開花予想

寒かった今年の陽気も、ようやく春めいてきまして、東京の桜の開化は3/25、見頃は3/31-4/7という予想だそうです。

お彼岸から開花までの、この時期、浅草は有望な稼ぎ時を迎えます。弊店に限っては三社や花火、サンバより有望です。

去年は記録的に開花が早くて3/19に開花してしまったので、お彼岸と桜が同時に来てしまいました。

それは実に良くない事態でした。

人出がいくら多くても、飲食店の席数が増えるわけではないので、お客様をお断わりするばっかりで、収入にはなりません。だからお彼岸と桜が同時は困るのです。

今年は、その同時は避けられたのですが、3/20にテレビ番組に出たので、今度はお彼岸とテレビが同時になってしまいました。

うまく行かないもんです。

弊ブログの読者の皆さんにおかれましては、少し時期をズラしてお越しいただけましたら、嬉しいです。

何卒、よろしくお願い申し上げます。

なお、25日は火曜日で通常なら休業日ですが、春休み中ですし、隅田公園桜祭りも始まりますし、臨時営業いたします。行楽のお帰りなどに、どうぞ御利用下さい。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.478日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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牛肉を扱うお店の店主から見た馬肉の良い点と今後の展望②

桜鍋店「中江」のスタッフの皆さんの食事会を「ちんや」で開きたい、という申込みがあり、在り難くお請けしたのですが、あの御主人のこと、普通に食事をするだけでは収まらないらしく、私に話しをしろ、とおっしゃいます。しかも、

「牛肉を扱うお店の店主から見た馬肉の良い点と今後の展望」について話しをしろ!というムタイなことをおっしゃいます。私が渋っていると、

「先入観や感情丸出しで大いに脱線したお話を!」とのこと。

そういうことならガッテン招致、いや招致するのはオリンピックでしたな、ガッテン承知仕りました。

「先入観」=それを大いに話題にしましょう。

馬肉と牛肉の栄養学的な比較とか、これまで嫌というほど聞かされてきた、ツマンない話しをする気は、私はモートー無いですからね。

そう、肉食の話しを、時代を遡って致します。そういう話しをする時は、当然先入観や偏見についても触れないといけないから丁度良いですな。上等です。覚悟してお聞き下さい・・・

<と、いうことで昨日から始まりました、この話しは長いので2回に分けてUPしています。まず昨日の弊ブログをお読みいただき、その後で、この下(↓)をお読みください。>

さて、やっと馬の話しです。この頃=つまり明治時代に馬はどうなっていたのでしょう。牛同様に熱心に飼育されるようになりますが、目的は違います。軍用馬として育てられるようになったのです。

この絵を見て下さい。『上野不忍大競馬之図』という明治17年(1884年)の絵です。上野の不忍池の周りに競馬場が設けられて、そこで開催された競馬会に明治天皇が親臨なさっています。

陛下は馬に大金を賭けていて、その結果が気になって見に来たんじゃあないですよ。明治政府は軍馬改良の為に競馬を奨励していて、この競馬会も、その一環なんです。

陛下自身も馬術が大変お好きで、毎日馬を乗りまわしていた時期もあるそうです。

もともと陛下は京都のお公卿さんですから、牛車(ぎっしゃ)に曳かれて移動するのが本来なのですが、帝国主義華やかな、この時代にあっては、牛をやめて馬に切り替えてしまったのです。

お分かりですね、当時馬は強い軍隊の象徴であり、皇室の栄光の象徴だったのです。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだ人もおいでと思いますが、主人公の秋山大将は騎兵隊の司令官でしたね。日本の騎兵隊を一から育て上げ、ロシアのコサック騎兵と闘った秋山大将が、この時代のシンボルだったのです。

馬肉が、栄養学的には大変優れたものなのに、食卓の主役の座を牛に譲った理由・譲った時代背景は、これです。是非理解しておきましょう。勿論牛の方が飼い易いという事情もあったと思いますが、馬は皇室と軍隊のイメージだから、食べにくかったんです。

