ニッポンチ!⑤

小学館の文芸雑誌「qui-la-la」(きらら)で河治和香先生の新連載「ニッポンチ!」が好調です。
和香先生が、「駒形どぜう」の三代目を主人公にした小説『どぜう屋助七』(2013年)にウチのご先祖を登場させて下さって以来、新しい連載が始まるのを楽しみにしておりますが、今回は明治の浮世絵師を主人公にした小説です。登場する絵師の作品がウチにあったりしますので、なおさら楽しみなことです。
登場するのは歌川国芳門下の絵師たち。国芳には歌川芳虎、芳艶、芳藤、落合芳幾、さらには月岡芳年、河鍋暁斎といった弟子がいましたが、国芳が幕府に逆らう位の人だったので、弟子達の性格も皆ユニークで。その人物描写もまた、この小説の面白いポイントだと思います。
連載5回目の12月号では国芳関係で一番出世した人物・竹内久一(1857年~1916年)が登場します。竹内は東京美術学校教授、帝室技芸員までになりますが、浅草の「田蝶」という提灯屋の息子でした。父親は提灯屋のかたわら国芳に絵を習っていて、竹内は、提灯屋の息子であることから国芳門下では「小ちん」と呼ばれていました。
「小ちん」は提灯屋も絵も継がず彫刻の道に進みますが、なかなか仕事がなく、その貧窮時代を門下の人達が支えました。
やがて、そんな「小ちん」にも運が向き、「虎屋」の看板用の虎の像でメジャー・デビューします。「虎屋」というのは両国の煎餅屋なのですが、その軒先の装飾の為に「小ちん」が彫った虎が大評判になり、東京帝室博物館館長の目にとまって出世して行くわけです。
それでも「小ちん」竹内は江戸時代の職人そのまんまの気質の人で、岡倉天心など美校関係者を心配させたそうです。
衣服にまったく気を遣わず、学校の用務員より貧相な格好で登校したため、制服を着せられてしまったそうです。技術はありながら、格好や生活態度が残念な教授は他にもいたため、天心は天平時代の官服を模した制服を制定して、学生だけではなく教授たちにも強要したとか。
しかし竹内は、その制服が大嫌い。制服で浅草を歩くと「天神様みたい」とからかわれるので、家を出る時はいつもの着物。上野に着いてから持参した制服に着替えたと伝えられています。
面白い話しですね。連載の続きが楽しみです。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は3.556本目の投稿でした。

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没後60年

今年は永井荷風の生誕140年・没後60年の年だそうで、再評価をする動きがあるようです。
12日の読売新聞にもそういう記事が出ていて、その中で早稲田大学の中島国彦名誉教授が、
「若いころはパリなどに外遊し、晩年は踊り子たちに囲まれるなど、荷風の自由に生きた側面がこれまで注目されてきた。没後60年という節目の今、様々な人々との交流を通して、荷風の残した文章に回帰し、再読する時期を迎えるのではないか」と語っています。
たしかに、特に浅草の人達は荷風の浅草放浪ばかりを採り上げる傾向がありますね。フランス座の楽屋に日々入り浸っていたとか、どうしても文学以外のつきあいが強調されます。
私は違いますよ!
弊ブログの2010年9月2日号で、荷風と谷崎潤一郎の交流の件を書いています。谷崎は荷風が生涯交友をもった作家ですが、二人は終戦前日の1945年8月14日、一緒にすき焼きを食べているのです。
場所は東京ではなく岡山県。二人とも戦争中は岡山県に疎開していたのです。すき焼きは、その疎開先での出来事でした。
荷風とすき焼きが再評価されたら嬉しいですね。
あ、それも文学以外か・・・

