築地ホテル館

東京商工会議所が出している『東商新聞』には「壱号機紙上博物館」という連載コーナーがありまして、このコーナーはなかなか面白いです。

毎回色々な業界の、一号機のことが書かれているのです。

その第三回に載っていたのは、

ホテルの一号=築地ホテル館です。

で、紙面には、そのホテルの様子を描いた開化絵も掲載されていて、その絵が、なんと「ちんや」が所蔵している絵と同じ版でした。これには「あっ!」と思ってしまいました。

さて、築地ホテル館は明治元年(=1868年)に開業しました。日本人が設立した、最初の西洋式ホテルです。

江戸幕府が築地に外国人居留地を設置するのに伴い、諸外国に対して建設を約束しましたが、開業は幕府が倒れてから、明治維新後のことでした。

設計はアメリカ人ブリッジェンス。

施工は清水建設の創業者・清水喜助が請け負いましたが、喜助は工期を急がせ、わずか1年で完成させたと言いますから驚きます。

この建物は東京に出現した、最初の洋風建築の一つで、実に堂々たるものです。文明開化のシンボルとして、市中の大きな話題を集めたようです。

外国人の評判も悪くなかったようなのですが、明治5年の大火で焼失し、再建されることはありませんでした。残念ですね。

その開化絵=『東都築地保弖留館海岸庭前之図』という絵は、日頃「ちんや」の客室に架けておりまして、特に清水建設の関係者の方が見える時は、必ず部屋に架けます。(逆に、他のゼネコンの方の場合は、目につかないよう、気をつけております・・・)

ネットでも、こちらからご覧になれますので、後でゆっくり観て下さい。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は357人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.240日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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トルコライス

疲弊する地方経済の救世主として「ご当地B級グルメ」が期待されていることは、私も知っています。

だから基本的には頑張っていただきたいと私も思いますが、中身はA級であって欲しいと願います。B級なのは値段だけにしていただきたいです。

さて、そんな「B級」の中で今回恥をかいたのは、

長崎市の「トルコライス」。

豚カツ、ピラフ、スパゲティを一皿に盛り付けた料理で、「大人のお子さまランチ」と呼ばれて全国的にも知名度が上がっている、とか。

その関係者が、「母国」トルコの料理人と友好関係を作るべく親善訪問したところ、友好関係自体はOKだったものの、「トルコライス」については、

「トルコ料理には無い様式」と指摘されてしまったそうです。

トホホですね。

「トルコ料理人・シェフ連盟」の代表が言うには、

・トルコには豚カツはない、さらに、

・炭水化物が同じ皿に乗ることはない

とピラフとスパゲティを一皿に盛り付けることについても違和感があると言われてしまった模様です。

そもそも、トルコライスは1950年代に長崎で誕生したとされているそうですが、最初からトルコ料理と関係が有るのやら、無いのやら判然としません。無いんでしょう、多分。

しかし長崎市は、このネタに賭けている模様です。

市では、1890年9月16日に起きたオスマン・トルコ帝国の軍艦「エルトゥールル」号の遭難事件にちなんで9月16日を「トルコライスの日」、9月を「トルコライス推進月間」と定めてPRしているそうです。

そ、遭難事件の日=ライスの日ですかあ・・・

食べ物のことなんか、いい加減でOK!という本心が透けて見えますな。

長崎には、素晴らしい食べ物がたくさん在るのに、酔狂なことを始めたもんです。

だいたい、ですよ、「エルトゥールル」が皇帝アブデュルハミト2世から明治天皇への親書を奉呈した帰途、台風に遭って沈没したのは、和歌山沖です。

和歌山の人達は、遭難トルコ人に親切にしただけでなく、その地に石碑を築いて、長らくトルコとの関係を保ってきました。トルコの大統領が石碑に詣でたこともあるそうです。

そんな和歌山の人達は、長崎人のチョッカイをどう思うのでしょうか。

日本人に親切にして貰ったお返しに、和歌山の地にトルコ料理が伝わった、というのなら美談ですが、「トルコライス」は、「エルトゥールル」とは全く無関係です。

思いまするに、料理がB級なのではなく、長崎市役所の心底こそがB級です。

ですので、私は「トルコライス」は食べません。

美味くても食べません。

追伸①

「ぴあMOOK 旨い肉 2014 首都圏版」

~感涙必須の旨い肉200軒 に「レストランちんや亭」の、ハンバーグとサイコロステーキを載せていただきました。

ご購入は、こちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.233日連続更新を達成しました。

明日は、1-2-3-4日目で嬉しいです。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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新道のすき焼き②

