老舗

 「東都のれん会」に入れていただきました。

 加盟の条件は『三代100年、同業で継続し、現在も盛業』ということでして、いわゆる老舗さんのグループです。

と申しましても、ここに加盟している皆さんは、「老舗」という言葉に厳しく、自分で「老舗」と名乗っているわけではありません。曰く・・・

「老舗という言葉は店みずから言うことではなく、長年にわたる店の精進から得たお客様の信用の積み重ねによって得られることになります。」

「温故知新。のれんに頼ることなく、一業一品にこだわりつつ、それぞれの伝統を見詰め常に新しいことをめざす・・・」

という皆さんであります。東京では最も権威があるグループ、と言って良いでしょう。

 弊店も、三代100年、同業で継続、は該当していたのですが、これまで御縁がありませんでした。実は、この条件は最低条件でして、300年オーバー、200年オーバーという御店さんが多いのです。132年の弊店は後発組です。

 そんな会に入っておられる「駒形どぜう」の御主人と、去年の暮に立ち話しをしていたら、

 そうだ、「ちんや」さんも「東都のれん会」に入ってよ!

ということで入れていただくことになりました。

 で、早速総会に出席させていただくことに。

 新入りですから、当然挨拶がmustです。

 ええ、住吉史彦と申します。すき焼き屋でございます。

 このたび「駒形どぜう」の御主人様のお勧めで、入会させていただくことになりました。総会で皆様から御承認を賜り、光栄に存じます。

 で、入れていただいたら、どういう風に活動したら良いんですか?と駒形の御主人に尋ねましたら、

 そうねえ、旅行があって楽しいから、それには来てよ、とりあえず。

というご返事でした。

 なる臍。私は、そういう系の要員なのね。はい、そういうことは望む所です。

 酒ですか? はい、嗜む程度に。

 ウソつけ!って? はい、楽しくいただきますよ。

 大した御役には立たないと存じますが、何とぞ、よろしくお願い申し上げ奉りますう〜

 東西、東〜西〜

(「東都のれん会」のサイトはこちらです。)

追伸

 「台彪会」会長として、「ニッポン全国彪友会ー台東万博!」を計画しています。

 二条彪先生の門下生約200m人が集まる、一大交流会です。先生のメルマガを取っている方なら、どなたでも参加できます。

 2012.4.20(金) 浅草が燃えます。

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

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いろは

 瀬戸内寂聴先生が東京新聞に、大正時代の文学界をテーマにした連載をされています。

 先日、その内の一回で、木村荘太が伊藤野枝に「熱烈な恋文攻勢」をかけた、という話しが書いてありました。

 木村荘太とは、この時代の作家・翻訳家で、武者小路実篤の「新しき村」に参加した一人でもありますが、この作家のことをご存じない方は多いと思います。

 私だって、すき焼き屋でなければ記憶していなかったと思います。木村荘太の父が、すき焼き屋だから記憶しているのです。

 実は、木村荘太の父は「すき焼き屋だ」どころではなく、すき焼き業界史上最大の、話題の男なのです。

 荘太の父・荘平は牛鍋屋チェーン店「いろは」を20数箇所に展開して、「いろは大王」と呼ばれると共に、葬儀会社「博善社」の社長も兼ねた実業家でした。

 多数の愛人を持ち、その愛人に「いろは」各店を経営させていたそうです。

 スゴいですよね。伝記本も出ています。

 あちこちに作った子の数が、男13人に女17人、というから驚きです。荘太も妾腹の子の一人でした。

 荘太の他にも才能ある子が多く、また裕福だったためか、多くが文学方面に進んでいて、異母姉栄子が木村曙の筆名で作家として知られた他、同母弟に木村荘八(挿絵画家)、異母弟に木村荘十(直木賞作家)と木村荘十二(映画監督)がいました。八、十、十二とか名前の付け方がいい加減なのが素晴らしいです。

