林芙美子とすき焼き

 9/17に「ちんや」創業130年記念ホームページがオープンしました。このサイト上では「世界に一つだけの すき焼き思い出ストーリー」の募集を始めています。

 初日に投稿が2通あり、まずは一安心ですが、もう少し増やしたい!と思って、昨日から「投稿をお待ちしています!」「お待ちしてます!!」という内容のメールやFAXを、たくさんの人に送りつけています。

 このブログの読者の方にも、FAX送りつけ被害に遭われた方もおいでと思います。ご愁傷様です。被害と言っても交通事故よりはマシですので、まあ、我慢して投稿してみて下さい。

 そんな中、ブログ読者の方から連絡があり、林芙美子の随筆「貸家探し」の中に「ちんや」さんのことが書かれていますよ!と教えて下さいました。昭和10年に都新聞に掲載された随筆です。

 以下に、私の解説付きでコピペーしますので、お読み下さい。

<以下は林芙美子の「貸家探し」(昭和10年)、( )の中は私の解説>

(芙美子は、花屋敷・浅草公園・観音様・仲見世とまわった後に・・・)

 雷門へ出ると、ますます帰るのが厭になり、十年振りに私はちんやへ肉を食べに這入ってみた。何十畳とある広い座敷の真中に在郷軍人と云ったような人たちが輪になって肉をたべていた。私は六十八番と云う大きな木札を貰って、女中に母娘連れの横へ連れられて行った。

(昭和10年は「ちんや」の敷地が一番広かった時ですね。「六十八番」というのは下足札のことです。)

 「しゃもになさいますか、中肉、それにロースとございますけど」太った銀杏返し(いちょうがえし)の女中はにこにこしてしゃべっている。私はロースを註文してばさばさと飯をたべ始めたが、さっきの鍋焼きで、腹具合はいっぱいだった。

(この当事は、すき焼き屋で鶏鍋も出している店が結構あったそうです。)

 働いている女中は、みんな日本髪で、ずっこけ風に帯を結び、人生のあらゆるものにびくともしないような風体に見える。うらやましい気持ちであった。

(この当事「牛屋の女中」というのは、こういうイメージだったようです。)

 私はロースの煮えたのを頬ばりながら、お客の顔や、女中たちの顔を眺めていた。

 まるで銭湯のような感じで、紅葉の胸飾りをしたおのぼりさんたちもいる。バスケットを持った田舎出の若夫婦、ピクニック帰り、種々雑多な人たちが小さい食卓を囲んでいる。
 私の隣の母娘は、もう勘定だ。この母娘は二人で平常暮らしているのじゃなくて、たまたま逢ったのだろうと思えるほど、二人の言葉や服装に何か違いがあった。娘はクリーム色の金紗(きんしゃ)の羽織を着て、如何にも女給のようだったし、母親は木綿の羽織に、手拭いで襟あてをしていた。

(この当事は、服装ですぐ身分がわかったようですね。)

 浅草から帰ったのが七時半ごろ、貸家も何もみつからなかったが朝の憂鬱をさばさばと払いおとした気持ちであった。

<林芙美子の随筆「貸家探し」(昭和10年)のコピペー終わり>

 「朝の憂鬱をさばさばと払いおとした気持ちであった。」というのが良いですね。街や店にとっては、そういうことが多分大事なのだと思います。

 あ、でもその前に、こっちの不景気の憂鬱をさばさばと払いおとさなきゃ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 創業130年記念サイトは、こちらです。「すき焼き思い出ストーリー」の投稿を募集しています。

 Twitterもやってます。こちらでつぶやいています。フォローよろしくお願い申し上げます。

Filed under: すき焼きフル・トーク,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:01 AM  Comments (1)

すき思ドットコム

  本日「ちんや」創業130年記念ホームページがオープンしました。

 創業130年記念事業のコンセプトは、以前このブログの9/9号に書きました通り、

「心に残る思い出を!」です。ホームページも、もちろん、その考え方にそって、㈱IMCさんに制作していただきました。

 今回このサイト上で「世界に一つだけの すき焼き思い出ストーリー」を募集します。

 すき焼きは文明開化の昔から、日本人の思い出の中に生きてきた料理です。でも残念ながら、その思い出話しをまとめて保存したことはないように思います。

 そこでサイトを使って、一般の皆さんに投稿していただくことを考えつきました。「ストーリー」と言っても、作家先生に書いていただくわけではなく、一般の皆さんに投稿していただくのです。

 ブログ読者の皆さんも、あなたの思い出の中に生きている、世界に一つだけの、すき焼きストーリーを是非、私に教えて下さい。

 ご投稿くださったものは、店の歴史の資料として、すき焼きの資料として、末永く保存させていただきます。

 URLは、sukiomo.com 「すき思」にしました。

 ご投稿を心より、お待ちしています!