新潟県新発田市の、すき焼き店「八木」さんの続篇です。

「八木」さんは、新発田初の肉屋として明治初期に創業なさったそうです。

今の女将さん(=キイさん)は「三代目」と名乗っておいでですが、それは、昭和30年代にすき焼き専業になってからの、すき焼き屋としての三代目でして、肉に携わり始めたのは、それよりかなり前のことです。

当時は屠殺場も自社で所有していて、関西方面から、生体の牛を仕入れ⇒処理して販売していたそうです。新発田における「肉のパイオニア」と申して間違いありません。

以前に郡山市の「京香」さんにうかがった時も、

最初は屠殺場も自社で所有していて、米沢から、生体の牛を仕入れていた。

⇒戦後すき焼き専業になった。

という、似たような話しをうかがいました。

「京香」さんも「八木」さんも、それぞれの街に肉を導入する、という使命を帯びて創業なさった方です。

小規模経営で屠場を営むのは問題点がありましたから、やがて大規模化・公営化されます。その流れの中でパイオニアの皆さんは、撤退なさったようですが、今もすき焼き屋として生き残っておられるのは素晴らしいことです。

そういう方の知遇を私が得ることが出来ましたことを、本当に嬉しく思います。

さて、その新発田を「昭和10年の新発田の大火」が襲います。西暦では1935年ですね。

今の「八木」さんの店舗は、その後建てられた木造建築です。

新発田は、陸軍が居たのに太平洋戦争の空襲の被害が小さく、今日でも、その建物ですき焼きをいただくことができます。

今の女将さんが、そこへ嫁いで来たのは1965年(昭和40年)。当時の新道花柳界は芸者衆が50人近くいて賑やかだったそうですが、以来かれこれ50年、女将さんは新道の盛衰の全てを眺めつつ、独自のすき焼きの方法を創って来られました。

さて、酒肴の豆とキンメダイをいただきましたら、即すき焼きです。

まず、女将さん、シラタキを大量に鍋に投入します。

私は当然、あちこちですき焼きを食べますが、「まずシラタキ投入」に軽い衝撃を覚えました。

すぐに、その上に、ネギとタマネギ、豆腐と椎茸が、投入され二層になります。

そして、三層目に、肉です。

肉は米沢牛のロースのみ。勢いよくドンドン載せます。

三層に成る位ですから、当然鍋は深いです。

そして、割り下をその上からかけます。

実に豪快。勢いが在ります。

同行して下さった、金升酒造さんの「柱焼酎仕込み」の燗酒を合わせて御機嫌です。

いや、満喫しました、「肉食新発田」を。

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様

*おかげ様にて満員になりました。ありがとうございます。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は353人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.215日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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ステルベン

ネットの「ネタりか」に「知らないとソンする業界の隠語」という特集が載っていました。

この手のネタが好きなんですよね、私は。

で、早速クリックしてみますと・・・

■寿司屋

「山」ネタ切れ

「兄貴/弟」古いネタ/新しいネタ

山には魚がいないことからネタ切れの意味。

「山」は、寿司屋以外の飲食店でもよく使われているようです。使ってますねえ、「ちんや」でも。

■病院

「エッセン」食事休憩

「ステる」死亡すること

「エッセン」「ステる」ともに、ドイツ語のessen、sterbenに由来します。

医学界は、明治時代にドイツ医学を導入したことから、ドイツ語から来た隠語が多いようですが、「エッセン」じゃあ、そのまんまですから、ドイツ語の分かる人にはすぐバレますねえ。

「ステる」も既に一般人に知られていますから、隠語にならないかもしれません。

司馬遼太郎の長篇小説『胡蝶の夢』を読みますと、主人公・司馬凌海が勤務している医学校に、ドイツ医学を導入するため、ドイツ人教授が赴任して来る場面が描かれています。

凌海は、医師で語学の天才でもあり、ドイツ語に堪能でした。新教授は凌海と話した時に、あまりに上手に話すので「あなたはドイツに何年いましたか」と尋ねたそうですが、実際には日本から出たことはなかったそうです。