 荘平は、今の人権感覚ではトンデモナイ男でしょうが、この時代の、肉食な勢いを感じますね。

 そして、その「大王」荘平の子である荘太が、時代の先を行く女性・野枝に恋をしたわけですから不思議です。

 ややこしいですね、大正時代。

追伸

  毎日新聞社発行の毎日ムック『100年の味 店100選』に載せていただきました。有難いですね。2012年1月12日発行。是非お求め下さい。

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奏楽堂②

 この話しは、昨日から続いています。

 昭和の終わり頃のことです。

 「旧東京音楽学校奏楽堂」を移築しようとする芸大執行部に異を唱えて対立し、しかし芸大側の強硬姿勢を前に困った故・芥川也寸志先生、故・黛敏郎先生が、内山栄一・台東区長に相談を持ちかけましたが、その場所が弊店「ちんや」でした。

 実は、これは自然の成り行きで、内山先生は元々、株式会社ちんやの顧問税理士さんなのです。今でもお元気で、弊社の税務をお願いしていますが、その税理士さんが区議に出て⇒都議を経て⇒区長になられたわけです。

 その内山先生に、芥川先生・黛先生が、「奏楽堂」の移築をなんとか阻止できないものか、と相談をもちかけたわけです。問題なのは当然、費用と代替地です。

 内山区長の英断で費用は支出され、また土地も現在地が使用できることになって、「奏楽堂」は上野公園の中に残りました。この問題は紆余曲折もあって簡単ではなく、あやうく(?)「奏楽堂」が隅田公園に来る話しなりかけたそうなのですが、最終的には上野公園に残りました。

 そうした緊迫した相談がなされたのが「ちんや」の部屋でした。

 当時中学生だった私に、その話しの趣旨が分かるわけもありませんが、芥川先生・黛先生にサインをいただきに行った記憶があります。

 これでようやく、「奏楽堂」と「ちんや」の関係が見えて来たかと思います。

 こうした経緯がありますので、その後、弊社は「奏楽堂」で台東区が演奏会を主催する時には、協賛をするようにしています。

 協賛を続けて来た期間には、リーマン・ショックやら今回の大震災やら「経費を削りたいなあ」と深刻に思うこともしばしばありましたが、続けてきました。

 この協賛を続けて来たことで、後に私は「台東区アート・アドバイザー」に起用されるのですが、そうした一個人のことよりもっと嬉しいのは、弊店のお客様が「奏楽堂」のお客様になり、「奏楽堂」のお客様が弊店のお客様になったことです。

 昨日のブログに書きました、クリスマスイブの日のことが、とても嬉しかった理由は、そこです。

 「これから奏楽堂の、クリスマス・コンサートに行きます」というお客様が2組、同時に弊店で食事をされたことも奇遇ですが、さらに同時に「ちんやメンバーズ・カード」に入会されたのも奇遇で、驚きました。

 驚き、そしてまた協賛を続けて来たことが報われたような気がしました。

 御縁を大切にすること、それを継続すること。

 それが大事と思います。

 報われる日が来ました。メリー・クリスマス!

追伸

 1/7に浅草7丁目の「待乳山聖天」で「大根祭​り」が開催されます。

 御本尊の聖天様にお供えされた大根が、フロふき大根に調理されて、御神酒と共に参詣客に振るまわれます。毎年1/7の恒例行事です。

 また今回は、近くの​聖天公園でフリーマーケットもあります。福​島県や宮城県の被災地物産展が開催されますので、是非皆さ​ん、お出かけ下さい。

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奏楽堂

 クリスマスイブの日のことですが、嬉しいことがありました。

 夕飯にしては早めの時間に「これから奏楽堂の、クリスマス・コンサートに行きます」というお客様が2組、同時に弊店で食事をされ、さらに同時にそれぞれ「ちんやメンバーズ・カード」に入会されたのです。同じ用向きの方が同時に見えたのも奇遇ですが、さらに2組とも入会されたので、少し驚き、嬉しく思いました。

 まず「奏楽堂」について、ご説明しないといけませんね。

 正確には「旧東京音楽学校奏楽堂」と言います。東京芸術大学にも「奏楽堂」がありますが、「旧」の方は台東区が管理しています。

 芸大の方が新式のホールであるのに対して、台東区の方はと言うと、明治23年に建造された、日本最古の木造のホールで、昭和63年には重要文化財に指定されています。

 かつて滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を披露し、三浦環が日本人による初のオペラ公演をした由緒あるホールです。ここで有名・無名の多くの音楽家が初舞台を踏みました。

