「饗応・居留地・牛鍋」講演台本①

 7/3に旧東京音楽学校奏楽堂での、平野正敏さん (ヴィオラ・アルタ奏者)のコンサートに出演し、食べ物の話し=日本人が、西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のことをお話ししました。

 お運びいただいた皆さんに御礼申し上げます。

 タイトルは「饗応・居留地・牛鍋」にしました。半年がかりで準備しましたので、ブログ読者の皆さんにも、公開しようと思います。

 長いので、3回=3日間に分けて公開します。以下講演台本です。ご笑覧下さい。

 こんな恰好(=背広の上に「ちんや」の法被)で失礼します、私が住吉史彦でございます。こちらの建物・奏楽堂の、120年という永い歴史の中で、こんな恰好の男が、舞台の上に居るのは、ひょっとしたら、初めてのことかな、と思いながら今立たせていただいております。

 他の出演者の方は、皆素敵な恰好ですので、私も本当は、もっと目立つ恰好にしたくてですね、スター・にしきのあきら みたいなのが良いな、と思いまして(笑い)、ネットで貸し衣装を探していたんですが、そこをヨメに見られてしまいまして、「アナタ、そんな恥ずかしい恰好をするなら、アタシ出て行きますからね」と言われまして、それで、こういう恰好に落ち着いた次第でございます。

 私の部分は、当然食べ物の話しでございますが、今日のコンサートのオマケみたいなもんですので、前半を一生懸命お聞きになって、肩が凝ってしまった方には、丁度よろしいかと思います。15分ほど、おつきあいいただく予定になっておりますが、気楽に、お聞き流しいただきたいと思います。よろしくお願い申し上げます。

 さて、これからお話ししますのは、日本人が、西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のことでございます。キーワードとして、饗応・居留地・牛鍋と3つあげました。早速行きます。まずは、一番目、饗応という言葉が出てきました。

 饗応っていう言葉は、今時ほとんど使いませんから、念のため、おさらいしますが、この言葉は、国のトップとか重要な地位にある方が、ゲストをお迎えした時に、料理を食べさせておもてなしする、そういう、超高級な接待のことですね。それが言葉の意味ですが、この饗応のために出された料理が、その後の、日本における西洋料理の一つの源流になっていくわけでございます。

 そのことをお話ししたいと思いますが、その前に、ここで、クイズを出させて下さい!いいですか?日本の国のトップが、外国人のゲストを饗応するのに、日本料理ではなく、西洋料理を初めて使ったのは、いつ・どこで・誰がやったのでしょうか?

 はい、タイムUPですので、答えです。時は1867年、日本の元号で申しますと、慶応3年の春、場所は大坂城でございました。あるじは誰かと申しますと、15代将軍・徳川慶喜でした。ええ、明治天皇じゃあないんです。時は明治維新・王政復古の数ヶ月前のことです。

 ちなみに接待した相手は、イギリス公使・フランス公使・オランダ公使で、シェフはいうとフランス人でした。歴史にお詳しい方は、慶喜がフランスから支援を受けて、イギリスが支援する薩摩長州と対決していたのをご存じかと思いますが、シェフもフランスの世話になってたんですね。そのシェフのフランス料理を各国代表に食べさせたわけです。

 慶喜はフランスの世話になっていた、というだけなくて、たぶん自分も、西洋料理とか肉料理が好きだったと思われます。その証拠がありまして、それは、慶喜のアダ名なんですが、なんとか将軍っていうアダ名だったか、ご存じですか?これが実は、クイズの第二問ですが、「暴れん坊将軍」じゃないですよ!それは松平健さんですから(笑い)。

 はい、タイムUPで正解を申し上げます。豚将軍と言われていました。豚一殿っていうアダ名もあったらしいですね、豚を食べるってことが、それだけ世間に知られていたっていうことだと思います。そのように、豚が大好きだった、日本の国のトップが、外国人のゲストを饗応するのに、西洋料理を使いましたのが、慶応3年の春、場所は大坂城でございました。「へー、はやかったんだ!」と思っていただけば、深甚です。

