無形文化財

目出度いニュースです。料理が無形文化財になったそうです。

報道によりますと、

「京都府教育委員会は京都市左京区の老舗料亭「瓢亭」の十四代当主高橋英一さん(74)の「京料理・会席料理」を府指定無形文化財とすることを決めた。高橋さんは無形文化財保持者として認定する。」

「滋賀県や長野県で郷土料理が民俗文化財に指定されている例はあるが、無形文化財指定は全国初。」

瓢亭さんは創業約400年。「ミシュランガイド」関西版で4年連続三つ星を獲得したことが有名です。平成22年には黄綬褒章も受章しています。

高橋さんには、私も国際観光日本レストラン協会の理事会などで、お目にかかったりしますが、大変穏やかな、素晴らしい方です。

高橋さんは取材に応えて、

「季節感を大切にして食材をあまり触らず、素直に表現するのが京料理。今回、文化として認められたことで、日本食文化の世界遺産登録につながれば」と語っておいでです。

今、農林水産省が日本の食文化を世界遺産にしようとプロジェクトを進めていて、なんでも12月のユネスコの委員会で登録の可否が決まる見通しなのだそうですが、今回の京都府の指定は、その登録の条件を整える狙いがあるのだそうです。

まずは目出度いです。

台東区も、すき焼きを無形文化財にしてくれないかなあ。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.273日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

Filed under: すき焼きフル・トーク,飲食業界交遊録 — F.Sumiyoshi 12:00 AM  Comments (0)

地方出身者

わが義塾が、

「慶応義塾に出かけてみよう!地方出身者対象大学説明会2013」という学校説明会を開催した、と報じられていました。内容は、

・地方出身の慶大生によるパネルディスカッション

・地方学生のための奨学金制度の説明など、

「郷里を離れて上京を考える受験生のために、懇切丁寧な学生生活のレクチャーが行われた」そうです。

既に、合格者の約7割が1都3県(東京、神奈川、千葉、埼玉)に住む人ばかりで、こうしたリクルート活動を行わないと、慶應が「関東ローカル大学化」してしまうのだそうです。なんでも、

「こうした傾向はリーマンショック後の2010年ごろから顕著になってきたとのこと。近年、授業料の安い国公立大学の人気が高まっているのも、不況の影響によるところが大きい。」

「地方から出てきてせっかく東京の有名大学に通っても、文系採用を絞る企業が多いから就職できないなんてこともザラにあります。最近は大学名不問の採用試験をする企業も増えていますしね。」

「ならば、地元の大学に通ってあわよくば上場企業の地方支社や地場の優良企業に就職できれば親も安心ですし、ひいては地方経済の活性化にもつながります。」

「ひいては地方経済の活性化」ですって?

それはないでしょう。断言しますが、その逆です。

私個人の経験上でも、わが地方出身の学友たちは、地方社会・地方経済で枢要な役割を担っている人がたくさんいて、機会があって地元を訪問したりしますと、その立派さに感銘を受けます。

逆に地方の彼らも、東京でグローバルな発想をもって活動している友から、刺激を受けている筈です。

話しはやや逸れますが、私が会計を担当している「料飲三田会」にも、地方の蔵元さんなど有力な方がおいでです。

そういう方との交流を、私は楽しみにしているのですが、問題なのは年会費です。

地方の方は、当然なかなか例会に出席しにくいですし、出席可能な場合でも交通費・宿泊費を負担しないと出席できません。

その状況でも年会費は当然同額です。会計の私は、それを請求するのに、どうも気がひけてしまうのです、気が小さいもんですから。

まあ、皆さん、基本的にはお金持ちですから、気持ち良く支払って下さるんですけどね。

「ローカル化」しないためには、どこかで知恵を出す必要がありそうです。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.269日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

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肉の大獄

彦根のすき焼き店「千成亭」さんが発行している『近江牛いまむかし』というパンフレットは非常に参考になります。

たいていの肉関係の本には、明治時代以降のことばかりが書いてありますが、この本には江戸時代の彦根藩の肉食文化・肉生産体制のことがくわしく書いてありまして、

へえ~

ということもいくつかありました。

印象に残りましたのは、桜田門の大老・井伊直弼による、牛馬屠殺禁止令のことです。

直弼以前の彦根藩は公然と牛を屠殺して食用にしていた、唯一の藩でした。一応アングラなので、「薬」と称していましたが、アングラにしては売り先が素晴らしくて、将軍さえも、その「薬」を楽しみにしていたほどです。

そういう次第で彦根の「薬」は有名で、全国にファンがたくさんいたのですが、それをイキナリ直弼は禁止してしまい、将軍家への献上も止めてしまったのです。

「烈公」こと、水戸藩主の徳川斉昭も彦根肉の味噌漬けが大好きで、禁令の後も、なにとぞ譲っていただきたい、としつこく催促していたようですが、直弼は頑として応じず、そこから水戸藩との間にしこりが芽生え⇒桜田門外の暗殺につながった、という説があります。それは、まあ、話しの風呂敷を拡げ過ぎでしょうけど。

私の印象に残りましたのは、家代々の産業をズバッと切ってしまい、異論を受け付けない、直弼の強情さです。そして、そういう性格に成った原因=幼少期の不遇時代のことが気になりました。

実は直弼は、第13代藩主・井伊直中の、なんと十四男で、兄弟が多かった上に母が側室だったこともあって、養子の行き先がなくて、17歳から32歳までの15年間を、「埋木舎」と称する質素な屋敷で過ごしました。

7/29の「すきや連」のついでに、私も、この「埋木舎」を見物して来ましたが、たしかに質素で、中級武士の家といった感じです。

この家で、ひたすら兄や甥が死ぬのを待つ、という暮らしを続けながら、直弼は熱心な仏教徒と成り、それが牛馬屠殺禁止につながって行くのです。

司馬遼太郎の『酔って候』を読むと分かりますが、幕末に活躍した人物の内相当人数が、それぞれの家の長男ではなく、養子や傍系親族でした。

徳川慶喜、島津久光、山内容堂、伊達宗城・・・皆長男ではありません。現代でも養子社長が大胆な事業展開をしたりしますから、納得できる傾向ですね。

直弼の場合、こうして出来上がった性格が、政局に大きな影響を与えたように思えます。その要因が、やはり無視できません。

将軍継嗣問題、条約勅許問題、安政の大獄といった直弼の政治行動に感じられる強情さは、「埋木舎」時代に形成され、それが極端に現れたのが肉の一件だ、と私はみています。

 追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

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この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

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皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.259日連続更新を達成しました。

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伏流水

第15回「すきや連」を開催するため、彦根市に行ってまいりました。

激しい雨の降る日でしたが、

・中川畜産さんの牛舎見学

⇒岡村本家さんの酒蔵見学

⇒彦根の江戸時代の牛肉文化についてのレクチャー

⇒全国のすき焼き屋さんが集結しての大宴会@「千成亭」さん

⇒袋町に移動して、歌いまくりの二次会

⇒ホテルの部屋の冷蔵庫の振動がうるさくて、ほとんど仮眠のような睡眠

⇒朝食を摂りながら、次回以降についての打ち合わせ

と、ここまで怒涛の日程を済ませ、意識がボンヤリした私は、自分の部屋に帰ろうとして道を誤り、ホテルの売店に入り込んでしまいました。

そこで見つけましたのが、

「びわこ検定」の解説本。受験参考問題&解説100問収録!という本です。

そう言えば滋賀県のことも琵琶湖のことも良く存じませんし、「すき焼き通検定」の主催者としては、パスできない本です。

で、その本を購入して帰りの新幹線で読んでみますと、結構面白いネタが満載です。

なかでも、私の興味をひきましたので「水系」でした。

前日の宴会の最中にも、中川畜産さんから、

水系によって牛の肉質に違いが出て来る、

という話しを聞いていたからです。

中川さんが力説するのは、

鈴鹿山脈を水源とする川の流域で育った牛は、肉質が良い

ということです。

たしかに、

・愛知川(愛知郡、東近江市)

・宇曽川(愛知郡、彦根市)