ここで強調したいのは、まさに、この時代に「中江」さんは馬肉料理を始めた、ということです。

そこを押さえておくと共に、そんな中でも馬肉を売ろうと試みた中江さんの意志の強さに思いを致さないといけません。

そして、さらに申し上げますが、そこを理解することは現代社会に於いても深い意義が在ると思います。

今時は獣の命を戴く、ということにリアリテイーが無さすぎます。スーパーに行くとスライス済みの肉しか売ってないですからね。

思いまするに、食事の前に「いただきます」と唱えることは日本人の精神の神髄であって、実は私は、このItadaki-masと Gochiso-samaを是非世界語にしようと思っております。これからオリンピックまでに、それをやろう!と思っています。

Itadaki-masと Gochiso-samaという言葉の裏にある日本人の思想を英語で解説した小冊子を作りまして、料理屋に見えた外人さんがそれを上手に唱えたら、冊子の裏に記念のスタンプを押す、という企画を考えています。「中江」さんにもご協力いただきたいのですが、まあ、その話しはさて置きましょう。

生き物の命を戴くことへの恐れと神聖な気持ちが失われましたら、食の大切さということも理解しにくくなりましょう。

そして、それを体感し易い店が、皆さんの御店です。

牛より食べにくく、猪や熊よりも食べにくい馬を食べさせることの意義は、現代社会においては、ますます高まるものと考えます。

日々の業務に精励されますよう。

追伸、

2/24にインターネットラジオ局CROSSWAVE☆SENJUの番組「ビジネスチャンネル~この人に聞きたい」に出演させていただきました。

過去の放送は、こちらのURLで聞けますので、よろしかったら、是非。

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牛肉を扱うお店の店主から見た馬肉の良い点と今後の展望①

桜鍋店「中江」のスタッフの皆さんの食事会を「ちんや」で開きたい、という申込みがあり、在り難くお請けしたのですが、あの御主人のこと、普通に食事をするだけでは収まらないらしく、私に話しをしろ、とおっしゃいます。しかも、

「牛肉を扱うお店の店主から見た馬肉の良い点と今後の展望」について話しをしろ!というムタイなことをおっしゃいます。私が渋っていると、

「先入観や感情丸出しで大いに脱線したお話を!」とのこと。

そういうことならガッテン招致、いや招致するのはオリンピックでしたな、ガッテン承知仕りました。

「先入観」=それを大いに話題にしましょう。

馬肉と牛肉の栄養学的な比較とか、これまで嫌というほど聞かされてきた、ツマンない話しをする気は、私はモートー無いですからね。

そう、肉食の話しを、時代を遡って致します。そういう話しをする時は、当然先入観や偏見についても触れないといけないから丁度良いですな。上等です。覚悟してお聞き下さい。

さてさて、やっと本題に入ります。

近代以前の日本では、牛も馬も役用動物でした。農作業などに使っていました。

ですので、それを食すことは当然タブーとされましたが、廃用となった牛・馬の肉を食すことは、実際は半ば非公然的に行われていました。

肉は貴重なタンパク源・栄養源ですから、滋養強壮のために食べたわけです。

タブーな感じは猪や熊を食べる時より強かったと思います。猪や熊や害獣ですが、牛・馬は生前可愛がられていましたからね。7世紀に天武天皇が肉食を禁止した時も、鹿と猪は禁じられていませんでした。

食べていた場所は「ももんじ屋」という料理屋です。百獣と書いて「ももんじ」と読みます。今でも両国に1718年ご創業の「ももんじや」という屋号の御店が在りますが、あの御店は江戸時代の「ももんじ屋」の生き残りですね。食べに行ったことが無い方は、是非行っていただきたいと思います。

もっとも、現在の「ももんじや」さんでは牛・馬はやっていません。しかし江戸時代は猪や熊と同様に食べられていました。この時代、牛と馬の食べられ方に、大きな違いがなかったことに注目して下さい。

