歩き喰い

 最近浅草に「歩き喰い」の店が増えています。

 「立ち喰い」店なら、まだ上等です。だって、立って食べるスペースが、ちゃんと店の中に確保されていますからね。

 一方「歩き喰い」の店には、食べるスペースが確保されておらず、軒先に椅子が置いてあったりしますが、雨が降れば濡れるような場所、風が吹けば埃をかぶるような場所です。だから「歩き喰い」の店で食べ物を買った客は、ふらふらと街歩きをしながら、食べ物を食べるのです。

 つまりですね、「立ち喰い」店はレッキとした飲食店ですが、「歩き喰い」の店は、そうではありません。似て非なるものです。皆ノ衆、よくよく御承知あってしかるべし、です。

 「歩き喰い」の店は、飲食するスペースの無い店=レッキとした飲食店ではない店ですから、買った人が食べ物を家へ持って帰れるように、キチンとパックすべきですよね。

 でも、そうはなっていませんね、残念ながら。

 見ていると、アツアツの物や冷え冷えの物を、客が即座にかぶりつけるような体裁で手渡しています。要するに、歩き喰いしやすいようなパックの仕方なんです。

 そのキチンとパックされていない物を食べ歩きますから、「歩き喰い」の客の手は、油やクリームでベトベトです。そして、その手で、なんと、次に入った店の品物を触ります(!)

 扇子を、ベトベトの手で触ります(!!)

 蛇の目だって、ベトベトの手で触ります(!!!)

 これは堪りませんね、その店の立場に立ったら。

 それで仲見世商店街は、

 食べものを持ったまま、店に入ることは御遠慮下さい!

としきりと放送しています。日に何度も何度も放送しています。

 でも気の毒ですが、こうした呼びかけでは効果は薄いと思います。

 だって、もう日本人のマナーはどこかへ消え失せていますから!

 「歩き喰い」の店には、保健所が営業許可を、そももそ出さないようにするしかないでしょう。

 末法の世ですな。

 南無観世音菩薩。

  本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて783日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

Filed under: ぼやき部屋,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

ザックリ浅草史④

<この話しは長いので、4/17から4/20まで四日間に分けてUPしています。>

 「ニッポン全国彪友会」のオプショナル・ツアー用の講話「ザックリ浅草史」も、ついに昭和の戦争の時代になりました。

 昭和も二ケタに入りますと、浅草は国家総動員の時代にあわない人達~たとえば永井荷風や高見順に愛されるようになります。半体制と言うと言い過ぎかもしれませんが、そういうイメージの、小さい心の逃げ場として、もうしばらく繁栄を続けていきます。

 そして戦争です。

 歴史とは皮肉なもので、総動員されたくない人々が集っていた浅草が、昭和20年3月10日の大空襲で完全に壊滅します。去年の津波の映像も酷かったですが、あれに匹敵する酷さで、全てが焼き尽くされたのが浅草でした。

 関東大震災でも浅草は壊滅しましたので、二度目です。

 戦後人々は、もう一度芸能の殿堂・娯楽の殿堂を再建しようとしますが、それを果たせない内、時代が変わってしまいました。  

 昭和30年代辺りから、浅草は寂れ始めます。テレビ時代を迎えて、エンタメ産業の主役が変わりましたね。

 浅草はリアルな芝居や、映画が中心で、それを再建しようとしていましたが、時代に乗り遅れます。「再建」「復興」では×で、新しい時代を創らないといけなかったんですね。

 戦後の若者のカルチャーは、浅草のような古い土地でなく、新宿・渋谷・六本木など城南方面の新鮮な繁華街で育ちましたので、浅草は急激な地盤沈下の時代を迎えました。  

 貧すれば鈍するで、苦し紛れに馬券売り場を誘致したのも失敗でした。「ウインズ浅草」が出来た六区は、競馬目当ての客のみが集中する光景となりました。場末っぽい雰囲気が漂い、夜間は7時になると人通りも疎らになってしまう始末でした。私が子供の頃です。

 衰退の説明として、①テレビと②東京の城南方向への拡大が挙げられていますが、この時代のことを思い返してみますと、私の直感では、①②の説明以上になんか、もっと加速度的に場末化した感覚がありました。一度トップに昇って、その後でトップの座が揺らぐとかなりキビしい、そんな感じがですね、感覚だけで言って申し訳ないですが、したことを、ここで皆さんにお話ししておきます。

