洋食屋さんのある街

 ある日の夕刻、人形町を訪ねました。

 人形町~正しくは日本橋人形町ですが、近代的なビルが並んでいて一見ビジネス街のようです。でも、なぜかすき焼き屋さんと洋食屋さんが多い街です。その点が浅草と煮ているイヤ似ている、と言ってしまって良いのではないかと思います、アバウトですが。

 さらに歴史を調べますと、もっと似ています。浅草にあったものが、それ以前は人形町にあったのです。

 江戸時代初期には、葦原遊郭が人形町大通り東側の辺りにあったのです。1657年(明暦3年)の「明暦の大火」でこの辺り一帯が焼失した後、それを機会に幕府が移転を命令して、それで現在の浅草北方に移ったのです。

 もう一つは歌舞伎小屋です。やはりこの辺り(=堺町と葺屋町)にあった芝居小屋は、1841年(天保12年)12月の火災の後、浅草猿若町(=現在の浅草6丁目)に移転させられました。この移転命令は「天保の改革」として知られています。

 似てますね。歴史の方はアバウトな感覚ではなくて、史実です。

 さて、その人形町に今年創業100周年を迎える洋食店「小春軒」さんがあります。

 初代は、まず上野「精養軒」に入り、それから明治の元勲・山縣有朋公のお抱え料理人に成ったそうです。

 可愛い店名は初代・小島種三郎さんが春さんと結婚したことから「小春軒」と名づけられたと言います。

 店名の通り、今でも家族経営で、モットーは「気どらず美味しく」。この日も4代目を中心に営業しておられました。

 で、初代が考案したという元祖「カツ丼」と、もう1品ハンバーグをいただきました。

 カツ丼は洋食店だから洋風です。カツの上に目玉焼きとデミグラスソースで煮た野菜がたっぷりのって、しかも半熟卵も絡まっています。

 旨いですねえ。旨い要素がテンコ盛りです。

 人形町は一見近代的ですが、こういう旨いものがある街です。

 「小春軒」さんの店内には、御店の歴史を書いたボードが掲げてありましたが、そこには、

「初代・小島種三郎が結婚を期に独立、下町・人形町に開業した」と記されていました。

 そう、ここは下町なんです。

 そして旨いものがあります、下町には。

 追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

  「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は300人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて963日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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3153

 「UENO3153」が開業しました。

 「ユーイーエヌオー・サンイチゴーサン」と読むわけでは勿論なく、「うえの西郷さん」と読むのだそうです。

 普通に「西郷会館」と言えば良さそうなものを「・・・」ですねえ。どうせなら、もっと歯切れ良く、UEN35とかにして、HKTの後でも追えば、と思ったりしますが、それはさておきまして、場所と事業内容を書いておきますと・・・

 場所は、上野の山の西郷像の直下で、以前レストラン「聚楽台」があった場所です。事業内容は飲食店を中心とした複合商業施設で、「精養軒」さんや「銀座ライオン」さんが入っています。「・・・」なテナントも入っていますが、そのことをここに書くのは止めにして、西郷さんのことを書いてみることにします。

 最近「維新」が流行ってますしね。

 さて「書いてみる」と申しましても、西郷さんについて私が立派な論を書けるわけではありません。

 書けるとしたら、実に分かりにくい人物だった、ということだけです。近代政治史上、最も分かりにくい人かもしれません。

 西郷さんと言えば「維新の酸欠」イヤ「維新の三傑」ですが、西郷さんは結局日本の近代化を推進したかったのか、そうじゃなかったのか、良く分かりません。

 薩長同盟・王政復古・戊辰戦争・江戸開城・廃藩置県といった一連の変革は、全て西郷さんが主導しており、特にこの中で最も革命的な内容の廃藩置県は、西郷さんの強烈な意志の力なしには、とても成し得ない一大事でした。

 参議在任中に、士族から職を奪う「徴兵令」の布告にも賛成していますから、ここまでは近代化路線です。

 しかし、その後西郷さんは「征韓論」という奇妙な政策にとりつかれてしまい、この政策が却下されると下野、ついには、あの無謀な西南戦争を引き起こしてしまいます。

 西南戦争の時の西郷方の戦略は、西郷さんが「反政府」を掲げて決起すれば、全国の不平士族が一斉に蜂起するから、それを引き連れて上京すれば良い。戦略なんてものは無用だ、という戦略でした。無謀な流血を長く続けさせた罪は重いと言えます。

