生誕地

3月に花川戸に開業する店の周りを少しずつ探索しています。

先日は、待乳山聖天まで行き、境内で

池波正太郎生誕地碑

を見つけました。

池波が生まれたのは、聖天さまのすぐ南の

東京市浅草区聖天町61番地(今の住居表示では台東区浅草7丁目3番)で、そういうわけで池波の小説には、この近くの今戸、橋場といった地名が出てくるのです。

浅草駅から聖天さままでは10分ほど歩きますが、池波ファンなら、きっとここまで足をのばして下さるだろうと期待しています。

この辺りに鶏鍋の「五鉄」があれば最適ですが、今度開業するのは牛鍋屋で悪しからずです。

追伸、すき焼き「ちんや」再開のおしらせです。

3月18日に、浅草花川戸「金泉ビル」(台東区花川戸2丁目16-1)で再開させていただきます。

すき焼き店のほか、精肉売店も併設致します。

「株式会社 WDI」さんとの御縁により、私の当初の見込みより早めに再開できることとなり、嬉しく思っております。

新店舗には旧店舗のスタッフも、私も従事致しますし、旧店舗の調度品を持ち込みますので、味や雰囲気を保てるものと考えております。

今後詳細が決まり次第順次こちらのサイトにて公開してまいります。ご期待いただけましたら幸いです。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.348本目の投稿でした。

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藪入り

ウチの父(1935年生まれ、86歳)は以前に、

自分は大学の法律学科で労働基準法を学び、「ちんや」に定休日の制度を導入したと言っていました。

これは、つまり「藪入り」の風習を止めたということです。

それ以前=戦前の日本で、丁稚や女中といった商家の奉公人が堂々と休めるのは、1月16日と7月16日の「藪入り」の日ぐらいなものでした。

藪入りの日となると、主人は、住み込みの奉公人たちに小遣いを与え、手土産を持たせて実家へと帰しました。

実家で両親と過ごす者あり、繁華街で芝居見物や買物などをして楽しむ者あり。

その頃、1月16日の浅草は、大勢の人が出て忙しかったと伝え聞きます。

が、戦後になって、日本でも労働者の地位が向上し、GHQ内部にも民主党支持者がいたことから、1947年(昭和22年)に労働基準法が制定されました。

これは革新的な法律でした。次第に週休制が定着し、働き方が変化するようになると1960年代までには、「藪入り」の習慣はすたれたようです。

1月16日は東京の「晴れの特異日」でもあるので、出かけるのは良いのですが、2022年の「藪入り」の日はオミなんちゃら株が蔓延していて、あいにくな日となりました。

このまま弱毒化してくれることを祈ります。

追伸、すき焼き「ちんや」再開のおしらせです。

3月18日に、浅草花川戸「金泉ビル」(台東区花川戸2丁目16-1)で再開させていただきます。

すき焼き店のほか、精肉売店も併設致します。

「株式会社 WDI」さんとの御縁により、私の当初の見込みより早めに再開できることとなり、嬉しく思っております。

新店舗には旧店舗のスタッフも、私も従事致しますし、旧店舗の調度品を持ち込みますので、味や雰囲気を保てるものと考えております。

今後詳細が決まり次第順次こちらのサイトにて公開してまいります。ご期待いただけましたら幸いです。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.341本目の投稿でした。