凌海は佐渡島の真野の出身で、千葉の佐倉と長崎で学んだ人でした。

先日、浅草の佐渡料理の「だっちゃ」さんに飲みに行った時、「佐渡出身の有名人は誰?」というクイズになり、私は「司馬ナントカっていう、名前は忘れたけど、『胡蝶の夢』に出てくる医者!」

と答えましたが、皆さん「???」という反応でした。佐渡ではあまり有名でないようです。

で、ネットで検索してみましたが、たしかに「佐渡出身の有名人」に凌海は載っておらず、

・宮田亮平=金属工芸家、東京藝術大学学長

・益田孝=戦前の三井物産の実業家、茶人でもあり茶器の収集が有名

・北一輝=戦前の右翼思想家、2.26事件に関与

・土田麦僊=戦前の日本画家、国画創作協会を設立

といった方々だけが出ていました。

でも、たしかに凌海は佐渡島の出身です。天才でありながらアル中だったので、忘れられたんでしょうかね。

凌海は通訳する時、日本語にない単語はその場で即座に造語した、というからスゴいです。漢文にも精通していたため、的確な訳語を促成できたのです。

蛋白質(Eiweiss)も凌海の促成語と言いますから、我々も普通にお世話になっていますね。佐渡の皆さん、やっぱり有名人に加えた方が良いと思いますよ。

さて、隠語の話しがいつの間にか、ドイツ語の話しに成ったので戻りますが、

■旅館・ホテル

「ノーショウ」予約している客が来ないこと

「幽霊」予約の入っていない客が来ること

ノーショウは、no show。

幽霊はノーショウの逆でゴーショウと呼ぶことも。

「ノーショウ」は隠語というより普通の言葉として使ってますねえ、「ちんや」でも。

「幽霊」は使いませんよねえ。

たしかに何かの間違いで、予約リストに載っていない人が、

「予約しました〇〇です!」

と名乗って店に入って来ることはあります。

どういうケースかと申しますと・・・

幹事さんが「ちんやに集合!」と人を呼び集めたのに予約を入れておらず、

しかし呼ばれた側は、当然予約が入っていると信じ込んでいて「予約しました〇〇です!」と言ってしまう場合です。

幹事さんが先に店に入れば、問題には成らないんですが、後から見えると混乱の元になります。実に困るんですが、たまにこういうことがあります。

その時、その件を目の前においでの御本人に知られないよう社内で連絡するのに、隠語が必要です。

でも「〇〇番の方は「幽霊」です!」なんて、おかしくて使えませんよ。

こういう場合、Sterbenが良いんじゃないですかね!

病院で「ステる」は既に有名過ぎて使えませんから、飲食業界に譲ってくれませんか?

例えば、

社長、大変です、ステった御客様が見えてます!とか・・・

追伸①

1963年6月15日に「スキヤキ・ソング」(=「上を向いて歩こう」)が、全米ヒット・チャート第1位を獲得しました。それから50年。その後、全米第1位になった日本人はいません。

~「スキヤキ・ソング」50周年記念~
「ちんや」で九ちゃんのCDが当たる週間 を開催しています。
平成25年6月15日(土)~23日(日)

1等:「上を向いて歩こう」CD
2等:世田谷文学館「上を向いて歩こう展」入場券
参加賞:「ちんや」金券133円 (参加賞は全員に差し上げます)

詳しくは、こちらをご覧ください。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.202日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

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GHQのすき焼きパーティ

その日もツイッターに「すき焼き」と入れて検索していました。で、発見しましたのは、

「昭和29年3月、GHQに接収されていたときに館内で撮られた写真。アメリカに帰国する将校のさよならパーティが地下食堂(現在はない)で開かれた。メニューはすき焼き。将校の後ろには三味線奏者の姿が。これは貴重な1枚。」

という@gakushikaikanさん(=神田錦町の学士会館)のツイートでした。

画像を開いてみますと、たしかに米軍将校とおぼしき人物が鍋を箸でつついています。写真の縁に「極東空軍士官クラブ」と印刷されていますから、空軍さんなのでしょう。

空軍さんは、着物の日本人女性たちに囲まれていますが、この人たちがすき焼きを作ったのでしょうか。

それとはまた別に、後ろの壁際に三味線をかまえた着物の女性が写っています。BGMのようです。

鍋は銀色で、鉄製には見えません。

たしかに貴重な写真ですね。

こういう写真が残っているのは、学士会館の建物が時代の風雪を乗り越えて来たからです。建造は昭和3年5月20日で、国の登録有形文化財だそうです。

GHQに接収される前にも、昭和11年(1936年)の2・26事件の時は東京警備隊司令部が置かれたり、昭和16年(1941年)に太平洋戦争が始まると、会館屋上に高射機関銃陣地が設けられたりと、なかなか苦労していますね。