勿論物量的には、東日本と南九州は馬、西日本は牛が中心でした。

では、何故現在牛や馬を出していないか、ここで想像してみましょう。

牛が無いのは、おそらくは明治時代になって登場した牛鍋屋にお株を奪われたからでしょう。

御一新後、日本は西洋をまねて公然と牛を食べ始めます。東京郊外の今里村という所に、近代的な牛の屠殺場が出来まして、そこの肉は近代的で上等ですから、その屠殺場から仕入れた牛を使う牛鍋屋は屋号に「今」の字を付けました。「今半」さんや新橋の「今朝」さんが、それです。

近代的で上等な肉であることをPRするために「今」の文字を入れたのです。

こうなると旧式な「ももんじ屋」は旗色が悪いですね。その後猪や熊といったジビエに特化していったのは当然の成り行きと思います。

さて、やっと馬の話しです。この頃=つまり明治時代に馬はどうなっていたのでしょう。

<この話しは長いので2回に分けてUPします。続きは明日の弊ブログで。>

追伸、

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他力本願

オリンピックで浅草は忙しいんでしょ!

と最近言われます。

???

オリンピックをやっていたのはロシアの措置ですよ、いや、ソチですよ。東京なら、たしか6年後です。

他所の方々から見れば、たしかに浅草は他力本願で潤っているように見えるかもしれません。

思いおこしますと、

ワールドカップが来る!

つくばエクスプレスが開業する!

スカイツリーが出来る!

と、なんだかんだ3~4年おきにイベントごとがあって、浅草はそのたびにひと騒ぎしてきました。ですので、

○○で浅草は忙しい、と見えるかもしれません。

浅草の人達が頑張っているから忙しい、と言われることは、ほぼないのですが、まあ、仕方ないでしょう。

しかしながら当の本人が、

○○でウチの店は忙しい、を目指したら、勿論ダメですよね。

当然ながら商いは自力本願です。

忙しい理由が自分の中に在るように、

オリンピックが来ようが、ビッグバンが来ようが、そこを忘れないようにしたいものです。

追伸、

2/24にインターネットラジオ局CROSSWAVE☆SENJUの番組「ビジネスチャンネル~この人に聞きたい」に出演させていただきました。

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江戸時代における狆飼育について

貴重な書物を、学者さんや図書館に売るということを仕事にしている同期生から連絡がありました。

『江戸時代における狆飼育について』という論文が在るそうだよ!

しかも書いた人は台東区役所に在籍したことがあるそうだ!

論文を書かれたのは、赤堀由佳さんという方なのですが、成城大学文学研究科に在籍していた頃、その論文を発表されたのだそうで、成城大学で発行している『常民文化』という本の第30号(2007年)に掲載されていました。

親切にも同期生は営業先の、その学者さんの所で、論文のコピーを入手してくれました。

拝読しまして、狆の飼育について詳しいことを私は分からないのですが、江戸時代中期には狆の等級が8段階もあって、高度なブリーデイングが行われていたこと、狆のブリーデイングの中心はどうやら浅草だったことなどが分かりました。

十代将軍家治の子・大納言家基が浅草へ狆を見に来たこともあったそうです。

それから、そもそも当時狆は犬というカテゴリーに入らない、別の生き物として捉えられていたそうです。で、小鳥(=観賞用の綺麗な鳥)を売る店で狆を売ることもあったとか。

へええ、ですね。勉強になりました。ありがとうございます。

それから「台東区役所に在籍したことがある」件ですが、私は存じ上げなかったので、日頃「台東区アートアドバイザー会議」の御世話をしてくれている、区役所文化振興課に尋ねてみることにしました。

そうしましたら、台東区役所の職員という話しは誤りで足立区役所でした。「江戸時代の動物の研究という、珍しい研究している方」ということで、赤堀さんのことを台東区役所の人が知っていて、

足立区ですよ、と連絡を下さいました。聞いてみるもんです。

追伸、

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松嶋屋ぁっ!