 さて、ドンドン話しを進めます。今日のお話しで、饗応の次にきますのは、居留地です。「きょ」の次も、また「きょ」なわけです。

 今日は、平野さんの会で、インテリの方が多そうですから、言葉の意味は、さらりとおさらいしますけど、その昔幕府は、外国人が住んだり・商売したりできる場所を、「ここだけ!」と一定の地域内に限っていまして、その特別な地域を、居留地と言いましたね。幕府は、1858年以降に欧米の5ヶ国に対して、5箇所の港を開いたのですが、その時開港しましたのが、北から箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎です。そして、その港の近所に居留地も出来たわけであります。びっくりしますのは・・・

*まだ続きますが、今日はここまで。続きは明日UPします。本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*なお、このコンサートの模様は、ケーブルテレビ「J:COM台東」でもご覧になれます。(契約されている方のみ視聴可能です)

<放送時間>

7月29日(木)、31日(土)、8月3日(火)
 9:20〜、13:20〜、17:20〜、21:20〜

8月1日(日)
 10:00〜、14:00〜、18:00〜、22:00〜

*平野正敏さんについては、こちらです。

 

 

東京人と坂本龍馬

 雑誌「東京人」8月号(7/3発売)に出てほしい、ということで、編集部の人が見えました。

 「いろいろ、お話しを聞かせて下さい」とおっしゃるので、私は、すき焼きの歴史と未来について、さらには浅草の歴史と未来について、取材嬢相手に、小一時間かけて、縦横に語ったのですが、結果、出来てきた校正は、ごく通常の「ご主人紹介記事」でした・・・

 良く考えると、それは当然ではありまして、私が出ますのは、Kビールさんが持っている、広告枠の一部です。つまり、いわゆる「記事広告」の一種でして、しかも、60mm×50mmの寸法に、納めないといけないので、そう変わったことも書けません。

 まあOKでしょう。今回お話ししたことが、いつか将来の、どこかに載る記事に反映されれば、良しとしましょう。

  ところで、私が出るのは「東京人」の8月号ですが、6月号の特集記事は「坂本龍馬の江戸東京を歩く」でした。取材嬢が「これは見本として差し上げます」と下さいました。

 NHKで龍馬のドラマをやっていて、ブームですから、便乗したのでしょう。今まで龍馬に強い関心を持たずに来て、龍馬初心者である私も、乗せられて読んでしまいました。

 読んで再度確認したのですが、どうも龍馬には、うらやましい要素が多すぎて、いまひとつ私は共感できないのです。非業の最期を遂げたことまで、うらやましいくらいです。それで今まで、強く惹かれてこなかったのだと思います。

 司馬遼太郎でも「竜馬がゆく」はまだ読んでいません。同じ司馬作品でも、徳川慶喜を描いた「最後の将軍」や、幕府の最後の典医だった松本良順を描いた「胡蝶の夢」、最後の土佐藩主・山内容堂の「酔って候」などは、繰り返し読んでいるのに、です。

  どうも、私は歴史の負け組に惹かれるのです。特に、龍馬と同じ時代に、同じ土佐藩に生きたのに、龍馬とはほとんど接点のなかった人物・山内容堂には惹かれます。

 容堂は、才気と豪腕を持ち合わせ、ポエジーまであり、しかも稀代のヨッパライ大名でした。幕末の激動の政局の中で、空中分解しそうになる藩を、豪腕をもって統率し、一方、中央政界では、幕府と倒幕勢力が正面衝突しないよう、必死に奔走しました。

 しかし、それだけの才覚をもってしても、歴史の流れには勝てず、結局薩長と幕府は開戦、融和的な政権を造る望みは叶いませんでした。

 歴史を回天させたのは、ご存じの通り、容堂のもとから脱藩した、龍馬と

中岡慎太郎、加えて脱藩してはいないものの、龍馬や慎太郎と通じていた、後藤象二郎、板垣退助などでした。

 容堂は、最終的には、しぶしぶ薩長方に加わりますが、そうせざるを得ないことが確定した日、つまり王政復古の、その日に痛烈な酔態を演じます。天子の御前の会議の席で、ヘベレケとなり、悪態をつきまくった様子が、司馬の「酔って候」に、鮮やかに描かれています。