 そして現代です。その後浅草は再生しました。

 でも日本一の盛り場・芸能の殿堂だった頃とは違って、国際観光地としての再生でした。

 たしかに再生は果たしました。再生しましたが、問題は在ると、私は思っています。だって観光ってのは、しょせんは「スポット見物」で、名物・名所以外にお金の波及が少ないです。ハッキリ言って、仲見世周辺だけなんですね、人出があるのは。

 しかも、そういう人出も観光客は、やはり4時半には引いてしまうので、かつての夜の賑やかさは、決して戻っていません。

 浅草の全盛時代は、そういうことはありませんでした。もう一度おさらいしますが、

①浅草の中心には浅草寺(=宗教)があり、その北に、

②猿若町(=エンターテインメント産業)があり、さらにその北に、

③吉原(=セックス産業)が並んでいました。そして、

④浅草の南には米蔵(=経済力)が集中していました。

 これほどのラッキーさの中で、浅草は成立したのだ、ということを忘れてはいけません。だから、この世の中に2つとない土地であることがすぐわかると思います。今、

 スカイツリーが出来たから、いいじゃない!

と人は言うかもしれません。

 たしかに大震災の時は観光業の儚さを思い知らされましたので、スカイツリーが来て救われたと思います。

 これから浅草とスカイツリーの間に、人が通り、カネが落とされ、そのカネが、

名所・名物・名品そして名人を育てるとは思います。でも、今は江戸時代と違いますから、そこまで行きますかね。

 東京タワーの景気は、およそ10年だったそうです。スカイツリー景気はせいぜい7~8年でしょう。せいぜい5年、という人もいます。だから決して今の景気に甘えたらダメですね。

 スカイツリーのついでに浅草、ではなくて、

 浅草のついでにスカイツリー、という流れに成るよう、自らの魅力・自らの差異性に磨きをかけたい、と決意しておるところでございます。

 皆さんにおかれましては、その様子をご確認いたたくために、今回限りでなく、2度3度、4度5度と浅草をお訪ねいただきたく、心より、お願い申し上げます。

 本日は、貴重な御時間を本当に有り難うございました。これにて、「ザックリ浅草史」を終わります。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて782日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

ザックリ浅草史③

<この話しは長いので、4/17から4/20まで四日間に分けてUPしています。>

 「ニッポン全国彪友会」のオプショナル・ツアー用の講話「ザックリ浅草史」は、江戸時代後期に入っています。この辺で一回復習しましょうか。大丈夫ですか?

 まずですね、浅草は江戸とは別に、江戸が出来る前から成立していた街でした。

 後から、江戸が浅草の南西に出来て、次いで江戸の米を扱う米蔵が、江戸と浅草の間に出来ました。これによって、蔵と一緒にお金が浅草の近所にやって来ました。

 さらに、江戸幕府の政策で、浅草の北に吉原が、浅草と吉原の間つまり浅草のすぐ北に歌舞伎座が出来ました。このことが、盛り場・浅草の運命を決定したと思います。

 さて明治時代です。この時点で浅草は天下一の盛り場でしたが、明治時代になって、さらに繁栄を謳歌します。

 キッカケは「公園」の整備に関する、新政府の布告です。明治6年の、この布告により浅草寺境内は「浅草公園」と命名されたのですが、この時決めた「公園」が日本初の「公園」です。

 最近は言いませんが、以前は浅草のことをエンコと言いましたね。「エンコ行こうぜ!」って言うわけです。そのエンコの語源が公園です。公園をひっくり返しただけなんですけどね。まあオカジューと一緒です。

 でも「公園」って聞いて?と思いますよね。浅草って公園ですかねえ。でも「公園」だったんです。

 この当時の日本人は「公園」という言葉を分かっていなかったんです、この頃造られた新語だったからですね。当時はどう解釈されていたのかと申しますと、公けに遊興して良い場所とか、遊園地と考えていたようです。もう少し言えば、「公園」即ち盛り場っていう感じです。

 それで「公園」は、設立の趣旨とは違って、盛り場化する傾向にあったようです。公園本来の、西洋式の正常な発展をとげた公園は、まず上野公園位のもので、それはボードワン博士とかいう方の功績だそうですが、その他の「公園」は盛り場と化して行きます。

 「公園」がそうなって行った理由ですけど、当時新政府は財政が厳しくてカネがありませんでした。そこで公園経営に必要な経費を稼ぐため、敷地の一部を賃貸しするんですね。それも射的とか、玉突とか、楊弓とか、見世物なんかの店に賃貸してしまったのです。

 浅草の場合は、賃貸ししたどころではなく、土地を掘って「ひょうたん池」という池を造り、池の周りを造成して街を用意し、そこを貸し出した、と言いますから、ほとんど不動産屋ですね、新政府は。