新春浅草歌舞伎を観てまいりました。

通路にまで補助椅子を出して客を座らせており盛況でした。片岡愛之助さんが昨年「黒崎金融庁検査官」としてブレークしたからでしょうか。

しかし今回の愛之助さんの出番はいたって正統なもので『恋飛脚大和往来』の「新口村」の場面。

関西歌舞伎の二枚目中の二枚目である愛之助さんですから、しっかりと役にハマっておられたことは申すまでもありません。

さて、その愛之助さんがすき焼きを食べるシーンがテレビで放映されていますね。

サントリーのコーヒー「BOSS」のCMの中です。

愛之助さんはカリスマ医師の役で、白衣に身を包んだ20人ほどの集団を率いて病院の廊下を整然と行進します。

バージョンが色々あるようですが、食堂のシーンもあり、カツ丼とすき焼きが出ます。

うーん、この病院の食堂にはすき焼きがメニューに載っているんですねえ。実に結構です。

このコーヒーが、その脂肪の吸収を抑える特定保健用食品だ!というのがCMの眼目のようでした。

愛之助さんは、収録後「おいしいすき焼きを何度も食べられるならNGも怖くない」とコメントされたそうです。

いよ、松嶋屋ぁっ!

なお、「新春浅草歌舞伎」の演目は、この他に、

猿之助さん・男寅さんの『博奕十王』と、若手メンバーによる舞踊『屋敷娘』『石橋』。

猿之助さんの博奕打はサイコ―でした。

来年も是非浅草で歌舞伎を上演していただきたいと思います。

追伸、

今日の『news every.』に出演する予定です。

18:15頃~NNN系です。(これから大事件が起こらなければ)

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猪吊れば

読売新聞都内版に連載されている「波郷再訪」というコーナーを興味深く読んでいます。 

「波郷」とは勿論「昭和の俳聖」石田波郷(はきょう)のことで、その波郷が1957年から読売新聞に連載した『江東歳時記』の故地を、現代の記者さんが再訪する、というのが、この企画です。

さて旧臘のことですが、この企画の33回目として、両国橋畔の「ももんじや」さんが出ていました。

「ももんじや(百獣屋)」とは、猪・熊などの獣肉の鍋料理を出した店のことで、これこそ牛鍋の前身です。

御一新まで江戸市中に200軒~300軒在ったと言われていますが、現在まで「ももんじや」と名乗っているのは、両国のこの1軒だけです。

私は「ちんや」従業員の全員研修で、ここをお訪ねしたことがあります。

その「ももんじや」さんも太平洋戦争の空襲で被災。八代目が再建した頃に波郷が訪ねて行ったようです。

1957年当時と現在の違うところは、

・当時は店先で獣の解体を行っていたのに対し、現在は丹波・岐阜などの産地でさばいて送ってくれること。

・店先に吊るされている獣が、現在は剥製で当時は本物だったこと。それも当時は夥しい数の獣が吊るしてあります。

今でも、この御店の前を通ると、剥製でもギョッとしますけれどね。

「猪吊れば夜風川風吹きさらす」

やはり猪鍋は冬の風物ですねえ。

寒さはこれからが本番です。お疲れ気味の方は、現在でも御盛業ですので、この御店を訪ねてみてはいかがでしょう。

追伸

新年2日より「ちんや」は通常営業いたしております。どうぞ、ご利用下さいませ。

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淡島堂

新年あけましておめでとうございます。

さて、正月ですので、浅草寺にお参りする方もおいでと思いますが、その境内の、本堂のすぐ西側に「淡島堂」という御堂が在るのをご存知でしょうか。

「淡島堂」は毎年2月8日に「針供養」が開催され、裁縫を職業になさっている皆さんが集う場所として知られています。

また太平洋戦争の空襲で本堂が焼けてしまった後、再建される迄しばらくの間「仮本堂」として使われていたことでも知られています。

でも、そもそも「淡島様」って、何?