  痛烈な酔態ー自分が演じる日が来るでしょうか。

  それに比べると、テレビの龍馬は、どうもねえ、という感じです。

 だいたい、役者が福山某じゃあねえ。浅草のすき焼き屋の方が、数段イケてますから。

 ねえ?

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*「東京人」について、詳しくはこちらをご覧下さい。8月号は7/3発売です。

Filed under: ぼやき部屋,今日のお客様,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 9:13 AM  Comments (0)

鉄関係の絵=吾妻橋真画

 先日、鉄関係の会社に勤める知人が来店しましたので、部屋へ顔を出しましたところ、

 「いやあ、季節で絵を掛け変えるのは、大変ですよねえ」と褒められ、絶句してしまいました。

  その時掛けていたのは、井上探景の「大日本東京吾妻橋真画」という絵なのですが、この絵の中で、吾妻橋のほとりに描かれている花は、この時期=6月の花ではありません。吾妻橋が架かったのは、明治20年の12月9日のことですから、情景は冬でして、今はと言うと夏・・・ですよね。

  その人は、実際に良く絵を見たわけではなく、

  料理屋=季節で絵を掛け変えるもの⇒それを「大変ですよねえ」と褒めておけば⇒店の人は喜ぶに違いない、と考えたのでないでしょうか。

  「ちんや」で掛けている、明治の開化絵は、美術品というより、ジャーナリステイックな性格の絵ですので、季節の風情がテーマになっていることは、あまり多くはないのです。井上探景という絵師は、そういうこともテーマにしていた数少ない絵師ですが、それ以外の、だいたいの絵師がテーマにしたのは、

 「最近、こんな凄い建物ができたよ!」とか、

 「最近の華族様というのは、こういう服をお召しになるんだよ!」というようなテーマです。

だから、四季をうまくカバーする作品を収集しにくく、結果として、季節外れの絵を掛けている場合があります。

  今回の「吾妻橋真画」にしても、そのお客様が、鉄関係のお仕事の人だったので、掛けていたのです。吾妻橋は隅田川に初めて架かった、鉄の橋だったので、そういう理由で、その方にあわせて掛けていた次第です。

  吾妻橋のたもとに本社がある、アサヒビールの社員の方が見えた場合にも、「吾妻橋真画」を掛けることがあります。今自分の本社がある場所は、明治時代は、こんな景色だったんだ、と知っていただきたい、という趣旨です。

 気づいていただけると、嬉しいです。

  なお、カリスマ受け売り師の、住吉史彦先生によると、

  この吾妻橋は、練鉄製の本体を三連ピントラス形式で支える構造で、一方床面は、馬車や人力車に対応して、木床であった。橋長148.8mと当時としては長大な橋梁で、またスタイルも新しかった為、市中の話題となり、開通式も盛大だった。この橋は関東大震災(1923年)で崩壊し、その後現在の橋に架けかえられた。

 絵師の井上探景(いのうえ たんけい:1864〜1889年)は、浅草の呉服屋の子であったが、幼少より絵を好み、同じ町内の小林清親(きょちか)の門弟となった。風景画にすぐれ、『東京真画名所図解』などの傑作を残したが、26才の若さでこの世を去った。

―っていうことだそうです。ご静聴ご苦労さんでした。

*「ちんや」が所蔵する、開化絵はネットででも覧いただけますので、こちらから是非どうぞ。

Filed under: ぼやき部屋,今日のお客様,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 9:47 AM  Comments (2)

「狆屋」の後継者

 「ちんや」の玄関の、下足番の席にはビーフ・ジャーキーがストックしてあります。人間用ではなく、犬用のビーフ・ジャーキーです。可愛いワンコが散歩で周って来て、「ちんや」の前を通りかかると、下足番のオジサンは、外へ飛び出していって、ワンコにジャーキーを与えています。