 この時に造成された一帯こそ、明治・大正・昭和戦前と日本一の歓楽街と成る浅草公園第六区縮めて「六区」です。今でも楽しいショーを見せてくれる「ロック座」がありますが、ロックンロールをやる座じゃないですね、六番目の区画です。女性もおいでなんで詳しくは割愛しますけどね。

 さてなんでしたっけ。そうそう、そういうわけで、「公園」なのに公園じゃない浅草公園が出来上がりました。その浅草公園について、上野観光連盟のHPには、こういうことが書いてありましてね、読みますが・・・

 上野公園の場合は、管理が宮内省だったので、自由な経営が許されず、そのお蔭で、公園の手本とされるような発展経過をもち、一千万を超える大東京の中にあって広さにおいても、施設、景観、緑地など都市公園として、内外ともに誇りうる上野公園となったのである。もし上野公園にした所で、管理が宮内省に移らずに東京府に委ねられていたら浅草、深川、芝の三公園と同様俗悪化の道を辿ったにちがいない。」

 うーるせいよ、っていう感じですけどね。でも、そういう話しは、まあ置いと・い・て、ですね。浅草に戻しましょう。

 このような次第で、浅草は盛り続け、時代が下ると今度は演劇館、活動写真館、「浅草オペラ館」などの上演が連日行われるようになります。浅草は芸能の殿堂、と言われたのが、この時代ですが、その盛り場を政府が作ったっていうところが、歴史のチト思い白いところです。

 そのまま戦前の、昭和も二ケタに入りますと、浅草は国家総動員の時代にあわない人達~たとえば永井荷風や高見順に愛されるようになります。半体制と言うと言い過ぎかもしれませんが、そういうイメージの、小さい心の逃げ場として、もうしばらく繁栄を続けていきます。

 そして戦争です。

<今日の所は、この辺で。この話しは長いので4日に分けてUPしますね。>

  本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて781日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

ザックリ浅草史②

<この話しは長いので、昨日から4/20まで四日間に分けてUPしています。>

 「ニッポン全国彪友会」のオプショナル・ツアー用の講話「ザックリ浅草史」は、江戸時代に入ってまいりました。

・・・さて、その江戸と浅草をくっ付けたものは、なんでしょう?

 それは、蔵です。

 蔵と申しましても酒蔵じゃあないですよ。いいですか、酔っ払いの皆さん、米蔵です、お米の蔵です。江戸時代、武士の給料は米で支払われていましたから、当然そのお米を保管しないといけないですね。で、そういう倉庫をたくさん建設したわけです。

 当時の輸送手段は舟ですから、隅田川ぞいに蔵を建設しました。場所は、浅草から地下鉄で1駅南の蔵前という所、つまりは江戸と浅草の間ですね。

 現在でも東京郊外に行くと、倉庫が立ち並んでいる地帯がありますが、似てますね。そういう次第で米の倉庫が、江戸の北側の郊外で、浅草のすぐ南の、蔵前に建設されました。

 もっとも蔵前に蔵が建設された、っていうのはおかしいですね。蔵が建設されたから、蔵前っていう地名になったんですよね。

 さて、ここに蔵が出来たことが、浅草の運命を大きく変えます。ごく普通の門前町が天下一の盛り場へと変貌を遂げる、そのスタート地点がこの頃です。

 変貌の主役は「札差」という商人です。武士たちのために、米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる「札差」という商人が出てきましよね、歴史の教科書に。習ったでしょう。覚えてませんか。勉強はしておくもんですよ。

 この取引からは莫大な儲けが出たらしくてですね、さらに儲けを金貸しに回して、さらに儲けたようです。それで、「札差」が大きな力を持つようになったそうです。

 浅草が発展した軍資金は、この札差マネーです。大富豪となった札差たちには当然豪遊する場が必要ですから、遊興できる店が出来るようになります。これが浅草のホップと言えます。

 そして、ステップとジャンプは、1657年と1841年でした。

 まず1657年すなわち明暦3年の出来事ですが、「明暦の大火」という大変な被害の出た火事の後、幕府は都市整備に着手します。そして、その一環で、現在の中央区にあった、公認の遊郭である吉原遊郭を浅草北方の千束に移転させます。