しかし、その学士会館を、私のような私学出は親しんで利用してきませんでした。神田ですから、近いんですけどね。

だいたいですね、大正8年(1919年)に原敬・政友会内閣によって「大学令」が施行されるまで、慶應も早稲田も卒業生に学士号を授与できませんでした。

それ以前は、慶應も早稲田も大学ですらない「専門学校」扱いで、帝国大学つまり東京帝大と旧七帝大だけが「大学」でした。

学士様というのは、要するに帝国大学の出身者のことで、学士会館は、そう、その学士様の為の社交場だったのです。

そういう次第で学士会館は、帝国大学を出てない者にとっては、本来「お呼びでない」場所なのですが、今回すき焼きの写真を見て「久しぶりに行ってみようかな!」と思いました。今は勿論、誰でも利用できますからね。

早速、現在の学士会館の和食部門「二色」のメニューを調べてみますと・・・

寿司がメインで、天麩羅が少々と、何故かステーキ重だけが在ります。

すき焼きは、

無いですね・・・

けっ、これだから国立出はイヤなんだ!

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様(早めにお申し込み下さい)

<参加資格>どなたでも(=浅草法人会会員でなくても)参加できます。

<参加費>なんと、無料。

*参加の手続きはこちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.194日連続更新を達成しました。

1.200日が近づいてまいりました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 
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エレジー

世田谷文学館の「上を向いて歩こう展」を観に行きましたら、グッズ販売コーナーで『上を向いて歩こう』というタイトルの本を見つけました。結構分厚い本です。

著者の佐藤剛さんは音楽プロデューサーの方で、ザ・ブーム、宮沢和史、ZELDA、喜納昌吉&チャンプルーズ、ザ・プライベーツ、ヒートウェイヴ、中村一義、小野リサ、ハナレグミなどのプロデュースを手掛けた方です。小林幸子の50周年シングル「蛍前線」もプロデュースしたとか。

その佐藤さんが、一冊丸ごと「上を向いて歩こう」について書いたのが、この本です。

この歌が、戦後復興の中でどのように産まれ⇒育まれ、世界の「スキヤキ」になったのか。中村八大、永六輔、坂本九、その他多くの人への膨大な取材に基づいて、「昭和という時代の息遣いを追いながら書き下ろした、ヒューマンドキュメント」です。

拝読しまして、この曲が世界中に受け入れられた理由が何だったか、を知りました。

それは「この曲がエレジーだったから」~そう佐藤さんは書いています。

ザ・ブームにも世界中でヒットした曲がありますが、それは『島唄』で、これもやはり沖縄の哀しみを描いたエレジーです。

世界中の人々に受け入れられるのは、たいていエレジーだ、という佐藤さんの説に、私は納得しました。

良く考えてみれば、「上を向いて歩こう」がビルボードで1位になったのは1963年です。あの大戦争が終わって18年しかたっていませんね。

なのにアメリカを訪問した日本人の九ちゃんは群衆から熱狂的な歓迎を受けたのです。ありえないことです。

2001年のテロと比較してみましょう。

あの時「米国本土が攻撃されたのは真珠湾以来」と言われましたよね。あれから12年ですが、今のアメリカの大衆が、アフガンやパキスタンやスーダンの歌手を歓迎するなんて想像もつきません。

でも、九ちゃんは歓迎されました。

何故でしょう。

九ちゃん個人の魅力も当然あったと思いますが、やはり曲がエレジーだということは、決定的だったろう、そう私も思います。

アメリカは戦勝国で、戦後は空前の繁栄を謳歌していましたが、出征して帰還した兵士達が心の底から勝利に酔っていたわけではありませんね。心中には深い哀しみが在ったと思います。エレジーを求めていたのです。

もっとも、元浅草のご出身の永六輔さんがこの詞を書いたキッカケは、安保闘争敗北の哀しみでした。そんなことをアメリカの大衆は、おそらく知らなかったと思いますが、それでも曲が湛える感情は大勢の人に伝わりました。

