日本短角牛の、すき焼きの食べ方

 7/12に、「第6回すきや連ー日本短角牛の、すき焼きを食す会」を、私の店「ちんや」で開催しました。

 さて、その短角牛の、すき焼きの食べ方ですが、普通の黒毛和牛のすき焼きと比べて、一工夫が必要と思います。

 短角牛を、そのまま普通のすき焼きのやり方で食べると、妙に甘辛く感じます。特に、「ちんや」の割下で食べると、そうです。

 黒毛和牛の、霜降りの入った肉の場合、そこから溶け出した脂肪分が舌を覆い、味をマイルドに感じさせますが、短角牛の場合、霜降りが入らず赤身で、脂肪分が足らないので、割り下の甘辛さを、そのまま舌が感じてしまうものと思われます。

 そこで、割り下の味を少し変更して、もっと複雑な味にする必要があります。今回は「お試し」の会なので、何か新しいことをやってみよう、ということになりました。

 考えまして、<脂身+醗酵食品(=味噌)>を鍋に入れるのが良いだろう、ということになりました。馬の赤身肉を使う、桜鍋に味噌が入るのと同じことです。

 この発想で、ウチの板長が、実験的に、<>として短角牛のコマ切れや脂身を挽肉にして、味噌と砂糖と練りあわせる、という作戦を考えつきました。  

 7/12「すきや連」当日は、皆さんには、まず普通に食べていただいて、その後で、この<>を、小鉢に盛ってスプーンを付けて、各机に運んで、鍋に入れていただくようにしてみました。

 <>を「変わり味」と称して、皆さんがご自分で、鍋に投入していただくようにしました。もちろん、これを入れる前後で、味を比較してもらおう、というアイデイアです。

 普通のやり方で食べていただいている時は、料理雑誌「ダンチュウ」編集長のMさんも「住吉さん、今日は割下を甘くしたの?」と言っておいででしたが、違います。同じ割下なのに、上に書いた次第で、甘く感じてしまうのです。

  その味を確かめていただいた後で、<脂身+醗酵食品(=味噌)>を鍋に投入です。 皆さん、その道のプロだけに、興味津々でお試しになっているようでした。

 醗酵食品は甘酒でも良いのかもしれません。向笠千恵子先生は、ご自宅で甘酒投入を試して成功したそうです。

 これをキッカケに、新しい食べ方が登場すれば、今回の「すきや連」をやった意味も有る、というものです。

 なお、肉そのものの管理についてですが、今回、普通の黒毛和牛と同様に熟成させましたが、足らなかったようです。赤身なので、水分量が多いため、もう少し時間が必要だったと考えられます。

 とり急ぎ、「すきや連」ご報告、第二段でした。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 今日はチョット専門的で、ジョークもなかったので、一般の方にはご不満と存じますが、何卒ご容赦下さい。

 このブログは、一応、「すき焼きブログ」なもんですから、はい。

 「すきや連」ご報告は明日も続きます、悪しからず。

 

開催しました、第6回「すきや連」 

 7/12は第6回「すきや連」を、私の店「ちんや」で 開催しました。

 ご参加いただいた、すき焼き屋さんは、東京浅草の「今半本店」さん、「浅草今半」さん、「人形町今半」さん、

 「銀座4丁目スエヒロ」さん、「銀座吉澤」さん、神田の「いし橋」さん、新橋の「今朝」さん、ニューオータニ「岡半」さん、「築地さとう」さん、八王子の「坂福」さん、

 横浜の「太田なわのれん」さん、「荒井屋牛鍋店」さん、

 遠方では、松阪牛の「和田金」さん、桑名の「柿安本店」さん、

 さらには、米沢牛の「登起波牛肉店」さん、金沢の「天狗中田本店」さんなどなどが集結し、また生産者・愛好家の方も大勢見えて、壮観な宴会になりました。

 「すきや連」も、もうこれで6回目です。今回、私・住吉史彦は「旗振り役」の一員兼事務局として、主催させていただいただけでなく、会場店の主人でもあったので、それは忙しい一日でしたが、これだけ揃えば、手配のし甲斐もあったというものです。