 直接個人的に教えていただくのも歓迎ですよ。すき焼き食わしてカノジョを口説こうとしたら、大失敗に終わったとか・・・

  本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterも始めました。こちらでつぶやいています。フォローよろしくお願い申し上げます。

おいしい夏休みー親子体験食味学習会③

 8/21に、「ちんや」で「おいしい夏休みー親子体験食味学習会」を開催しました。

 昨年に続いて2回目の、食育企画ですが、29人の親子にご参加いただき、また地元のヒノデ新聞さんの取材も入って、盛況でした。

 まず最初に「強い体づくりと食事」について、シュートボクサーでSカップ2006世界チャンピオンの緒形健一さんにお話しいただきました。

 続いて私が「すき焼きを、何でみんなが食べるようになったか、いつから食べているか」を、お子様向けにお話ししました。その後で、すき焼きを食べていただきました。

  私の話しをこのブログでも公開しようと思います。長いので、3回(=3日間)に分けて公開しています。今日は、その第三回です。緒形健一さんのお話しも録音してありますので、後日公開します。

 <以下、講演台本>

 さて、おじさんのやっている、「ちんや」っていう、この店も、そのころにできたお店です。江戸時代には、ペットショップをやっていて、狆(チン)ていう種類の犬を売るお店だったので、それで「ちんや」って言うんですが、明治時代になって、商売の種類を変えました。すき焼きが発明されて、皆が喜んで食べている姿を見て、狆を売るのをやめて、すき焼きを売ることにしたんですね。

 それはなんででしょう?その理由の一つは、関所がなくなったことです。明治時代の前の、江戸時代には、日本人は自由に旅行をできませんでした。関所があって、こわいお侍さんが番をしていて、行き先とか、なんで旅行をしているのか、とかを、そのお侍さんに説明しないと、通れなかったですが、明治時代になって、やっと自由に旅行をできるようになったんですね。

 それで浅草の観音様をお参りするために、日本中からたくさんの人がやってくるようになりました。さらに、そのうちに蒸気で動く船や鉄道もできて、旅行がすごく便利になりました。だから、お参りの人がどんどん増えたんですね。

 旅行してきた人には、泊まるところと、それから食べ物を食べさせてくれるところが必要ですね。そして、どうせ、食べるなら、流行ってる料理、つまり、すき焼を食べてみたい、ってことになったわけです。

 そこで、おじさんのご先祖様は、すき焼屋をはじめたらたぶん、うまくいくだろう、って考えたわけです。そういう考え方を「創業家精神」って言います。つまり世の中の流れを見て、見通しを立てて、この商売はうまくいくだろう、って信じたら、チャレンジしてみる、という考え方の人を「創業家精神のある人」って言います。

 逆に、うまくいくかどうかわからないから、失敗して損するかもしれないし、やめとこう!っていう考え方の人を「創業家精神のない人」って言います。

 おじさんのご先祖が「創業家精神のある人」だったので、ここにこうして、すき焼屋があって、皆さんは、すき焼を食べられるんだって思っていただきたいと思います。はい、これで、皆さんは、いつからこの場所に、すき焼屋があるのか、どうしてあるのか、っていう、そのわけがわかりましたね。

 そういうことを、考えながら、すき焼きを食べると楽しいですよね。

 それでは、最後にポイントをまとめてみしょう!

