鉄関係の絵=吾妻橋真画
先日、鉄関係の会社に勤める知人が来店しましたので、部屋へ顔を出しましたところ、
「いやあ、季節で絵を掛け変えるのは、大変ですよねえ」と褒められ、絶句してしまいました。
その時掛けていたのは、井上探景の「大日本東京吾妻橋真画」という絵なのですが、この絵の中で、吾妻橋のほとりに描かれている花は、この時期=6月の花ではありません。吾妻橋が架かったのは、明治20年の12月9日のことですから、情景は冬でして、今はと言うと夏・・・ですよね。
その人は、実際に良く絵を見たわけではなく、
料理屋=季節で絵を掛け変えるもの⇒それを「大変ですよねえ」と褒めておけば⇒店の人は喜ぶに違いない、と考えたのでないでしょうか。
「ちんや」で掛けている、明治の開化絵は、美術品というより、ジャーナリステイックな性格の絵ですので、季節の風情がテーマになっていることは、あまり多くはないのです。井上探景という絵師は、そういうこともテーマにしていた数少ない絵師ですが、それ以外の、だいたいの絵師がテーマにしたのは、
「最近、こんな凄い建物ができたよ!」とか、
「最近の華族様というのは、こういう服をお召しになるんだよ!」というようなテーマです。
だから、四季をうまくカバーする作品を収集しにくく、結果として、季節外れの絵を掛けている場合があります。
今回の「吾妻橋真画」にしても、そのお客様が、鉄関係のお仕事の人だったので、掛けていたのです。吾妻橋は隅田川に初めて架かった、鉄の橋だったので、そういう理由で、その方にあわせて掛けていた次第です。
吾妻橋のたもとに本社がある、アサヒビールの社員の方が見えた場合にも、「吾妻橋真画」を掛けることがあります。今自分の本社がある場所は、明治時代は、こんな景色だったんだ、と知っていただきたい、という趣旨です。
気づいていただけると、嬉しいです。
なお、カリスマ受け売り師の、住吉史彦先生によると、
この吾妻橋は、練鉄製の本体を三連ピントラス形式で支える構造で、一方床面は、馬車や人力車に対応して、木床であった。橋長148.8mと当時としては長大な橋梁で、またスタイルも新しかった為、市中の話題となり、開通式も盛大だった。この橋は関東大震災(1923年)で崩壊し、その後現在の橋に架けかえられた。
絵師の井上探景(いのうえ たんけい:1864〜1889年)は、浅草の呉服屋の子であったが、幼少より絵を好み、同じ町内の小林清親(きょちか)の門弟となった。風景画にすぐれ、『東京真画名所図解』などの傑作を残したが、26才の若さでこの世を去った。
―っていうことだそうです。ご静聴ご苦労さんでした。
*「ちんや」が所蔵する、開化絵はネットででも覧いただけますので、こちらから是非どうぞ。
おもてなしの絵にまで、心を配っているなんて、流石は老舗。
ちなみに
井上安治(探景)は、今で言う雷門二丁目の生まれでしたよね。(確か…)
東京百景とか、透き通った感じ、爽やかな感じで。
あれ、違ったかな。。。
あやふやぁ。
書かなきゃよかった?(笑)
カリスマ受け売り師の住吉史彦です。井上安治にお詳しいとは知りませんでした。清親と安治は「開化絵」の絵師というより、後の「創作版画」の先がけのような人物ですから、本当はカテゴリーを分けた方が良いのでしょうね。「吾妻橋真画」は、実は、そういうことを学ぶ前に手に入れたものです。その後で同じ画題の小林幾英の絵も入手しましたので、http://www.chinya.co.jp/gallery/
をご覧いただければ、と思います。こちらは、いかにも「開化絵」っていう感じです。