 しかし、西郷さんはとても敬愛された人で、特に戦った経験のある敵方から愛されました。

 『南洲翁遺訓』という西郷さんの教訓録は、戊辰戦争で薩摩藩と激しく戦った、旧庄内藩士たちが、その後西郷さんを敬愛するようになり、直接聞きとった教訓を本にまとめたものです。

 明治天皇も西郷さんが大好きで、西南戦争が始まると陛下は半ノイローゼのような精神状態に成ってしまいます。

 戦争の終盤・城山の戦いでは、新政府方の将軍・山縣有朋が、城山に籠る西郷さんに密書を送っていますが、そこには西郷さんへの敬意が綴られていました。

 こうした話しは美談ですが、分かりにくさ、評価のしづらさに繋がって行きますね。

 そうした話しの最後のオマケが、上野の山の銅像です。

 上野の山は、彰義隊VS新政府の激戦地で、新政府方の先鋒は西郷さんが率いる薩摩兵でした。両者は上野広小路の辺りで激しく衝突したと伝えられています。

 もっとも、この戦いの帰趨を決めたのは佐賀藩が持っていた長射程のアームストロング砲でした。新政府方は、この大砲を本郷台に曳き上げ、不忍池越しに上野に向かって砲撃しました。対する彰義隊は旧式の武装だけでしたから、上野から逃走せざるを得ませんでした。

 この砲撃で上野の多くの文化財が焼失しました。上野の人々は、さぞ残念がっているはず、と思いきや、その戦場に西郷さんの銅像がたてられました。

 銅像がたったのは明治31年。上野戦争から31年、西南戦争から21年しか経過しておらず、実に驚く話しです。さすがに銅像の西郷さんに官服を着せるわけにはいかなかったらしく、着流しの西郷さんに成りましたが、それでも朝敵の銅像を、同じ陛下の在位中にたてるとは驚いた話しです。

 しかし時代は流れて、今や上野と言えば西郷さん、という感じの観光スポット・観光資源です。

 その銅像直下の「3153」を訪れる人々の中で、果たして、どの位の人が西郷さんの分かりにくさを分かっておいでなのでしょうか。

 いや、そういう方向へ客が興味を向けないように、あえて軽い感じで3-1-5-3なのか。

 でも4桁は歯切れ悪いですよね。やっぱり48の方が良いよねえ。

 追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

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両国広小路

 両国広小路で、軍鶏鍋を食べました。

 両国と言いますと現代では相撲をやっている所、というイメージだと思いますが、この辺りは、実はその昔江戸一の盛り場でした。

 その昔と言っても、かなり昔です。

 1657年の「明暦の大火」の後、両国橋両岸が幕府によって、「火除け地」とされました。「火除け」すなわち火事が延焼しない位、建物と建物の間の間隔を広げるわけですから、当然大通りができました。

 大通りですから「両国広小路」と言われるようになり、そこには見せ物小屋や商店、飲食店が軒を連ね賑わったと伝えられています。

 その名残りが老舗飲食店として、今も残っています。橋を渡って両国に参りますと、猪鍋の「ももんじや」さんとか、鶏鍋の「ぼうず志ゃも」さんなどがあります。「ももんじや」さんは、ビルの外壁に猪を吊るしていますから、知らない人が通るとビックリすると思います。

 でも歴史的には、より栄えていたのは、現在の墨田区両国つまり両国橋を渡った東詰めより、むしろ手前の西詰め、つまり現在の中央区東日本橋の辺りだったようです。

 その賑わいを復活させよう、という試みが、今行われています。特に隅田川を利用して、夏場に涼をとりつつ楽しんで貰おう、というイベントが行われています。

 それが「両国広小路桟敷(さじき)」です。

 隅田川護岸テラスの上に櫓を組み上げて⇒高床を作り⇒そこに畳を敷いて⇒宴会をするわけです。いい感じですよね。

 しかも、そこで出される料理が軍鶏鍋の名店「玉ひで」さんの鍋だと言いますから、行かない手はないですね。国際観光日本レストラン協会の仲間と一緒に行きました。

 「玉ひで」さんは日本橋人形町ですから、両国橋西詰めとは少し距離がありますが、久松町料理飲食業組合のエリア内なので、頼まれて出店なさっているそうです。まあ、細かいことは流しておきましょう。

 で、参りますと、「玉ひで」の御主人Y田さんがおいでではないですか。

 あ、Y田さん、ご無沙汰ですね、「ちんや」です!