① 明治時代になって、法律が変わって牛肉を食べて良い、ということになりました。

② 法律が変わった理由は、お肉を食べて、日本人の体が大きくなるように、っていう理由でした。

③ その時、お肉を食べる、っていう西洋の習慣を採り入れたわけですけど、でも食べ方は、頭の良い人が、日本の昔からの料理の方法を応用して、すき焼きを発明しました。それから、

④ その発明された料理(=すき焼き)を使って商売をしてみよう、っていうおじさんのご先祖様のような、「創業家精神のある人」がでてきました。

  この4つがそろって初めて、皆さんが今いる、すき焼屋さんができた、っていうのがポイントです。

  どうです? 勉強になったでしょう! オトナの諸君。

(私の話しは、これで終わりです。明日は王者・緒形健一さんの話しをUPします。)

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterも始めました。こちらでつぶやいています。フォローよろしくお願い申し上げます。

*シュートボクシング協会については、こちらです。

おいしい夏休みー親子体験食味学習会②

 8/21に、「ちんや」で「おいしい夏休みー親子体験食味学習会」を開催しました。

 昨年に続いて2回目の、食育企画ですが、29人の親子にご参加いただき、また地元のヒノデ新聞さんの取材も入って、盛況でした。

 まず最初に「強い体づくりと食事」について、シュートボクサーでSカップ2006世界チャンピオンの緒形健一さんにお話しいただきました。

 続いて私が「すき焼きを、何でみんなが食べるようになったか、いつから食べているか」を、お子様向けにお話ししました。その後で、すき焼きを食べていただきました。

  私の話しをこのブログでも公開しようと思います。長いので、3回(=3日間)に分けて公開しています。今日は、その第二回です。緒形健一さんのお話しも録音してありますので、後日公開します。

 <以下、講演台本>

 それで、なんで西洋の人は体が大きいんだろう、不思議だな、って思って調べてみたら、牛肉を食べているからだ、っていうことがわかったんです。緒形先生も言ってますけど、お肉を食べないと、人間の体が成長しませんね。そういうわけで、明治時代に法律が変わって、日本人も牛肉を食べていいですよ、っていうことになりました。

 そうすると、お坊さん達と仲良くできなくなりますけど、日本が征服されると、そっちの方が困りますから、しょうがなかったんですね。

 さて、そういうわけで、牛肉を食べていいですよ、っていうことになったわけですが、ここで日本人が困ったのは、お肉をどういう味つけで食べるか、ということです。今までお肉を食べてなかったので、食べ方を発明しないといけなかったんです。

 この時はちょっと困ったんですけど、うまいことに、この時代の人で、すごく発明の上手な人がいて、牛肉のおいしい食べ方、それも日本人がスゴクおいしい!って感じる食べ方を発明したんですね。誰が発明したか、というのは、実はよくわからないんですが、それがすごく良いやり方でした。

 さて、ここで次のクイズですが、明治時代に発明された、お肉のおいしい食べ方っていうのは、次の内のどれでしょう? ステーキですか、しゃぶしゃぶですか、すき焼きですか?

 はい、その食べ方がすき焼きなんです。どういう風に作るかって言うと、お肉と、醤油と砂糖を一緒にして、火にかけるっていうやり方です。そうするととてもおいしい料理になります。例えば、親子丼を好きな人はいますか!はい、親子丼も、鶏という動物の肉と味付けは醤油と砂糖ですね。だから、この味付けとすき焼はだいたい同じ食べ方です。

 江戸時代に、牛肉は食べちゃダメ、っていうことになっていたんですが、鶏肉は食べても良かったんですね。だから日本人は鶏肉のおいしい食べ方を知っていて、その食べ方を大好きだったんですね。だから、明治時代になって、牛肉を食べてよい、どんどん食べましょう、っていうことになった時に、日本人は、日本人が昔から好きだった料理の仕方を応用して、牛肉を食べるようになったわけです。

 食べ物以外のことでも、日本人は江戸時代から勉強家で、いろんな基礎の勉強ができていましたから、明治時代になって、西洋の人から新しく、知らなかったことを教えてもらった時に、それと組み合わせることができたんですね。つまり、応用問題もできたんです。スゴいでしょう?これが日本人の偉いところです。

 ステーキは西洋人と同じ食べ方ですが、最初日本人はあまり好きでなくて、すき焼きの方が好きだったようです。しゃぶしゃぶは、ずっと後になって始まった食べ方です。その前に日本人は、昔からやっていた、料理方法の応用問題で、すき焼っていう食べ方を発明したんですね。ここが、今日のポイントですから、覚えて帰りましょう。 

 日本人は、明治時代になって、昔から知っていたことや知っていたことやり方と、新しく西洋人から習ったこととを結びつけました。これがスゴクうまくいったんです。いろいろな分野でそういうことがありましたが、一つの見本がすき焼き、っていう料理の発明でした。覚えましたか、ここが日本人の偉かったところです。