ということにあまり注意が払われていないように思います。少なくとも私はそうでした。

「淡島様」は、和歌山市の淡島神社のことで、その神様を元禄年間に勧請して御堂を建立したのが、そもそもだそうです。

その祭神が何かは諸説あるらしいのですが、神功皇后も入っていて、女性ですから安産や女性の病気平癒の御利益があるそうです。

また少彦名神とする伝承もあるそうです。少彦名神は、日本の国に薬や酒、裁縫の術をひろめた神様とされています。

・・・・っていうことを私が受け売りしているネタ元をここで明かしちゃいますが、それは「豊島屋本店」さんの社史です。

「淡島様」について不勉強だった私は、この社史で初めて、酒の神様であられたことを知りました。

「金婚」のブランド名で知られる、神田猿楽町の「豊島屋本店」さんは、去年の秋に大変立派な社史を刊行されましたが、その御店の起源に淡島様が関係あるのだそうです。

ある夜、創業者・豊島屋十右衛門の夢枕に、淡島様が立って、白酒のつくりかたを伝授し、その通りに醸ってみますと美味しい白酒が出来た、というのです。

十右衛門がそれを売り出したところ、大いに江戸中の評判になり、

「山なれば富士、白酒なれば豊島屋」と詠われるまでになったとか。

その御酒「金婚」を弊店でも販売しております。新年の、「淡島堂」御参詣のおりに、お召し上がり下さい。

「ちんや」は元日だけお休みをいただき、明日2日より通常営業いたします。

本年も、よろしくお願い申し上げます。

 

 

きんのと変わらぬけふの味

河治和香先生の歴史小説『どぜう屋助七』が、単行本に成りました。

で、その出版記念会がありまして、私も登場人物の子孫として御招待いただき、光栄にも鏡割りなどさせていただきました。

さて内容紹介です。ネタばれを避けるため、ほどほどに紹介しないといけませんが、この御本は、

浅草駒形にある、どぜう屋の主人・三代目越後屋助七を主人公にした小説です。(ちなみに当代は七代目)

三代目は料理屋の店主としては破天荒な人物で、剣の腕前がスゴく、趣味はと言うと粋な新内流しなので女にモテ、当初店の仕事は「ほったらかし」だったのですが、時代は幕末=御一新の激動期ですから、否応なく歴史の渦に巻き込まれて行きます。

政治の変動以外にも、火事・安政の地震・物価の騰貴と大変な時代でした。

そんな時代に、三代目も、店に集う人々も、江戸っ子の意地と持ち前の明るさで、暖簾を守ろうと頑張りぬく~そういう筋です。

ここに【目次】をコピペーしますと、

一、君は今駒形あたり どぜう汁

二、アメリカが来ても日本はつつがなし

三、恋は思案の外欲は分別の内

四、鯰もおごる神の留守事

五、鯨汁椀を重ねて叱られる

六、冥土の旅へコロリ欠け落ち

七、きゅうりごしんしんごしん

八、風の神雷門に居候

九、江戸の豚都の狆に追い出され

十、きんのと変わらぬけふの味

この話しの脇筋で私の祖先が登場します。

当家は、江戸時代から続いた狆の商いをやめて、牛鍋に転向したわけですから、実はやったことは、どぜう屋さんより大革新だったりしますが、この話しの年代は、それよりもう少し前のこと。狆屋をしていた最後の頃の話しです。

あんまり詳細に書けませんが、私の祖先はどじょうを狆に食べさせたり、狆をペリーに献上したりとユニークなエピソードが満載です。

やがて御一新、狆屋が「ちんや」と成ったのと前後して、駒形の三代目は亡くなり、この小説は終わります。その後のことは・・・このブログでも、まあ、お読み下さい!

ともあれ、なぜ浅草は昔も今も賑わっているのか、なぜ美味いものは昔も今も美味いのか、この話しに出て来るような人達がいたからだと私は思います。

「十、きんのと変わらぬけふの味」という最終章のタイトルに、その意味が込められています。

「きんの」とは今はもうあまり使われない下町方言で、昨日のことです。

河治先生が「変わらぬ今日の味」を評価して下さり、その為に生涯を捧げた浅草人のことを描いて下さったことが嬉しいです。

是非お読みください。 是非。

追伸①

 

クリスマス・イベントを開催します。

「イブすきの日に、指宿の焼酎を!」

とうことで、12/24に「ちんや」お座敷(=個室・大広間)で、すき焼きを頼んだ方に、指宿市の芋焼酎グラス一杯をサービスに致します!