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は3.548本目の投稿でした。

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肉業界の恩人

今月の「三田評論」に、日本の肉業界の恩人とも言うべき人の評伝が載っていました。
それは米国人医師デュアン・B・シモンズ。
安政6年(1859年)に来日して以来、明治22年(1889年)日本で客死するまで日本の医療界に貢献した人です。
シモンズは福澤諭吉の恩人でもあります。
福澤先生は明治3年に発疹チフスにかかり、18日間意識不明という重体に陥ります。その時治療に当たったのがシモンズでした。シモンズの指示で薬と栄養を与えられた福澤先生は、ようやく快方に向かいました。「栄養」とだけ「三田評論」には書いてありますが、それは牛肉や牛乳で、それで福澤先生は肉の大切さを痛感します。
この時牛肉や牛乳を提供したのは、設立されたばかり「築地牛馬会社」でした。なんと、築地で牛を飼って、牛肉や牛乳を生産していたのです。
病から回復した福澤先生は、この会社の事業を応援するため、『肉食之説(にくじきのせつ)』という宣伝文を書いて牛馬会社に与えます。曰く、
「我日本国は(中略)肉食を穢たるものの如く言ひなし、妄に之を嫌ふ者多し。畢竟人の天性を知らず人身の窮理を弁へざる無学文盲の空論なり。」
肉が穢れているなんて「無学文盲」だと言うのだから痛快ですが、この文はシモンズの栄養指導の賜物でした。
シモンズが福澤先生の恩人で、日本の肉業界の恩人だと言う所以です。
その後も福澤先生とシモンズは生涯交友を続け、シモンズが亡くなった時の追悼会では福澤先生が弔辞を読んだと伝えられています。亡くなった場所も慶應義塾構内の住居だったとか。
シモンズは現代においては知名度があまりないですから、読み飛ばしてしまいそうな一文ですが、肉に関係ある皆さんは、どうぞ、ご一読を。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は3.522本目の投稿でした。

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ニッポンチ!③

小学館の文芸雑誌「qui-la-la」(きらら)で河治和香先生の新連載「ニッポンチ!」が始まりました。
和香先生が、「駒形どぜう」の三代目を主人公にした小説『どぜう屋助七』(2013年)にウチのご先祖を登場させて下さって以来、新しい連載が始まるのを楽しみにしておりますが、今回は明治の浮世絵師を主人公にした小説です。登場する絵師の作品がウチにあったりしますので、なおさら楽しみなことです。
登場するのは歌川国芳門下の絵師たち。国芳には歌川芳虎、芳艶、芳藤、落合芳幾、さらには月岡芳年、河鍋暁斎といった弟子がいましたが、国芳が幕府に逆らう位の人だったので、弟子達の性格も皆ユニークで。その人物描写もまた、この小説の面白いポイントだと思います。
連載3回目の10月号の中心になったのは、暁斎でした。暁斎が国芳の門下にいたのは短期間だったので「弟子」とは言い難いのですが、生き様が明治の絵師の中では国芳一門らしいと言われます。
さて、その暁斎のことで今回嬉しかったのは、暁斎が『安愚楽鍋』(あぐらなべ、1871年)の挿絵を描くことになるまでの経緯が書かれていたことです。
今では外国でも評価の高い暁斎ですが、この頃はまだそれほどでもありませんでした。
第2回内国勧業博覧会(1881年)に出品した作品が百円という破格の値段をつけたり、
浅草十二階を設計した、お雇い外国人ジョサイア・コンドルが暁斎に弟子入りし、コンドル経由で評価されたりして行きますが、明治初年はまだ。暁斎は滑稽本の人気作家・仮名垣魯文と組んで、挿絵を描きまくっていました。
国芳門下から出て武家出入りの絵師の家に婿入りし、しかし不品行で、その家を離縁されたので、描きまくるしかなかったのです。その内の一作が『安愚楽鍋』だったというわけです。
当時「牛屋」と呼ばれたすき焼き店に集う客を描きながら、当時の風物を巧みに描いた一作で、すき焼き屋のバイブルですね。
後半の暁斎だけを知っていると、この人がなんで滑稽本なんかに描いたのかなあ・・・と思ってしまいますが、経緯はそうしたことでした。面白い話しです。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。
弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は3.497本目の投稿でした。

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居合抜

山本普乃(ゆきの)さんの、10回目の三味線コンサート「粋と賑わい」を拝聴しました。
ゆきのさんは、お座敷唄などのくだけた曲から長唄も、さらには現代・オリジナル曲等、ジャンルにとらわれず、幅広く演奏と作曲活動なさっていますが、得意になさっているのは、お座敷唄=小唄、端唄、俗曲などの、宴席で唄われる気軽な曲です。そういう曲の方が細棹三味線の魅力が出易いということのようです。
そんな曲の内、今回は「浅草詣り」という俗曲が採り上げられていました。歌詞は・・・
浅草詣り 蔵前通れば 隅田の風に どんどこどんどこ
笛太鼓 国技館 横綱関取衆の晴れ姿
永井兵助居合抜・・・
「永井兵助」と聞いて、お恥ずかしいことに私も一瞬何のことか分からなかったのですが、これは、戦前まで浅草名物とされていた、テキ屋あるいは香具師(やし)のことでした。
居合抜は余興でして、それで通行人の耳目をひいて歯磨き粉を売ります。「長井」と書く場合もあるようです。車寅次郎が全国をまわっていたので、テキ屋というと全国をまわるものと思いがちですが、定住型のテキ屋もいたわけです。
浅草では戦後すぐまで香具師がいて、その時代を覚えている人にとっては、浅草の音というと香具師の声色を思い出す方もいますね。私の世代ではリアルには聞いていませんが、こういう形で土地の音の記憶の一つを、思い出すことが出来ました。