 「旗振り役」代表の向笠千恵子先生も、いつもながら元気にご参加いただき「日本のすき焼き文化を発展させましょう」との有り難いお言葉。「続 すき焼きものがたり」の連載も月刊「百味」誌上で始まり、期待されます。

 ところで、今回は普通の「すきや連」の例会ではありませんでした。「日本短角牛の、すき焼きを食す会」です。

 これだけ大勢の、すき焼き関係者が集合して、短角牛のすき焼きを食べるのは、たぶん初めてではなかろうかと思います。霜は降らないものの、独特の旨味のある、短角牛のすき焼きを、皆さんにお試しいただきました。

 このような会を開催することができたのは、短角牛生産者の、「北十勝ファーム」さん(北海道足寄町)のご協力によるものです。

 もちろん、ご本人にもご出席いただきました。開宴に先立って、「北十勝」のファームマネージャー・上田金穂さんによる卓話を、皆さんにお聞きいただきました。大変参考になりました。

 宴席では7/12を「日本短角牛の、すき焼きの日」に認定しよう、なんていう話しまで飛び出していました。

 いやあ、疲れたけど、すき焼き談義の宴会は、メッポウ盛り上がって、楽しかったです。

 一方、残念だったのは、予言蛸のジョークがスベッたことです。7/12はサッカーの決勝の翌日で、世間は予言蛸の話題でもちきりでしたから、

「今日は残念ながら、牛料理です。蛸料理なら喜んでいただけたと思いますが、あのドイツの水族館と話しがつかず、牛料理です!」と言えば、バカうけ確実と思ったんですけどね。

 真面目な連中は、これだからやりにくいなあ。

 あ、そうそう、参加していただいた皆さん、ありがとうございました。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。 「すきや連」のことは、まだまだ書きたいのですが、長くなるので、また明日以降も書きます。2〜3日、このブログは「すきや連」のネタになりますので、よろしくお願い申し上げます。

*「すきや連」については、このブログの、3/2号3/3号3/4号3/5号5/2号6/14号もご覧下さい。

*日本短角牛と「北十勝ファーム」さんについては、こちらです。

選挙サンデー 「かぶちゃん」来訪

 7/11は、参議院選の選挙サンデーでした。投票日は、当然遠方へ旅行しにくいですから、観光地・浅草への人出は鈍ります。その分、中国から見えた方達が目立ちました。そりゃあ、投票権ないですからね、参議院には。

 そんな中、「かぶちゃん」こと鏑木武弥さんが「ちんや」を来訪されました。「かぶちゃん」が雑誌「百味」に連載している、対談コーナーに、私との「対談」を載せるためです。

 「かぶちゃん」のスマイルを、新聞の広告で見かけたことのある方も多いと思います。青年海外協力隊員として、パラグアイで農業指導をした後、帰国して「かぶちゃん農園」を長野県飯田市に設立、「市田柿」の通信販売が大評判で、ご盛業です。

 「すきや連」とご縁の深い「百味」の同じ誌面で、「かぶちゃん」も対談コーナーを連載し始めたのをキッカケに繋がりができ、今回「対談を」という話しになりました。

 このコーナーの、これまでの対談相手は、料理・食品関係の、ソウソウたる方ばかりですので、ウカツなことは言えません。

 「御手柔らかにお願いしますよ」と最初に申し上げたら、「いやあ、大丈夫ですよ」と、満面の「かぶちゃん」スマイル。当方すっかり気楽になって、ペラペラしゃべりまくって、すぐに1時間たってしまいました。