 なんだ!住吉さん、このメンバーに入ってたの!そういうことは先に言ってよ~

 いやあ、御主人がここにおいでとは思わなかったもんですから。

 ああ、桟敷ではね、本店と同じ料理じゃなくてね、池波正太郎先生の「五鉄鍋」を再現するってことを実験的にやっててね、実験だから、自分でやってるんですよ。

 ほお、なるほどですね、この暑い中、御主人自ら大変ですねえ。

と、いうことで再現「五鉄鍋」が、「両国広小路桟敷」で始まりました。

 夏だから暑いのか、鍋の火力で暑いのか、判然としませんでしたが、最初から暑いのを覚悟して来ていますから、まあ、気になりません。

 そして鍋は、御主人自ら作って下さるのですから、当然、美味。

 良い夏の経験をさせていただきました。

 ちなみに「ちんや」があります通りも、両国と同じ事情で、「浅草広小路」と言われていました。

 現在は「浅草雷門通り」と言っていますが、「広小路」の方が、由緒があって、しかも何故この通りがひらけているか、理由がすぐ分かるので、私はそっちの名前が好きですね。

 浅草広小路の「ちんや」と覚えていただけたら嬉しいです。

追伸①

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 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて902日連続更新を達成しました。毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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采配批判

 日露戦争を描いた小説「坂の上の雲」を読むと、明治の日本人が、軍の采配を相当批判していたことが分かります。

 開戦当初、ロシア海軍の基地は旅順とウラジオストックの二か所に在りました。この内、旅順は不登校イヤ不凍港だったので強力な艦隊があり、それで東郷平八郎提督率いる、日本の主力艦隊は旅順艦隊と戦っていました。

 一方、上村彦之丞中将を司令長官とする第二艦隊はウラジオ艦隊と戦っていました。ウラジオストックは北方の凍る港で、そこを基地とする艦隊が、必然的に小規模だったからですが、この第二艦隊が相当批判されたのです。

 ウラジオ艦隊は、高速で日本近海を走り回って、たまに攻撃してくる、という作戦だったため、上村艦隊は、これを何度か獲り逃し、最終的には撃滅するのですが、かなり時間がかかったため、当時の議会や新聞から、いいように批判されました。自宅に投石されたこともあったそうです。

 昭和の戦争とは、大分様子が違ったことがわかりますね。

 「坂の上の雲」には、悔しさを紛らわすために、独り魚釣りをする上村中将の様子が描かれています。

 それから100年、ロンドン・オリンピックでも監督批判は花ざかりですね。

 それだけ国民の関心が高いのですから、悪いことではないのかもしれませんが、私は好きではありません。

 先日米沢へ出張した時に、新幹線で私の斜め後ろに座っていた、オジサン二人組がそうでした。

 だからさあ、あの管理だとさあ、やっぱり銀までなんだよ!

 そう、金は獲れないな、銀までだよ、せいぜい。

 今時の管理かもしれないけどさ、今時の管理でしかないんだよ。

 そうそう!

 金は無理だな。

 うん、金は無理。

 考え直した方がいいよ!オリンピックはさあ、またあるんだから。

 そうそう、考え直した方がいいね、またあるんだから・・・

・・・金以外だと、何を言われるか、分かりませんね。

 私は、自分のくわしくない分野のことをあれこれ言うのが好きでないので、あまり申しません。ブログにも評論は書きません。

 監督批判も、

 歌舞伎評も、

 グルメ評も書きません、別の理由ですが。

 良いなあ、と思ったもの・共感できるものを紹介するだけです。

 そのわりには、続いてますよね、弊ブログ。

 引き続き、よろしくお願い申し上げます。

追伸①

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 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて897日連続更新を達成しました。900日まであと3日です。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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発祥の地