(小さいお子さんの集中力は、この辺りが限度でしょう。だから、8/21の私の授業はこれで終わりにしました。でも、もう少しお話ししたいことがあって原稿を作りましたので、このブログでは、その、当日はお話ししなかった部分も続けてUPします。明日は、その原稿です。まだ続きますが、今日はここまで。)

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterも始めました。こちらでつぶやいています。 フォローよろしくお願い申し上げます。

*「夏休み親子体験食味学習会」は国際観光日本レストラン協会の主催です。「ちんや」だけでなく、他の加盟店でも「親子体験」が開催されます。「ちんや」の回(8/21)は終了しましたが、まだ他の御店には空きがございます。お申し込みは、こちらへどうぞ。

*シュートボクシング協会については、こちらです。

おいしい夏休みー親子体験食味学習会 開催しました

 8/21に、「ちんや」で「おいしい夏休みー親子体験食味学習会」を開催しました。

 昨年に続いて2回目の、食育企画ですが、29人の親子にご参加いただき、また地元のヒノデ新聞さんの取材も入って、盛況でした。

 まず最初に「強い体づくりと食事」について、シュートボクサーでSカップ2006世界チャンピオンの緒形健一さんにお話しいただきました。

 続いて私が「すき焼きを、何でみんなが食べるようになったか、いつから食べているか」を、お子様向けにお話ししました。その後で、すき焼きを食べていただきました。

  私の話しをこのブログでも公開しようと思います。長いので、3回(=3日間)に分けて公開します。今日は、その第一回です。緒形健一さんのお話しも録音してありますので、後日公開します。

<以下、講演台本です>

 はい、それではおじさんが、すき焼きっていう料理を、何でみんなが食べるようになったか、いつから食べているか、お話ししますね。

 おじさんの話しは、それほど長くなくて、時間は10分くらいですから、学校の1時限よりずっと短いです。クイズをやりながら進めていきますから、そのクイズの問題と答えだけ覚えれば、後でお友達に自慢できるようにしてあげます。ちょっと我慢して聞いてて下さいね。

 いきなりクイズです。日本人は何時代から、お肉を食べるようになったか、知っている人は手を挙げて下さい!お父さん、お母さんは知っていても手を挙げちゃだめですよ!(笑い)すごいね。たくさん手が挙がりましたね。たくさん、手を挙げてくれて、ありがとう。じゃあね、そこの元気のいい僕、大きい声で、皆さんに教えてあげようか。

 「明治時代です!」はい、ありがとう。大正解ですね。皆さんわかりましたね。日本人が、牛肉を食べるようになったか、明治時代っていう時代からです。今日はまず、明治時代っていう、言葉を覚えて下さい。

 はい、次のクイズです。その明治時代っていうのは、今から何年くらい前に始まった時代ですか? 正解は142年前に始まったんです。今、一番長生きしている、おばあちゃんが113歳だそうですから、そのおばあちゃんのお父さん・お母さんが生まれた頃に始まったのが、明治時代です。はい、どのくらい昔の話しか、わかりましたね。

 では、なんでそれより前は、日本人がお肉を食べなかったか、わかりますか?

 それは、明治時代より前の時代に、政治家の人と、ある人達の仲が良かったからです。ここが3番目のクイズですが、その、政治家の人と仲が良かった人達っていうのは、誰ですか?はい、正解はお寺のお坊さんです。

 明治時代の前は、江戸時代っていう時代でしたが、江戸時代には、政治家の人は、お坊さんの言うことを政治に採り入れていたんですね。

 お坊さんは、生き物を殺して食べることを、「殺生」って言いますが、そういうことをしたら「ダメ」って、お坊さんはいつも教えていますから、それがそのまま日本の法律になって、全部の国民が牛肉を食べちゃダメっていうふうに決められていました。そういう風に決まっていたのが江戸時代っていう時代です。

 さて、政治家の人とお寺のお坊さんの仲が良くて、政治家がお坊さんの言うことを良く聞くと、世の中が平和になりますよね。だから江戸時代はとっても平和な時代でした。ところが、時代が変わって、明治時代になると、今度は政治家の人は、江戸時代の政治家と違って、たとえ、お坊さんの言うことを聞かずに、仲良くできなくなっても、日本人はお肉を食べた方が良い、って考えるようになったんですね。