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大根まつり

今日は、待乳山の聖天さまの「大根まつり」の日です。

聖天さまの象徴である大根を頂戴できる(ふろふき大根)のですが、例年大人気で限定2000食も残ることはまずないので、食べたい方は早起きが必須です。

その聖天さまがおられるのは、小高い山の上。

「推古天皇の御世に地中から忽然湧き出た霊山」

とされています。

当時周囲は低湿地でしたから、高い土地な貴重だったはずで、こういう場所を中心に街ができたものと想像されます。つまり、街のルーツに関係ある土地。

その場所は浅草7丁目で、3月に新「ちんや」の花川戸2丁目からは至近です。

今朝早く起きられなかった方は、3月18日以降にご参詣になるのもよろしいかと存じます。

追伸、すき焼き「ちんや」再開のおしらせです。

3月18日に、浅草花川戸「金泉ビル」(台東区花川戸2丁目16-1)で再開させていただきます。

すき焼き店のほか、精肉売店も併設致します。

「株式会社 WDI」さんとの御縁により、私の当初の見込みより早めに再開できることとなり、嬉しく思っております。

新店舗には旧店舗のスタッフも、私も従事致しますし、旧店舗の調度品を持ち込みますので、味や雰囲気を保てるものと考えております。

今後詳細が決まり次第順次こちらのサイトにて公開してまいります。ご期待いただけましたら幸いです。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.332本目の投稿でした。

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住吉史彦の十大ニュース2021

大晦日は例年「住吉史彦の十大ニュース」の日です。

2021年は大変動の年でした。以下ご覧くださいませ。

1月 以前に出演させていただいた「新日本紀行 鍋のしあわせ」が英語版になり、NHKワールドで放送されました。

4月 TBSラジオ『伊集院光とらじおと』に出演させていただきました。

「食のプロがお金を出してでも食べたいプロの味」を桐畑トールさんが探して、その味を試食。さらに、そのお店の人がプライベートで通うプロのお店を数珠繋ぎに教えてもらう、というコーナーでした。

5月 今行きづらい「ちんや」へ「行った気になる画像集」を撮影し、冊子にしました。

お客様が浅草へ見えてから、食事を終えるまでをスライドショーのように撮ってありまして、閉店直前の、良い記念になりました。

5月 二期4年間務めました、慶應義塾「料飲三田会」の会長職を退任致しました。

その間ご尽力・ご協力いただいた役員の皆様、会員の皆様、関係者の皆様に心より御礼申し上げます。また会務で自分の店を留守にする間「ちんや」を滞りなく運営してくれた店のスタッフにも感謝致します。ありがとうございました。

6月「ちんや」 閉店・長期休業を公表しました。

7月 休業の件はYAHOO!のヘッドラインに載り、大勢のお客様にお越しいただきました。あまりに数が多く、ご予約のご要望に全てお応えできず、恐縮に存じております。

8月 弊ブログは続行することにしました。本日まで続いております。ご愛読に感謝致します。

8月「ちんや」事業の「株式会社WDI」さんへ移譲することにより、最短時間での再開業と、旧スタッフの維持を目指すことになりました。

12月「ちんや」再開業の時期と場所が決まりました。休業中はご心配・ご不便をおかけしましたが、最短時間で再開できると嬉しく思います。

12月 テレビ東京の「出没!アド街ック天国」に出演させていただきました。「ちんや」の移転、再開、事業承継の件も放送されました。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。

店が閉まっておりますのに、大勢の方が引き続きブログをお読み下さり、本当に在り難く存じます。来年も、よろしくお願いいたします。

年末2時間スペシャル

キリスト教の皆様、クリスマス誠におめでとうございます。

私にはほとんど関係ないので、以下テレビ出演の告知です。

今夜19時54分放送の、テレビ東京

「出没!アド街ック天国」

に出演させていただきます(「ちんや」が出ると言うこと自体ネタバレなんですけど)

「大浅草SP」「老舗の美食も変革の時!」

ということで「ちんや」の移転、再開、事業承継の件が放送されます。尺は、そこそこ長い予感がします。

「アド街」さんは、街もの番組の老舗で、浅草をたびたび取り上げて下さっています。

2020年4月11日にも採り上げていただいたので、コロナの入口と出口で出させていただいた形です。

ご覧くださいまし。

「アド街」は通常土曜21時放送ですが、今回は年末2時間スペシャルということで、19時54分からです。よろしくお願いいたします。

追伸、すき焼き「ちんや」再開のおしらせです。

2022年3月18日に、浅草花川戸「金泉ビル」(台東区花川戸2丁目16-1)で再開させていただきます。

すき焼き店のほか、精肉売店も併設致します。

「株式会社 WDI」さんとの御縁により、私の当初の見込みより早めに再開できることとなり、嬉しく思っております。

新店舗には旧店舗のスタッフも、私も従事致しますし、旧店舗の調度品を持ち込みますので、味や雰囲気を保てるものと考えております。

今後詳細が決まり次第順次こちらのサイトにて公開してまいります。ご期待いただけましたら幸いです。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.319本目の投稿でした。