 遊郭は当然風紀を乱しますので、江戸の中心部からどけたいですね。それで江戸の外の、しかも方角の悪い北東へ追いやったわけです。

 方角が悪いって失礼な話しですけどね、だいだい江戸が浅草の南西に出来たから、北東に成っただけで、こっちのせいじゃあ、ないんですけどね。

 ともあれ、吉原が浅草の頭の上に移転して来ました。移転して来ましたので、「新吉原」と呼ばれたそうですが、ここがまさに天下の豪遊の場となります。

 今や、お金持ちが居て、お金を使う場がようやく出来ました。その間に浅草があって、観音様もあるわけですから、ここにお金が落ちないわけはありませんね。このステップは大きかったようです。

 そしてそしてジャンプは江戸時代も、もう後期に入った1841年(天保12年)です。これまた歴史の時間に習わされたと思いますが、「天保の改革」が実行されます。

 江戸市中に散在していた歌舞伎座が、風紀を乱す、ということで、これまた、北東に追いやります。場所は、浅草北部の浅草六丁目で、浅草寺と吉原の間です。

 勘三郎さんの御先祖の中村座、それから市村座、河原崎座といった小屋ですとか、操り人形の結城座なんていうのもできました。役者さんも集合して住まわせ、浅草猿若町と名づけました。

 これが浅草の発展のジャンプです。

 なにしろ、当時江戸市中でお金が集まる所と言えば、魚河岸と吉原と、猿若町だったそうです。魚河岸の場所は築地じゃないですよ、この頃はまだ日本橋にありました。

 そして残りの二つは浅草の、近所です。浅草が天下第一の盛り場になったのは、この頃と言えます。

<今日の所は、この辺で。この話しは長いので、4日に分けてUPしますね。>

  本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて780日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

ザックリ浅草史

 4/20に「ニッポン全国彪友会―台東万博!」~200人の差異​性祭り

を開催します!そして、その翌日には「浅草観光をしたい」という遠来の皆さんのために、地元民が案内するツアーを御用意しました。その内の一つが、

 「浅草仲見世・すき焼き殿コース」です。

 内容は、と申しますと、

・・・浅草一受けたい授業「1時間で分からせる、浅草の昔と今」&すき焼き宴会。

 講師と御案内役は、かく申す住吉史彦です。 

10時―11時 「ちんや」店内にて、私の授業

11時―12時 腹ごなしの浅草散歩(雨天決行)

12時―14時 すき焼き宴会!

14時 散会

といった感じです。

 まあ、浅草にお詳しくない方のために、浅草の、おおよそのことを話すのであれば、別段ネタの仕込みは不要ですが、原稿位は用意しないといけません。

で、用意しました。浅草の歴史を、超ざっくり見渡したものです。

どうぞご覧下さい。長いので4日に分けてUPしますね。

<さて>

 ええ皆さん、このたびは「ニッポン全国彪友会」のオプショナル・ツアーにご参加いただきまして、ありがとうございます。早速話しを始めさせていただきます。 

 おや大丈夫ですか?夕べの酒が残ってませんか。私は残ってますけどね、思い切り。

 では大丈夫な方だけ聞いて下さい。

 今日は「ザックリ浅草史」という御題で話させていただきますが、そもそも、何で東京の盛り場の一つに過ぎない浅草のことをつべこべ語らないといけないんでしょうかね。自分で題を設定しておいてナンですけど。

 そのことを考える前に、ですね、成田空港は東京か?っていうことを、まず考えてみると分かりやすいです。成田空港は東京の首都機能の一部として建設されたわけですから東京ですね、当然。特に外人さんから見たら、完全に東京です。

 でも成田という街は新勝寺さんを核に東京とは別に元々あった街ですよね。浅草もそうなんです。江戸とは別に、太田道灌が日比谷に城を築く前から在った街なんです。

 成田は東京とは別に出来た街ですが、東京首都圏に吸収されました。浅草も江戸とは別に出来た街ですが、江戸に吸収されました。そこが似ているんです。

 では、ざっくりと話していきましょう。最初に御断りしますが、今日の話しはいたって、ザックリです。細かい年代とか数とかは言わないことが多いと思います。だって、ネットで調べられますからね、細かいことは。アウトラインだけを、お分かりいただくようにしますので、よろしくお願い申し上げます。

 さてイキナリ時代を遡りますが、浅草寺の縁起によりますと、推古天皇の時代に浅草寺が建てられた、ということになっています。推古天皇と言えば7世紀ですね。

 縁起の筋は、隅田川で漁をしていた人が、川から仏様を網ですくいあげて、それを安置する御堂を建てた、という例の有名な話しです。この話しは歴史としては確認できていませんが、奈良時代に大きな建物があったことは考古学的に確実だそうです。

 ですので、浅草が道灌より古いことは間違い無いです。つまり江戸を築かれる遥か昔から、浅草は在ったわけで、街の成り立ちが違いますので、東京の盛り場の一つに過ぎない、とは言えないわけなんですね。

