露宴をしましたので、以来年に一度訪ねています。

 その庭にある「錦水」さんで、ウチのヨメは着物を着て食事するのを楽しみとしていますが、それにあわせて髪も造営しないといけません

 年末年始の仕事をする内、その髪はボー然とした状態になっており、美容院に行く必要がありますが、椿山荘には美容院もあるので便利なのです。 

 そういう次第で、ヨメが美容院に予約の電話を入れると、こう聞かれたそうです・・・

「何か、お祝いごとですか?」 そう聞かれてヨメは困り、

「ええ、新年会みたいなものではあるんですけど、ムードとしては、法事って感じですかねえ」

 電話の係の人は、困ったでしょうね・・・

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて317日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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江戸歴史探索ガイド

 文化図書さんが、これから出版する「江戸歴史探索ガイド」という本に、弊店所有の開化絵を掲載させて欲しい、と連絡してこられました。

 この御本は、

「歴史研究者の観点からみた、いまだ明らかにされていない多くの歴史的事実を、一般向けのおもしろ読み物として編集。

 また、さまざまな歴史的場面を現代の東京で探索できるガイドブックとしての要素も兼ね備える。」という企画だそうで、

「ちんや」の絵が掲載されるのは、「蔦屋重三郎からみた江戸の大衆文化と遊郭」という項目です。

 掲載ご希望の絵は、「東京花猿若三櫓繁栄開看図(とうけいのはなさるわかさんやぐらはんえいかいかんのず)」という絵で、二代目歌川国輝の、明治4年(1871年)の作品です。

 この作品は、天保13(1842)年から、明治前期まで浅草猿若町(=現在の言問通りの北側)にあった、芝居街の様子を描いたものです。

 三櫓とは中村座・市村座・守田座のことで、歌舞伎を上演した芝居小屋三座のことです。三座は天保13年に、幕府の方針により、それまであった江戸中心部から浅草猿若町に移転してきました。

 坂東三津五郎、尾上菊五郎など、その子孫が今も著名な役者の幟が画面に見えて、賑やかです。

 市中最大の興業街を形成して、吉原とともに、江戸二大悪所(!)として有名でした。

 この絵は、明治に入ってからすぐ描かれた作品で、人力車が描かれていますが、江戸時代の芝居町の、雰囲気は伝わってくると思います。

 その後、明治22年までに、三座はあいついで他地区へ移転し、興業街は衰滅しましたが、隣接して形成された花街は現在でも盛業です。
 絵師の二代目歌川国輝(うたがわ くにてる:1830〜1874年)は、本名山田氏。一曜斎などと号した、三代目歌川豊国の門人。

 明治初期の文明開化の風物をよく描いた、代表的な開化絵師の一人です。

 掲載の件は、もちろん喜んで許可しました。

 私の肖像Photoも、ご希望なら喜んで!

*絵の画像はこちらで、ご覧になれます。

 本日、このブログは250日連続更新を達成しました。いつも最後まで読んで下さって、ありがとうございます。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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大阪会議

 10/14に国際観光日本レストラン協会のセミナーと食事会が大阪・北浜の「花外楼(かがいろう)」さんでありましたので、出席しました。

 「花外楼」のご主人Tさんが協会の関西支部長で、今回のセミナーと食事をとり仕切られました。全国屈指の格式ある料亭さんでの開催なので、大勢の方が見えていて盛況でした。

 「花外楼」さんと言えば、明治8年の「大阪会議」の会場であったことで有名です。「花外楼」という屋号も、その時に元勲・木戸孝允からもらったそうです。御店のロビーに孝允の揮毫が掲げられていて歴史を感じさせます。

 昨今NHKでは坂本龍馬をやっていて、また某総理大臣が高杉晋作を目指しているそうで、明治時代にフォーカスが当たっているようですが、フォーカスが当たっているのは、明治維新と言っても幕末であって明治元年以降ではないような気がします。

 筋書きに酔うあまり、倒幕・王政復古=ハッピーエンドと思っていただくと大間違いで、その後にこそ本当の苦心の時代があった、と言えると思います。

 おや、住吉、随分偉そうに語るじゃないかって?

 そりゃ、私は明治時代を生業にしているので、それなりに詳しいのです。以下、上から目線で、「大阪会議で有名」の「大阪会議」について、語らせてもらいます。東西東西!