  「狆屋」の後継者たる、「ちんや」だから、必須の業務として餌付けを遂行している、わけでは勿論なく、単に彼が犬好きなのです。

 餌付けの最中に、偶然「ちんや」へ入ろうとした、お客様が可愛いワンコに気がつき、一緒になって、そのまわりを囲み、餌付けに飛び入り参加、なんて言うこともたまにあります。

  そのように餌付けをしているワンコの中に、柴犬の夫婦がいました。そして、この春、その夫婦の間に、それはそれは可愛い子犬が5匹生まれ、飼い主の方は、夫婦の柴に加えて、子犬をカートに乗せて周ってくるようになりました。

 やがて、3ヶ月くらいが経過し、子犬たちには里親が決まり、カートの中の子犬の数はだんだんと減っていきました。

  そんなある日、下足のオジサンは、いつもの飼い主さんが、ワンコを連れずにやって来て、「ちんや」の中へ入ろうとするので、驚きました。

 どうしたんですか? と尋ねると、

 イヤ、今日は、すき焼き食べに来たんだよ。入っても良いんでしょ?

 ええ、ええ、それは、いらっしゃませ、どうぞ、お入り下さい!

  というわけで、飼い主さんと一緒に入店された、もう一人の方は、子犬を引き取った、里親さんのようでした。係になった、仲居の話しによると、最初から最後まで、犬の話しで盛り上がっていたとか。なんとも、微笑ましいですね。

 これも、ワンコの取り持つ御縁と言うのか、有り難い話しです。

 今度から、正式に「ワンコ受付」を造って、組織的・徹底的に餌付けするか!

 なんたって、われらは「狆屋」の後継者だし、売上につながりそうだし。

 ひひひひ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*「狆屋」については、いったんこちらを開け、表紙>ちんやへのご案内>沿革の順で開けて下さい。

Filed under: 今日のお客様,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 10:17 AM  Comments (0)

ヤバイすき焼き後日譚

 このブログの4/29号「ヤバイすき焼き」の、登場人物ご本人様から、ご投稿をいただきました。

 「住吉さん、本当にすき焼き美味しかったです。ただ美味しいだけじゃ無くて、なんだかとてもリアリティのある美味しさ。あれは何だろう…と考えていたのですが、昨日の母からの電話で判明しました。

「ちんや」さんでお肉買ったから、取りにいらっしゃい。

あ、成程そうか実家に居た頃偶にちんやさんのお肉食べていたからだ!と。美味しく楽しい一時を本当にありがとうございました。」という御投稿でした。

 浅草の地に、店を代々続けてさせていただいていて、こういう話しを聞かせていただけるのは、何より有り難いことです。味覚が継承されていることほど、我々にとって、有り難いことはありません。同時に、安易に味を変えてはいけないなあ、と思う瞬間でもあります。ご投稿ありがとうございました。

 ところで、この時の、ご自宅での召し上がり方ですが、

 「ブログで見た様に、味噌を少し隠し味で入れてみました。美味しかったです;-)」という方法だったとか。

 そうです! 鍋に味噌を入れるのも「有り」なのです。というか、明治初期には、味噌を入れる店の方が多かったと思われます。このブログの3/3に書きました通り、今でも横浜末吉町の「太田なわのれん」さんは入れていますし、牛鍋ではありませんが、日本堤の桜鍋の「中江」さんも入れてます。両国の猪鍋の「ももんじや」さんもです。味噌入りも旨いものですよね。

 また、4/11号に書きました通り、神田仏蘭西料理「聖橋亭」さんでは、ビーフシチューのソースに、隣の、神田明神の参道にある甘酒屋さんから、糀をもらって入れているそうですが、これも、すき焼きの鍋に、やはり発酵食品である味噌を入れるのと、同じ作戦です。ハッキリ言って、大スキです、そういう傾向の味。