 そう考えたのは、なんででしょう?それは、その頃の日本人の体がとても小さかったからなんです。誰と比べて小さかったのか、はい、ここがクイズです。考えてみて下さい。

 それは、西洋の人達です。江戸時代の最後の頃に、アメリカとかイギリスとかロシアとか、西洋の人達が、日本にやって来るようになったんですが、その人達とおつきあいするようになって、日本人は、西洋の人達はみんな体が大きい、っていうことに気がついたんですね。

 そして、これはどうもマズいって思ったんです。体が小さいとケンカをした時負けてしまいますね。この頃、西洋の国は軍隊が凄く強くて、中国とか、ベトナムとか、シベリアとか、日本の隣の国を、どんどん征服してたんですね。だから、政治家の人は、日本も軍隊を強くしないといけない、そのために日本人の体を大きくしないといけないって思ったんです。

 それで、なんで西洋の人は体が大きいんだろう、不思議だな、って思って調べてみたら・・・・

*まだ続きますが、今日はここまで。続きは明日UPします。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

  Twitterも始めてます。アカウント名は、chinya6thです。フォローよろしくお願い申し上げます。

 

*「夏休み親子体験食味学習会」は国際観光日本レストラン協会の主催です。「ちんや」だけでなく、他の加盟店でも「親子体験」が開催されます。「ちんや」の回(8/21)は終了しましたが、まだ、他の御店には空きがございます。お申し込みは、こちらへどうぞ。

*シュートボクシング協会については、こちらです。

円高の影響、マズいと思います

 スゴくマズいと思います、円高。

 米欧当局が、自国通貨安による景気浮揚を志向している中では、円が下がる材料は乏しいと思われます。

  この調子でいくと、海外から安い食べ物がどんどん流れ込んでくるでしょう。ブログ読者の皆さんも知らない内に、それを召し上がることになりましょうが、安全面が不安ですよね。

 また国内の農家は、価格競争で敗北してやっていけなくなります。

 たしかに素晴らしい農家もおいではおいでなのですが、こうも円高では、大変です。ごく少数の「カリスマ農家」の方くらいしかやっていけないようでは、困るのです。

 海外の食品を仕入れることに抵抗のない飲食店は、安いメニューを出すことができて楽しいかもしれません。しかし、国産食品に限っている飲食店は、相対的に高い店に見えてしまいますから、客離れが起きます。大変困った状況です。

  このブログの4/5号にも書きましたが、私は、「食べ物の自由貿易反対論」者です。

 ベストは「食糧鎖国」、

 ベターは「超スーパー高率関税」、

 それが×なら、農家の所得補償、と思っています。民主党が所得補償を言い出す前から、そう思ってました。

  円高が酷いと、食べ物以外の、全てのものづくりに関わる人も、当然同じ憂き目に会います。スゴくマズい事態と思います。

  民主党も自民党も、どうも頼りないから、

 そろそろ徳川家に奉還しますか、政権を。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 Twitterも始めてます。アカウント名は、chinya6thです。フォローよろしくお願い申し上げます。

*このブログの、4/5号はこちらです。

Filed under: ぼやき部屋,憧れの明治時代 — F.Sumiyoshi 12:06 AM  Comments (0)

出前すき焼き、使い捨て文化

 猛暑の中、TV朝日「ちい散歩」で宣伝していた「ひえひえジェルマット」を注文しようとしたら、電話が殺到しているのか、つながらず、注文できませんでした。

 ムカっと思っていたところへ、「百味」8月号が届きました。

 「百味」には、向笠千恵子先生の新連載『続すき焼き ものがたり』が連載されています。この新連載は5月号より始まったもので、今回は8月号ですので、第四回です。

 早速拝読しますと、「すきや連」で旧知の、F社長の御店「今朝」さんの、創業期から発展期の話しが書かれておりました。

 面白いのは、かつて、すき焼きの出前をしていた、という部分です。

 「今朝」さんのある場所は新橋で、花柳界がありますから、その花柳界の待合に、すき焼きの出前をしていたそうで、鍋も貸し出しており、配達専門の小僧さんまでいた、というから驚きます。