この本は、そんな歴史について、さらには歌の力、音楽の力について、あらためて思いおこさせてくれました。

岩波書店2011/7/14刊行。ISBN-10: 4000222198、ISBN-13: 978-4000222198

ところで、本日6/8は「スキヤキ」が、1963年にビルボードで2位になった日です。そして次週6/15に、ついに1位になります。

その6/15から50年を記念して「ちんや」では、以下のようなイベントをいたします。ご都合がつきます方は、是非浅草へお出かけ下さいませ。

 「スキヤキ・ソング」50周年記念 

「ちんや」で九ちゃんのCDが当たる週間

 平成25年6月15日(土)~23日(日)

・「ちんや」御座敷で食事なさった後、レシートを「ちんや」売店内の

 抽選所にご持参下さい。お1人様1回抽選に参加できます。

(料理一人前をご注文いただいた方に限らせていただきます)

(「ちんや創業感謝祭」と同時に参加なさることはできません)

<1等>「上を向いて歩こう」CD

<2等>世田谷文学館「上を向いて歩こう展」入場券

<参加賞>「ちんや」金券133円(参加賞は全員に差し上げます)

 *「音のヨーロー堂」さんと世田谷文学館さんのご協力により開催させていただきます。誠にありがとうございます。

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様(早めにお申し込み下さい)

<参加資格>どなたでも(=浅草法人会会員でなくても)参加できます。

<参加費>なんと、無料。

*参加の手続きはこちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.192日連続更新を達成しました。

1.200日が近づいてまいりました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

 

 

 

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大東京繁昌記

知人の編集者氏が、すき焼きを食べに来てくれたのですが、

最近この本を出しまして・・・

と差し出された御本を見て、

あれ!

と思ってしまいました。その本の挿絵の原画を、先日展覧会で観たばかりだったからです。

その御本とは『大東京繁昌記 下町篇』(講談社文芸文庫)です。

この中の「大川端」の項の挿絵が、木村荘八の作でして、その展覧会を観て来たことは、このブログの4/27号に書きました通りです。

絵の作者・木村荘八(きむら・しょうはち)のことをあらためてご紹介しますが、洋画家・荘八は明治26年(=1893年)に東京・両国広小路の牛鍋店「いろは牛肉店」第八支店に生まれました。

荘八の父・荘平は、当時日本最大の牛鍋チェーン店「いろは」を経営し、「いろは大王」と言われた人物でした。

多数の愛人・妾がいて、東京市内20箇所にのぼる支店に、その愛人をそれぞれ配置して経営にあたらせたことが有名です。

画家になった荘八は、その妾腹の第八子なのです。

荘八は、やがて浅草に在った第十支店の帳場をまかされますが、画業の夢を断ちがたく、帳場をしながら絵も学び、やがて画家として成功します。

その荘八の、生誕『生誕120年展』が、東京駅の「東京ステーションギャラリー」で5/19まで開かれていて、『繁昌記』の挿絵の原画も展示されていました。

その絵の入った本を、知人が編集していたと知り、まったくの偶然なのですが、とても驚いた次第です。

肝心の内容ですが、

「関東大震災から四年、復興へと邁進する帝都・東京の変貌する姿と、いまだいたる所に残された災害の傷痕を、当時を代表する文豪、画家たちが活写した名随筆」で、昭和2年に「東京日日新聞」で連載されたものを復刊したものです。

文は芥川龍之介、泉鏡花、北原白秋、吉井勇、久保田万太郎、田山花袋といった下町ゆかりの文豪達。

木村荘八の「大川端」の部分の文は、吉井勇です。

ご購読はこちらからどうそ。

追伸①

「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様(早めにお申し込み下さい)

<参加資格>どなたでも(=浅草法人会会員でなくても)参加できます。

<参加費>なんと、無料。

*参加の手続きはこちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.188日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

地域団体商標制度

さて皆さん、「ちんや」という名詞は普通名詞ですか、固有名詞ですか。

「ももんじや」という名詞は普通名詞ですか、固有名詞ですか。

両方とも、普通名詞でもあり固有名詞でもあります。

「ちんや」は元々は狆屋でしたが、料理屋に転進した後も「ちんや」を使い続けました。料理屋なのに狆屋だなんて、アリエンテイーな名前を使う者が他にいるはずもなく、商標登録は問題無く出来たようです。

前職の名前をそのまんま使っている、という意味では、金沢に「鍔甚(つばじん)」さんという料亭さんがあります。

「鍔甚」の御先祖は、前田利家がまだ尾張にいた頃から仕えていたという鍔師です。鍔から料理に転じたのは1752年と言いますから、大変な歴史です。

先日業界の会合で、その御主人と隣席になりましたので、

「鍔甚」と「ちんや」って、ヘンな屋号の双璧だと思いますけど、他にこういう例をご存知ですか?