 この「旧」の方の「奏楽堂」が「ちんや」とどういう関係なのか、それをお分かりいただくためには、台東区がこのホールを管理するようになった経緯を知っていただかないといけません。

 さて台東区に移管される前、このホールは芸大のもので芸大の敷地内にあったのですが、新しい現代的な建物を建設するに当たって邪魔になり、「明治村」への移築が決まりました。

 ところが、この移築話しに故・芥川也寸志先生、故・黛敏郎先生が異を唱えました。「由緒ある「奏楽堂」は上野の杜にこそ相応しい。移築は反対だ。」と。

 対する芸大執行部も「移築推進」で強硬だったため、この問題は、ちょっとした紛争になりました。昭和の終わり頃のことです。

 そこに割って入ったのが当時の台東区長・内山栄一先生でした。代替地を上野公園内に用意し、移築費用を区が負担する、と決めたのです。これは英断でした。

 ここで、やっとこの話しに「ちんや」が登場します。

 芸大執行部の強硬姿勢を前に困った芥川先生・黛先生が、内山区長に相談を持ちかけた、その場所が、「ちんや」だったのです・・・

 この話しは、まだ続きますが、長いので今日のところは、これにて。

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バター・セレクション

 「ちんや」精肉売店でバターを売り始めようと思い、数種類をセレクトして取り寄せ、試食しています。

 バターは明治時代に導入されたものですから、すき焼き屋が併設する、弊店の売店で売ればイメージとして合致します。実際、セレクトした候補の内いくつかは明治時代に開拓された牧場の製品ですから、親近感があります。

 今時は醗酵バターでないバターもあるようですが、そういうバターは眼中になく候補は皆、醗酵バターですので、熟成させた肉をメイン商品とする弊店が売ることにも違和感はないと思います。

 で、研究中です。色々な食品と合わせて食べています。

 そうしておりましたら、雷門横丁の、もんじゃ「おすぎ」のU子さんが、じゃがいもを分けてくれました。ご親戚が北海道においでだとかで、毎年分けてくれるのです。

 ピンポン!

 しかも丁度良く、蒸し器を購入したばかりでした。じゃがいもを蒸せます。

 ピンポン!ピンポン!

 蒸し器と言うと本当は正確ではなく、従来からあった土鍋に入れる中敷きを買っただけです。その中敷きの下に少量の水を入れ、中敷きの上には当然具材を置き、土鍋の蓋をして、火にかければ即席蒸し器に成るのです。

 蒸したてのアツアツのじゃがいもにバターを載せると、熱で溶けて、素晴らしい香りが立ち昇ります。不醗酵バターやマーガリンでは、こうは行くまい、と思います。

 そして、旨いです、単純に。

 バターが無縁バターいや無塩バターの場合は、安中市「有田屋」さんの再仕込み醤油につけてもよいです。旨いですねえ。

 だいたい、じゃがいもは、煮込むと緩くなってしまうので、すき焼きの「変わりザク」にしにくい具材ですが、それだけに蒸すのがベストかもしれません。

 食べだすと止まらず、一箱あったじゃがいもが大分減って来ました。

 イモ食えば鐘が鳴るなり浅草寺

追伸

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つくられた異境

 先日、花巻へ行った時、電車乗り継ぎの待ち時間がありました。

 それで駅の本屋さんをひやかしていて「東北―つくられた異境」(河西英通著、中央公論新社刊行)を見つけ、帰りの新幹線で読もうと購入しました。

 この本の主題は・・・

=東北を辺境と位置づけ、後進性を強調し続けたのは、「国民国家たらんとした近代日本」である、ということです。つまり明治時代のことだ、というわけです。

 国をあげて近代化しようと進んでいる時に、その浸透が遅い地方=東北地方が存在すれば、疎ましいと思う気持ちは分からなくもありません。また明治維新の時に東北の諸藩は、ほとんど賊方だったため、その意味でも当時の統治者にとって、東北地方は疎ましく感じられたようです。