・日野川(蒲生郡、近江八幡市)

・野洲川(甲賀市、湖南市、野洲市、栗東市、守山市)

の流域が「近江牛」の本場と重なりますね。

大きな川にはたいてい「伏流水」が在るので、中川さんの牛舎でも井戸を掘ってそれを牛に与えています。

うーむ、これは牛の見方に、新しい視点が出来ました。早速、中川さんに連絡をとって、今後の研究テーマに加えることにしました。

だいたいですよ、昨今は行政主導で農産物のブランドを造ることが多いですが、行政域と、こうした天然の地質とは合致しないことが多いので、そこに、そもそもの無理が在る、と私は見ています。

それだから苦し紛れに「ゆるキャラ」を造って宣伝しようとかしてしまうのです。無駄ですなあ。

実は「松阪牛」も元々は「雲出川以南、宮川以北の地域」という流域のブランドでした。松阪市役所の行政のブランドだと信じていた方! その知識はアバウト過ぎます。

たしかに「松阪肉牛協会」の会長職は、充て職のように松阪市長が兼任するのが慣例ですが、松阪市以外からも牛を出して来たのです。

ところが「平成の大合併」の結果、「雲出川以南、宮川以北の地域」の小さい町村が松阪市以外の市と合併してしまったりして、現在はヒジョーに分かりにくく成っています。

「松阪牛」とは、ただ「松阪牛個体識別管理システムに登録している牛をいう」としか定義できないのが現況です。流域ブランド・水系ブランドとしての特色が、行政の都合で歪められないか、私は心配しています。

逆に、近江に関して申せば、エリアが広すぎて特色が出しにくい所を私は心配しています。

農産物を考え・取り扱う場合は、もっと水系とか、自然の地質に則して考えていただきたい、そこを強く要望したいと、私は思います。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

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追伸②

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皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.250日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

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開催しました! 第15回「すきや連」

<7/29に彦根市の「せんなり亭・伽羅」さんにて、第15回「すきや連」を開催しました。以下は会場で、参加者の皆さんに書いていただいた寄せ書きです。当日の雰囲気が分かりますから、是非お読みください。>

・時雨るるや炭の香高き鍋囲む(向笠千恵子)

・ようこそ彦根へ このご縁が満開になりますように!(上田健一郎)

・ようこそ彦根へ 出会いに感謝(上田勝之)

・オレが育て上げた近江牛サイコー!!(中川晶成)

・彦根の歴史・文化をご紹介できて光栄です。奥深い彦根をお楽しみ下さい。(野田浩子)

・牛飼えず鋤で田起こす春起こす~50年前の母を思いて(中村昇)

・美味しい近江牛が食べられてうれしい。中川さん、上田さん、ありがとう。(松田武朗)

・今日はありがとうございました。すき焼囲んで至福のひととき(木村泰造)

・「件」という文字と妖怪について考えた夜でした。ありがとうございました。(杉原正樹)

・歴史ある近江牛・千成亭さんとても美味しかったです。すき焼・黒毛和牛の文化を世界に広めたいですね!(吉澤直樹)

・日本の牛肉文化の原点ともいうべき彦根で食す近江牛最高です。「すき焼き大全」も楽しみです。(吉澤裕介)

・すきや連の本をみんなでつくりましょう。(土居秀夫)

・好きな一句を~柳くくる猪牙のへさきや夏の雪(松井純)

・77歳の中川さん、これからも良い牛を育てて下さい。(柴田進吉)

・はじめて参加させていただきました。楽しく美味しい素敵な会です。ありがとうございました(近澤秀安・摩弓)

・中川さんの熱意と努力、岡村さんの創意工夫、上田さんのおもてなし、近江牛の醍醐味を堪能させていただきました。(藤森朗)

・向笠先生に招かれてニューオータニ岡半さんのご縁で近江牛をいただきにまいりました。(大竹道茂)

・これからも頑張ります。(田仲寿夫)

・歴史深い近江牛・彦根・日本酒嬉しいすきや連でした。(星野見左子)

・近江牛の聖地、やっぱり現地で食べると美味しいね!(清水祐子)

・いつもありがとうございます。(梅田雄一)

・おやじのふるさとで「すきや連」の会が出来たことに感謝します(島崎進)

・近江の会~「すき焼き大全」新たなスタート 36か月の美味しい肉、ごちそうさまでした!!(川井秀晃)

・彦根が牛肉の食文化のルーツ とても美味しくいただきました。千成亭さん、中川さん、ありがとうございました。(藤井紀美江)

・ひこにゃん、近江牛すき焼きにカンゲキ いっしょにミラノにいきましょう(相沢二郎)

・千成亭さんの美味しいすき焼に感動しました!新しい向笠先生の「すき焼き大全」とても楽しみです。ありがとうございました。(相沢ヒロミ)

・先日梅原猛先生の講演を聞く機会があり、縄文土器は鍋物に使われていた!スキヤキ好きは日本人なら当然と言われていました。

(高橋万太郎)

・近江牛バンザイ!(小林甲児)

・近江牛の歴史が分かり勉強になりました。そして、美味しいお肉ありがとうございました。また参加したいです。すきやき最高!(小林由佳)

・江戸時代の牛肉文化素敵です。彦根城の近くですきやきを頂戴できて感激でした。(西村委代)

・中川牧場で愛情いっぱい育った雌牛らんchan美味しくいただきました。近江牛を堪能させていただきました。(鈴木拓将)

・中川さんの牛舎で生まれ育てられた、美味しい美味しいお肉、大切に育てられたお肉はとても美しく綺麗でした。丁子麩も美味しい優しいお味、永源寺こんにゃく、滋賀県の食材とても美味しい。(羽鳥裕子)

・牛肉の歴史、再度勉強します。日本のすき焼きのために。(森大亮)

<以上>

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

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追伸②

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毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

高談娯心

ある日、例によってツイッターに「すき焼き」と入れて検索していたところ、@goshoboさんという方のツイートを発見しました。

由緒ありげな書の画像が付けられていて、

「御所坊の客室のひとつに掲げられている伊藤博文の書「高談娯心」。高い志の話をすれば、お互い気持ちが良くなる・・・という意味の言葉。」

「神戸の文化人たちはこの書の下で、すき焼きを食べることを習慣にしていた。」

とありました。

御所坊と聞いて私は、

「ひょっとして、あの有名な旅館?!」と思い、もう少し調べましたら、間違いありませんでした。有馬温泉の老舗旅館『御所坊』のご主人でした。

『御所坊』さんは、鎌倉時代の1191年創業といいますから、気が遠くなりますね。伊藤博文、谷崎潤一郎が通った宿でもあります。

実は初代の兵庫県知事は伊藤博文です。

神戸に外国人居留地が在ったので、英国に渡航経験のある伊藤公が起用されたのでしょう。在任期間は、わずか1年ほどでしたが、その後も神戸・有馬を愛したそうです。

さて、その伊藤公に愛された『御所坊』の当代の御主人は、ツイッターのプロフィールによりますと、

「本業の他地域活性化の手伝いをしている。現在神戸ビーフの里を手掛けている。カフェド・ボウ、花小宿等。また有馬活性化に有馬サイダーや有馬玩具博物館等。今後「健康」をテーマにした事業を行っていきたい。」

・・・ということで精力的な方のようです。

私の知人というわけではゼンゼンないのですが、すき焼き繋がりということで、リツイートさせていただき、FBでもシェアしました。

そうしましたらFBで、

「住吉さん 良いですね 今後ともよろしくお願い致します。」

とコメントを返して下さいました。

いつかお訪ねするのが楽しみです。

 

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

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この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

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皆様も、是非御参加下さい!