 浅草の方から見ると、江戸の方が後から出来てきた、ということになるわけです。

 もっとも、江戸とは別に成立していた浅草は、この当時は、まだ盛り場っていう感じではなかったと思います。隅田川の水運の拠点として、浅草寺の門前町として、まあ、それなりの賑やかさっていう位だったと思います。日本一の盛り場という感じにはまだゼンゼン成っていません。

 そこへ徳川家康がやって来ます。やって来て江戸時代になりましても、江戸初期の江戸の市街地は、現在の千代田区と中央区位の大きさでしたから。まだ江戸と浅草は別物でした。17世紀までは別だったと考えられています。

 その間の、アキバなんて所は湿地帯でした。あきばはらって言う位ですから。アキバの原っぱだったんですね、あの辺は。後に、ハとバが入れ替わって、あきはばらになりますけどね。

 その江戸と浅草をくっ付けたものは、なんでしょう?

<今日の所は、この辺で。この話しは長いので4日に分けてUPしますね。>

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて779日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

ボートレースの聖地

 日本の「ボートレースの聖地」隅田川へ、早慶レガッタが帰って来ます。

 この競漕大会の第81回目となる今大会は、春爛漫の陽気の中、本日4/15(日)に開催されます。メインレースの「対校エイト」は14:50両国橋を発艇、順調に漕げば8~9分で桜橋にゴールします。

 昨年は地震のため隅田川で開催できず、戸田市の練習場で開催されましたが、また浅草へ戻って来てくれました。私のような地元の卒業生にとって、とても嬉しいことです。些少ながら弊社も協賛させていただけることを歓びに感じます。

 元より早慶のOB・OGは強い愛校心を持っていますが、この早慶レガッタほど愛校心をくすぐるものは、あまりありません。

 だって、聖地を早慶だけで独占するんですから。

 両校は、いろいろな業界・いろいろな方面に学閥を作っていて、評判が良かったり良くなかったりしますが、「聖地を独占」という事例は珍しいでしょう。

 早慶戦と言えば、野球がまず思い浮かびますが、会場の神宮球場は「ヤクルト・スワローズ」の本拠地でもありますね。かたや隅田川でボート・レースを出来るのは、ほとんど早慶だけでして、これは明治時代からこの川の水を漕いでいる、両校だけの特権です。

 だいたい、隅田川は一級河川であって、天下の水運の公道なのに、それを封鎖して、たかが学生スポーツをするのです。この間、哀れ、水上バスは運休させられます。

 そんな両校ですが、今年は良いことを考えつきました。それは、

 「被災地高校生招待レース」です。高校生が、この大舞台で漕ぐ、というのは記憶にありません。ですので、

 ワセダもケーオーも俺は嫌れえだね!

という方は、東北の若きボートマンを応援するために、浅草へお出かけ下さい。 

 ただし高校生は短距離の1.000メートル・レースなので吾妻橋発​艇⇒桜橋ゴールです。吾妻橋より上流(=北)でご観戦下さい。

 11:00発艇です。ご声援を!

 

追伸

 「台彪会」会長として、「ニッポン全国彪友会ー台東万博!」を計画しています。

 二条彪先生の門下生約200人が集まる、一大交流会です。先生のメルマガを取っている方なら、どなたでも参加できます。

 2012.4.20(金) 浅草が燃えます。

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

 PR動画も撮りました。⇒こちらです。目が点に成りますよ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて777日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

Filed under: 浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

キッチュの花道③

 さて、この話しは、おとといから続いています。

 仲見世という、キッチュの花道にあって、かたくなに職人気質に固執している御店もあります。

 代表例は「助六(すけろく)」さんです。

 「助六」さんは江戸末期の慶応2年に創業された、江戸趣味小玩具の御店です。日本で唯一、小玩具がご専門で、ミニチュアの可愛いくて、縁起の良いものばかりを扱っておいでです。

 間口一間の小ぢんまりした店内には、そうした豆玩具が3000点以上、所狭しと並んでいます。ダイアナ妃やヒラリー国務長官も訪れたことがある、江戸情緒あふれる御店です。