 変わりザクの話し、食育の話しなど、どんどん展開して、とりとめがなかったと反省しております。

 出来上がりが、とても心配・・・です。

 それにつけても、「かぶちゃん」は、飯田市在住のはずだけど、投票は行ったのかなあ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*「かぶちゃん農園」については、こちらです。

*「百味」については、こちらです。

選挙サタデー ほおづき市

 このところ、浅草の街では、連日芸能人を見かけます。ゲリラ・ライブではなく、選挙に出ている芸能人による、ゲリラ演説です。

 7/10は、「ほおづき市」でしたから、そういう人出のあるところを目指して、選挙カーが廻ってきて演説をします。30分とあけずに、廻ってきます。

 ウルサいです、ハッキリ言って。参議院選は、選挙区選と比例選の両方があるので、一番ウルサいような気がします。

 「ちんや」は雷門から50メートルの所にあるので、どうしても店内まで騒音が聞こえます。選挙は7/10で終わり、11日は、もう来ないと思うと、正直ホッとします。

 それにしても 「演説」といっても、芸能関係の方は、政策はお寂しい方が多いのか、その分やたらと御芳名を連呼する人が多いです。

 これでは、元々ファンだった人の心も離れていくのでは、と心配になりますね。

 え? 住吉は、どこに入れる気かって?

 それは、もう新党「立ち上がれ、すき焼き」でしょう。

 比例選は、「うまいもの実現党」かな。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

Filed under: ぼやき部屋 — F.Sumiyoshi 12:03 AM  Comments (0)

ウィスキー談義、ぼやき話し

 7/9〜7/10浅草は、「ほおずき市」が開かれ賑わいます。最近浴衣ブームで、若い男性も浴衣をお召しになるようです。

 なんだ、住吉の奴、また「浅草の夏の風情」の話しか。それは、7/7に読んだぞ。

 と、見せかけて、今日は違う話しです。昨日よりは緩い話しです。

 ほおずきにゼンゼン関係ありませんが、先日 ウィスキーの営業マン氏が見えました。先日、業界の会合で席が隣になり、お話ししている内に、「ご紹介したいモルトがある」ということになり、その商談で見えました。

 「ちんや」では、ウィスキーは「ニッカ竹鶴17年」を置いていて、その品質に完全に満足しており、他のものを置く予定がないため、「個人的な興味でよろしければ」と申し上げましたら、「それでも結構です」ということでしたので、お越しいただきました。

  そうは言っても、本心では、他の種類を「ちんや」に置かせたいでしょうから、一応のお話しをうかがった後は、話しを他へ脱線させないといけません。

 幸い、私・住吉史彦は、商談しに見えた方の話しを、天才的に上手に、他の話しにすりかえてしまう「天才脱線商談人」として知られております。

 ここで天才芸の一端を披露しますが、相手の方が日頃「ぼやき」たくなるような話しに持ち込むと、わりと楽に脱線します。

  第一のぼやきネタとして、「コンプラ」があります。特に大手企業の方は、日頃「コンプラ」に苦しめられていますから、座持ちが最高です。

 この時話題になったのは、酒と「アル・ハラ」の話しです。なんでも、酒メーカーなのに、採用面接の時、学生に「酒に強いか」「酒が飲めるか」と質問してはいけないのだそうです。「飲めるか」という質問は、「アル・ハラ」に該当するので、「コンプラ」の制約で、NGなのだそうです。

 その結果、新入社員の中に、ウィスキーを飲んだことがない人がいる(!)のだそうです。そんな「コンプラ」ナンボのもんじゃ、ヘンな世の中になったもんだ、と思うのは、私一人ではないハズです。こういう話しは、座持ちが最高です。

  第二のぼやきネタは、食育の後退、に関する話しです。

 食の「中食化」「外食化」が進んで、家庭の中で料理をする機会が、どんどん無くなる傾向にありますが、そこを、学校が子供に食育を一生懸命して補うわけでもないので、若い人の、食に関する知識が、やたらと貧困化しつつあります。