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ボランティア・ガイドさんの為に

「東京シテイガイドクラブ」(TCGC)という、ボランティアで東京ガイドをする皆さんを相手に、講演をすることになりました。

この皆さんは、まず「東京シテイガイド検定」という、なかなか難しい試験に合格し、さらに、個々に古典芸能文学・神社仏閣・美術・商店街・産業観光といった専門分野を持ち、さらにさらに英語・各国語での案内も請け負う、という素晴らしい皆さんです。

今回私がお話しするのは、その内の勿論「グルメ専門グループ」の皆さんです。

<以下が、その全文です。読むのに90分かかりますので、ご注意ください。>

東京シティガイドクラブ皆さん、このたびはご来店いただきまして、ありがとうございます。早速話しを始めさせていただきます。

住吉でございます。ただ今よりすき焼きの話しをさせていただきます。今日は選挙の先日でございますけどね、ここにおいでの皆さんが無党派なんでしょう。言うことに制限が無くて助かりますが、しかし慎重に、軽口は無しで国会答弁のように進めたいと思いますので(笑い)、よろしくお願い申し上げます。

では、早速参りますが、今日はですね、最初にすき焼きの歴史の話しを、30分程度時間をとってさせていただきます。そこを押さえていただきませんと、この世の中におけるすき焼きの位置づけというものが分かりませんで、位置づけが出来ませんと、結局現代のすき焼きの話しも出来ませんので、最初の30分は料理業組合の勉強会みたいな話しをします。ご退屈とは存じますが、どうぞご勘弁いただきたいと思います。

さてまずルーツの話しからです。いくつか説がございまして、魚介類と野菜を杉の箱に入れて味噌煮にしたから「杉焼き」だとか、農具の鋤の上で焼いたから「鋤焼き」だとか、、肉を剝(す)いて薄くするので「剝き焼き」だという説もありますが、本当にそうした文献上の料理が受けつがれて来て、やがてすき焼きに成ったのか、私はわかりませんし、多分調べようがないですし、正直私はあんまり関心が無いです。それに皆さんも、そういう話しはつまんないですよね、だから「へえ、そういう説があるのね」位にしておいて、先に行きたいと思います。はい、この部分に興味を抱いていた方には、ゴメンナサイでした。

現代のすき焼きに直結しているのは、江戸の街で密かに営業していた「ももんじ屋」または「ももんじい屋」の料理で、けものの肉を鍋物にして食べさせていたようです。当然、当時表向き肉食はタブーですから、「薬喰い」と称して、アングラで食べていました。獣の産地は江戸郊外で、農民が害獣である猪や鹿を駆除した時、それを利根川で江戸へ運んでいたそうです。牛や馬は害獣でなく役にたつ動物ですから、さらにタブー感が強かったはずですが、それでも牛肉・馬肉を食べさせることがあったようです。ここで食べられていた料理が今日のすき焼きの、直接の原型です。今でも両国で1718年ご創業の「ももんじや」さんが営業していますね。両国橋を渡ると、すぐ右手のビルの外壁にイノシシが逆さまに吊るしてありますから、行けば「おおっ!」と思うはずですが、あの御店はそうした御店の生き残りです。

で、その「ももんじや」で食べられていた、牛鍋が明治時代になりまして解禁になるのですが、その前に幕末に「プレ解禁」がありました。「プレ解禁」の原因は言うまでもなく、日本に入って来た外国人の影響です。1859年に横浜が開港しますと、居留地の外国人の需要に応えて、肉を調達する必要が生じました。当時は日本に畜産業がなかったため、農耕作業に使った牛を、退役させて潰して食用にするようになりました。1864年には横浜に屠牛場が開設され、幕府から公認もされたようです。維新の4年前の話しです。

時に皆さんは15代将軍・徳川慶喜のあだ名を知ってますか?「暴れん坊将軍」じゃないですよ!それは松平健さんですからね。慶喜は豚が好きで食べるので、「豚将軍」「豚一殿」とあだ名されていたんですね。将軍が豚を食べる位ですから、牛鍋屋も、もはやアングラではなく、公然と開業し始めます。高橋音吉という人が牛鍋屋「太田なわのれん」を創業しましたのは、そんな中のことでありまして、時は1868年すなわち明治元年、場所は横浜末吉町でございました。

やがて牛鍋屋の開業ブームは横浜から江戸にも飛び火します。1867年に中川嘉兵衛という人が江戸のはずれ荏原郡今里村に屠牛場を設立しまして、江戸の牛鍋屋にも牛肉が供給されるようになります。その場所は現在の白金台2丁目です。その辺りは今では、シロガネーゼのお洒落な街ということになっていますけど、当時は田舎だったんですね。

で、この屠牛場は近代的な屠殺場であったようです。当初は外国人向けが主でしたので、衛生的な取扱いには気をつかっていたようで、それで、今日の感覚からすると少し驚く話しですけど、この屠牛場で屠殺した牛がブランド牛になって行きます。どこで飼われていたか、ではなくて、どこで屠殺されたか、がブランドだったんです。今でも「今半」さんとか、「今朝」さんというすき焼き屋さんが在りますが、「今」の字が入っているのは「ウチは今里村屠牛場~後には「東京共有屠牛場」という名前になりますが、そういうチャンとした所から牛を買っている、チャンとした店だ!」ということを主張しているですね。ももんじや系の店でも牛鍋を出していたわけですが、「同じような料理だけど、私屠殺の牛は使ってないよ!」という意味が店の名前に込められているわけです。トリビアでしょう!次にカノジョと「今半」さんに行ったら話して自慢してみましょう。

さてさて、1872年ついに明治天皇が初めて牛肉を召し上がりました。そのことが報道されまして、肉食は完全に解禁。解禁どころか、文明開化のシンボルになります。1877年の東京における牛鍋屋の数は550軒を超えるほどであった、と伝えらえていますから、いかに当時の牛鍋のブームがスゴかったか、お分かりいただけると思います。今日すき焼き屋を続けている店のほとんどが、この頃に開業した者の生き残りです。ただし、言い方は変わっていますね。関東では大正時代まで「すき焼き」と言わず「牛鍋」と言っていましたから、我々は牛鍋屋の生き残り、というのが正確です。

ここで昔の調理方法のこともお話ししておきましょう。

横浜の「なわのれん」さんの食べ方は味噌煮込みですが、このやり方は、今では珍しいですが当時は珍しい方法ではなかったようです。明治初期の牛肉は、そもそも肉用に育てられていませんから固くて、また放血の仕方が上手でなかったために獣臭さがキツかったようです。それで、臭さを緩和し、また肉をやわらかくするために、ぼたん鍋や紅葉鍋に類似した方法で調理したようです。つまり味噌仕立ての味付けでした。

後に肉質が良くなるにつれて、味噌から醤油と砂糖などで作る割下で煮る方法が主流になっていったようです。一方、関西では、皆さんご存知の通り、醤油と砂糖を事前に煮合わせないで、鍋の上で混ぜる方法が主流です。

具材の内容ですが野菜は最初は寂しくて、ネギのみの場合も多かったようですが、ネギは臭み消しのスパイスとして必需品だったので、ネギは必ず入っていたと思われます。

ネギというのは大変便利な食べ物でして、生だと辛味があってスパイスになります。しかし加熱すると甘くなってきて野菜として美味いです。重宝な食べ物なので、ネギはすき焼きの第二の主役なのです。その後明治20年代辺りから大正時代にかけて、すき焼きは高級化を始めたようです。具体的にはザクの具が増えます。この頃白滝や豆腐が使われ始めましたが、この皿はザクザクと切ることから「ザク」と通称されるようになりました。そして高級化では、関西の店の方がやや先行していた模様です。現存してはおりませんが、関東大震災の後に関西から東京へ進出したすき焼き屋があったと聞いています。店が現存していませんので、どういうすき焼きだったか、ハッキリとは分かりませんが、わざわざ東京へ進出する位ですから、創意工夫をこらし、気合いを入れて出て来たと考えて間違いはないと思います。で、この傾向は東京勢つまり関東式の牛鍋屋には相当脅威であったようです。関東では牛鍋屋は当時「牛屋ぎゅうや」と言われて、あいかわらず下卑た店、という認識でした。「牛屋の女中」といいますと、下品で愛想が悪いが体力はある、という意味でして、これでは高級化できません。関東大震災が起きて打撃を受けたところへ高級なライバルが現れたので大変だったと思います。関東の牛鍋屋が「牛鍋」と言うのを止めて、「すき焼き」と言うようになったのは、この頃でして、中には、もう廃業した御店ですが『高等すき焼き』という名前にした店すらありました。ザクの具材も、おそらく「高等」にするために増やしたんだろう、と想像します。この御店は10年位前まで現存していて、最後まで『高等すき焼き』というメニュー名を使っていまいた。「牛屋」と蔑まれているようでは、やっていけない、という恐怖感が、こんな滑稽な名前のメニューを産み出したんですね。勿論牛鍋という名前に誇りをもって護っておいでの店もありますが、かなりの数の関東の牛鍋屋が名前を変えました。その背景は、そんな感じだったと御理解下さい。