 その御店を、今は五代目が継いでおいでですが、スゴいのは、先代=四代目の終戦直後のエピソードです。

 先日五代目が出された御本を読んで知ったのですが、極度の物資不足の時代のこと、皆が闇商売に走る中、「助六」の先代だけは、江戸趣味小玩具しか売らなかったそうです。

 7年間全く売れなかったのに闇商売をせず、玩具だけを店に並べ続けたそうです。

 戦争で東京の下町は破壊し尽くされ、今日を生きるのに皆が必死で、闇物資を売るのが当然な時代に、江戸趣味小玩具しか売らなかったそうです。

 脱帽ですよね。

 この御店に玩具を納めていた職人さんの中には、人間国宝に推薦されながら断った人もいたそうです。

 ですので、当然こういう御店は、キッチュの花道にあって、かたくなにキッチュ的なものを拒絶しておられます。職人さんは素材のマテリアルにコダワリますから、アイデア勝負は以ての外、でしょう。

 他にも職人路線の御店としては「舞扇の文扇堂」さんも在ります。「舞扇」というからには、日舞に出演する舞踊家の方が、踊る時に使う扇の店です。

 和傘専門の西島商店さんもあります。

 仲見世へお越しの際は、こういう御店もご覧ください。こうした御店は、何故か皆、間口がやたら狭いですね。うっかりすると見逃します。

 要するに、仲見世はキッチュなグッヅが面白いし、また職人さんも素晴らしい。

 両者が同居できるのです、だって、ここは浅草ですから。

 

追伸

 「台彪会」会長として、「ニッポン全国彪友会ー台東万博!」を計画しています。

 二条彪先生の門下生約200人が集まる、一大交流会です。先生のメルマガを取っている方なら、どなたでも参加できます。

 2012.4.20(金) 浅草が燃えます。

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

 PR動画も撮りました。⇒こちらです。目が点に成りますよ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて776日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています

 

Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

キッチュの花道②

 さて、この話しは昨日から続いています。

 仲見世を歩いていて思うのですが、観光業というのは、そもそもキッチュ産業であります。

 観光客相手に売られているものは、まずたいていキッチュ(Kitsch)なモノ=つまり本来の使用目的と違う使われ方をするモノです。

 ハガキのことを考えてみれば、すぐ分かります。ハガキというのは、書いた文章が届けば、それで本来の使用目的を達成しますが、仲見世で売られているのは、必ず、何かの絵やデザインが描かれた、絵ハガキです。

 その絵やデザインの面白さを競うのが、観光業です。

 だから面白さを競う内、ハガキの紙質の良しあしなどということは、何処かへ飛んで行ってしまい、アイデイア的な面白さ・ユニークさが、さし当たっての焦点になります。

 で、自然と、紙のクオリテイーへの配慮は疎かと成り、結果生じたマテリアルのチープさが、どうしてもキッチュ感を醸し出します。

 これこそ、観光地で感じるキッチュ感の本質です。仲見世だけではありませんね。

 でも、ですよ、その「本来の使用目的と違う使われ方」を考え出す時の、人間の頭脳の働きって大したものだと思いますよ。

 例えば大震災が起これば、すぐさま「絆」ロゴ入りの、グッヅを作るのは当然です。その文字の揮毫が誰なのかで、競争するわけです。

 うーん、よくぞ、まあ、こんな商品作ったねえ。ここまでやれば最高だね!

っていうノリの物達を発見できます、仲見世では。

 茶道・武士道・神道・禅など、ものごとの本質を見極めようとする思考とは対局の、頭脳の使い方ですが、面白がってみれば、こんなに面白いものは、あんまり見られません。

 ですので、仲見世はキッチュの花道なのです。

 なにしろ、昨日今日始めたキッチュ業ではありませんので、年期が入っています。アイデイアのネタも豊富です。

 さらに申しますと仲見世は、デイズ二―のように一人の個人が考え出したものではなくて、浅草のユニークな商店主の面々が、それぞれに考え出したものなので、個性溢れるモノが並んでいたりします。

 在り得ない!!

というモノも存在します。

 どうぞ、御自分の美意識の枠を、パキっと一回外していただければ、きっとお楽しみいただけると存じます。 

 それからです、さらに申しますと、仲見世には、このキッチュの花道にあって、かたくなに職人気質に固執している御店もあるのです。

 え? 今日も長いなあ、長すぎるから、この辺で終われって?

 おお、そうでした、またしゃべり過ぎました。

 では、この続きは、明日の、このコーナーで。

 サイチェン!