とお聞きしましたら、

いやあ、たぶん、無いと思うよ~

と笑っておられました。

この破天荒なネーミングに匹敵する会社は、コンピューターなのに林檎(=アップル)と名乗っている、彼の会社位なものでしょう。六代目の私に至るまで、「ちんや」というネーミングの恩恵を享けていますから、やはり商いには、どこか破天荒な要素が在った方が良い、そう申すことができましょう。

では、「ももんじや」ですが、これも元々は「百獣屋」と書いて普通名詞でした。

百獣屋とは、江戸時代に猪や鹿といった野山の獣を鍋にして食べさせていた店のことで、勿論当時はアングラです。

その内の一軒の、1718年創業の「ももんじや豊田屋」さんが、明治時代になって商標登録をしたことで、普通名詞でもあり固有名詞でもある状態に成ったのです。

普通名詞を商標登録するなんて図々しい!

と思われる方もおいでかもしれませんが、事情は違いまして、明治になって「ももんじや」という、アングラ営業時代の呼び方が廃れて、他に名乗る人もいなくなってしまったので登録が出来た、というわけです。結果、天然記念物的な御店として両国に現存しておいでです。

ではでは、宇都宮ギョーザは普通名詞ですか、固有名詞ですか。

富士宮ヤキソバは普通名詞ですか、固有名詞ですか。

これを、B1関係者の皆さんは固有名詞にするべく努力なさっているようですが、どうなりましょうか。

その地でしか作り得ないギョーザとかヤキソバなら固有名詞かもしれませんが、どうなんでしょうか。

「地域団体商標制度」の登録条件が緩和され、登録が容易になると報道されていますが、経過が注目されるところです。

「浅草すき焼き」も出願してみようかな。

 追伸①

 「浅草法人会」さんの主催で講演会をさせていただくことになりました。

<演題>すき焼きを現代に活かす~商いは、楽しく・古風に・斬新に

<日時>7月2日(火曜)17時受付開始⇒17時30分~19時頃まで

<場所>浅草文化観光センター5階(台東区雷門2-18-9)

<定員>60名様(早めにお申し込み下さい)

<参加資格>どなたでも(=浅草法人会会員でなくても)参加できます。

<参加費>なんと、無料。

*参加の手続きはこちらです。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は351人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.176日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

 

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最終日

上野公園に在る「旧東京音楽学校奏楽堂」は、耐震補強工事に入るため、3/28-3/31の「ありがとう・また逢う日までコンサート」を最後に、当分の間休館することになりました。

「奏楽堂」は、昭和62年に台東区の手で現在地に移築保存されたのですが、その時の用談に弊店がしばしば使われました。その経緯については、弊ブログの2012年1月5日号・6日号をお読み願いたいのですが、その経緯がありますもので、弊店は長年協賛広告を出して来ました。

それで、今回のコンサートにも招待していただけることになり、最終日に聴きに行って参りました。

館長さんに聞いたところでは、「奏楽堂」は、2011.3.11の時は、細いクラックが壁に入った程度だったそうですから、外壁の剥離があった「ちんや」よりマシなのですが、重要文化財ですので、補強が必要と判断されたそうです。

工法は未だ決定してないそうですが、解体再建となると工事に3年とか、かかってしまう模様です。

お名残り惜しいことです。

で、最終コンサートは、館に所縁の芸大の関係者による演奏で、演目にはバロック~前古典期の渋い音楽が並んでいました。

J.S.バッハ、C.P.E.バッハ、フレスコバルディ、クープラン、ブクステフーデ、スカルラッティ・・・といった作曲家です。

あれ? 館長さんは、たしか派手な感じで!と言っておいでだったような気がしたんだけどなあ・・・

でも、感動的なコンサートだったので、まあ、良いでしょう。

日本最古の洋式コンサート・ホールである、この楽堂で、ひととき音楽に浸らせていただきました。

聴き終えて外へ出ると、今年の早めの桜が散り行く最中。

楽堂に再会を誓って上野を後にしました。

なお、今後も「日本歌曲コンクール」「芸大生による木曜コンサート」は、合羽橋の「ミレニアム・ホール」で続けて行くそうですので、皆様のご後援を賜りたく、お願い申し上げます。

追伸①

藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は345人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.128日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

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櫂の雫も 

春爛漫ですね。

いや、爛漫でしょうね、皆さんは。

私は春の繁忙期ですので、バトルの最中です、当然。

しかも今年は花見とお彼岸が同時になってしまい、2002年以来のマズい事態です。大戦級のバトルの最中ですね。

でも、まあ、そんな話しは皆さんには面白くはないでしょうから、今日は桜を採り上げた音楽をご紹介しましょう。

それは、滝廉太郎の「花」です。

知ってるよ!♪春のうららの隅田川♪だろう!って?