さて、牛の話しよりザクの話しが先になってしまいました。牛のブランド化の話しもしてに誇りをおきましょう。今では全国各地に牛のブランドがありまして、牛と言えば「〇〇ぎゅう」ですが、ブランド化の歴史は、実はそんなに長くありません。

日本初の牛のブランド=神戸ビーフは生産地のブランドではなく、流通経路の途中の集積地の地名でした。神戸の居留地の外国人が肉を求めたことが、神戸ビーフの「そもそも」でありまして、ブランドと言いましても、今とはかなり感覚が違います。「伊万里焼」は伊万里で焼かれておらず、伊万里は積み出し港の地名でしたが、それと似ていますね。今現在は兵庫県北部の但馬地方の牛のことを「神戸ビーフ」と定義していますが、明治時代には事情が違っていましたので、ご注意願います。

生産地の地名がブランドになるのは、1935年(=昭和10年)以降のことでありまして、松阪牛が『全国肉用牛畜産博覧会』で名誉賞を受賞したことから全国的に知られるようになりました。しかし、この後すぐに日本は戦争に突入してしまいまして、第一回の松阪肉牛共進会が開始されたのは、戦後の1949年(=昭和24年)のことでした。

この辺りが牛のブランド化のさきがけです。これ以前は、肉牛の生産と申しましても、最初は田圃で使役するわけです。ですので1960年頃(昭和30年代中頃)まで「肉用牛」とは言わずに、「役肉用牛」と言われていました。最初から肉牛として育てていなかったんですね。それがブランド化の進展と並行して、「役」が取れていったわけです。で、肉質も変わって行きまして、今日皆さんが良く目にする所謂「霜降り」の肉が登場するわけです。

ここでもう一回整理しますと、「今半」「今朝」と言った場合、それは近代的で衛生的な屠殺場から牛を仕入れている、という意味のブランドで、次に神戸ビーフと言った場合は、牛が売られている土地のブランドで、その次に松阪牛と言った場合は、牛の生産地のブランドという具合に、ブランドの意味あいが変化してきたわけです。3番目の産地ブランドが確立したのが昭和30年代のことでした。そして、さらに申せば、それ以降は、あまり画期的はことが起きていなくて、今は個人ブランドが2~3在ったりしますが、全体的にはあまり進歩していない、と申すことができます。これ以上話すと愚痴が入りますが、なんか新しい発想ってないの?って私は思いますし、誰も出さないなら、オレが出そうかな!って最近は思ったりしています。

このように、たいていの料理は、時間をかけてだんだんに日本人の間に定着して来たのに対し、すき焼きは幕末から明治初期の、ごく短期間に国民食になりました。すき焼きは明治時代という特定の時代と結びついています。日本人が近代化へのチャレンジを始めた時代つまり現代へと続く道を歩み始めた時代の、民族的な強烈な記憶とすき焼きはつながっています。この点が、すき焼きを商売にする人間にとっては非常に大事な点ですので、ここであらためて指摘させていただきました。

さて、この段の最後に、関東風と関西風の話しもしましょうかね。ご存知と思いますが、関東風は割下ですき焼き、ですけど、皆さん、割り下をタレっていうのは止めて下さいね!そういうのは「Eバラ」さんだけにして欲しいです、ホントに。関西風すき焼きは、醤油と砂糖で、すき焼きと言っています。松阪はじめ中京圏も醤油と砂糖で、すき焼きです。関東風と関西風の境目はご存知ですか。それは豊橋でして、家によって両派混在しているそうです。また豊橋には「小林」さんという、醤油と砂糖なのだけど、最初に野菜を入れる珍しい店があります。トリビアですよ。飲み会トークのネタにして下さい。

はい、ここまで大丈夫ですか、徳兵衛さん、起きてますか、ここでストレッチしますね。はい結構でした。 

次に、浅草にすき焼き屋が多いわけもお話ししておこうと思いますが、その為には、浅草の歴史もある程度押さえていただく必要があります。ですので、話しは、イキナリ推古天皇の頃に戻ります。またまた30分ほど浅草の話しになりますが、大丈夫ですか。でも、ごくザックリですから。浅草史をさらってみたいと思いますが、そのことを考える前に、ですね、成田空港は東京か?っていうことを、まず考えてみると、浅草のことが分かりやすいです。成田空港は東京の首都機能の一部として建設されたわけですから東京ですね、当然。特に外人さんから見たら、完全に東京です。

でも成田という街は新勝寺さんを核に東京とは別に元々あった街ですよね。浅草もそうなんです。江戸とは別に、太田道灌が日比谷に城を築く前から在った街なんです。成田は東京とは別に出来た街ですが、東京首都圏に吸収されました。浅草も江戸とは別に出来た街ですが、江戸に吸収されました。そこが似ているんです。

では、ざっくりと話していきましょう。今日の話しはいたって、ザックリです。細かい年代とか数とかは言わないことが多いと思います。だって、ネットで調べられますからね、細かいことは。アウトラインだけを、お分かりいただくようにしますので、よろしくお願い申し上げます。

さて浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。縁起の筋は、隅田川で漁をしていた人が、川から仏様を網ですくいあげて、それを安置する御堂を建てた、という例の有名な話しです。この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。ですので、浅草が道灌より古いことは間違い無いです。つまり江戸を築かれる遥か昔から、浅草は在ったわけで、街の成り立ちが違いますので、浅草は東京の盛り場の一つに過ぎない、とは言えないわけなんですね。浅草の方から見ると、江戸の方が後から出来てきた、ということになるわけです。もっとも、江戸とは別に成立していた浅草は、この当時は、まだ盛り場っていう感じではなかったと思います。隅田川の水運の拠点として、浅草寺の門前町として、まあ、それなりの賑やかさっていう位だったと思います。日本一の盛り場という感じにはまだゼンゼン成っていません。

そこへ徳川家康がやって来ます。やって来て江戸時代になりましても、江戸初期の江戸の市街地は、現在の千代田区と中央区位の大きさでしたから。まだ江戸と浅草は別物でした。17世紀までは別だったと考えられています。その間の、アキバなんて所は湿地帯でした。あきばはらって言う位ですから。アキバの原っぱだったんですね、あの辺は。後に、ハとバが入れ替わって、あきはばらになりますけどね。

さて、その江戸と浅草をくっ付けたものは、なんでしょう?それは、蔵ですね。蔵と申しましても酒蔵じゃあないですよ。いいですか、酔っ払いの皆さん、米蔵です、お米の蔵です。江戸時代、武士の給料は米で支払われていましたから、当然そのお米を保管しないといけないですね。で、そういう倉庫をたくさん建設したわけです。当時の輸送手段は舟ですから、隅田川ぞいに蔵を建設しました。場所は、浅草から地下鉄で1駅南の蔵前、つまりは江戸と浅草の間ですね。現在でも東京郊外に行くと、倉庫が立ち並んでいる地帯がありますが、似てますね。そういう次第で米の倉庫が、江戸の北側の郊外で、浅草のすぐ南の、蔵前に建設されました。もっとも蔵前に蔵が建設された、っていうのはおかしいですね。蔵が建設されたから、蔵前っていう地名になったんですよね。