 それで、東北の人達を評する時に、今日の人権感覚では信じられない侮辱的な表現を使っていたようです。

 むしろ北海道の方が、近代化を強力に進めたので、明治人には親しみがあったようです。

 当時の都市人口ランキングでも、1876年に9位だった仙台は、1920年には12位に下がっています。逆に1876年に13位だった函館が1920年には9位に上がり、1876年にはランキング圏外だった小樽が1920年には13位に上がっています。仙台と小樽は、ほぼ並んでいますね。

 この数字から北海道の近代化ぶりがうかがえます。一方、東北地方の近代化には方言がネックになっていたようです。

 明治時代に起源のある店で働いている私としては、こうした事情もわきまえておかないといけないな、と、感じました。

 勿論現代に、こうした感覚のままで良いわけはありません。

 既に栁田國男が1926年に、東北の自律的で独自な歴史それ自体の探求をすること、その必要性を書いていたそうですが、今はそれが一層大事と思います。

 「実地の生活を自ら観察し考慮する者のために、大切な指導者たるべき歴史の科目が空であるゆえに、結局事情の大いに違った中央部日本の尻ばかり、追っていた」と書いていたそうな。

 うーん。

 そして、そうした探求は浅草のような街にも大事と思います。

 私自身も「大化の改新」とか「平安遷都」とか「応仁の乱」とか必死に覚えましたが、同じくらい必死に浅草の歴史を学んだことは無かったですね。

 あらためて、そのことを残念に思いました。

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あさ開

 「武士の商法」とか「殿様商売」とか言うと、悪い意味で使いますね、普通は。でも繁盛している会社もあります。

 弊店が最近御酒を仕入れさせていただいている、岩手県盛岡市の蔵元「あさ開(アサビラキ)」さんがそうです。南部藩士だった村井源三という人が明治4年(1871年)に武士を辞め、酒造りを始めたのが、この蔵の起源だそうで、侍から商人としての再出発と、明治という新しい時代の幕開けにかけて、「あさ開」と命名したとか。

 その後、現在のこの蔵は、全国新酒鑑評会で連続20回入賞、その内16回は金賞を受賞しています。スゴいことです。どんな作り方をしているか、気になりますね。盛岡は母の故郷でもありますし、先日火曜日の定休日を利用して見学させていただきました。

 さて、新青森行きの東北新幹線「はやて」号に乗りますと、速いですねえ。2時間20分で盛岡へ着。子供の頃夏休みに盛岡へ旅行した時は、6時間かかっていましたが、今では日帰りは可能です。

 着きますと、あいにく御主人様は東京出張とかでお留守でした。こちらは火曜日しか遠出できないので、それは仕方がないことです。

 でも、その代わり「現代の名工」に選出されている、杜氏の藤尾さんが案内して下さいました。この御方は、「南部杜氏の至宝」と言われる方でして、恐れ多いことです。

 敷地内にある、御酒の神様に拝礼した後、工場へ入れていただきますと、

 近代的!

 この工場は、昭和63年に竣工した工場だとかで、ほとんど全ての工程をコンピュター制御できるようになっています。発酵タンクの温度が高すぎれば冷水を回し、低すぎればヒーターが付いて、温度を適切に維持します。

 全国新酒鑑評会は減点主義の傾向があるそうですので、こうした完璧な造りが高く評価されるのかもしれません。

 その近代的な酒蔵を、今年試練が襲いました。大震災による停電です。

 不幸中の幸いで、大震災は3月はじめの寒い時期で、もともと酒造りにちょうど良い季節でした。それで今回は電源を失っても、望ましい温度からわずかにズレただけで済んだそうですが、電気が来るまでの間、生きた心地がしなかったと「現代の名工」は話しておられました。

 機械化しても、そういうことがありますから、やはり最後にモノを言うのは、人間力ですね。

 で、御約束の、試飲。

 普通試飲した酒は吐き出して、酔わないようにして、試飲を進めて行きますが、この日は火曜日ですので、構うことはありません。搾りたての、加水も火入れもしていない酒、つまり蔵現地でしか飲めないお酒をいただきました。