 「すきや連」の事務局をしているせいか、最近、こうした御料理を出している御店のご主人さん達と、いろいろお話しする機会が増えました。そういう会話の中で聞いた情報を是非皆さんにご紹介したい、というのも、このブログを始めた動機の一つであります。ご愛読いただければ、と存じます。

 どの御店も、「ヤバい」ですよ!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

お目出度い絵

 先日、ある御客様から「なんで、毎回同じ絵がかかっているの?」というご質問がありました。通される部屋は違うのに、かかっている絵が毎回、楊洲周延(ようしゅう・ちかのぶ)の「上野不忍大競馬之図」だとおっしゃるのです。

 ん? そんなことあるかなあ? と思いましたが、偶然ではありませんでした。そのご家族は、お子さんのお誕生日とか、ご両親の結婚記念日とか、そういうお目出度い場合に「ちんや」をご利用いただいていたのですが、それが、絵が同じになった理由です。

  実は、「ちんや」では、予約の段階で、その日の御用向きがお目出度いとわかると、かける絵もなるべく、お目出度い絵にしているのです。「上野不忍大競馬之図」は、絵柄が一番に賑やかで、お目出度い感じなので、それで、そのお客様の場合毎回「競馬之図」になったという次第です。

  ちなみに、カリスマ受け売り師の住吉史彦先生によりますと、この絵は、明治17年に上野不忍池(しのばずのいけ)畔で開催された、天覧競馬会の模様を描いた作品です。明治政府は軍馬改良の為に、競馬を奨励しており、またご自身も乗馬がお好きだった明治天皇は好んで競馬会に行幸されました。優秀馬には「帝室御章典」が授与されましたが、その金額は当時としては、大変高額なものでした。

 「競馬之図」の画面の、天皇陛下が座す楼閣には、日ノ丸の旗がはためき、空には気球も打ち上げられて、盛大な競馬会の様子がわかります。
 なお絵師の楊洲周延(1838〜1912年)は、歌川国周の門人で、美人画に優れ、洋装貴婦人や女学生など、開化期の女性の風俗を描いた作品が多い絵師です。

  「ちんや」が所蔵する、開化絵はネットでごも覧いただけますので、こちらで是非どうぞ。

Filed under: 今日のお客様,困った質問,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 9:58 AM  Comments (0)

ヤバいチラシ配り

 チラシが届いてしまいました。何のチラシかと申しますと、7月3日(土)に開かれる、ヴィオラ・アルタの、平野真敏さんのコンサートのチラシです。このブログの3/10号に書きました通り、私はこのコンサートに出演して、「お話し」をすることになっているのです。

 コンサートそのものは、いたってクラシックで真面目なものです。ドゥビエンヌのフルートとヴィオラのための二重奏曲/宮城道雄の「春の海」(琴)/ショパンのチェロ・ソナタ(平野さん編曲のヴィオラ版) /C.ナイの奇想曲・・・といった内容なのですが、少し息抜きもあった方が良かろう、ということで、間に「お話し」が入ります。その息抜き部分が私の担当です。
 

 チラシが届いてしまった以上、私は出演者ですから、これを配りまくらないといけません。早速会合に出るたびに配ることにしました。ところが配っていると、私の知人には、私が学生時代に、趣味でチェロを弾いていたことを知っている人が多いので、

 「スゴいねえ、今でも弾けるんだ、チェロ!」という反応が帰ってきますが、「そんなこと有り得ませんよ。今はもう、弾けません。それに当時だって大して上手くなかったし、今回は「お話し」をするんです。」といちいち説明するのが、だんだん面倒になってきたので、途中で作戦を変えて、

 「いやあ、1曲歌ってくれって、言われちゃいましてね。曲名は『ガッチャマン』ですけど。」と言いながら配ると、当然冗談なのに、「ええ、本当?」と本気にされてしまいました。念のため申しておきますが、これは、台東区芸術文化財団が主催する、いたってクラシックなコンサートなのです。

