11/25の「読売新聞」都民版の「東京の記憶」というコーナーに「千住葱」のことが載っていました。
「千住葱」については、現在チト分かりにくくなっています。二重の定義があるからです。ですので補足をしつつ、ご紹介します。さて、
定義①=品種としての千住ネギ。
定義②=ブランドとしての千住葱。
ネギの品種には「千住ネギ」と「加賀太ネギ」と「苦情ネギ」いや「九条ネギ」の3種がありまして、
有名な「深谷葱」は品種としては「千住ネギ」、
やはり有名な「下仁田葱」は品種としては「加賀太ネギ」に入ります。
「九条ネギ」は、京都のすき焼き屋さんに行くと出て来る、あの青ネギのことです。
定義①の「千住ネギ」の内で、東京都足立区に在る市場「山柏青果物市場」で取引されたものが、②のブランドとしての「千住葱」となります。この記事は実はそれについて書いてあるのです。引用しますと、
「足立区には全国唯一とされるネギ専門の市場がある。ネギは集散地にちなんで「千住葱」と呼ばれ、葱商と呼ばれる目利きの仲買人たちがブランドを守り続けてきた。」
「足立区千住河原町の住宅街の一角にある民営市場「山柏青果物市場」。6軒の葱商が毎朝、威勢のいい掛け声とともに埼玉県などから出荷されたネギを競り落としていく。ここで、葱商が太鼓判を押したものだけが「千住葱」となる。」
「千住河原町には現在「山柏」しかないが、かつては青果市場としてにぎわい、「やっちゃ場」と親しまれた。近くの稲荷神社にある、1906年に建てられた石碑には「市場創立三百三十年」と彫られている。計算すると、天正4年(1576年)という古さだ。」
へえ、そんなに旧かったんですねえ、知りませんでした。
現在その場所に行ってみると、どこにでも在る商店と住宅の雑居地で、築地のような市場はありません。
そう、市場は他へ移転してしまったのです、その経緯について記事は、
「太平洋戦争末期には近くの千住橋戸町にできた都の市場に多くの問屋が移り、1979年にはさらに青果部門が足立区北部にある入谷の市場へ移転した」
「入谷移転の際、山柏にも移転の打診があったが、千住葱商組合が反対した。戦前から葱商を営む「葱茂」2代目の安藤賢治(70)によると、反対の理由は「決まった時間に得意先に配達できなくなる」という単純なものだったが、「あのとき千住から離れなかったおかげで、名を残せた」と振り返る。」
ここがポイントです。葱商の人達だけが千住河原町に残って、高級葱に特化して取引きしてきた結果、だんだんにブランド化してきたのです。
品種としての千住ネギは各地で栽培されており、逆に千住では千住ネギは栽培されていないのですが、市場の名声がブランドに成っていった、という珍しい事例と思います。
「千住葱は白根の長い根深ネギで、「巻き」と呼ばれる白身の層の枚数が多く、太いものだと直径3センチほどにもなる。熱を通すと独特の甘みがあって軟らかい。プロの高い評価を受け、味にこだわるすき焼き屋やそば屋、焼き鳥屋などに重宝されている。」
「プロ」の筆頭にすき焼き屋が挙がっているのは嬉しいですね。「ちんや」も勿論千住葱です。
さてさて、それにつけても「産地偽装」が問題になった今後、このブランドはどうなるでしょうか。なにしろ、千住では栽培していないんですから。
そう言えば「アサクサノリ」も浅草では養殖していませんが、レッキとした品種名です。
葱組合の方々も議論をなさっているようなので、経過を見守りたいと思います。
追伸①
単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。
21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。
時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。
くわしくはこちら↓です。
追伸②
「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。
この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。
その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。
現在の笑顔数は373人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。
皆様も、是非御参加下さい!
本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.374日連続更新を達成しました。
毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。