 英国映画協会が発行する映画雑誌『サイト・アンド・サウンド』誌が、「世界の映画監督358人が投票で決める最も優れた映画」を発表したそうです。

 で、その第一位はなんと、日本の小津安二郎監督の『東京物語』(1953年)でした。映画批評家846人による投票でも3位だったそうです。

「小津監督は、その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」が評価理由です。

 この所たまたまですが、小津監督好みの「カレーすき焼き」を名物にしている、老舗旅館「茅ヶ崎館」さんと御縁が出来て、それで小津監督のことにも興味が湧いて、少し調べていました。

 そこへ、このニュースですから、自分のことのように嬉しく思ってしまいました。

 一方、残念なニュースもありました。

 今年10月、浅草から映画館が無くなるのです。

 今浅草六区にある映画館5館は、全て松竹さん系列の経営ですが、今年10月までに全て閉館するということが発表されました。

 建物の老朽化がヒドくて、取り壊されるそうです。

 浅草六区は、明治時代に日本初の常設映画館ができた所です。つまり浅草は、言わば映画館発祥の地なのですが、今年で全て姿を消すことになるのだそうです。

 最近は映画観賞と言えば「シネコン」が主流でしたし、5館の内2館はしばらく前からピンク映画専門の在り様でしたから、いつまで経営がもつのやら・・・と思ってはいましたが、実際に廃業と聞かされると、その残念さは想像を超えたものでした。

 発祥の地なのに今はそこに無いって、実に悲しいことです。来年からは映画を観るたびに、思い出してしまうでしょう。発祥の地なのに今は無いって。

 自宅でいくらでも映画を観れる世の中ですから、映画館に歩いて行く必然性が無いと客は来ませんね。大規模映画館の維持が難しいのは当然です。

 でも、そこをなんとか、規模をスリム化して、さらになにかアイデアを出してやって行くことは出来ないもんなのでしょうか。必ず俳優さんが解説をして、鑑賞後は、その人のサインが貰えるとか、あるいは思い切って、「活弁」を復活させる、とか!無理ですかねえ。

 なんだか、今の日本には、評価は高いのに産業としては右肩下がりっていう業界が、いくつもあるような気がします、アバウトな感想ですが。

 食べものでは、日本酒業界がそうですね。

 なんとかならないものか、いつも、そう思います。

追伸①

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百年祭

 百年前の、7月30日に明治天皇がお隠れになりました。

 今年は、それから百年なので、明治神宮では明治天皇百年祭が行われたようです。

 この日、浅草出身の薩摩琵琶奏者・友吉鶴心さんが奉納演奏をされました。生前こよなく薩摩琵琶を好まれた、ということで選ばれたそうです。

 また「東都のれん会」で御一緒する、豊島屋酒造さんは、日頃神宮に御神酒を納めておられる関係で、やはり百年祭に参列されたそうです。そうFBに投稿がありました。

 あいにく私は、この日が株式会社ちんやの決算棚卸しの日に当たってしまい、参列できませんでしたが、勿論、この、近代日本を一代で築いた大帝陛下の御人柄を慕う一人です。

と、申しましても、陛下の御人柄を知ることは、実は簡単ではありません。当然ながら、自由に発言できる御立場ではなかったからです。

 勅語はいつも漢文調で、いかめしいことがほとんどで、それを作文するに当たって、陛下御本人がどれだけ関与されたのか、今となっては全く分かりません。だから、発表された文言を読み、実際の行動と照らし合わせて、想像する他ないのです。

 その膨大な作業を成し遂げたのが、ドナルド・キーン博士の大著『明治天皇』です。上下巻のぶ厚い本です。私も少し苦労して読みました。

 勅語を読みますと、頻繁に「皇祖皇霊」「祖宗」という言葉が出てきますね。

 「皇祖皇霊」ひらたく申すと御先祖を崇拝し、先祖に対して恥ずかしくない統治をしなければ、という思いが強い方であられたのだろう、と思えます。その責任感が、陛下の並み外れた精神力・忍耐力を培ったものと想像できます。

 陛下の御生涯で、私が一番印象的なのは、日露戦争の、旅順陥落時のエピソードです。

 旅順要塞はロシア帝国が東洋進出の拠点として、当時の築城能力の粋を集めて建設した大要塞で、その攻防戦では、双方合計で戦死26.000人+戦傷74.000人という、空前の量の血が流されました。

 戦いがようやく、日本の勝利に終わった時、陛下にそのことを奏上した陸軍幹部は、興奮しきっていたようです。ここで敗北すれば日本の国そのものが危うかったから、当然です。