Q&A

元の店の片づけが終わっていないものですから、相変わらず出勤しています。

そうしますると、必ずしないといけないのが、路上の掃除。

雷門通り側も雷門横丁側も一人で掃除します。営業している時は、誰かがやってくれたんですけどね、今は自分でします。

そうしますると、通行人の方にあれこれ聞かれます・・・・

Q:寅さん記念館はどこですか?!

A:と、寅さんは柴又ですね。京成線で30分くらいかかりますよ。

渥美清さんは元々浅草芸人だったのですが、『男はつらいよ』が評判になってからは、寅さんのイメージを壊してはいけないということで、寅さん以外の役をやらなくなりました。で、渥美清=寅さん=柴又というイメージが確立しました。

質問なさった方が浅草時代の渥美さんをご存じだったなら嬉しいですが、たぶん、違ったでしょうねえ。

もっと現実的なご質問も。

Q:喫煙所はどこですか?

A:台東区が路上喫煙を禁止しているのは、実は、朝7時から朝9時までの2時間だけです(令和3年4月1日にできた条例による)

しかし、その2時間以外も「ポイ捨て」と「歩き煙草」は禁止されています。

ですので、自分用のマイ灰皿を持っていない人は、指定公衆喫煙所へ行って吸わねばならず、それが、このQの回答になります。

指定喫煙所は区内に19か所。

浅草近辺だと、浅草寺境内に5カ所と、隅田公園と、吾妻橋の袂ですね。

浅草観光センターの前にあった喫煙所はオリンピックの前に撤去されました。雷門から一番近いのは吾妻橋です。

それがAですが、そんなことより、喫煙者はコロナで重症化するそうですから、お止めになってはいかがでしょうか。

本日もご愛読賜り、誠に在り難うございました。 弊ブログは2010年3月1日に連載スタートし、本日は4.292本目の投稿でした。

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フィクションドキュメンタリー

日本堤消防署さんの研修会で、

フィクションドキュメンタリー「荒川氾濫」

を視ました。

東京都北区のJR鉄道橋付近で堤防が決壊した場合と、東京都足立区の鉄道橋付近で堤防が決壊した場合を想定・作成された動画です。映画感覚の動画でした。

その設定では、浅草雷門は決壊から6時間で1メートル程度浸水すると放映されていました。

東京駅や銀座もやがて水没、東京の地下鉄は全部止まるという想定でした。

浅草は、実は1910年(明治43年)に水害に遭ったことがあります。

「明治43年の関東大水害」と言われるもので、死者769人・行方不明78人・家屋全壊2.121戸、家屋流出2.796戸にも上る大参事だったそうです。

これ以降浅草は水害に遭っていませんが、水害に遭わなくなったのは、1910年の大水害に危機感を覚えた当時の政府が荒川の流路掘削を決意したからです。

江戸時代、荒川と隅田川はつながっていて、水運の大動脈でした。荒川が隅田川へ流れこんでいるのですから、水量が多く、物資の輸送には便利でしたが、ひとたび水害が起きると惨事になったのです。

1910年の惨事を受けて、政府は「荒川放水路」を掘削することを決定します。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)まで、17年がかりの難工事の結果、荒川の水はかなり東方・現在の江東区・江戸川区の境へと流れることになりました。

この新しく太い流路が、やがて荒川の本流と認定され、江戸時代には荒川の本流であった現在の「隅田川」つまり岩淵水門より下流の部分が「隅田川」と呼ばれるようになったのでありました。