 「待合」という言葉は、昨今ほぼ使われなくなったので、念のため説明しておきますが、客と芸者さんが会うための貸席のことです。料理を作る設備はありません。

 料理を作る設備がある方は「料亭」と言いますね。待合とは、料理を作れない料亭と思っていただいてもまあ、良いでしょう。

 そういうわけで、待合は、料理を作れませんから、近所の料理屋から仕出しをとります。「今朝」さんのすき焼きも仕出しの1種だったわけです。

 料理屋の発展ものがたりを読んでいると、なぜか途中で出前を始めている例が多いですね。

 私も、かつて自分の店の商売のことを思案していて、すき焼きの一通りの具材に割下も揃えて、バイク便を使って出前をすれば喜ばれるのかなあ、と思ったことがありました。

 でも、問題は鍋です。

 「今朝」さんが出前をしていた頃も、店に戻ってきた鍋が、焼け焦げていたり、傷ついていたりで難儀した、と書かれています。慣れない人が、鍋を使ってオジヤを作ろうとすると、焦げさせてしまうことがあり、後で始末が大変面倒です。

  そう言えば、鰻業界は、今でも出前をするのがお約束ですが、名門「竹葉亭」の七代目B社長が、出前の件で、ボヤいていたことがありました。平成のある日、職人の技が光る、立派な、塗りの重箱に、蒲焼を入れて出前したら、使い捨ての箱と勘違いされて、捨てられかかったのだそうです。

 昭和のはじめから塗り直しを繰り返してきた、この重箱をゴミ箱に放り込んだのは、大手銀行の重役秘書のお嬢さんだったそうです。使い捨て文化が、いかにこの国に定着しているのがわかります。

 使い捨て文化の世の中だと、鍋の貸し出しは難しいよなあ、やっぱり。

 鍋はむしろ、売るしかないのかな、骨董品として。

 古物商の免許でも獲るか。考えてみれば、元美術部員なワケだし。

 え? クソ暑い日には、あんまりものを考えない方がいいぞ! って? そうでした、ハイ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*『続すき焼き ものがたり』については、このブログの5/2号をご覧下さい。

 *新連載『続すき焼き ものがたり』が掲載されている、月刊「百味」については、こちらです。

 *「今朝」さんについては、こちらです。

*「竹葉亭」の重箱ポイ捨て事件については、「三田評論」2009年10月号をご覧下さい。

玉泉寺の牛王如来

 旧知のNさん(=桜鍋「中江」社長)から、次のようなメールが来ました、

「下田に旅行に行きましたら、住吉さんやFさん(=すき焼き「今朝」社長)の、ご先祖様のお名前を発見してびっくりしたことをご報告いたします。玉泉寺と言うお寺に、日本で初めて牛を屠殺したという碑が建っていて、建立者の中にお名前がありました。」

 下田の玉泉寺という御寺は、日米関係史の中では、とても重要な所で、ペリー来航の後、最初にアメリカ総領事館が置かれた所です。1856年から3年弱、タウンゼント・ハリス総領事がここに滞在して、幕府との条約交渉に当たっていたのです。

 総領事や館員が住みますので、当然「牛肉を食べたい」ということになり、大変皮肉なことに、御寺の境内で殺生が行われたのです。
 境内の「仏手柑樹」(ぶっしゅかんじゅ)の木に牛がつながれ、屠殺されていったそうです。そして、この仏手柑樹の木の立っていた所に、屠殺されていった牛を弔うべく、昭和6年4月8日、東京の牛肉商によって、「牛王如来」が建立されました。 

 その建立の費用を寄進した人物の中に、私の曽祖父・住吉忠次郎と「今朝」Fさんのご先祖様が入っているのです。

  祖父が生きている頃、「ちんや」の社員旅行で、この御寺を訪ねたことがあったようですが、私はまだ子供で参加しておらず、話しは聞いていたものの、すっかり忘れてしまい、その後まだ、自分でここを訪問してはおりません。

  この話しをしっかり覚えていて、自分で現地を訪問していれば、人に自慢できる話しかな、と思うのですが、完全に忘れていたので、そうはいきません。

 飲み会の席で、自慢たらしく語るのは、下田行きを実行した後にして、とりあえずは、このブログの、1日分のネタとして使わせてもらう位にしておこう、そう思った次第です。

  Nさん、ネタのご提供、ありがとうございました。

  「おいおい、しっかり自慢してるじゃないか?」

  え? 自慢に聞こえましたか? そういう意図はゼンゼン無かったんですけどね。ひひひひ。

 本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*Nさんの御店「中江」については、こちらです。

*Fさんの御店「今朝」については、こちらです。

「饗応・居留地・牛鍋」講演台本③

 7/3は旧東京音楽学校奏楽堂での、平野正敏さんのコンサートに出演し、食べ物の話し=日本人が、西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のことをお話ししました。