さて、ここに蔵が出来たことが、浅草の運命を大きく変えます。ごく普通の門前町が天下一の盛り場へと変貌を遂げる、そのスタート地点がこの頃です。変貌の主役は「札差」という商人です。武士たちのために、米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる「札差」という商人が出てきましよね、歴史の教科書に。習ったでしょう。覚えてませんか。勉強はしておくもんですよ。この取引からは莫大な儲けが出たらしくてですね、さらに儲けを金貸しに回して、さらに儲けたようです。それで、「札差」が大きな力を持つようになったそうです。浅草が発展した軍資金は、この札差マネーです。大富豪となった札差たちには当然豪遊する場が必要ですから、遊興できる店が出来るようになります。これが浅草のホップと言えます。

そして、ステップとジャンプは、1657年と1841年でした。まず1657年すなわち明暦3年の出来事ですが、「明暦の大火」という大変な被害の出た火事の後、幕府は都市整備に着手します。そして、その一環で、現在の中央区にあった、公認の遊郭である吉原遊郭を浅草北方の千束に移転させます。遊郭は当然風紀を乱しますので、江戸の中心部からどけたいですね。それで江戸の外の、しかも方角の悪い北東へ追いやったわけです。

方角が悪いって失礼な話しですけどね、だいだい江戸が浅草の南西に出来たから、北東に成っただけで、こっちのせいじゃあ、ないんですけどね。

ともあれ、吉原が浅草の頭の上に移転して来ました。移転して来ましたので、「新吉原」と呼ばれたそうですが、ここがまさに天下の豪遊の場となります。今や、お金持ちが居て、お金を使う場がようやく出来ました。その間に浅草があって、観音様もあるわけですから、ここにお金が落ちないわけはありませんね。このステップは大きかったようです。

そしてそしてジャンプは江戸時代も、もう後期に入った1841年(天保12年)です。これまた歴史の時間に習わされたと思いますが、「天保の改革」が実行されます。江戸市中に散在していた歌舞伎座が、風紀を乱す、ということで、これまた、北東に追いやります。場所は、浅草北部の浅草六丁目で、浅草寺と吉原の間です。勘三郎さんの御先祖の中村座、それから市村座、河原崎座といった小屋ですとか、操り人形の結城座なんていうのもできました。役者さんも集合して住まわせ、浅草猿若町と名づけました。これが浅草の発展のジャンプです。

 なにしろ、当時江戸市中でお金が集まる所と言えば、魚河岸と吉原と、猿若町だったそうです。魚河岸の場所は築地じゃないですよ、この頃はまだ日本橋にありました。

そして残りの二つは浅草の、近所です。浅草が天下第一の盛り場になったのは、この頃と言えます。

この時点で浅草は天下一の盛り場でしたが、さて明治時代になって、さらに繁栄を謳歌します。

 キッカケは「公園」の整備に関する、新政府の布告です。明治6年の、この布告により浅草寺境内は「浅草公園」と命名されたのですが、この時決めた「公園」が日本初の「公園」です。最近は言いませんが、以前は浅草のことをエンコと言いましたね。「エンコ行こうぜ!」って言うわけです。そのエンコの語源が公園です。公園をひっくり返しただけなんですけどね。まあオカジューと一緒です。

 でも「公園」って聞いて?と思いますよね。浅草って公園ですかねえ。でも「公園」だったんです。この当時の日本人は「公園」という言葉を分かっていなかったんです、この頃造られた新語だったからですね。当時はどう解釈されていたのかと申しますと、公けに遊興して良い場所とか、遊園地と考えていたようです。もう少し言えば、「公園」即ち盛り場っていう感じです。

 それで「公園」は、設立の趣旨とは違って、盛り場化する傾向にあったようです。公園本来の、西洋式の正常な発展をとげた公園は、まず上野公園位のもので、それはボードワン博士とかいう方の功績だそうですが、その他の「公園」は盛り場と化して行きます。「公園」がそうなって行った理由ですけど、当時新政府は財政が厳しくてカネがありませんでした。そこで公園経営に必要な経費を稼ぐため、敷地の一部を賃貸しするんですね。それも射的とか、玉突とか、楊弓とか、見世物なんかの店に賃貸してしまったのです。浅草の場合は、賃貸ししたどころではなく、土地を掘って「ひょうたん池」という池を造り、池の周りを造成して街を用意し、そこを貸し出した、と言いますから、ほとんど不動産屋ですね、新政府は。

 この時に造成された一帯こそ、明治・大正・昭和戦前と日本一の歓楽街と成る浅草公園第六区縮めて「六区」です。今でも楽しいショーを見せてくれる「ロック座」がありますが、ロックンロールをやる座じゃないですね、六番目の区画です。女性もおいでなんで詳しくは割愛しますけどね。さてなんでしたっけ。そうそう、そういうわけで、「公園」なのに公園じゃない浅草公園が出来上がりました。その浅草公園について、上野観光連盟のHPには、こういうことが書いてありましてね、読みますが・・・

 上野公園の場合は、管理が宮内省だったので、自由な経営が許されず、そのお蔭で、公園の手本とされるような発展経過をもち、一千万を超える大東京の中にあって広さにおいても、施設、景観、緑地など都市公園として、内外ともに誇りうる上野公園となったのである。もし上野公園にした所で、管理が宮内省に移らずに東京府に委ねられていたら浅草、深川、芝の三公園と同様俗悪化の道を辿ったにちがいない。」

 うーるせいよ、っていう感じですけどね。でも、そういう話しは、まあ置いと・い・て、ですね。浅草に戻しましょう。このような次第で、浅草は盛り続け、時代が下ると今度は演劇館、活動写真館、「浅草オペラ館」などの上演が連日行われるようになります。浅草は芸能の殿堂、と言われたのが、この時代ですが、その盛り場を政府が作ったっていうところが、歴史のチト思い白いところです。

「ザックリ浅草史」をいったんまとめておきましょう。まずですね、浅草は江戸とは別に、江戸が出来る前から成立していた街でした。後から、江戸が浅草の南西に出来て、次いで江戸の米を扱う米蔵が、江戸と浅草の間に出来ました。これによって、蔵と一緒にお金が浅草の近所にやって来ました。さらに、幕府の政策で、浅草の北に吉原が、浅草と吉原の間つまり浅草のすぐ北に歌舞伎座が出来ました。このことが、盛り場・浅草の運命を決定したわけです。例えて申しますと、バチカンとウオール街とブロード・ウエイと、それから吉原が並んでいる、という感じのアリエンテイーなラッキーさの上に浅草は成立しました。だから浅草は東京の繁華街の一つでは断じてなく、世界史にもあまり見かけないようなユニークな街なんです。さらに、明治時代に入って東京府の政策によって、さらに繁華になり、日本随一の盛り場になります。

はい、浅草の歴史を30分ほどでザックリ追って参りました。そういう浅草にすき焼き屋がたくさん開業するわけですが、「浅草にすき焼き屋が多いわけ」~それは先に結論を言ってしまいますと、特に深い理由はなく、結果的にそうなっただけと思われます。明治5年~15年頃に、牛鍋屋の流行がありまして多数の店が開業しました。 既に明治10年には東京府下に488軒もの牛鍋屋があった、と言いますから、かなりすさまじいブームだったようです。この時期が、浅草の繁華街としての全盛期に当たっていて、浅草は日本随一の繁華街でしたので、店を開業しようとする者は、場所として浅草を選んだと思われます。すき焼きとか洋食は、その時代の新文化・新ビジネスですから、ビジネスとして成立させるために、経済力のありそうな土地へ出るのは当然のことで、浅草に店が出来たのは当然の成り行きと思います。例えば、今半さんと米久さんは、地方から上京して来て、浅草を選んで開業しています。逆に、以前から浅草で商売をしていた者が、牛鍋の大ブームを見て、商売がえした者もいます。浅草が栄えていたので飲食店の方が儲かると考えた者がいたんですが、そう、手前どもの御先祖のことして、御先祖は実は、江戸時代から浅草で犬の狆(ちん)の、狆屋をしておりました。当時の大名家や豪商などは、ペットとして狆を飼う習慣があったんですね。現代でも犬を可愛がる方がおいでですが、狆もたいそう可愛がられたそうで、狆の墓があったりする位です。その狆の、良い血統を、手前どもの御先祖が押さえていたようでして、現代風に言えば、狆のブリーダーですね。そして、売った狆の具合が悪くなれば獣医として治療したりもしていたようです。