 倒幕・王政復古によって、新政府が成立しますが、明治10年に西南戦争に勝つまで、その威権は確立せず、政情不安が続きました。

 明治6年の征韓論の問題で、薩摩の西郷隆盛、土佐の板垣退助、肥前の江藤新平が下野し、さらに7年の台湾征討問題で、木戸孝允まで辞職してしまい、新政府は窮地に陥ります。

 この時政府に残っていた実力者は、公卿の三条実美・岩倉具視と薩摩の大久保利通くらいで、しかも薩摩派の多くの人材が征韓論問題の時に西郷に従って下野してしまっていますから、随分心細い状態です。

 後に元老とよばれる伊藤博文らは居ましたが、まだ若く中堅レベルで、新政府を背負って立つ状況ではありません。

 内乱や暗殺事件も頻発する状態になってしまったので、大久保・伊藤らは、木戸・板垣をなんとしても政府に復帰させようと考えました。そして復帰を口説く場所として、「花外楼」さんを選びました。それが「大阪会議」です。

 接待付きの会議とイメージしていただくと近いかもしれません、あくまでイメージですが。

 結局、木戸・板垣が復帰を承諾したのは、大久保が自説を相当曲げて、木戸・板垣の政見を採り入れたからですが、「花外楼」さんの御料理でご機嫌を良くしたのも、もう一つの理由でしょう。

 これにより新政府は体制を建て直し、その後の内乱を乗り切ります。これほど歴史に貢献した料理は、あまり無いかもしれませんね。

 今回私たちも135年遅れて、その御料理のご相伴にあずかりました。激動の時代を乗り切るための気合が入ったことは申すまでもありません。

 これからリアルに私に会う方は、その御料理のパワーにお気づきになることでしょう。ひひひひ。

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牛の宮廷

 私が「すきや連」や「料飲三田会」でお世話になっている大先輩で、「銀座4丁目スエヒロ」社長の、Uさんから新聞記事のコピーが送られてきました。読んで勉強せい、ということなので急いで拝見しました。

 朝日新聞10/8号の、科学面のコピーなのでしょうか、「いきものがたりー霜降り偏重で多様性低下、ウシ 同じ親で似る遺伝子」という、結構分量のある記事です。この記事の中に、Uさんが長年に渡り力を入れて販売してきた「熊本あか牛」のことが載っていました。

 「熊本あか牛」は、肉に霜降りが入らないので、Uさんが手がけはじめた頃は、価値の低いウシとみなされて、御苦労があったようですが、近年ではファンが増えてきました。はじめ理解されないものでも、信念をもって、継続して取り扱う先輩の姿には頭が下がります。

 さて、この記事で、もう一つ私が気になったのは、「多様性低下」についてです。この件は業界外の方にも知っていただいた方が良いと思うので、ここに書いてみたいと思います。

 最近「生物の多様性低下」とかいう言葉を目にしますが、この記事で言っているのは、牛の、しかも黒毛和牛の中での、「多様性低下」のことです。今、畜産の業界で言われていることは・・・

・脂肪交雑能力の高い一部の種牛に利用が集中していることから、近交係数の上昇による生産性の低下が危惧される状況にある。

・これまで黒毛和種の集団を構成してきた多数の系統が既に衰退し、遺伝的多様性の消失が懸念される状況となっている。

・遺伝的多様性を維持して近交退化による集団の衰退を防がなくてはならない。

・形質の改良と多様性の維持を目指した選抜を行い、また 地域に付属する貴重な優良和牛の系統の再構築に係る調査及び分析を行う必要がある。

 なんのこっちゃ、という方のために平たく説明しますと、今、黒毛和牛は、昔のお公卿さんのような状態になりかかっているのです。

 ブランド化のため、優秀な(=つまり高く売れる)牛ばかりを選抜して育て、逆に優秀でない牛の飼育は止めてきた結果、180万頭いる黒毛和牛の、遺伝子系統がなんとわずか30〜40系統に狭まってきているそうなのです。

 記事によると、2000年に日本全国で登録されたメス牛64.000頭の内16.000頭が、ある有名な種牛の子孫、ということがあったそうです。種牛というのは、宮崎の口蹄疫問題の時にも注目されましたが、選抜に選抜を重ね、さらに選抜したエリート牛のことです。

 そういう牛ばかりを日本中で育ててきた結果、四人に一人が親戚、という状態になってしまいました。当然近親交配が進行しています。

 お公卿さんと一部の大名家が近親婚を繰り返した結果、江戸時代末期には、遺伝的に問題のある殿様が次々に生まれてしまったそうですが、現代の、牛の宮廷もマズいことになりかかっているそうです。

 明治維新をおこさないといけません。

 「ちんや」はブランド牛ばかりでなく、地方の、例えば島育ちの牛などを買うようにしています。そういう牛は競りに出てくる絶対数が少ないのが問題ですが、気にかけていきたいと思っています。 