 お運びいただいた皆さんに御礼申し上げます。

 タイトルは「饗応・居留地・牛鍋」にしました。半年がかりで準備しましたので、ブログ読者の皆さんにも、公開しようと思います。

 長いので、3回=3日間に分けて公開しています。今日は、その3回目です。

 以下講演台本です。ご笑覧下さい。

 まず最初に1点指摘させていただきたいのは、この時代の、医学の方は、実は進化を遂げている最中だった、ということです。ウイルスとか抗生物質のことは、まだまだでした。栄養学の中でも、ビタミンとか脚気のことは、わかっていません。分子レベルでの治療なんて、当然まだです。

 そういう状況ですので、この時代、薬や手術は既にあることはありましたが、医療や健康管理の中で、治療として食べ物を食べること、当時は「養生」と言っていましたが、その養生のウェイトが現代より結構高かった、ということが理由としてあったと思います。それが、1つ目です。

 もう一つの理由は、人の気持ちの部分で、これも推測ですが、激動の時代の中で、生命とか寿命に対する欲求が、日本人の間で爆発したからではないか、と思っています。この時代に、元気をつけて、上手く生きて、懸命に仕事をすれば、偉くなったり、金持ちになったりできる、そういう時代が来たんだ、是非偉くなりたい、ということを、日本人の相当数が願ったんだと、私は思います。

 日本の歴史は、もの凄く平穏な時代と、爆発的なバトルの時代が交互に来ますが、幕末明治は、言うまでもなく、バトルの時代で、それはイーコール、貧しく生まれても偉くなったり、金持ちになったりする時代でした。そのために是非、体に元気をつけたい、そう思ったとしても不思議はないと思っています。

 さきほど御紹介した、福沢諭吉の話しも、当事日本中で一番勉強のできる連中が、今の時代で言えば、新宿の歌舞伎町のような所に行っていた、という話しです。

 そういう時代だから、新しい食べ物が入ってきた時、日本人は、永年のタブーも、ものともせず、西洋料理や肉料理に、どんどん向かっていったんだと推測しています。

 翻って、いきなり現代の話しですが、皆さんのまわりにいませんか? やたらと食の細い、若者が。そういう手合いがいましたら、是非、説教してやっていただきたいと思います。

 「明治の人を見習って、今すぐ牛鍋屋へ行け!」ってね。(=ここは笑っていただく所)

 お後がよろしいようですので、私の話しは、この辺で。(退出)

*この話しは、これにて終わりです。最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*なお、このコンサートの模様は、ケーブルテレビ「J:COM台東」でもご覧になれます。(契約されている方のみ視聴可能)

<放送時間>

7月29日(木)、31日(土)、8月3日(火)
 9:20〜、13:20〜、17:20〜、21:20〜

8月1日(日)
 10:00〜、14:00〜、18:00〜、22:00〜

*平野正敏さんについては、こちらです。

「饗応・居留地・牛鍋」講演台本②

 7/3は旧東京音楽学校奏楽堂での、平野正敏さんのコンサートに出演し、食べ物の話し=日本人が、西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のことをお話ししました。

 お運びいただいた皆さんに御礼申し上げます。

 タイトルは「饗応・居留地・牛鍋」にしました。半年がかりで準備しましたので、ブログ読者の皆さんにも、公開しようと思います。

 長いので、3回=3日間に分けて公開しています。今日は、その第二回です。

 以下講演台本です。ご笑覧下さい。

 びっくりしますのは、函館市史にも載っているんですが、1859年には、函館の料理人・重三郎という人が、外国人目当てに料理屋を開く許可を願い出たそうなんです。開港を決めた条約は1858年ですから、その次の年でして、もちろん、まだ江戸時代です。明治維新になる前に、既に、少しずつ西洋料理屋が、居留地の近辺に出来てきたことがわかります。