その狆屋が、明治時代になりまして、すき焼き屋(牛鍋屋)に商売変えしました。理由を書いた書類はありませんので、想像するのみですが、犬の趣味が変わったことが大きいのでは、と私は思っています。天下泰平の江戸時代には可愛いペットが愛されまして、特に狆を飼うのはお旗本の奥方とかでしたから、狆は女イメージの犬でした。ところが、続く幕末・明治は戦争や政争が続く騒乱の時代ですから、世の中の犬の趣味が変わりました。上野の西郷さんは犬を連れていますが、狆ですか?違いますね。西郷さんは猟犬を連れて、野山を歩き回るのが趣味だったようですが、そういうワイルドな世相の時代に狆は可愛い過ぎで、かつ旧時代のイメージに見られたと思います。要するに、時代が変わって、商売としての「狆屋」の将来性が脅かされましたから、手前どもの御先祖は、狆を捨てて、牛鍋に走ったものと思います。全盛時代の浅草に店を構えているのですから、狆屋をやるより、飲食店の方が儲かると考えたのだと思います、あくまで想像ですが。そんな経緯で、浅草にすき焼き屋が多いのです。

では、つぎび「ちんや」はどのような肉をお出ししているのか、それから、なんでまたそういう肉をお出ししているのか、つまり店の方向性のお話ししたいと存じます。

さてまず提供すべきなのは旨い肉です。しかし旨いのは当然で、世の中に旨い肉は結構あります。だから、それでは他の御店さんとの間に差異性が生じにくいですね。それにやたらと原価をかけて仕入れをして、それを良心的に売ってしまっては、ある意味デフレ経済です。良くありませんので、なるべく避けたいです。

時に皆さん、肉を食べて旨かったけどで、後から胃モタレがヒドくて往生した経験はありませんか。モタレて当然です。肉屋に言わせると、モタレて当然の肉が、公然とたくさん売られているのです。

そういう肉を「ちんや」も売って良いのでしょうか?勿論ペケですが、「なんとなくペケなわけ」でなく、そこに「ちんや」が特徴を出せるポイントがあるのであって、さらに申せば、店の理念に照らして、そういう肉を売ってはゼッタイにぺケなのです。

手前共は「思い出を作るすき焼き店」~特に御家族の思い出を作る店である、ということを重要視しております。

誕生日・初参り・七五三・合格・入学・卒業・成人式・就職・寿・出世・退職・還暦・古希そして法事~そういう御家族の思い出の日に「ちんや」を使っていただきたい、と念願しています。で、そういう機会に御家族が集まれば、その中には必ずお爺ちゃん・お婆ちゃんも入りますね。お爺ちゃん・お婆ちゃんにも召し上がっていただく肉だから、モタレてはいけないのです。絶対に。二度と来ていただけなくなります。「ちんや」が①旨くて②モタレない肉を売らねばならない、理由がここにあります。年配の方も含めてご家族で何度も来ていただきたい、それで肉がモタレてはいけなにのです。

どうしてそういう風に考えたかは、<商品としてのすき焼き>について一度考えてみれば分かります。すき焼きという商品の特徴は「生活不要品」、つまり在っても無くてもOKな商品だ、ということです。そう申しますと、そんなことないですよ!すき焼きは立派な食文化ですよ!日本にすき焼きが無くては困ります、という反応がたいてい返ってきますが、それなら税金で補助して貰えるんでしょうかね。貰えませんね。歌舞伎すら松竹さんの民営ですから、すき焼きも民営で頑張る他ないですが、では、さきほど「そんなことないですよ!すき焼きは食文化ですよ!」と言っておいだった人は、果たして頻繁にすき焼きを食べて下さいますでしょうか?そこが、心もとないんです。口で言うのはタダ。FBで「いいね!」するのもタダですが、我々が成り立つためには、時間を作り、予約を入れて、お金を貯めて、わざわざ浅草へ来て下さる人が大勢いないと困るわけです。

だいたい、今時はすき焼き以外にも美味い食べ物がいくらでもありますね。浅草以外にも遊びに行く所はあります。だから「なんか美味いものを食べたいな」という程度の意識のお客様がいるだけではダメなんです。歌舞伎見物が生きがいという方がいますが、同様にすき焼きが無ければ自分の人生真っ暗、という位に、メンタルに入れ込んで下さる方を獲得することが大事だと思います。言い換えれば、その方の人生における必需品の中に、すき焼きを入れて貰わないといけない、と思っております。

はあ、すき焼きを必需品にって、そんなことが出来んの?っていうことですけど、出来なくもないんです、すき焼きには。出来る理由は、すき焼きのイメージです。すき焼きは明治時代と結びついていて保守的なイメージですが、その保守的な感情が、家族で食事をする時の感情と結びつきます。それがすき焼き商売の原動力と思っております。保守的な感情と申しましても「憲法96条を改正したい」とか、そういうことじゃあないんです、勿論。具体的には「正月は家族揃って浅草に初詣に行きたいね」「お参りの後は、すき焼きって我が家は毎年決まってるんだ」というような感覚を「保守的」と言ったわけです。そこに弊店が上手く嵌っていくことが、他の何より大事と思っています。

ところが、です、私はそう願っているんですが、ある年の暮に、ある御家族のお嬢さんが色気づきまして、お父さん、芸能人は正月はハワイに行くのよ、私もハワイに行ってみたい!と言い出しました。何言ってるんだ、お爺さんもお婆さんも、オマエとすき焼きを食べるのを楽しみにしてるんだぞ!えーやだー、浅草とかすき焼きとか、私、前からダサいと思ってたのよ。それに私、英語を勉強したいの!そう言われてお父さん、そうか、英語も習わせないとなあ、ということで、この一家はハワイへゴー、憐れ、お爺さんとお婆さんだけが浅草へ行きました。行きはしたものの、オイ婆さん、オマエと二人ですき焼きじゃあツマラナいなあ。何よ、お爺さん、アタシだってアナタとじゃあツマラナいわよ、今日は帰りましょう!あららら~っていうことにならないようにするのが、浅草のすき焼き屋の、最も大事な仕事です。私は、そう確信しまして、この10年ほど御家族づれ、それも3世代・4世代で「ちんや」へ来ていただくことに努力を集中して参りました。まず弊社の経営理念は「心に残る思い出を!」という文言にしました。弊社は「すき焼きを売るのではく思い出を売る」という次第です。勿論パクりの理念ですけどね、 not computer,but utility の。

具体的には例えば、ですが、「記念日割引」という制度を作りまして、その日は割引率が倍になるんですが、お客様が自分の好きな日を登録できる、というのがミソです。勿論自分の誕生日を登録してもOKなのですが、むしろ多いのは奥様の誕生日とか、結婚記念日とか、お孫さんの誕生日、あるいはご先祖の命日もあります。不祝儀でも良いんです。会社をやっている人は創業記念日を登録して社員さんを連れて見える、というようなパターンがあります。傾向を見ておりますと、男性は結婚記念日を登録なさることが多いですが、女性は自分の誕生日です、ゼッタイに。恐ろしいことですね、はい。

え~何でしたっけ?そう、そう、「記念日割引」という制度の話しですが、この制度の良い点は、どういう理由でお客様が見えたのかハッキリすることです。割引と申しますものは、要求されるとイヤなものですが、記念日割引は「されて嬉しい」割引なんですね。そしておめでたい日であれば、おめでたい趣向でサプライズのサービスが出来ます。そのやり方は、のちほどお話ししようと思いますが、とにかく、個々のお客様の記念日を店が知っている、ということが大事だと思います。何故なら、生活不要品であるすき焼きを、人生の必需品にしたいからです。こうした努力をしつこく続けて行けば、浅草のすき焼きを、その方の人生における必需品に入れていただくことも可能ではないか、イヤ絶対に可能だと確信しております。 