追伸

 「台彪会」会長として、「ニッポン全国彪友会ー台東万博!」を計画しています。

 二条彪先生の門下生約200人が集まる、一大交流会です。先生のメルマガを取っている方なら、どなたでも参加できます。

 2012.4.20(金) 浅草が燃えます。

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

 PR動画も撮りました。⇒こちらです。目が点に成りますよ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて775日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています

Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

キッチュの花道

 4/20に「ニッポン全国彪友会―台東万博!」~200人の差異​性祭り

を開催します!そして、その翌日には「浅草観光をしたい」という遠来の皆さんのために、地元民が案内するツアーを御用意しました。その内の一つが、

 「浅草仲見世・すき焼き殿コース」です。

 内容は、と申しますと、

・・・浅草一受けたい授業「1時間で分からせる、浅草の昔と今」&すき焼き宴会。

 講師と御案内役は、かく申す住吉史彦です。 

10時―11時 「ちんや」店内にて、私の授業

11時―12時 腹ごなしの浅草散歩(雨天決行)

12時―14時 すき焼き宴会!

14時 散会

といった感じです。

 まあ、浅草にお詳しくない方のために、浅草の、おおよそのことを話すのであれば、別段ネタの仕込みは不要です。

 だから台彪会のGMO幹事長に、

 殿(=私のこと)も、コースを一つ受け持って下さいよ!

と言われた時、はいはい、と二つ返事で請け負いました。

 コースの名前は、「浅草仲見世・すき焼き殿コース」でいいですかねえ?!

とGMOさん、

 はっはっは、まあ、いいですよ!

という次第で、このコースが促成で出来、ホームページにUPして、募集を開始しました。まだ去年の内のことです。

 で、UPしてしまってから、よくよくコース名を読んでみて、

 「?! あさくさ・なかみせ・とのコースだって?!」

と、言うことは、仲見世について語らないといけないのかな、もしかして。マズいなあ、それえ!」と思ってしまいました。迂闊だったなあ、と思います。

 なぜって、仲見世については、必ずしも世間のイメージでは良く思われていませんよね。

 げげ~仲見世なんて、外国人におもねった、俗悪で悪趣味なグッヅの陳列場じゃないの!

と思っておいでの方もいらっしゃると思います。

 わかってますよ、私だって。まあ、ハッキリ申して、そう言われそうなモノが売られていますね、実際問題。

 ブログ読者の皆さんも、そう思ってるでしょう?!

 正直に言っていただいて構いませんよ、なんてったって、私自身も、そう思ってましたから、はい。

 実は、こう見えて私は日本の陶磁器文化に詳しかったりするのです。毎朝志野茶碗で薄茶を建てて、すすっていた時期もあります。そういうワビサビの美意識で、仲見世のグッズを見た時は、もうハッキリ申して・・・イヤ、ハッキリ申せませんよね、さし障りあり過ぎて。

 この当時感じていた嫌悪感を克服することは、私の前半生の、一つの課題でした。

 そう、その位、重大なテーマなんです。仲見世の美的センスのことは。

 これでようやく、さっき「あさくさ・なかみせ・とのコースだって?!」と思った理由が、お分かりいただけたかと思います。

 でも、そんな私の、ものの見方が変わる日も来ました、数年前のことですが。皆さんも、私にならって一度よ~く考えてみて下さい。

 日本文化って、イーコール=茶道&武士道&神道&禅でしたっけ?

 ああいったストイックなものは、たしかに世界に類例を見つけにくい、したがって日本文化を代表するものではありますが、日本文化の全てではないですよね。

 桂離宮だけが日本じゃないです。だいたい、我々は学者さんでも文化人でもないんですから、いいんじゃないでしょうか、心躍るものがあってくれれば。

 単なる経済的商品でなくて、そこに、人の心をかきまわす何かが付いていれば。

 そう思うようになったキッカケは、「台東区アート・アドバイザー」の会議で、同僚の、区外ご出身のアドバイザーさんが、

 仲見世のキッチュ感って、ある意味、また別世界の文化ですよねえ、と発言されたことでした。

 そうです、キッチュ(Kitsch=本来の使用目的と違う使われ方をすること)だって、在りですよね。日本には。

 で、そういう視点で、仲見世を見て回ると、

 在ります、在ります。

 はっはっは、よくぞ、まあ、こんな商品作ったねえ。ここまでやれば最高だね!

っていうノリの物達を発見できます。

 そうです、キッチュの花道なのです、仲見世は。

 ここは貪欲に楽しもう、と力んでいる方々のための、スペシャルな華道です。

 文化的な皆さん、4/21は私が謹んで、この道をご案内申します。どうぞ、御自分の美意識の枠を、パキっと一回外していただければ、きっとお楽しみいただけると存じます。 

 だいたいですよ、観光業というのは、そもそもキッチュ産業であります。

 何故かって・・・

 え? 長すぎるから、今日はこの辺で終われって?

 おお、そうでした、しゃべり過ぎました。

 では、この続きは、明日の、このコーナーで。

 サイチェン!