ご存知なのは分かってますけどね、何しろ、私はこの歌を歌ってカラオケ判定の100点を獲ったことがありますので、意地でもご紹介します。それに最近、地下鉄浅草駅の電車発進の際の音楽が「花」に成りましたのでね。

さて1900年(明治33年)に発表された、この曲は当時隅田川で盛んだった漕艇(ボートレース、レガッタ)の様子などが歌われた歌です。

「櫂(かい)のしづくも 花と散る」の櫂とはオールのことなんですね。

「のぼりくだりの 船人が」と言うと、なんか、現代人はのどかな感じに読んでしまいますが、そういうイメージではないようです。

そう、この時代はもう明治も33年なのであって、日本は近代化の真っ只中でした。

「通人が屋形船で吉原へ」という情景ではなくて、早慶・帝大・高商のボートメンが颯爽と水面を走る様子をイメージしていただく必要があるのです。

ついでに申せば「花」は曲の調性もスポーツ風です。イ町長いやイ長調(Adur)で書かれていまして、「若き血」と同じです。

だいたい、「若き血」は変ロ長調(Bdur)と思っている人がおいでかもしれませんが、あれはブラスバンド向けに半音上げたものです。ブラバンの主力楽器は、変ロ(B)が基調のトランペットやクラリネット、ヘ(F)が基調のホルンですが、そういうB基調の楽器を使ってAdurの曲を吹こうとすると、♯が5個も付いてしまって非常に吹きにくいです。だから、

曲自体を半音上げて、Bdurにしてしまえ!そうすれば♯も♭も無しで吹けるぞ!

という実に乱暴なことをしてしまったわけで、皆さんはそれに慣れてしまっているかもしれませんが、やはり古典を知っている作曲家は、スポーテイーな曲は、かのベートーベンの「第七」=九曲の交響曲の中で最も躍動的な「第七」と同じAdurで書きたかったのだと思います。

だから「花」も「若き血」も「第七」もAdurなのだと思います。

さて、早慶レガッタに話しを戻しますが、

以前はまさに花見シーズンの最中に開催されていましたが、多数の酔客が堤防の上によじ登って観戦して危険なため、最近は桜の盛りとは時期をずらして開催されています。

またレガッタのために隅田川を封鎖してしまいますと、観光汽船が「花見船」を出すことができず、営業上の不利益が生じてしまう、という事情もあるようです。

粋でないですねえ。

そういう大人の事情で、レガッタの開催日は花の盛りとずれておりまして、「櫂のしづくも花と散る」情景を私たちは観ることができません。

今年の開催は4/21(日曜)です。

単独開催となり、大観衆が観ていた頃に比べると、チト寂しい様子ですので、当日お手すきの方は、是非墨堤へ足をお運び下さい。

♪ながめを何に たとふべき♪

(念のための注。二番、三番はレガッタの情景ではありませんね、勿論)

<春の臨時営業(火曜営業)のお知らせ>

春の観光シーズンをむかえ、下記の日は火曜日ですが、営業いたします。

どうぞ御利用下さいませ。

平成25年3月26日(火)隅田公園桜まつり

平成25年4月 2日(火)隅田公園桜まつり

平成25年4月30日(火)GW連休

追伸①

藤井恵子さん著の単行本『浅草 老舗旦那のランチ』に登場させていただきました。
不肖・住吉史彦が、「浅草演芸ホール」の席亭さんや、「音のヨーロー堂」の四代目とランチをしながら、浅草について対談する、という趣向です。

他にも20人ほどの、浅草の旦那さんたちがリレー対談で形式で登場します。

是非ご購読を! 平成24年6月3日、小学館発行。
ご購入はこちらです。 (できればレビューも書いて下さいね!)

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

 この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

 その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

 現在の笑顔数は336人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.116日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

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