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ニッポンチ!②

小学館の文芸雑誌「qui-la-la」(きらら)で河治和香先生の新連載「ニッポンチ!」が始まりました。
和香先生が、「駒形どぜう」の三代目を主人公にした小説『どぜう屋助七』(2013年)にウチのご先祖を登場させて下さって以来、新しい連載が始まるのを楽しみにしておりますが、今回は明治の浮世絵師を主人公にした小説です。登場する絵師の作品がウチにあったりしますので、なおさら楽しみなことです。
登場するのは歌川国芳門下の絵師たち。国芳には歌川芳虎、芳艶、芳藤、落合芳幾、さらには月岡芳年、河鍋暁斎といった弟子がいましたが、国芳が幕府に逆らう位の人だったので、弟子達の性格も皆ユニークで。その人物描写もまた、この小説の面白いポイントだと思います。
連載2回目の9月号の中心になったのは、芳虎と芳藤でした。
芳藤はボンヤリしていて、よく迷子になったので、「藤ぼん」と呼ばれていました。「おもちゃ絵」「玩具絵」のジャンルで成功しました。
芳虎は喧嘩早く、喧嘩を解決するのに詫び証文が必要になることがあるので、事前に詫び証文を印刷して常時携帯していたとか。師匠・国芳と揉めて破門されてしまうので、国芳を記念する石碑に名が刻印されていません。
芳虎が成功したのは、武者絵、相撲絵、横浜絵で、「ちんや」では芳虎の横浜絵を一枚所有しています。
横浜絵とは、幕末に横浜に開かれた、外国人居留地の外国人を描いた作品です。外国人の風俗は、当時の日本人にとって新奇なものばかりで、人々の興味をそそり、それを受けて横浜の様子を描いた作品が、江戸の絵師たちによって、多数描かれました。
挑戦的な性格の芳虎が新しいものに向かって行ったのは、なんとなく、分かるような気がします。
今後の展開も楽しみです。

追伸
このブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日で九年六か月となりました。日頃のご愛読に心より感謝いたします。

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戦役記念碑

渋沢資料館は飛鳥山公園の中にあります。
その渋沢資料館を先日訪ねたおり公園に、
「明治三十七八年戦役記念碑」
という、かなり大きい石碑を見つけました。王子駅南口から京浜東北線の線路を渡り、公園に入ってすぐの所にあります。
「明治三十七八年」とは日露戦争の年ですから、その石碑だろうとは思いましたが、資料館でもらった園内マップに、この石碑の説明がなかったので、帰ってから調べてみますると、
やはりこれは、日露戦争に際して北豊島郡(当時)内から出征した約2.000人の軍人に対し、明治 39 年に建立された記念碑だったようです。当時の政府は公式には「明治三十七八年戦役」という言葉を使っていて「日露戦争」は通称でした。
このような記念碑は、杉並区妙法寺、豊島区雑司が谷と都内に三か所あるそうですが、あれだけ大勢の犠牲者を出した戦争のわりには、少ないような気がしますね。
そのすぐ隣には、引退したSLや都電の車両が保存されていて、子供たちが猛暑の中走り回っていました。

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渋沢記念館

「渋沢資料館」を検索していて、誤って「渋沢記念館」を見つけました。
東京の飛鳥山にあって、渋沢栄一記念財団(理事長:渋沢雅英様)が運営しているのは「渋沢資料館」。「渋沢記念館」は青淵翁生誕の地・深谷市が運営しています。
私が行ったのは「資料館」ですが、「記念館」のサイトの方も、まあ、見てみようと思って、驚きました。
「記念館」のサイトに、
「渋沢栄一に関する画像使用について」
という一頁が掲載されていたのですが、これは、そう、青淵翁の画像を第三者が商業目的で使ってOKで、使う際の注意事項をまとめたのが、この頁なのです。
日本経済史上屈指の偉人である青淵翁の画像を自社の商品に使おうという、大それた会社があるということ自体私の想定外でしたので、かなり驚きました。が、ページをスクロールして行く内、驚きはウンザリに変わって行きました。
最初に出て来るのは「深谷市公式」だという「渋沢栄一ロゴマーク」。青淵翁の肖像を図案化したものです。
続いて、渋沢栄一と手乗り「ふっかちゃん」。
深谷市のユルキャラ「ふっかちゃん」を青淵翁が手に載せている、という図らしいのですが、青淵翁が全く似ておらず、紛争も、いや、扮装もブルーの背広、赤ズボン、赤蝶タイという、まるで手品師のような恰好をしています。「ふっかちゃん」は手品の鳩みたい。
これ、使う人、いるんでしょうか。
本当に驚いたのは三番目です。青淵翁の、ちゃんとした肖像写真です。こ、これを一介の民間企業が商品のパッケージとかに使って良いってこと?
市役所のやることですから、法律的にはクリアしているのでしょうが、気分的には恐れ入ったことです。
まだロゴとユルキャラならですよ、街興し・地方創生の熱意が暴走した結果だろうと、ほのぼの受け止めることも出来なくはないですが、本物の克明な肖像写真を商品に使うなんて・・・
この写真を使いたい会社は「商品化における資料使用許可依頼」を渋沢記念館に提出する必要があり、その条件は、
「渋沢栄一を貶める内容には使用することはできません。」
あ、あったりマエダのクラッカー。