 それにしても、まだ話す内容が固まっていないのに、チラシを配るという行為は結構なプレッシャーがかかります。「饗応・居留地・牛鍋」というタイトルで、日本の近代の食生活の、起源の話しをしようかと思ってはいますが、完成はしていません。

 どうもヤバいです。ヤバいというのは、若者風の「素晴らしい」という意ではなく、野に咲く梅<や・ばい>という意でも勿論なく、危険な状態に入ってきた、という意の隠語でヤバい・・・です。

 稽古しなきゃなあ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*このコンサートについて、くわしくはこちらです。(なお、このホームページに掲載されている、私の顔写真をクリックすると、このブログにリンクしてきます。台東区芸術文化財団で私を担当しているK嬢が、よせばいいのに、リンクを張ってくれたのです。一般の真面目な人が、このブログへ飛んで来るなんて、ひええ、ヤバいです、その点も。)

*このコンサートに出演を依頼されたいきさつについては、このブログの3/10号をご覧下さい。

VIP?の八王子訪問

 4/27は火曜日で休みでしたので、八王子の料亭「坂福(さかふく)」さんを訪ねました。「坂福」さんは、すき焼きをメイン料理にしている、料亭さんでして、かねて興味を持っておりましたが、その話しを、国際観光日本レストラン協会の総会で御一緒した、「八王子エルシイ」のO会長にしましたところ、「坂福さんは、良く知っているから、是非ご紹介しましょう。」と有り難いお言葉。善は急げ、で早速お訪ねすることにしました。

 八王子は、明治時代後半・大正・昭和の頃、織物業が盛んで繁栄したそうです。それで財を成した旦那衆が遊ぶ花柳界が出来たり、牛鍋屋ができたりしました。明治45年創業の「坂福」さんも、その内の1軒だそうで、ホームページを見たところ、歴史の風情を感じられそうな御店です。

 そういうわけでの今回の訪問です。まずは「坂福」さんを訪ねる前に、Oさんご経営の御店「八王子エルシイ」にご挨拶にうかがいました。Oさんは、八王子観光協会の会長を務めておいでで、八王子の、重鎮中の重鎮なのですが、さすがに、そういう方の御店は、立派な構えです。

 「エルシイ」さんで、コーヒーをご馳走になり⇒館内を見学させていただき、「坂福」さんへ向かおうとすると、Oさんが「では、「坂福」さんまでご案内しましょう!」とおっしゃいます。

 いやいや、そんな恐れおおいです。連絡をとって下さっただけで有り難いのに、同行して下さるなんて。世話焼きの方とはうかがっていましたが、それは恐縮です、と申すと、

 「いいんです。「坂福」のD君も、頑張っている、元気な社長で、きっと仲間になれるから、是非直にご紹介しますよ。」

 と、いうわけで、地元の重鎮・業界の大先輩にエスコートしていだいて、鳴り物入りで、現地入りし、結構なすき焼きをいただきました。牛は「いわて南牛」、ザクに玉ねぎが入っていて、麩が細長い焼き麩でした。

 食後にコーヒーをいただきながら、D社長から、八王子のこと、すき焼きのこと、向笠千恵子先生の「すき焼き通」は端から端まで熟読して、そこに載っているすき焼き屋は、のきなみ訪問したことなどをうかがいました。

 怒涛の勢いで語る、D社長の語り口は、講釈のように切れ味があります。そのわけを聞くと、なんと「講談人力車」として有名な、浅草の車夫・O氏に弟子入りして、やり方を伝授されたのだそうです。そして、さらに驚きなのは、D社長自らが講釈しながら、客を乗せて曳く、人力車が店にある、というのです。

「 住吉さん、お帰りの時は、車夫の装束に着替える間チョッとだけ待っていていただければ、駅まで人力でお送りしますよ!」

 いやいや、それは遠慮しておきます。住吉風情は、ゼンゼン、VIPじゃありませんから、駅まで歩いて行きます。それと、次回の「すきや連」には、Dさんも是非お誘いしたいと思っていますが、是非気楽におつきあいいただければ、と思ってます。