 さっきの徳川慶喜もはやかったですが、普通の日本人も、実はやることはやかったんだなあ、ということがわかります。「もう一つ、へー」思っていただけば、深甚です。

 ついでに申しますと、東京の築地にも居留地がありました。築地居留地は明治になって、後から出来た居留地なんですが、ここの周囲にできた、西洋風のものの中でも、ひときわ目だった存在は、築地精養軒ホテルでした。言うまでもなく、上野公園の精養軒さんの前身です。この場所からすぐですので、後でお寄りいただくのも一興と思います。

 さて、人の宣伝している場合じゃないですね、本日のテーマ3項目行きます。きょ、きょと来まして、最後は当然、牛です。これを話さないと帰れないもんですから、ワタクシ(笑い)。ここだけはよろしくお願い申し上げます。

 ええ、ここで話しはいったん江戸時代に戻ります。江戸時代も日本人は、「薬食い」と称して、動物の肉を食べていたようでして、「ももんじ屋」と言われる店は、獣の肉を食べさせていたところです。今でも、両国にございますね、「ももんじ屋」さんという屋号の御店が。

 そういう店で食べさせていたのは、イノシシ、シカ、クマ、オオカミ、キツネ、タヌキなどだったようでして、牛と馬を食べることだけは、やはり特別なタブー感があったようです。 馬には乗りますし、牛は農作業で世話になっていましたので、食べにくかったと想像できます。

 このタブー感な感じを知っていただくには、1万円札の、福澤諭吉の「福翁自伝」を読んでいただくと、良いと思います。諭吉が若い頃、緒方洪庵の適塾の書生として学んでいたころ、つまり幕末の1857年ごろに、大阪には、遊郭の近所の、牛鍋屋が2軒あってて、それは定連客が適塾の書生とゴロツキばかり、という「最下等の店」だったと書いてあります。

 このように、昔はゴロツキの食べ物でしたのに明治時代に入りますと、牛を食べることは、タブーから急に文明開化のシンボルになります。それが言わずとしれた、牛鍋であります。

 さて、その食べ方でありますが、基本的には、江戸時代の「ももんじ屋」の食べさせ方と同じで、材料を、イノシシから牛にしただけ、というのが基本形です。ただし、今のすき焼きと違って、鍋に味噌を入れている店が多かったようです。

 最初の頃は、牛をと殺する時の、血抜きの技術が不完全で、また、牛の年齢自体も、今より高齢でしたので、牛肉を煮炊きすると、どうしても臭みがあったようです。そこで、臭み消しに、醗酵食品である、味噌を入れていたようです。

 鍋に入れる具について、もう少しお話ししますが、それぞれの具が、どういう理由で入っているのか、実は、理由がみんな非常にハッキリしています。まず、ネギは硫化アリルで臭み消しプラス食物繊維ですね。次のシラタキはマンナンで、虫下し・整腸作用です。お次の豆腐は蛋白源ということです、それに、豆腐割下がしみると旨いですのでね、そういう理由で入っているわけです。以上がお約束の具です。

 このように、用途が完全に決まっているわけですから、この時代になって急に具が決まったとは思えません。江戸時代には「ももんじや」の伝統的な食べ方が既に確立していて、そこへ具材として牛が導入された、という経緯だと思います。

 このように自然で庶民的な導入方法であったので、記録が乏しいのが、残念でありますが、まずこういう経緯だったろうと、想像がつきます。

 以上、饗応・居留地・牛鍋をキーワードに、日本人が西洋の食べ物に遭遇した時代、幕末から明治時代のお話しでございました。内容は「へー、そうだったんだ」というトリビアな情報を、いくつかお伝えしました。

 今日は、この後、もう一つだけお話ししますが、それは、「なんで、こんなに、日本人は西洋料理や肉料理を導入するのがはやかったの?その理由は何だろう?」ということです。これは、トリビアではございませんで、完全な私の推測ですが、どう推測したか、これから申します。まず最初に1点指摘させていただきたいのは・・・

*まだ続きますが、長いので今日はここまで。続きは明日UPします。本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

*なお、このコンサートの模様は、ケーブルテレビ「J:COM台東」でもご覧になれます。(契約されている方のみ視聴可能)

<放送時間>

7月29日(木)、31日(土)、8月3日(火)
 9:20〜、13:20〜、17:20〜、21:20〜

8月1日(日)
 10:00〜、14:00〜、18:00〜、22:00〜

*平野正敏さんについては、こちらです。