 なんでも、ウィスキーの原料が何か、知らない若い人がたくさんいる(!)そうなのです。ハイボールは喜んで飲むのに、ウィスキーの原料が何か、知らないのだそうです。

 こっちの話しはさすがに、そのメーカーの新入社員の話しではなく、営業マン氏が、キャバクラにウィスキーを売りこむべく、商談しに行ったついでに、お姐ちゃん達から聞き取りした結果だそうです。

 いやいや、こういう話しは、なかなか面白く、座持ちがします。

  やがて、次の来客の時間=タイムUPとなり、営業マン氏は、結構なモルトを「サンプル」として、置いていって下さいました。御ありがとうございます。

 頂戴した酒は大切にゴチになります。また後日自分がバーに行く時は、なるべくその酒を注文します。業界の会合に出た時は、「いやあ、あの酒は旨いですよ!」と吹聴することにしたいと思います。

  ああ、楽しきは、脱線商談。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 あ、そうそう、「浅草」+「朝顔市」とキーワードを入れて検索して、その結果、このブログに入って見える方が、結構おいでのようですが、「朝顔市」は入谷で、「ほおづき市」が浅草ですのでね、ご注意願います。

 *ニッカ竹鶴17年については、こちらです。

味覚障害 亜鉛欠乏

  7/9浅草は、「ほおずき市」が開かれ賑わいます。最近浴衣ブームですから、浴衣がけの女性達にも多数お出かけいただけるでしょう。

  なんだ、住吉の奴、また「浅草の夏の風情」の話しか。それは、7/7に読んだぞ。

  と、見せかけて、今日は違う話しです。以下かなり大事な話しです。

  ほおずきには、ゼンゼン関係ありませんが、7/1の、読売新聞に「食ショック2010-身体の警告」という記事が載っていました。その内容は、チョッと衝撃的でした。

 そこには、「添加物 舌の味覚鈍る」「亜鉛欠乏が影響、濃い味に慣れ・・・」と題して、味覚障害について書いてありました。なんでも、味覚障害で病院を訪れる人は、1990年の14万人から、2003年の24万人に増えているのだそうです。

 原因の一つは、亜鉛の欠乏だそうです。亜鉛は、舌にある「味細胞」の再生に必要なミネラルですが、「フィチン酸」「ポリリン酸塩」などの食品添加物は、その亜鉛を体外に排出する作用があるというのです。

 記事には、コックなのに、自分の料理の味がわからなくなってしまった、気の毒な患者さんの話しが載っていました。忙しく働く中で、コンビニ弁当ばかりを食べていたのだそうです。

 もう、一つの原因は、食事の食べ方そのものです。テレビや漫画を見ながら食事をするお子さんが増えているそうです。それでは、味わうことの意味が薄れ、食事が空腹を満たすだけの行為になってしまいます。それで、味覚が訓練されないのです。

 自分の家にいると、テレビやゲームが気になって仕方ないようなら、たまには、何かの記念日などには、「ちんや」の個室を予約して、ご家族揃ってお出かけいただいてはどうでしょう。食事に集中しやすいと思います。

 テレビは置いてありませんので・・・

 あ、そうそう、「ほおづき市」は、7/10までです。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

Filed under: ぼやき部屋,食育ナウ — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

玉泉寺の牛王如来

 旧知のNさん(=桜鍋「中江」社長)から、次のようなメールが来ました、

「下田に旅行に行きましたら、住吉さんやFさん(=すき焼き「今朝」社長)の、ご先祖様のお名前を発見してびっくりしたことをご報告いたします。玉泉寺と言うお寺に、日本で初めて牛を屠殺したという碑が建っていて、建立者の中にお名前がありました。」

 下田の玉泉寺という御寺は、日米関係史の中では、とても重要な所で、ペリー来航の後、最初にアメリカ総領事館が置かれた所です。1856年から3年弱、タウンゼント・ハリス総領事がここに滞在して、幕府との条約交渉に当たっていたのです。

