肉の大獄
彦根のすき焼き店「千成亭」さんが発行している『近江牛いまむかし』というパンフレットは非常に参考になります。
たいていの肉関係の本には、明治時代以降のことばかりが書いてありますが、この本には江戸時代の彦根藩の肉食文化・肉生産体制のことがくわしく書いてありまして、
へえ~
ということもいくつかありました。
印象に残りましたのは、桜田門の大老・井伊直弼による、牛馬屠殺禁止令のことです。
直弼以前の彦根藩は公然と牛を屠殺して食用にしていた、唯一の藩でした。一応アングラなので、「薬」と称していましたが、アングラにしては売り先が素晴らしくて、将軍さえも、その「薬」を楽しみにしていたほどです。
そういう次第で彦根の「薬」は有名で、全国にファンがたくさんいたのですが、それをイキナリ直弼は禁止してしまい、将軍家への献上も止めてしまったのです。
「烈公」こと、水戸藩主の徳川斉昭も彦根肉の味噌漬けが大好きで、禁令の後も、なにとぞ譲っていただきたい、としつこく催促していたようですが、直弼は頑として応じず、そこから水戸藩との間にしこりが芽生え⇒桜田門外の暗殺につながった、という説があります。それは、まあ、話しの風呂敷を拡げ過ぎでしょうけど。
私の印象に残りましたのは、家代々の産業をズバッと切ってしまい、異論を受け付けない、直弼の強情さです。そして、そういう性格に成った原因=幼少期の不遇時代のことが気になりました。
実は直弼は、第13代藩主・井伊直中の、なんと十四男で、兄弟が多かった上に母が側室だったこともあって、養子の行き先がなくて、17歳から32歳までの15年間を、「埋木舎」と称する質素な屋敷で過ごしました。
7/29の「すきや連」のついでに、私も、この「埋木舎」を見物して来ましたが、たしかに質素で、中級武士の家といった感じです。
この家で、ひたすら兄や甥が死ぬのを待つ、という暮らしを続けながら、直弼は熱心な仏教徒と成り、それが牛馬屠殺禁止につながって行くのです。
司馬遼太郎の『酔って候』を読むと分かりますが、幕末に活躍した人物の内相当人数が、それぞれの家の長男ではなく、養子や傍系親族でした。
徳川慶喜、島津久光、山内容堂、伊達宗城・・・皆長男ではありません。現代でも養子社長が大胆な事業展開をしたりしますから、納得できる傾向ですね。
直弼の場合、こうして出来上がった性格が、政局に大きな影響を与えたように思えます。その要因が、やはり無視できません。
将軍継嗣問題、条約勅許問題、安政の大獄といった直弼の政治行動に感じられる強情さは、「埋木舎」時代に形成され、それが極端に現れたのが肉の一件だ、と私はみています。
追伸①
単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。
21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。
時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。
くわしくはこちら↓です。
追伸②
「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。
この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。
その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。
現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.259日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。
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