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渋沢資料館

飛鳥山の「渋沢資料館」が長期休館に入るというご連絡をいただき、久しぶりに訪ねました。
ご連絡をいただけたのは、「ちんや」が、渋沢が頭取を務めた第一国立銀行を描いた錦絵を持っているからです。光栄にも「渋沢資料館」で開かれた展示会に、その錦絵を貸し出したことがあったのでした。それでご連絡をいただけたようです。
来月からリニューアル工事に入り、2020年3月末まで休館なさるとか。おそらく渋沢翁がお札に載るからリニューアルなのでしょう。結構なことだと思います。
久しぶりにお尋ねしてみて、現在の展示も、そんなに古い感じはしませんけどねえ。
功績のあった故人の記念館というと、没後忘れられてカビ臭いこともあったりしますが、青淵翁の場合、渋沢栄一記念財団というリッチなバックがありますから、まったく違っていまして、リニューアル前でもバッチリ整備されていました。ただ、
飛鳥山を訪ねる季節は真夏じゃないよなあ・・・
というのだけが「今回の残念」でした。
リニューアルオープンは2020年3月28日と言いますから、その日はさぞ春の良い季節でしょう。楽しみです。
休館前に観たい方は、今月いっぱいですから、お急ぎを。

追伸
地下1階「ちんや亭」にて、肉の食べくらべキャンペーン「めざせ13冠 ちょい食べGO!」を実施しています。是非ご参加下さい。
私自身は月曜と金曜に1点ずつ参加しておりまして、既にハンバーグ、ロールビーフ、サイコロステーキ、赤身すき焼き、赤身しゃぶしゃぶを食しました。

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ニッポンチ!

小学館の文芸雑誌「qui-la-la」(きらら)で河治和香先生の新連載「ニッポンチ!」が始まりました。
和香先生が、「駒形どぜう」の三代目を主人公にした小説『どぜう屋助七』(2013年)にウチのご先祖を登場させて下さって以来、新しい連載が始まるのを楽しみにしておりますが、今回は明治の浮世絵師を主人公にした小説です。登場する絵師の作品がウチにあったりしますので、なおさら楽しみなことです。
連載初回の8月号では、幕末の人気絵師・歌川国芳の顕彰碑を設立しようというプランが持ち上がるところから話しが始まります。
国芳は「天保の改革」(1841-43年)で綱紀粛正が行われている間、それに逆らうような絵を描いて、庶民から人気を博した絵師で、弟子も多かったので、没後に娘の「お吉」とその旦那が中心になって顕彰碑施設立運動が始まりますが、その資金を、なんと「お吉」の旦那が持ち逃げしてしまうのです。
さて、今後はどうなりますやら。
国芳には歌川芳虎、芳艶、芳藤、落合芳幾、さらには月岡芳年、河鍋暁斎といった弟子がいました。国芳が幕府に逆らう位の人だったので、弟子達の性格も皆ユニーク。その人物描写もまた、この小説の面白いポイントだと思います。
続きが楽しみです。
なお国芳の顕彰碑は、墨田区の三囲神社の境内に、本当に在ります。浅草から隅田川を渡った対岸ですから、浮世絵にご興味のある方は訪ねてみてはいかがでしょう。

「ちんや」が所有する浮世絵(明治の浮世絵)の画像は、こちらです。

追伸
地下1階「ちんや亭」にて、肉の食べくらべキャンペーン「めざせ13冠 ちょい食べGO!」を実施しています。是非ご参加下さい。
私自身は月曜と金曜に1点ずつ参加しておりまして、既にハンバーグ、ロールビーフ、サイコロステーキ、赤身すき焼きを食しました。

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