堂々オヤジ・ギャグです。

サービス品だからと言って、質が悪いわけじゃあございません。

白露酒造さんの『岩いずみ』という品ですが、

指宿市山川地区の「黄金千貫」を主に使用。

また国土交通省「水の郷百撰」に認定された、開聞岳の麓より湧き出す天然水(軟水)を使用しています。

白麹仕込と黒麹仕込という製造方法の異なる焼酎を絶妙にブレンドしてありまして、実にマイルドです。

さらに1年熟成させることにより、味わいと甘い余韻を醸し出しています。このメーカーさんは熟成に重きを置いておいでなので、「ちんや」の味に合うと私は思っています。

と、いう次第で「イブすきの日に、指宿の焼酎を!」

お後がよろしいようで・・・

追伸②

ビジネスマンの方を対象に、忘年会に関する意識調査を実施させていただました。
目的は、もちろん、日本の会社の忘年会を、もっとワクワクするもの、もっと意義あるものにしたいからです。
忘年会は毎年惰性でやっている…では悲しいですよね。
ビジネスマンの皆さんは、どんな忘年会なら出席したいのか、逆に、どういう忘年会はパスしたいのか、
その答えがここにあります。
会社の忘年会から、この国を元気にしていきたいと思います。

この調査結果は、そのための参考にしていただきたいと思います。
さてさて、大ショックの調査結果はこちら↓から。

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神谷バー

「浅草うまいもの会」の忘年会が「神谷バー」さんでありました。

「神谷バー」さんは、この春から耐震補強工事に入っていましたが、ようやく全面新装と成りましたので、皆で飲みに行った次第です。

今回の工事は営業しながらの難工事で、金銭的にも「潰して建て代える方が安い」という見積もりでしたが、御主人は勿論、あの歴史的建物を遺す道を選択されました。

その工事完成で、忘年会が盛り上がったことは申すまでもありません。

恒例の余興のクイズは、こんな↓感じでした。

 

・「神谷バー」さんの創業者の名前はズバリなんとおっしゃったでしょう。

1神谷伝衛門 2神谷伝兵衛 3神谷伝五郎

・神谷バー1階で提供するために、アサヒビール社から直送される生ビールの、専用タンクの大きさは、次の3つの内のどれでしょう。

1:500L 2:1.200L 3:100L

・名物「デンキブラン」の年間消費量は、何盃でしょうか。

1:7万盃 2:50万盃 3:130万盃

・1880年に開業した神谷バーの前身の店の屋号は、次の3つの内のどれでしょう。

1むさしや銘酒店 2びぜん屋銘酒店 3みかはや銘酒店

・神谷伝兵衛さんが、神谷バー・シャトー神谷(牛久シャトー)以外に、もう一つ手がけた事業はなんだったでしょう。

1三河人絹 2三河鉄道 3三河紡績

・現在使用している神谷ビル本館が落成したのは、いつでしょう。

1:1899年 2:1921年 3:1933年 

・神谷バーの電話番号はすばり、(03)-3841-××00番でしょう。

1:5400 2:8700 3:6900

・住吉史彦と「神谷バー」の社長さんには共通のFB友達が何人いるでしょう。

1:34人 2:73人 3:95人

 

<正解>

2神谷伝兵衛 

1:500L 

2:50万盃 

3みかはや銘酒店(神谷伝兵衛さんは、三河国出身だった)

2三河鉄道 

2:1921年(関東大震災、太平洋戦争を生き抜いた建物)

1:5400 

2:73人 

 追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

 追伸②

ビジネスマンの方を対象に、忘年会に関する意識調査を実施させていただました。
目的は、もちろん、日本の会社の忘年会を、もっとワクワクするもの、もっと意義あるものにしたいからです。
忘年会は毎年惰性でやっている…では悲しいですよね。
ビジネスマンの皆さんは、どんな忘年会なら出席したいのか、逆に、どういう忘年会はパスしたいのか、
その答えがここにあります。
この調査結果は、そのための参考にしていただきたいと思います。
会社の忘年会から、この国を元気にしていきたいと思います。
さてさて、大ショックの調査結果はこちら↓から。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.380日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 
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