 うまいです、当然ですが。

 しっかり頂戴しまして、すっかり気持ち良くなった頃には日も傾いてきました。次の訪問先=岩手県酒造組合さんの事務所に立ち寄って、帰路につきました。

追伸

 今日は私の誕生日ではありますが、皆さん、コメントには極力心を込めず、そっけなく、事務的にお願いします。

 一応おめでとう。

 とりあえずおめでとう。

などとお願い・・・します。

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予行演習

 桜鍋の「中江」さんを訪問しました。

 訪問と言っても、桜鍋を食べに行ったわけではなく、企業訪問(=見学)をしました。

 実は、来年4月20日の「ニッポン全国彪友会―台東万博!」では、「台彪会」の8社の会社が企業訪問を受け入れるのですが、「中江」さんも、その内の1軒です。

 それで、全国から見える皆さんに対して恥ずかしくないように、今から受け入れの予行演習をしています。残りの7社の社長と私を訪問客に見立てて、「中江」の四代目にプレゼンをしていただいたのです。

 「中江」さんは、今年が創業106年目なのですが、これまでの歴史の説明があった後、さらに四代目が跡目を継いだ後に、どのような改革をなさったかの説明がありました。

 四代目は、素材や御酒を産地まで求めに行ったり熱心に研究されていて、大したものです。

 また、その経緯がメニュー上に面白く書かれていて、そのストーリーに惹かれて注文する人もいるでしょう。良く出来ています。

 さらに今後は、吉原の文化に注目を集めるための仕事をして行きたい、とか。なるほど、大変結構かと思います。

 あっと言う間の90分でした。

 ここにあまり細かく書くと「ネタバレ」になってしまうので、この位にしておきますが、期待できますよ、「中江さん」。全国の皆さんも、喜んで下さるでしょう。

 どうぞ、ご応募を!

 この予行演習シリーズは、まだ続きます。

追伸①

 明日11/22は火曜日ですが、11/23の祝前日ですので臨時営業いたします。どうぞご利用くださいませ。

追伸②

 11/27に第五回「ちんや」すき焼き通検定試験を実施します。

 年内最後の検定です。今年の内に、「自称すき焼き通を、公認すき焼き通に!」

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ギリシャ国債

 ギリシャの財政破綻が回避できそうで、まずは結構なことでした。

 ギリシャ政府が国債の返済を出来なくなると、その国債を持っている世界中のたくさんの人が破産するとかいう話しでしたが、そうはならずに済むらしく、金融関係の皆さんも、ひと安心でしょう。

 でも皆さん「?」と思いませんでしたか。なんでまた、ギリシャの国債を世界中の人が持ってるんですかねえ?

 普通の会社が社債を売り出す時は・・・

 我が社の発展のために、これこれこういう設備を購入したい!

⇒その設備を導入すれば、売上が、これこれこの位増えるに違いない!

⇒だから我が社の社債を買っていただきたい!

という筋道ですよね。

 ところがギリシャ政府の場合は・・・

 選挙の時に与党を支持してくれた連中を公務員として雇って、たいして働かなくても給料を支払いたい!

&脱税して税金を払わない国民に課税せず、このまま生活させて行きたい!

⇒だから、我が国の国債を買っていただきたい!

という筋道なんですよね。なんでまた、そういう国債を世界中の人が、好き好んで持ってるんですかね。不思議です。

 実は、明治時代のことを調べると、日本も無理無理にたくさんの国債を発行したことがありました。

 それは、日露戦争。

 この戦争は軍事的にも冒険でしたが、財政的にも冒険で、つまりはカネが無いのに戦争を始めてしまったのです。国民に税金をかけましたがそれでも足りず、ロンドンで国債を売ろうと考えます。

 ロシアに勝ちたい!

⇒だから、我が国の国債を買っていただきたい!

という筋道ですね。

 そのために派遣されたのが、後に「ダルマ宰相」と呼ばれようになる高橋是清でした。

 しかし高橋が営業して回っても、日本国債はサッパリ売れませんでした。英国は日英同盟の仲間でしたが、日本に投資して損をするのはイヤですから、買い手は多くありませんでした。

 その時、ひとりのユダヤ人の大富豪が現れて、日本国債の大量買い入れを申し出ます。この大富豪の御蔭で日本は戦争を出来たとすら言えます。

 彼は、ロシア皇帝が領内で多くのユダヤ人を虐殺しているのを憎んでいて、日本を支援しようとし、その手段が国債の買い入れだったのです。

 そして、彼の望みは達成されました。

 他にも、最近こういう事例もあります・・・3年前のことですが、台東区役所が樋口一葉を顕彰する「一葉記念館」の建物を建て替えるために区債=「一葉債」を売り出したところ、発売初日で売り切れたそうです。