 ええ、本当に結構です、恥ずかしいですから、じゃなくて、時間がなくなってきましたので。長居いたしまして、スミマセン、もう帰ります。すたこらさっさ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*「坂福」さんについては、こちらです。

*「八王子エルシイ」さんについては、こちらです。

夜桜?見物

 昨晩、店の仕事が終わった後、ヨメと隅田公園へ夜桜見物に行きました。と言うか、正確に言うと、夜桜見物をしている人達を見物に行きました。平日の方が、サラリーマン諸氏がご機嫌にワーワーと飲んでいる姿が見られるので、こちらも楽しい気分になります。それを見に出かけたわけです。桜そのものは、そういうわけで酔客のカーニバルが繰り広げられていますから、良く見えませんでしたが、七分〜八分咲きといったところでしょうか。

  今回良く見えなくても、いいんです別に。私はどちらかと言うと、ハラハラと散っている桜の方が好きなのです。それに、桜が散る頃―4月の2週目あたり―になると、陽気もだいぶ暖かくなってきます。だから、そういう暖かい日の午後、時間が出来たら、もう一度隅田公園へ出かけ、桜が散るのを眺めつつ、ボケーっとします。これがとても良い気分ですから、お勧めです。

  今の時期の公園は、上に書いたような世界なので、「ヨッパライは嫌い!」という人には、今の時期はお勧めできませんね。それに、まだ外はかなり肌寒いですよ。だから、「どうしても、今花見をするんだ!」という方は、サクっと公園を巡回した後、浅草の飲食店に入りましょう。冷えた御体には、すき焼きが良いと思います。

  そういうお客様のために、この時期、「ちんや」4階の、エレベーターを降りた真正面のところに、楊洲周延の「浅草公園遊覧之図」という開化絵をかけています。洋傘をさした着物の美女の背景に、満開の桜が描かれていて、綺麗です。店内で少しでも春の風情を感じていただければ、と思います。

  それから、もう一つ春の風情を感じていただく作戦が、「ちんや」のトイレ(の個室の中)にあります。でも、この作戦はブログに書いてしまうとつまらないので、「サプライズ」ということで、ヨロシクお願いします。

 「あい変わらず、住吉は意地が悪いなあ! つまらない、とか言わないで教えろよ!」

うーん、考えておきますけどねえ、このブログでは、「意地悪キャラの住吉」が確立しつつありますからねえ、今すぐキャラ設定の変更は難しいかもしれないなあ。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*「ちんや」所蔵の開化絵を見たい方は、こちらです。

開化(ひらけ)た保健所

 「台東区食品衛生自主管理推進店」登録制度に「ちんや」が登録していただけることになり、台東保健所の方が、ウチの店の写真を撮りに見えました。

 「え? 保健所が、「ちんや」の店の写真を撮りに来た? 保健所がそんなことするの?」

  そうなんです。このブログの3/12の号にも書きましたが、この制度に登録が認められると、衛生自主管理をしている店として、台東保健所のホームページに載ります。店のPR文も、短いですが、載せてもらえます。そのお店紹介コーナーに使う写真を撮りに見えたのです。

  このように台東区の保健所は開化(ひらけ)ているのです。他の地区の、開化(ひらけ)ていない、保健所の皆さんも、台東区のようにして下さったら、もっと民間業者が協力的になると思いますよ。実際、浅草料理飲食業組合では、II田組合長以下、この制度の普及に協力体制を組んでいくことになっていて、私は、その担当委員長として、PRにこれ努めている次第です。

  あ!でも、すき焼き屋がない地区の、保健所の皆さんは、開化(ひらけ)るのは、難しいかもしれないなあ。だって、昔から言いますからねえ、「牛鍋喰わねば開化ぬやつ」って。(出典:仮名垣魯文『安愚楽鍋』、明治4年)

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*「台東区食品衛生自主管理推進店」登録制度については、こちらです。