浅草繁昌記

河治和香先生が編集なさった、

『駒形どぜう 二百余年あれこれ』という御本をいただきました。

その一部に明治43年の『浅草繁昌記』という本を紹介したコーナーがあり、そこに「ちんや」も出て来るからです。

さて、そこに登場する「ちんや」は、現代仮名遣いに直しましたが、

「広小路にあり、牛鳥鍋の料理を以て其(そ)の名を知らる。」

⇒「広小路」とは浅草広小路のことで、今は「雷門通り」と言っています。要するに現在地と同じです。

江戸幕府は火除けの為に、何か所か「広小路」を造りましたが、浅草広小路もその一つでして、私は、その歴史的名前を使った方が良いのに!とつね日頃申しております。

⇒当時は、牛料理と鳥料理が分業されていないことが多かったらしく、業種の分類として「牛鳥鍋」「牛鳥肉」と表記した史料をよく見かけます。

「支店は神田小川町にあり、肉味の佳良にして量の多きは言わずもがな」

⇒そう、短期間ですが、神田小川町に「ちんや」の支店が在ったこのは間違いないのですが、あまり史料の持ち合わせがありません。どなたか、詳しい方のご教示をお待ちしています。

「其の設備すこぶる整頓して衆人群衆するも毫もならず、快く飲食せらるるは、その特長とや言わん。」

⇒当時の「ちんや」は、現在の「浅草中央通り」まで敷地があって、相当な大型店だったようです。大規模な設備を構えて、大勢の御客様を迎えていたようでです。

「衆人群衆する」店で、それが特長だという表現に、当時の勢いを感じさせます。

明治38年に六銭だった、どぜう汁が1.750円になるまでの表も面白いです。

結構な御本に載せていただき、ありがとうございました。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

 追伸②

ビジネスマンの方を対象に、忘年会に関する意識調査を実施させていただました。
目的は、もちろん、日本の会社の忘年会を、もっとワクワクするもの、もっと意義あるものにしたいからです。
忘年会は毎年惰性でやっている…では悲しいですよね。
ビジネスマンの皆さんは、どんな忘年会なら出席したいのか、逆に、どういう忘年会はパスしたいのか、
その答えがここにあります。
会社の忘年会から、この国を元気にしていきたいと思います。

この調査結果は、そのための参考にしていただきたいと思います。
さてさて、大ショックの調査結果はこちら↓から。

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.385日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

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みなと横濱牛鍋処~第16回すきや連②

第16回「すきや連」を開催しました。

今回の会場は明治28年ご創業の、みなと横濱牛鍋処「荒井屋」さん。今回も50人以上のすき焼き関係者が集結して大盛況でした。

その時に参加者の皆さんに書いていただいた寄せ書きは、昨日の弊ブログに載せましたが、その中に、

「文明開化には私たち業界の御苦労があった・・・とても勉強になる卓話でした。」

というのがありましたね。今日は、その卓話の内容をご紹介しましょう。さて、

<卓話のテーマは>

 「幕末期の横浜居留地の外国人と牛肉―苦労した肉牛の仕入れと屠牛場の設置―」

 <講師の先生は>小林照夫先生

 関東学院大学名誉教授、日本大学大学院商学研究科非常勤講師、社会学博士

 <内容は↓>

「外国人居留地の開設後、牛肉を食べる文化習慣がなかった日本人(横浜人)は、色々と戸惑いを覚えた。特に屠牛後の骨等の廃棄が居留地の環境の悪化にもつながり、当時の社会問題にもなった。そんな当初の横浜の状況を踏まえながら、日本人にも牛肉が食されるようになった背景を語ります。」

この卓話の中で、私が初耳でしたのは、「生麦事件」と肉の関係のことです。

風が吹くと桶屋が儲かるように、「生麦事件」で薩摩藩士がイギリス人居留民を殺した結果、横浜の食肉産業が急速に発展したのです。

へええ!でしょう。

「生麦事件」についての詳細は、皆さんに自分で調べていただくことにして割愛しますが、とにかく、1862年(=文久2年)に起きた、この事件の結果、イギリス軍と日本は緊張状態に入り、居留地防衛のために多数の兵士が横浜へ入って来たのです。