 総領事や館員が住みますので、当然「牛肉を食べたい」ということになり、大変皮肉なことに、御寺の境内で殺生が行われたのです。
 境内の「仏手柑樹」(ぶっしゅかんじゅ)の木に牛がつながれ、屠殺されていったそうです。そして、この仏手柑樹の木の立っていた所に、屠殺されていった牛を弔うべく、昭和6年4月8日、東京の牛肉商によって、「牛王如来」が建立されました。 

 その建立の費用を寄進した人物の中に、私の曽祖父・住吉忠次郎と「今朝」Fさんのご先祖様が入っているのです。

  祖父が生きている頃、「ちんや」の社員旅行で、この御寺を訪ねたことがあったようですが、私はまだ子供で参加しておらず、話しは聞いていたものの、すっかり忘れてしまい、その後まだ、自分でここを訪問してはおりません。

  この話しをしっかり覚えていて、自分で現地を訪問していれば、人に自慢できる話しかな、と思うのですが、完全に忘れていたので、そうはいきません。

 飲み会の席で、自慢たらしく語るのは、下田行きを実行した後にして、とりあえずは、このブログの、1日分のネタとして使わせてもらう位にしておこう、そう思った次第です。

  Nさん、ネタのご提供、ありがとうございました。

  「おいおい、しっかり自慢してるじゃないか?」

  え? 自慢に聞こえましたか? そういう意図はゼンゼン無かったんですけどね。ひひひひ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*Nさんの御店「中江」については、こちらです。

*Fさんの御店「今朝」については、こちらです。

朝顔市、ほおずき市、下町七夕まつり 2010年の夏

 お暑うございます。

 暑いばかりで、夏の風情が感じられないとイヤなものですが、毎年7/6〜7/10は、下町の夏の風情が感じられる時期です。

  まず毎年、7/6〜7/8は、入谷で朝顔市が開催されます。入谷鬼子母神を中心として言問通り沿いに約120軒の朝顔業者と約100軒の露店が並び、毎年多くの人出で賑わいます。

 浅草からは、入谷までは少し距離がありますが、歩いて歩けなくもありません。ちょうど、この期間浅草と入谷の間の、かっぱ橋本通りでは「下町七夕まつり」が開催されていて、大玉飾など七夕飾り、提灯等が装飾されています。散歩がてら、浅草から朝顔市へ向かう方もおいでです。

 去年の7/7に「浅草今半」さんで「すきや連」を開催した時は、食後、参加者の皆さんを引率して、浅草から、かっぱ橋本通りを通って、朝顔市へ行きました。夜の朝顔市も良いものでした。

  朝顔市が終わると、7/9〜7/10が浅草寺の、ほおずき市です。この日は、本堂の両側から裏手の広場にかけて、ほおずきの屋台はもちろん、金魚屋、風鈴、虫籠等の屋台が並びます。夏の夜、浴衣がけで出かける人達で賑います。

  暑い、暑いとボヤいていても、涼しくはなりませんから、この時期、どうぞ浅草へお出かけ下さい。暑いのも、また楽しいと感じていただけるかもしれません。

  暑いついでに、すき焼きも・・・どうぞ。

 夏バテ防止になるかと。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

「饗応・居留地・牛鍋」講演台本③

 7/3は旧東京音楽学校奏楽堂での、平野正敏さんのコンサートに出演し、食べ物の話し=日本人が、西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のことをお話ししました。

 お運びいただいた皆さんに御礼申し上げます。

 タイトルは「饗応・居留地・牛鍋」にしました。半年がかりで準備しましたので、ブログ読者の皆さんにも、公開しようと思います。

 長いので、3回=3日間に分けて公開しています。今日は、その3回目です。

 以下講演台本です。ご笑覧下さい。

 まず最初に1点指摘させていただきたいのは、この時代の、医学の方は、実は進化を遂げている最中だった、ということです。ウイルスとか抗生物質のことは、まだまだでした。栄養学の中でも、ビタミンとか脚気のことは、わかっていません。分子レベルでの治療なんて、当然まだです。