追伸

 「台彪会」会長として、「ニッポン全国彪友会ー台東万博!」を計画しています。

 二条彪先生の門下生約200人が集まる、一大交流会です。先生のメルマガを取っている方なら、どなたでも参加できます。

 2012.4.20(金) 浅草が燃えます。

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

 PR動画も撮りました。⇒こちらです。目が点に成りますよ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて774日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

 

 

Filed under: 台彪会,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)

詐欺

 親切に御質問に答えると、さらに何でもかんでも聞いてきて、最後には頼ってくる方がおいでです。浅草に居て頻繁に、そう思います。

 ご自分で調べたり、考えたり、ということチッともなさらず、居合わせた他人にイキナリ尋ねる人が結構おいでなのです。つまり、この話しは知り合いの話しではなくて、通行人の話しです。ホントです。

 実は、今「江戸町奥山風景」という催事場に、「浅草うまいもの会」の抽選所を出店しているのですが、その出店の場所は「奥山」の敷地の中でも、浅草寺の御本堂に対面する、超一等地にあります。私は、その出店の責任者なので、連日詰めているのですが、超一等地ですので、会にまったく関係無い方が多数やって来て、ほとんど観光案内所の様相を呈しています。

 念のため申しますが、観光案内するのがイヤだって言ってるんじゃあないですよ。喜んで御案内します。

 人が景品のパッキングとか忙しく作業している時に、急に話しかけられても、イヤな顔はしませんよ。

 「お尋ねしますけど・・・」の一言が無くて、イキナリ肩越しに「5656会館はどっちですか?!」とか話しかけられても、怒りませんよ、勿論。多分、その方は道に迷って、イライラなさってるんでしょう、それで礼儀を忘れたんでしょうね、きっと。それは、まあ良いんです。

 でも「・・・」と思うのは、御自分の今日訪れたい目的地、つまり主なる目的地について、ゼンゼン調べて来ていない人が結構おいでなのです。これには驚きます。

 ある年配の女性は「オムレツがトロトロの洋食店」に行きたくて、浅草にやって来たそうなのですが、それ以上の情報をまったくお持ちでないのです。テレビでご覧になったそうですが、住所は勿論、屋号もご存じありません。

 「あのですねえ、オムレツはたいていどこでもトロトロだと思いますよ!」と言いたいのを堪えて応対すると、

 「先週の金曜日の9時頃テレビでやってたのよ!」

 私は、イラっとして、「さあ、その時間は、店で仕事してたんで視てませんね~」などとかわしていたのですが、その場に居合わせた、出店スタッフの諸君は意外にも、私より遥かに親切でした。

 スマフォでテレビ番組表を開けて、局は「8CHかなあ12CHかなあ」、番組名は「あれかなあ、これかなあ」と思案し、さらにはその番組を視た人がいないか、まわりのブースのスタッフにまで聞いて廻る親切さでした。

 結局、それだけやりましたが、どこの店か判明せず、仕方ないので「うまいもの会」加盟の洋食屋さんを御案内すると、その女性、今度は、その店について、あれこれ質問してきました。

 「その店はテレビに良く出るの? ハイ、出てますよ(イラッ)」

 「オムレツはトロトロなの?」「ハイ、トロトロですよ(イラッ)」

 「お得な店なの?」「ハイ、お得ですよ。(心の声=聞くばっかりじゃなくて、少しは自分で考えないんですかねえ。)」

 この辺まで来ると、流石の私も槍投げイヤ投げやりです。

 「美味しいの?」「ハイ、美味しいですよ。(心の声=美味しいと思うかどうかなんで、「人それぞれ」でしょうが!)

 で、「召し上がれば分かりますよ!まずは行ってみて、食べてみて下さいね。方向は、あっちですから。ハイ、この地図を差し上げますからね。ごゆっくりどうぞ!」

 こういう人が詐欺に遭うんじゃないか、と心配です、本当に。

 今日の結論=浅草に居ると、この世の中から詐欺が減らない理由が分かります。公安当局にお勤めの方、御承知あれ。

追伸

 「台彪会」会長として、「ニッポン全国彪友会ー台東万博!」を計画しています。

 二条彪先生の門下生約200人が集まる、一大交流会です。先生のメルマガを取っている方なら、どなたでも参加できます。

 2012.4.20(金) 浅草が燃えます。

 詳しくは、こちらをご覧下さい。

 PR動画も撮りました。⇒こちらです。目が点に成りますよ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて767日連続更新を達成しました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。

 

 

 

 

 

 

 

Filed under: ぼやき部屋,浅草インサイダー情報 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (0)