さきほど、記念日の、サプライズのサービスのやり方を「後でお話しします」と言いましたので、次にお話しをしましょう。実は『牛っとハート』という商品名を、商標登録出願中です。商品名と言っても、「ちんや」の、ハート型の牛脂の名前です。すき焼きを始める最初の所で鉄鍋に敷く、あの脂のことです。それに『牛っとハート』という名前を、「ちんや」の社員が命名しまして、商標登録出願中です。

この牛脂をですね、記念日割引のすき焼きに、ご利用いただきたいと思っています。お誕生日に、ご結婚記念日に、還暦・古希のお祝にご利用いただきたいと思っています。不祝儀でも結構なんです、故人様のご命日にもご利用いただきたいと思います。売店でのお買い上げの場合でも差し上げます。この牛脂を使おうと考えた理由ですが、FBやツイッターにUPしていただける、ということも勿論あります。ここは、SNS社会ですので、今後は非常に大事です。しかし、さらに大事な理由があります。なんでしょう、ご説明しますが、日頃、大切な記念日の食事でも、そのことを店のスタッフには知らせない方が大勢おいでです。まあ、他人に知られたくない気持ちは分かります。でも、店の人間は知らせて欲しいんですよね。この「牛っとハート」が欲しいが為に、「実は、今日がカノジョとの「おつきあい1周年」なんです・・・」とか教えてくれたら嬉しく、在り難く思いますよね。そう、この牛脂を使う、本当の目的は、働く者のモチベーション向上です。そう位置づけています。

実は牛脂をハート型に成型する技術自体は、そんなに難しいことではありません。以前にも誰かがやっていたかもしれません。しかし私ほど、このハート型牛脂に執着して、商いの根幹に据えようと考えた者はいないと思います。すき焼きという料理は、人のハートと人のハートが触れ合う席で食べる料理で在って欲しい、そういう私の心底からの願いを、この商標が象徴しています。だから、以前に試した誰かと私を区別したいです。区別するためには、①名前を付けること、②その名前を天下に公表することが必要だと考えました。で、商標登録なのです。この話しを聞いて「下らない!」と感じた方もおいででしょう。しかし、私はこういうことが大事だと断言いたします。何故なら、すき焼きという商品は売り易くない、しかしすき焼きの思い出という商品は結構、売り易い、からであります。この牛脂を今日も使ってたべていただきます。その「牛っとハート」をこれからお出しします。誰か一人でも、今日は誕生日とかなんかの記念日、という人がおいでだと良いんですけど、いませんか?いませんか。まあ、良いでしょう。

実際の問題としては、お客様にリピートしていただく、それも10年に30回、20年に60回、30年に90回といったペースでリピートをしていただく、ということを目指しております。浅草はそれが可能なんです。浅草と上野の間には寺町があってお墓がありますから、そこへ正月、春のお彼岸、お盆、秋のお彼岸と多くのご家族が通って来ます。春には墨堤の桜が咲きます。是非ともそういう機会にリピートをしていただきたいと思っています。30年の間にはお爺さんが亡くなるかもしれません。しかしリピートは終わりません。30年の間に、お孫さんが成長して結婚して⇒そこにお子さんが生まれて、つまりかつてのお父さんがお爺さんの位置に上がりまして、新たな3世代が揃って「ちんや」へ来て下さいます。人間の個体の単位で考えれば、お爺さんは死んじゃったんですから二度とリピートできませんが、家族単位ではリピートできるんです。生まれたお子さんにモノ心がついたら、今度のお爺さんつまりかつてのお父さんから聞かされるでしょう、オマエの曾爺さんの代から、ウチの家族はこの店に来てるんだぞ!って。それが弊店の理想形であります。すき焼きという料理は、そういう料理であるべきだ、と私は信じておりますので、だからこそ、「ちんや」の肉は、モタレてはいけない、と思うのです。

なるほど!では、そのモタレない肉ってどうやって作るんですか?!という話しを、いよいよお教えしますが、「モタレない」とは、どういう状態のことを言うのでしょう。

二つ条件があります・・・

① 肉の中にアミノ酸が多いこと

② 脂肪の融点が低いこと

分かりにくいと思いますので、非常にザックリとお話ししますね。

肉を熟成させると、肉の中のタンパク質がアミノ酸に変わります。分子が小さくなるのです。分子が小さいので、消化しやすく、そしてアミノ酸は旨みの元でもありますので、味も旨いのです。食べものの世界では、一般に分子の大きいものは美味しくなく、小さいのが美味しいのです、ザックリですが。

アミノ酸を作るのは牛の体内の酵素です。その働きで自然に置いておくだけで、そうなります。もっとも「自然」と申しましても0℃~2℃です。常温で置いておけば、熟成は速く進みますが、品質がいたんでしまいます。だから冷蔵するわけですが、冷蔵すると望ましい熟成度合に成るまで、およそ一か月を要します。

そう、皆さんが今日召し上がる肉は、一か月前に亡くなった牛の肉なのです。ここがスーパーの肉と「ちんや」の肉が大きく違う所です。

スーパーの肉は一か月ではなく、4~5日目に売られています。商品回転率を高めたいから、そうしているのですが、それでは旨くもなく、かつモタレます。赤身ならモタレない、と思っておいでの方が多いですが、違いますので御注意下さい。今日は、その違いを体感していただきます。

もう一つの条件「脂肪の融点」についてもお話ししましょう。牛の脂肪の融点は、他の動物の肉の融点より、一般に高いです。だからモタレるのです。しかし、どの牛も同じなのではなく、育て方によって、融点が低い脂肪にすることが出来るのです。本日出される牛の脂肪は、部屋の温度で置いておくと、だんだん融けてきますが、それが望ましいのです。それが消化しやすい脂肪です。外見上脂が少ない肉でも、融点が高ければモタレますので、ご注意願います。さて、その脂肪の融点を、牛を屠殺した後に我々が変えることは出来ないので、肉屋の仕事としては、脂肪の融けが良い牛を選ぶことが大事です。選ぶことつまり所謂「目利き」です。

そして「ちんや」の職人は、一瞬指で肉を触るだけで、その「目利き」をすることができるのです。脂肪内部の飽和脂肪酸と不飽和脂肪酸の比率が変わると、融点も変わるのですが、そんなことを、分析器で測定していたら時間がかかって仕方ないです。

一方「ちんや」の職人は、一瞬触るだけで「目利き」できます。そうできるのは、職人としてキャリアを形成してきた、長い人生の時間が指に乗っているからです。

以前、陶芸の人間国宝・浜田庄司先生は、たった15秒で、大きな器に釉薬を流し掛けました。そして、そのことを「15秒プラス60年」という、有名な言葉で表現しました。

15秒とは実際に釉薬を流し掛ける時間、そして60年とは陶芸家としての鍛錬のために費やした長い歳月を意味していました。同じことが肉の職人にも言えると思います。

・熟成に一か月

・脂肪の目利きに「15秒プラス30(60)年」

①旨くて②モタレない肉を提供するため、これだけの時間がかかります。しかし時間をかける価値はあります。「思い出を作るすき焼き店」~特に御家族の思い出を作る店

しかも、何世代にも渡って、「思い出を作るすき焼き店」そう在り続けたいと思えば、時間をかける価値があります。ローマは一日にして成らず、と申しますが、旨い肉も一日にして成らず、なわけです。以上は肉に関する考え方の御説明でした。

さて、「観光」とか「ガイド」ということについて、今回のご依頼があってから、私も久しぶりにつらつら考えてみましたので、最後にその話しもしておこうかなと存じます。

ここはボヤキです。さて「東京観光」、ですが、未だ黎明期と言えると思います。東京都が観光誘致に力を入れ始めたのは、ごく最近のことです。まず2002年の、サッカーのワールドカップ日韓共催の時に、受け入れ体制の不充分さが指摘され、2003年東京観光財団設立。やがて国全体でも2006 年に「観光立国推進基本法」が制定されました。力を入れ出したのは、その辺りからです。TCGCさんがNPO法人の認可を獲ったのも2007年とお聞きしております。