 そういう状況ですので、この時代、薬や手術は既にあることはありましたが、医療や健康管理の中で、治療として食べ物を食べること、当時は「養生」と言っていましたが、その養生のウェイトが現代より結構高かった、ということが理由としてあったと思います。それが、1つ目です。

 もう一つの理由は、人の気持ちの部分で、これも推測ですが、激動の時代の中で、生命とか寿命に対する欲求が、日本人の間で爆発したからではないか、と思っています。この時代に、元気をつけて、上手く生きて、懸命に仕事をすれば、偉くなったり、金持ちになったりできる、そういう時代が来たんだ、是非偉くなりたい、ということを、日本人の相当数が願ったんだと、私は思います。

 日本の歴史は、もの凄く平穏な時代と、爆発的なバトルの時代が交互に来ますが、幕末明治は、言うまでもなく、バトルの時代で、それはイーコール、貧しく生まれても偉くなったり、金持ちになったりする時代でした。そのために是非、体に元気をつけたい、そう思ったとしても不思議はないと思っています。

 さきほど御紹介した、福沢諭吉の話しも、当事日本中で一番勉強のできる連中が、今の時代で言えば、新宿の歌舞伎町のような所に行っていた、という話しです。

 そういう時代だから、新しい食べ物が入ってきた時、日本人は、永年のタブーも、ものともせず、西洋料理や肉料理に、どんどん向かっていったんだと推測しています。

 翻って、いきなり現代の話しですが、皆さんのまわりにいませんか? やたらと食の細い、若者が。そういう手合いがいましたら、是非、説教してやっていただきたいと思います。

 「明治の人を見習って、今すぐ牛鍋屋へ行け!」ってね。(=ここは笑っていただく所)

 お後がよろしいようですので、私の話しは、この辺で。(退出)

*この話しは、これにて終わりです。最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*なお、このコンサートの模様は、ケーブルテレビ「J:COM台東」でもご覧になれます。(契約されている方のみ視聴可能)

<放送時間>

7月29日(木)、31日(土)、8月3日(火)
 9:20〜、13:20〜、17:20〜、21:20〜

8月1日(日)
 10:00〜、14:00〜、18:00〜、22:00〜

*平野正敏さんについては、こちらです。

「饗応・居留地・牛鍋」講演台本②

 7/3は旧東京音楽学校奏楽堂での、平野正敏さんのコンサートに出演し、食べ物の話し=日本人が、西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のことをお話ししました。

 お運びいただいた皆さんに御礼申し上げます。

 タイトルは「饗応・居留地・牛鍋」にしました。半年がかりで準備しましたので、ブログ読者の皆さんにも、公開しようと思います。

 長いので、3回=3日間に分けて公開しています。今日は、その第二回です。

 以下講演台本です。ご笑覧下さい。

 びっくりしますのは、函館市史にも載っているんですが、1859年には、函館の料理人・重三郎という人が、外国人目当てに料理屋を開く許可を願い出たそうなんです。開港を決めた条約は1858年ですから、その次の年でして、もちろん、まだ江戸時代です。明治維新になる前に、既に、少しずつ西洋料理屋が、居留地の近辺に出来てきたことがわかります。

 さっきの徳川慶喜もはやかったですが、普通の日本人も、実はやることはやかったんだなあ、ということがわかります。「もう一つ、へー」思っていただけば、深甚です。

 ついでに申しますと、東京の築地にも居留地がありました。築地居留地は明治になって、後から出来た居留地なんですが、ここの周囲にできた、西洋風のものの中でも、ひときわ目だった存在は、築地精養軒ホテルでした。言うまでもなく、上野公園の精養軒さんの前身です。この場所からすぐですので、後でお寄りいただくのも一興と思います。