兵数はフランス軍も加わって2.300人、12年間横浜に駐屯したそうです。 

現在「港の見える丘公園」という名前でデートの名所になっている辺りが駐屯地で、当時は「トワンテ山」と呼ばれたそうです。イギリス軍第20連隊(トウェンティー)がなまって「トワンテ」に成ったわけです。

「生麦事件」の後も、長州藩と4か国連合艦隊の砲撃戦など外国との紛争が続いた結果、兵数は増強され、港に浮かぶ軍艦の乗組員を入れると、約8.000人もの外国軍隊が横浜に集結していたそうです。そう、当時横浜は一大軍事拠点と化していたのです。

さて、これから桶屋が儲かります。

この駐屯軍が地域にもたらした経済効果が大きかったのです。

軍は、肉・野菜・小麦粉・茶・砂糖・炭・油・酒類などの食料日用品を調達し、兵舎での寝具類の洗濯・繕いといった仕事を公募しました。入札に参加したのは外国人商人でしたが、実際には地元の日本人が、その下請けをしたことも多かったようです。

さて、ここで皆さんは軍需物資の筆頭に「肉」が挙げられていることに気づきましたね。

横浜の食肉産業が一気に発展した理由がこれです。

明治維新後、この駐屯軍について日本政府は、独立国である日本に他国の軍隊が存在することは国際法上問題だとして交渉を続け、1875年に完全撤退となりましたが、地元民は収入源を失うので撤退を大変惜しんだそうです。

いやいや、勉強になりました。

勿論その後は、歴史を噛みしめつつの牛鍋大宴会。

加えて、女将さんは美女。幸せな一夜でした。

 追伸①

NHK総合テレビ『月刊やさい通信』に出演します。

※なぜ、すき焼きにシュンギクを入れるのか?

※すき焼におけるシュンギクの役割

という内容です。是非ご覧ください。

11月24日(日)朝6:15~6:45

11月28日(木)昼12:20~12:43(短縮版)

http://www4.nhk.or.jp/P554/

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は373人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.358日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

明治のスーパーマジシャン

先日「手妻」(=てづま。日本古来のマジックのこと)の藤山新太郎さんの公演を観に行った時に、会場に藤山さんの御本があったので買ってみました。

『天一一代  明治のスーパーマジシャン』という御本で、日本奇術の「中興の祖」とも言える松旭斎天一の生涯を描いた評伝です。

実は、藤山さんのサインが欲しかったので、内容はさほど期待しないで買ったのですが、非常に面白かったです。波乱万丈でした。

天一は、歌舞伎座興業など日本全国はもとより欧米巡業公演にも成功したスーパースターでした。古来の手妻と西洋奇術の両方を習得して、統合⇒時代にあわせて再構築した人物でもあり、日本奇術史上最大の人物と言っても過言ではありません。

歌舞伎・落語・舞踊・相撲・・・皆いったんは明治時代に否定され、新しい形に創り直され、それが今日に古典として伝わっています。奇術の世界でその役割を担ったのが、天一でした。

しかし、その天一が奇術に入門した経緯は、ハッタリでした。

生まれは下級武士の家ですが、父の不祥事で一家離散、寺に預けられたものの、素行が治まらず、食うや食わずとなり、切羽つまってチャレンジした「奇術」がビギナーズラックで成功してしまったことが、マジシャン人生のスタートでした。

その後、奇術界の最高峰の位置に登り詰めるまで、ハッタリと努力、度重なるケガ、巨額の投資・・・と本当に面白過ぎます。

その人生を藤山さんは、禅の「十牛図」の、子が悟りをひらくまでに例えて描いていきます。

御自身が現役マジシャンですから説得力がありますね。

奇術にご興味がなくても、人生のドラマとして読んで面白いです。是非どうぞ。

追伸①

NHK総合テレビ『月刊やさい通信』に出演します。

※なぜ、すき焼きにシュンギクを入れるのか?