その後スカイツリー開業やオリンピック招致やらで勢いを増していますが、「東京観光」は未だ黎明期を抜けていないと思います。もう少し平たく・分かりやすく申せば、「遅れている」のです、東京観光は。

他の観光地で以前から指摘され続けている、「マス・ツーリズムの弊害」が、今東京観光に該当している、と断言しましょう。弊害ツーリズムの行先が東京に代わっただけです、ハッキリ申して。だいたい、「旅行業」って、なんであんなに不勉強でも開業できるんでしょうか。

しかしそれなのに、何しろ大量の送客をしてくる取引先なので、地元受け入れ業者の皆さんが、あの連中の都合に合わせてしまいがちです。嘆かわしいです。極端な短時間で客に食事をさせようとする業者が実に多いです。1卓にビールを3本ずつ、事前に栓を抜いて置いておけ、とか言って来る輩も多数。麦を育てている生産者の方のことを、少しでも考えたことがあるんでしょうか。それを弊店が拒否すると、すぐさま紛争の種と成りますので、私がいちいち交渉に乗り出すハメになります。ああ、メンド臭。でも、いつでも絶対妥協せず、そういうことでしたら、今からでも御予定を変えていただいて、余所の御店にいらしていただいて結構ですよ!浅草には良い御店がいっぱい在りますからね!と脅迫致します。旅行の前日の話しですから、困るのは先方ですからね。だってですよ、お客様の楽しみが優先ですからね。そういう言い分を、私は聞きません。この現象は「マス・ツーリズムがもたらす観光地の疲弊」と説明されるようです。曰く、「多量に観光客をさばくには、必然的に専門的事業者たる旅行代理店等を介在する必要がある。」「送客側の立場が相対的に強くなり、その要求に合わせた設備投資や手数料の支払い・販売促進協力金負担などの商慣行から、観光地の事業者の疲弊が見られる。」とも説明されるようです。

誰が本当の御客様で、何が御客様の本当の楽しみなのか、考えないからそう成るんです。

さらに申せば、ネットの普及によって、「ネット受けの良い」事業者だけが流行る現象も起きていますね。そんな御時世ですから、私は大いに期待してます、ボランティアガイドの皆さんに。ご活躍いただきたく、お願いを申しておきます。

本日はありがとうございました。

<やっと終わりました。お疲れ様でした、ヒマな皆さん>

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.245日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

歌舞伎と鰻

「料飲三田会」の例会に、五代目中村時蔵丈に来ていただき、お話しをしていただきました。

時蔵丈と言えば、勿論歌舞伎女形として確固たる地位を築いておられる役者さんですが、会員の「たいめいけん」の御主人と親しいとかで、お忙しい中来ていただくことが出来ました。

会場も当然「たいめいけん」。

「たいめいけん」さんは洋食屋として、あまりに有名ですが、建物の3~4階には宴会場が在って、そちらでの宴会となると「小皿料理」が有名です。

その日出番があった時蔵丈の到着が少し遅れる、ということで先に乾杯させていただき、九つの可愛い小皿が一緒に盛られたワン・プレート目を食べ終わる頃、御登場となりました。

歌舞伎座新開場前後の、歌舞伎界の裏話しなどをたっぷりとお話しいただき、参加者の皆さんも喜んでおられたようです。

今後、「料飲三田会」では、時蔵丈がお出になる公演を、団体で観劇しようと計画しています。

さて、ひとしきり話しが終わり、

「皆さん、質問はございますか?」ということになり、歌舞伎にお詳しい2~3の方が質問をなさっていたようでした。

で、せっかくの機会ですので、私も一言発言させていただくことにしました。

お願いします!昭和63年経済学部卒の住吉史彦と申します。すき焼き屋をやっております。

質問というよりは要望なのですが、歌舞伎座が新開場してから、食堂に鰻がなくなってしまったようです。

私としましては、歌舞伎を観る=食堂で鰻を食べる、という関係性が完全に出来上がっておりましたのもので、大変困っております・・・

この要望は、先輩方の笑い声でかき消され、後は非常に楽しい宴会になりました。

いよっ、鰻屋! じゃなかった、萬屋!

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.243日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

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偶然

余りの偶然に、

あっ!と叫んでしまいました。

食べようとしていた、2頭の牛さんの誕生日が、同じ日でH22.8.10だったのです。

そして、その2頭の、それぞれの生産者の方と私とが同席して、ある夜すき焼きを食べることに成ったのです。

2人の生産者の方=滋賀県のNKGWさん・兵庫県のTMRさんは、それぞれ近江牛と但馬牛を代表する方です。

この日ノ本で、この地球上で、こんな巡り合わせがあるものなのか、これから先にもあり得るのか、本当に驚いた事態です。

今回、はじめNKGWさんが、「ちんや」がNKGWさんの牛を仕入れたことに気づきました。で、勉強熱心なNKGWさんは、それを食べに「ちんや」へ行こう!と考え、同業のTMRさんを誘いました。

その話しを聞いた私はまず驚きました。

え!偶然ですけど、TMRさんのも今ウチに在るんですよ!食べ比べができますね。

そこまででも充分に偶然ですが、最初に書いた通り、

その2頭の誕生日が全く同じ日だったのです。

屠畜日は違いました。TMRさんのはH25.5.10の潰しで、NKGWさんのはH25.5.31の潰し。

日頃TMRさんの方が、長期肥育が「売り」なのですが、今回はNKGWの方が長いですね。しかし、逆に熟成期間という意味では、当然TMRさんの方が長いです。

結果は、甲乙つけがたく、両方旨かったです。

いずれにせよ、その夜はすき焼きの神様が見守ってくれている夜となりました。

在り難いことでした。

南無観世音菩薩。

おっと、それは仏様だったか・・・

追伸①

「ぴあMOOK 旨い肉 2014 首都圏版」

~感涙必須の旨い肉200軒 に「レストランちんや亭」の、ハンバーグとサイコロステーキを載せていただきました。

ご購入は、こちらです。

追伸②

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この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.231日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

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新道の すき焼き

新潟県新発田市の、すき焼き店「八木」さんに行って来ました。

「八木」さんは、新発田の「新道(しんみち)」という、元の花街で現在は割烹・居酒屋・食堂・スナックなどが密集した一角に在ります。

市役所から、旧「三宜町遊廓」へ向かう途中と言っても良いでしょう。

江戸の中心から吉原へ向かう途中に、浅草はありますが、その浅草観音裏の花街と、新道は似た風情です。

いや、悔しいことながら「新道」の方が風情がありますねえ。

昭和の木造建築が多数残っているからです。昭和10年の「新発田の大火」の後に建てられた建物が多いそうですが、それに比べると、戦災・震災を経験した浅草は、風情という点では分が悪いです。

「八木」さん自身も、その当時の、木造の建物ですね。浅草ではこうは行きません。

ところで、新発田が肉食系なのは理由があります。

新発田はもともと溝口家6万石の城下町で、一度も転封が無かったので、濃厚な武家文化が発達しました。

酒蔵や和菓子店が在るのは、そういう次第でして、今回「八木」さんへ私を案内して下さったのも、旧知の「金升酒造」の御主人でした。

その新発田が、さて明治時代になりまして廃藩置県、新潟県に編入されました。

そして1873年に、廃城となった新発田城の跡地に陸軍歩兵第16連隊が置かれました。

で、以降、明治から終戦まで、この町は「軍隊の町」と成りました。今でも市のシンボルである新発田城址近辺の広い敷地は自衛隊が駐屯しているという状態です。

今でも、引き続き新発田は、自衛隊と武家文化が同居している、不思議な魅力の在る街になっています。

と、いうわけで新発田が肉食系なのは、歴史の当然なのです。「八木」さんの常連さんの中にも自衛隊関係の方がおいでだと、女将さんから聞きました・・・

と書いていると、「すき焼きを食べるのに、なんでそんなに能書きが要るんだ!」

と言われそうですので、いい加減にすき焼きそのもののことを書こうと思いますが、

おっと、この話しは長くなってしまいました。

続きは、後日の弊ブログで!

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様

*おかげ様にて満員になりました。ありがとうございます。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.212日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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