旧町名①
旧町名を復活させよう、という動きが各地でおきつつあるようです。
現在の地名の表示方法は、昭和37年(1962年)の「住居表示法」で決められたそうですが、この法律が施行された時に、由緒ある旧町名が廃止されてしまいました。
日本橋や神田には、今でも旧町名を使っているところがありますが、浅草は廃止になってしまい、「浅草N丁目」「東浅草」「西浅草」といった味気の無い地名を、今は使っています。
一方、いったん廃止された旧町名を復活させた所の代表は、金沢市だそうです。数年前にレストラン協会の総会が金沢であり、
二次会は、主計(かずえ)町に行きましょう!
と誘われた時、とても粋な感じがしたものでした。その時は知らなかったのですが、その地名は、いったん廃止されて復活させた地名だそうです。
浅草でも、旧町名復活の話しはありますが、あまり進展していません。
そこで「ちんや」で勝手に旧町名の宣伝をすることにしました。実は以前から、「ちんや」の個室の名前には、浅草近辺の旧町名を使っていたのですが、その由来を簡単に書いたカードを各部屋に置くことにしました。
そのカードを部屋に入った人しか見られないのでは、もったいないので、ここでも公開いたします。
2日に分けて公開しますので、是非ご覧下さい。
<猿若町(さるわか)>
現在の浅草六丁目付近の旧町名です。
江戸幕府の老中・水野越前守忠邦は、天保の改革を断行するにあたって、風俗上の理由から江戸中心部での芝居興行を禁じました。これを受け、大歌舞伎三座=堺町の中村座、葺屋町の市村座、木挽町の河原崎座(いずれも現中央区)がこの地に移ってきました。
移転先は、浅草寺裏の武家屋敷を公収して用意されました。役者や関係者が集団で住んだので、江戸歌舞伎の始祖、猿若勘三郎にちなんで猿若町と命名されました。
現在は歌舞伎小屋はありませんが、小道具屋さんがこの地で営業しています。
<花川戸(はなかわど)>
現在の花川戸一丁目、ニ丁目です。(「花川戸」は今も、使われている町名です。)
古くから町屋が開けていて、承応の頃(1652〜55年)にはすでに奥州街道ぞいに商家が立ち並んでいました。
歌舞伎十八番「助六由縁江戸桜」(通称「助六」)は、主人公「花川戸の助六」がこの地に住み、全盛期の吉原遊郭へ通ったという設定のお話しです。
今は、隅田公園の桜と履物問屋街が有名です。
<象潟(きさかた)>
現在の浅草四丁目付近の旧町名です。
1677年(延宝5年)頃、この地に秋田の本庄藩主六郷邸が造られました。この六郷氏の領国にある鳥海山西麓の海岸には名勝の地 象潟があり、この地名をとって、明治5年(1872年)に浅草象潟町と名付けられました。
象潟は風光明媚で、当時仙台の松島とならび称されるほどでしたが、文化元年(1804)の地震で土地が隆起し、現在では田圃となっています。
町名を付ける場合、旧藩名を使う例は多いが、名勝地の名をとってつけられたのは珍しいと思います。
<待乳山(まつちやま)>
現在の浅草七丁目付近の旧町名です。
関東三聖天の一つ、待乳山聖天の周囲を指す地名です。
聖天様は、十一面観音菩薩を本地仏と崇め信仰する御寺で、夫婦和合・商売繁盛等の御利益があります。大根と巾着が御寺のシンボルで、正月七日の七草粥の炊き出しが有名です。
なお浅草の待乳山聖天の他、江戸川区平井の平井聖天、埼玉県熊谷市の妻沼聖天を「関東三聖天」と称するそうです。
(今日はここまで、明日も浅草の旧町名です)
追伸①
「仙台牛」の販売を始めました。震災の当日にも「仙台牛」を仕入れましたが、それ以来の仙台牛です。データ=宮城県大崎市・遠山明牧場産、黒毛和種牝牛、個体識別番号:12041-78434。
「食して繋がる、食して支える、浅草から東北へ。」
追伸②
「青森・岩手・宮城・福島・茨城五県蔵元連合試飲会@浅草in三社祭が開催できない、その日に開催!」の様子を撮影した動画を、こちら(YouTube)にUPしましたので、是非ご覧下さい。
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて480連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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