 しかし、この報告が御耳に達した時、陛下の御様子は、喜びではなく興奮でもありませんでした。

 敗北したロシアの司令官ステッセル将軍に、軍人としての名誉を保たしめるように、というのが、陛下の御指示でした。

 陛下は日清戦争の時に、やはり旅順で日本軍が残虐行為を働いたのをご存じで、今回は、軍にそういう恥ずべきことをさせない、と決心なさっていたのです。

 この御指示の背景には、「皇祖皇霊」に対する意識があったことと思います。

 ですから陛下は民主主義の君主では勿論なく、御学問も余りお好きではなかったようなのですが、それにも関わらず、強い指導力をお持ちでした。

 その陛下の肖像画を、私は「ちんや」の玄関に掲げています。

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行って来ました、カレーすき焼き

 え~7/27まで夏休みを頂戴しご迷惑をおかけしました。昨日7/28より営業いたしております。さて夏休みを利用しまして・・・

 行って来ました、カレーすき焼き。

 料理雑誌『ダンチュウ』8月号のカレー特集に、小津安二郎監督が愛した「カレーすき焼き」のことが載っていました。

で、当然ですが、食べに行ってきた次第です。

 場所はチト遠くて茅ヶ崎です。そこに小津監督所縁の宿『茅ヶ崎館』さんがあり、泊まらなくても昼食だけ食べられるのです。

 食しまして、「カレーすき焼き」はまったく違和感がありません。

 「ヒデキ、感激!」のバーモントカレーにリンゴと蜂蜜が入っていることからも分かる通り、甘い+辛いはアリなのです。我々がすき焼きに七味唐辛子をかけるのと余り変わりがないのかもしれません。

 肉はメスの葉山牛のリブロースだけでした。

 作り方は、ネギを最初に焼く「ちんや」と同じ方式。このやり方は八王子の「坂福」さん、郡山の「京香」さんでも見ました。

 鍋は一人個別鍋。旅館で良く見る固形燃料を使います。私は連れと鍋をつつきたかったのですが、ここは旅館方式ですから仕方ないですね。

 建物も有形文化財で風情満点です。明治・大正・昭和の風情を今に伝えています。

 旅館の個室ですき焼きをいただくと、東京の近くに居るのを忘れるほどゆっくりできて、戦前の貴顕がここを避暑地にしたわけが分かります。今は有名人が多く住むとか。

 それに、若旦那(=5代目館主)Mさんは研究熱心でイケメン。

 皆さんも、是非お出かけを。

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老舗の生き抜き方③

 福島県酒造組合さんが運営する学校「県清酒アカデミー」で1時間ほどの講演をすることになりました。

 震災以来応援している「福島の酒」ですし、聞き手は醸造を志している若い方ばかりだそうですので、一生懸命お話ししてきたいと思っています。

 その原稿が準備できましたので、弊ブログでも公開して行きたいと思います。長いので8回に分けてUPしています。

 御題は、老舗の生き抜き方というものをお話しせよ、ということしたので、そういう方面の話しをさせていただきます。

 本来自分で「老舗」と自称するのは僭越な話しではあるのですが、他に適当な日本語がありませんので、使うことにいたしまして、つまりは浅草の、すき焼き屋ですとか、天麩羅屋ですとか、鰻屋ですとか、蕎麦屋ですとか、そういう仕事を永年して来た店が、時代の変化や危機をどのように乗り切ってきたか、をお話ししてみたいと思います。

 本日は、その第3回です。おつきあいいただけましたら、幸いです。

<以下講話本文>

(関東大震災・東京大空襲と浅草)

 そこへ1923年、関東大震災が起こります。

 大火災が発生しまして、特に浅草を含む東京東部は壊滅・ほぼ丸焼けの有り様と成りました。帝都随一の展望台だった「十二階」もあえなく倒壊しました。そして、その震災後の復興キャッチフレーズが、あの有名な

「君よ、散財にためらうことなかれ。君の十銭で浅草が建つ。」です。

そんな看板が立てられたといいます。つまりは経済を止めてしまったら第二の被災になってしまうから、厳しい中でも少額でも消費して、豚カツとかシナ蕎麦とかにお金を使って再建しよう、ということです。