以来浅草は水害に遭っておりません。が、それから110年を経て、地球は温暖化し、放水路を掘削した今の荒川でも危なくなってきた、というのが、今回の研修です。

水害ばかりは、逃げるしかないですねえ。

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日本初

毎年11月10日は「エレベーターの日」です。日本エレベーター協会が決めています。

この日は、実は浅草に大いに関係ある日なのですが、経緯を観て行くと、トホホな点もあります。

さて、何故この日が「エレベーターの日」なのか、ですが、

1890年(明治23年)11月10日に、日本初の電動エレベーターが浅草「凌雲閣」で公開された日だからです。

浅草「凌雲閣」は当時帝都東京随一の展望塔で、当初11月10日に開業予定でしたが、開業式の来賓の都合で翌11日に繰り延べられました。

「エレベーターの日」は、何故か、最初の11月10日の方を採用しています。

そして、もう1点トホホなことが、

エレベーターは開業当日より故障が頻発。危険だということで、翌1891年5月には警察から使用中止が出てしまいました。訴訟沙汰にもなったとか。

そういう次第で、目出たさも中くらいなので、この「エレベーターの日」です。

もっとも、面白い副産物もありました。

エレベーターが動かないので、12階まで階段で昇る人を楽しませようと、「東京百美人」

という、写真の展示が行われました。

東京の美人芸者100名の写真を階段に展示して、その中から人気上位5名が表彰されるというものでした。そんなイベントは、勿論日本初でした。

今は知っている人も少ない「凌雲閣」ですが、最近「鬼滅」で再び注目されました。エレベーターと百美人も話題になりましたら、さらに面白いと思います。

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ひょうたん

アニメ『鬼滅の刃』の、浅草のシーンを観た方は、現代とかなり違うので、

これって、浅草のどこ?

と思った方が多いと思います。

観ていると、浅草の繁華街に大きな池があって、その池に面して映画館や劇場が立っていますが、その池が今はないので、場所が分からない方が多いと思います。

あの池は、形がひょうたんのようだったので、「ひょうたん池」と言いまして、場所は現在の浅草2丁目。JRAの場外馬券所がある辺りです。

今はビルが立っているということは、そこが埋め立てられたからです。

埋め立てられたのは1951年のことですが、それ以前に、太平洋戦争の戦災瓦礫が放り込まれていて、埋まったも同然の状態だったと聞きます。

土地の持ち主は浅草寺でしたが、戦争で本堂が焼けてしまったので、お寺はこの土地を売って、再建資金を捻出しました。

土地を手に入れて最初に「ひょうたん池」跡地を開発したのは、東急グループと阪急グループでしたが、やがて持ち主が変わり、1970年代からは馬券所があります。

残念ながら大正時代の風情は失われたままとなっています。

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鬼の棲み家

大ヒットアニメ『鬼滅の刃』がテレビで放送されたことにより、「鬼滅」の「聖地」である浅草が、また話題になることもあるようです。大正時代風の着物をレンタルして浅草を散歩するファンもいます。

が、そもそも「鬼滅」では何故浅草が鬼の棲み家なんでしょう?

当時随一の繁華街で、繁華街特有のダーティーさが浅草にはあったから、つまり今の新宿歌舞伎町のような土地柄だったということで選ばれたのかもしれません。

で、あれば、ですが、関東大震災(1923年)後の浅草にした方がよりリアルだったかもと私は思います。

当時震災で全てを失った人が、仕事を求めて浅草に流入していたからです。川端康成の小説『浅草紅団』を読むと、その様子が分かります。

なりふり構わず生き残ろうと、もがいていた人々の間なら、鬼も棲みつき易かったかもと思います。

しかし「鬼滅」の浅草には「凌雲閣」が描かれていますね。

「凌雲閣」は当時最高の展望塔でしたが大震災で倒壊しました。よって「鬼滅」の時代とは、大正元年(1912年)から23年までの間ということになりますね。

あ、そういう細かいことを考えずに視る方が良いですか、ね。

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