 それにしても牛の買い方も、ややこしくなったもんです。牛を買うのに、

 旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ、とはねえ。

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龍宮城

 10/5は火曜日で、店の定休日だったため、日中、家の風呂を掃除しましたが、その後、展覧会を見に出かけました。

 「猿之助歌舞伎の魅力」展が目黒雅叙園の、指定有形文化財「百段階段」を会場にして開催されているので、行ってきました。

 ヨメが元から「おもだか屋」ファンで、猿之助丈の舞台衣装や写真を見たがっておりましたし、「百段階段」自体も久しぶりに見てみたかったからです。今回は雅叙園の、ベテラン・ガイド氏の案内付き、というプログラムに参加しましたので、「百段階段」についてくわしく勉強できました。

 「百段階段」とは、細川力蔵によって昭和6年から18年にかけて建設され、「昭和の竜宮城」として有名だった、名建築の一部です。当事の工芸技術の粋を集めて建造された、豪華絢爛たる、夢のような建築です。ご存じの方もおいでと思います。

 現在では、そこで飲食することはできないようですが、展覧会場としては現役で使われていて、猿之助丈の、ケレンたっぷりの舞台衣装と不思議な調和を見せていました。

 それにしても、あらためて驚くのは、細川力蔵の、狂気の沙汰とも言いたくなる投資ぶりです。

 パンフレットによれば、目黒雅叙園は「昭和13年頃、式から披露宴、写真、美容を一環して行える日本初の総合結婚式場のシステムを考案し、女性達の憧れとなりました。」とありますが、昭和13年と言えば、日中の戦争が泥沼の様相を呈し、日米の開戦も視野に入ってきて、一気に日本全体が国家総動員体制に向かいつつあった頃です。

 そんなご時世に、こんなにバブリーな建物を建てるとは。しかも、建て増しを敗戦の前々年の、昭和18年まで続けているのです。

 ひええ、の一語です。

 そのような時代だったからこそ、銘木を安く買ったり、一級の職人を安く使ったりできたのだそうですが、なにしろまあ、大変な普請ぶりです。

 今現在も、大変な不景気ですから、細川のような男が現れれば、安めに素晴らしい建物が建てられるかもしれませんが、先立つものが無いと、最初から話しになりませんよね。

 先立つものが少々ある方で、一級の銘木が難しいようなら、一級のすき焼きでもお買い上げいただきたいと存じます。ご高配を。

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「伊勢重」さんと「江知勝」さんと「ちんや」

 「東京食肉新報」の9/15号に、日本橋小伝馬町の、すき焼き屋「伊勢重(いせじゅう)」さんのことが大きく載っていました。

 私も「すきや連」などで良く御一緒する、六代目社長Mさんとご子息の顔写真入りです。Mさんが最近「東京都食肉生活衛生同業組合」(=名前は長ったらしいですが、まあ、肉屋の組合のこと)の専務理事になられたので、そのタイミングでのご紹介、ということでしょう。

 その紹介文の中にこうあります・・・

 「三代目の福蔵氏は本郷「江知勝」の出、「江知勝」からは浅草「ちんや」にも養子が出ており、親交がある。(後略)」

 この部分を解説いたしますと、私の曽祖父は「江知勝」さんから「ちんや」へ来た婿養子でして、その曽祖父の兄弟が「伊勢重」さんへ養子へ行っているのです。つまり「江知勝」さんと「伊勢重」さんと「ちんや」は遠縁ですが、親戚なのです。

 そんな親戚で対談したことがあります。

 料理雑誌dancyuの今年1月号で「すき焼き劇場」と題した特集記事が組まれましたが、その特集の一部として、「東京老舗の長老たちが、熱く愉快に語り合う」という対談コーナーがありました。

 そのコーナーで、ウチの父と「伊勢重」Mさん、「江知勝」の女将さん、親戚ではないですが「今朝」のF会長、それに向笠千恵子先生が対談しました。

 その内容は、身内の私が聞くと、

「なんだ、そんな昔のことを基準にして、今と比べてもらっちゃあねえ、困るンだよね!世の中は変わってるんだから。」と思ってしまうような話しが出ていましたが、向笠先生など外の方が聞くと面白いらしく、結構盛り上がっていました。

 「食肉新報」には、七代目候補も、親父殿とツーショットで写っていますが、やがて、いつの日か、彼氏と私が「長老対談」することになったりする頃には、今この時代が大昔に感じられるのでしょうね。

 もちろん、今はまったく実感わきませんが。

 ブログとかツイッターとかは、その頃どうなってるんでしょう。

 パソコンで肩が凝らない日は来るんでしょうか。

 「昔はパソコンで肩が凝って大変だったんだぞ!」とか自慢して、後進をウンザリさせたいもんです。

  本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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