 十銭消費のおかげで、この時は意外な速さで、復興が進められ、昭和も二ケタに入りますと、高見順の小説「如何なる星の下に」に描かれたような興業街が復活します。しかし、もう時代は「国家総動員の時代」ですね。浅草はこの頃、時代にあわせられない人達~たとえば永井荷風や高見順に愛されるようになります。

 反体制と言うと言い過ぎかもしれませんが、そういうイメージの、小さい心の逃げ場として、もうしばらく繁栄を続けていきますが、もう戦争です。

 歴史とは皮肉なもので、総動員されたくない人々が集っていた浅草が、1945年の大空襲で完全に壊滅します。去年の津波の映像も酷かったですが、あれに匹敵する酷さで、全てが焼き尽くされたのが浅草でした。関東大震災でも壊滅しましたので、二度目です。

 ここでレジュメの下に載せた写真を説明をしますね。これは浅草寺の本堂です。現在の本堂では、勿論ないです。戦災から1958年(=昭和33年)まで使われていた仮本堂です。今は「淡島堂」と呼ばれていて浅草寺の境内にありますが、こんな小さな建物です。入口なんか、人間が3~4人しか通れないです。

 こんな小さな建物が13年間も本堂だったのです。二度目の被災ということで、ダメージが大きく、13年も再建できなかったのです。

 13年もかかりましたから、その間に亡くなられた方も少なくなかったと思います。

 今度の震災があって、私は、朝のニュース番組で三陸の御寺や御やしろが壊れているのを見て、その後たまたま「淡島堂」の横を通りかかりました。ああ、今回被災した御寺が再建されるのに何年かかるだろう、それを見ずに死んでしまう人もいるだろう。昭和本堂の完成を見ることのできなかった浅草の人達の悔しい気持ちと同じだなあ、と思いました。

 あの建物を見ていて、心底からそういう感情を持ったのは、私にとっては、これが初めてでした。以上がこの写真の説明です。

 さて、このように浅​草は1923年と1945年の二度丸焼けになっているわ​けで、実は20世紀前半の、最大の被災地とすら言えます。こ​の時代、浅草の家で、身内に一人も死人が出なかった家は​珍しかったのです。それでも所謂「老舗」企業は継続して来たわけで、それは人々​が、丸焼けの状態からの復興を果たして来たからです。

 こうした被災の経験から学ぶことが出来るのは、「本当の資産と​は、金でも建物でもない」ということです。それは、第一​には働く者の心と智恵であり、また第二には店の再開を望​んで下さる御客様とつながりです。だって、そもそも金は天下のまわりもの、ですし、建物だって爆撃されれば、跡形無くなってしまいますからね。

 特に重要なのは2番目の、御客様とのつながりだと思います・・・

<この話しは、長いので8回に分けてUPします。本日は、その第3回でした。>

追伸①

 藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に載せていただきました。
 不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

 他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

 是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
 ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は262人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて858日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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江戸趣味の街

 岩下尚史先生の講演を聞きました。

 岩下先生と言うと、最近テレビでユニークな「おじさん」キャラが話題になっているようですが、元々は「新橋演舞場」の企画室にいた方です。

 日本の花柳界の総本山とも言うべき「演舞場」にいた方ですので、花街・料理業界にもとてもお詳しい方で、『芸者論:神々に扮することを忘れた日本人』という御本で第20回和辻哲郎文化賞を受賞されています。

 さて、この日の話しは向嶋花街の歴史に関するお話しでした。

 向嶋は浅草から大変近く、実際私もたまにお世話になっているのですが、そう言えば、歴史の話しを聞いたことがありません。向嶋墨堤組合の公式ホームページにも、いつからどうして花街があるのか、書いていないのです。

 多分、江戸時代からではないだろうな、ということは分かっていました。

 江戸時代に栄えた花街は、今ではなくなってしまった、柳橋と深川です。歌舞伎には深川の「辰巳芸者」が良く登場しますが、向嶋芸者は登場しませんね。

 そのわけが今回の講演で分かりました。

 やはり江戸時代に向嶋に花街はなく、向嶋は、江戸市中の風流人が「雪見」をしに行く所だったようです。雪を見る所ですから、ハッキリ申して「田舎」です。茶店なども、ごく少数だったようです。

 その向嶋に、明治中期に花街=江戸趣味の街が人造的に建設されました。

 東京中心部がどんどん洋風化して行くのを嫌った人々が、江戸趣味を楽しむために、あらたに作ったのが向嶋花街なのだそうです。ちょっと、目からウロコです。

 向嶋を愛したのは、「朝野新聞」の創立者・成島柳北や、文豪・幸田露伴で、こうした人々が移り住むことで、趣味人の街という名声が高まったそうです。

 街の人々も、そういう花街の雰囲気づくりに腐心したそうで、その積み重ねが今日の隆盛につながっているようです。

 昔のものというのは、意識して、相当努力しないと無くなってしまいますよ!