 こういうのを「住民参加型地方債」と言うそうで、結構なものと思います。

 一方のギリシャ国債は、チト志が足りなかったんじゃあないですかね。

 あ、でも日本人がギリシャを笑えるかどうかは微妙です。笑うのは、これから売り出す「復興債」をしっかり売ってからですよね。

 さて現代の財務省に高橋是清はいるのか・・・

追伸

 11/27に第五回「ちんや」すき焼き通検定試験を実施します。

 年内最後の検定です。今年の内に、「自称すき焼き通を、公認すき焼き通に!」

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祝!開業80周年

 館林の分福酒造さんが、北千住の「丸井」さんに出店していたので訪ねました。

 その御酒のことは、いずれここに書こうと思いますが、とりあえず今日は、その話しはさて置きます。で何を書くのかと申しますと、東武鉄道浅草駅の話しです。

 北千住に向かおうとして、浅草駅に入り、まず気がつきましたのは「祝!開業80周年」という飾り付けでした。11/1が開業記念日だったそうで、記念ストラップは売り切れたとか。

⇒全然知りませんでした。そういうことを私たちにも教えてくれれば良いのに、と思いつつ、壁に掲示されていた、この駅の歴史を読んでみました。

 浅草駅が開業する前、東武鉄道は、現在は浅草の次の駅である業平橋駅から発着していたそうです。ぎょうへいばし、じゃあないですよ。在原業平の、なりひら橋です。

 当時この駅には北関東からセメントなどを運び込むための貨物駅もあって、実は、その貨物駅の跡地に、今回スカイツリーが立つわけですが、その業平橋駅から浅草駅まで東武鉄道が伸びたのが、80年前という次第です。

 しかし、この工事は簡単ではなかったようです。浅草に松屋デパートが建設されたのにあわせ、そのデパートの2階に線路を引き込んだわけですが、そのためにほぼ直角の急カーブが出来てしまいました。

 線路が業平橋駅から浅草駅へ向けて東西に伸びて来ているのに対し、松屋デパートは南北に長いので、デパートに入る直前、隅田川を渡った所で直角にカーブするのです。

 正確に申しますと、カーブがあまりに急なので曲がり切っておらず、ホームの業平橋寄りの端っこは、少し曲がっています。だから車列の、後ろの端っこも曲がったまま停車します。⇒それでホームと車両の間に、結構な広さの隙間があるのです。キケンです。

 また、駅に入れる車列の長さにも限界があります。

 こういう「問題在り」の駅が、しばらくの間、ターミナルとして機能しました。

 しかし、やがて東京の鉄道業界は、「ターミナル乗り継ぎ」の時代から「相互乗り入れ」の時代へと移り、東武鉄道も浅草とは別ルートで、地下鉄・半蔵門線へ「相互乗り入れ」できるようになりました。

 半蔵門線は直角に曲がったりしないので、長大な車列のまま、北関東から東京の地下へそのまま乗り入れできます。便利ですね。

 一方、これによって不便な東武浅草駅の乗降客は減少を始めました。浅草の人達が「浅草駅が盲腸線に成る」ことを心配していたのは、この頃です。

 私も「盲腸線化」のトレンドは避けられないと思い、冗談で、「車両の外壁に盲腸の絵を描いて、ウケを狙ったらどうだろう?」とか言っていました。

 そのトレンドが、劇的に変わりました。理由は、もちろんスカイツリーです。

 来年、直角にカーブしたまま、浅草駅は、スカイツリー観光の大勢のお客様を迎えることになります。業平橋駅は「東京スカイツリー駅」と名前が変わるそうですが、カーブはそのままです。

 皆さんも、スカイツリー観光の後で、浅草駅へ向かう際は、車列の一番後ろの端っこにお乗り下さい。

 とてもデンジャラスでスリリングな隙間を体験することができますよ。ひひひひ。

追伸

 11/27に第五回「ちんや」すき焼き通検定試験を実施します。

 年内最後の検定です。今年の内に、「自称すき焼き通を、公認すき焼き通に!」

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