 さて、人の宣伝している場合じゃないですね、本日のテーマ3項目行きます。きょ、きょと来まして、最後は当然、牛です。これを話さないと帰れないもんですから、ワタクシ(笑い)。ここだけはよろしくお願い申し上げます。

 ええ、ここで話しはいったん江戸時代に戻ります。江戸時代も日本人は、「薬食い」と称して、動物の肉を食べていたようでして、「ももんじ屋」と言われる店は、獣の肉を食べさせていたところです。今でも、両国にございますね、「ももんじ屋」さんという屋号の御店が。

 そういう店で食べさせていたのは、イノシシ、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、タヌキなどだったようでして、牛と馬を食べることだけは、やはり特別なタブー感があったようです。 馬には乗りますし、牛は農作業で世話になっていましたので、食べにくかったと想像できます。

 このタブー感な感じを知っていただくには、1万円札の、福澤諭吉の「福翁自伝」を読んでいただくと、良いと思います。諭吉が若い頃、緒方洪庵の適塾の書生として学んでいたころ、つまり幕末の1857年ごろに、大阪には、遊郭の近所の、牛鍋屋が2軒あってて、それは定連客が適塾の書生とゴロツキばかり、という「最下等の店」だったと書いてあります。

 このように、昔はゴロツキの食べ物でしたのに明治時代に入りますと、牛を食べることは、タブーから急に文明開化のシンボルになります。それが言わずとしれた、牛鍋であります。

 さて、その食べ方でありますが、基本的には、江戸時代の「ももんじ屋」の食べさせ方と同じで、材料を、イノシシから牛にしただけ、というのが基本形です。ただし、今のすき焼きと違って、鍋に味噌を入れている店が多かったようです。

 最初の頃は、牛をと殺する時の、血抜きの技術が不完全で、また、牛の年齢自体も、今より高齢でしたので、牛肉を煮炊きすると、どうしても臭みがあったようです。そこで、臭み消しに、醗酵食品である、味噌を入れていたようです。

 鍋に入れる具について、もう少しお話ししますが、それぞれの具が、どういう理由で入っているのか、実は、理由がみんな非常にハッキリしています。まず、ネギは硫化アリルで臭み消しプラス食物繊維ですね。次のシラタキはマンナンで、虫下し・整腸作用です。お次の豆腐は蛋白源ということです、それに、豆腐割下がしみると旨いですのでね、そういう理由で入っているわけです。以上がお約束の具です。

 このように、用途が完全に決まっているわけですから、この時代になって急に具が決まったとは思えません。江戸時代には「ももんじや」の伝統的な食べ方が既に確立していて、そこへ具材として牛が導入された、という経緯だと思います。

 このように自然で庶民的な導入方法であったので、記録が乏しいのが、残念でありますが、まずこういう経緯だったろうと、想像がつきます。

 以上、饗応・居留地・牛鍋をキーワードに、日本人が西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のお話しでございました。内容は「へー、そうだったんだ」というトリビアな情報を、いくつかお伝えしました。

 今日は、この後、もう一つだけお話ししますが、それは、「なんで、こんなに、日本人は西洋料理や肉料理を導入するのがはやかったの?その理由は何だろう?」ということです。これは、トリビアではございませんで、完全な私の推測ですが、どう推測したか、これから申します。まず最初に1点指摘させていただきたいのは・・・

*まだ続きますが、長いので今日はここまで。続きは明日UPします。本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*なお、このコンサートの模様は、ケーブルテレビ「J:COM台東」でもご覧になれます。(契約されている方のみ視聴可能)

<放送時間>

7月29日(木)、31日(土)、8月3日(火)
 9:20〜、13:20〜、17:20〜、21:20〜

8月1日(日)
 10:00〜、14:00〜、18:00〜、22:00〜

*平野正敏さんについては、こちらです。