というのが、この日の岩下先生の警告で、まさにそこを皆が認識しないといけません。

 邦楽や日舞に詳しくない私にとっては、かなり耳が痛いお話しでした。

 まあ、その後は、それでも、さんざん飲みましたけどね、当然、向嶋で。

 うーい、ひっく。

追伸①

 『料理通信』6月号に「ちんや」が紹介されています。

 この雑誌に服部幸應先生が連載なさっている、「世界に伝えたい日本の老舗」というコーナーの第37回に、お採り上げいただきました。

 有り難いことです。ご購読はこちらです。

 追伸②

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は142人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて828日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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Filed under: 憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

東京天空樹

 東京スカイツリー開業まで1週間です。

 皆さんはスカイツリーっていう名前に、もう慣れましたか。

 この名前を決める時、人気投票が上位だった、

 大江戸タワー

 新東京タワー

 さくらタワー

のどれにも権利上の支障があって、選考は難航し、投票順が下位のスカイツリーに決まったとか、報道されていました。

 「ジャックと豆の木」の、豆の木を連想させる名前だ、とかいう説明もありましたね。

 で、私が「慣れたか」ですが、

 慣れてま・せ・・ん。

 この名前が公表された日の、

「・・・」という気持ちを、今でも鮮明に覚えています。

 思えば、昔の塔の名前には雅趣がありました。

 「通天閣」=天ニ通ズル楼閣

 「凌雲閣」=雲ヲ凌グ楼閣

~ほら、いいでしょう。市場イヤ詩情があります。

 私は、こういうのが好きです。昔の日本人は、皆漢詩を嗜んでいましたからねえ。

 念のため解説しますと・・・

 大阪新世界の「通天閣」は1912年に初代の塔が完成。二代目の塔が今でも健在ですね。ビリケン様で有名です。

 その「通天閣」と浅草との間には、実は御縁があるそうです。「通天閣」の塔の側面には、現在日立製作所さんが非常に目立つ広告を出していますが、ここに広告を出す商談は、まず松下電器さんに行き、松下さんが断ったので、日立さんに回ったそうです。

 当時、関西の大手家電メーカー(=松下さん・三洋さん・シャープさんなど)に対抗して関西に進出しようとしていた関東の日立さんと、資金調達のために長期に渡って広告を出してもらえる大手企業を探していた通天閣観光さんの思惑が合致した結果が、これだという話しです。

 この広告のPR効果は絶大で、大阪でも日立さんの知名度は上がり、で、松下幸之助さんは、広告を断ったことを非常に後悔し、それで後に浅草寺に雷門の寄進を行なったと伝えられています。大阪新世界のリベンジを東京浅草で目論んだ、というわけです。面白いですね。

 一方「凌雲閣」とは、1890年から関東大震災まで浅草にあった12階建ての塔のことです。当時帝都随一の眺望を誇り、全国から観光客が押し寄せたと聞きます。

 その「凌雲閣」の高さはと申しますと、53メートル。53メートルでしかありませんでしたが、それでも名前は「雲ヲ凌グ閣」。

 詩ですねえ。

 聞けば、スカイツリーの中国語名は「東京晴空塔」だそうですが、中国語名だけでも変えたいですね、私なら。

 東武さんが当初考えていた「東京天空樹」は、既に中国で権利を獲られていて×だったそうです。直訳がどうせ獲れなかったのなら、漢詩っぽく行ってみては如何かと思います。

 宙ニ遊ブ塔とか、

 月ニ映エル塔とか、

 いやあ、ポエチック。いいねえ、我ながら。

追伸

 「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は111人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

 参加者の方には、特典も! 

 皆様も、是非御参加下さい!

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて807日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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