※すき焼におけるシュンギクの役割

という内容です。是非ご覧ください。

11月24日(日)朝6:15~6:45

11月28日(木)昼12:20~12:43(短縮版)

http://www4.nhk.or.jp/P554/

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は370人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.347日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 
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「文化の」日

毎年11月3日になりますと私は、心から祝って良いのやら、そうでもないのやら、複雑な気分になります。

この日が「文化の日」と呼ばれているからです。

「文化の日」に成ったのは1948年(昭和23年)のことです。「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨とした祝日ですね、一応。

では、1948年以前は、どんな日だったのでしょう。

この日は明治天皇のお誕生日ですので、1873年から陛下がお亡くなりになるまでは「天長節」として、それ以降は「明治節」として、祝われていました。

この国を文明開化へと導いた大帝陛下の誕生日ですから、明治時代には正月より目出度い日でしたが、敗戦後GHQの統治下で「明治節」という名前が使いにくくなってしまいました。

当時日本側は、新しい「日本国憲法」を1946年の11月3日に公布し、この日を「憲法記念日」にしようと目論みましたが、GHQから「絶対にNG!」とダメ出しを食らい、仕方なく「憲法記念日」は憲法が施行された日である5月3日にすることになったようです。

で、困りましたのは11月3日を何の日にするか、です。

「明治節」には、1937年以降、文化勲章の親授式が行われてきましたから、それで、この日を「文化の日」にしたわけです。

「明治節」だから⇒文化勲章の親授をする、のが逆立ちして、文化勲章を親授するから⇒「文化の日」に成ったんですね。

このような「文化の日」をめぐる経緯は、誠に恐れ多い話しなので、どこにも書いてないのですが、要するには、そういうことだったと思います。

ともあれ、陛下が1873年(明治5年)1月24日に牛肉を召し上がらなければ、現在ほとんど全てのすき焼き屋は成立していないことでしょう。

 「ちんや」では、この日を「明治節」として奉祝し、箸は終日祝箸を使って営業いたしております。

追伸①

NHK総合テレビ『月刊やさい通信』に出演します。

※なぜ、すき焼きにシュンギクを入れるのか?

※すき焼におけるシュンギクの役割

という内容です。是非ご覧ください。

11月24日(日)朝6:15~6:45

11月28日(木)昼12:20~12:43(短縮版)

http://www4.nhk.or.jp/P554/

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は370人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.343日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

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地酒で乾杯!

「乾杯条例」を持つ自治体が、ついに21か所に増えたそうです。

「乾杯は地酒で」と定めた条例は、まず日本酒の本山・伏見を抱える京都市で制定されました。弊ブログでもご紹介しましたので、読まれた方もおいでと思いますが、その後も全国各地に広がりを見せているようです。

酒造組合中央会によりますと、9月30日現在で21自治体が制定し、その内日本酒に限定したのが13自治体と最多だそうです。

最近制定された和歌山県海南市の条例では日本酒には限定せず、梅酒や焼酎などを含めた「地酒」としたそうです。この辺りは梅酒が盛んで、梅酒の生産量が日本酒を上回っているからです。

もっとも洋酒で乾杯しても罰則はなく、条例では市民に対して

「市及び事業者が行う地酒による乾杯とその普及の促進に関する取り組みに協力するよう努める」ことを求めているだけです。

中央会さんの談話でも「全国で、条例が消費量増加に直結した例はまだ聞いたことがない」と言う。

うーん。

日本酒は、どうしても度数が高いですからね、最初から酔うとツラいと言う人は多いかもしれませんね~

それにもう1点申し上げれば、酒税は国税だ、という点がネックなのでは、と思います。蔵元が地元に在っても自治体に税収が入らないので、本気で盛り上げる気にならないのでは・・・と思ったりしてしまいます。

そういう形に成っている背景としては、明治時代に一番取りやすかった税金が酒税で、国庫の柱だったという事情があるようです。実際、1902年には酒造税だけで全ての国税収入の42%を占めたこともあった、というから驚きますが、今は全然状況が違うのですから、変えても良いのでは?と私は思っています。

札幌市民はビールを飲みまくり、

小樽市民はウイスキーを飲みまくり、

京都市民は酒を飲みまくり、

⇒その税収で市を盛り上げる、そういう形に変えても良いのでは?と私は思っています。

まあ、もっとも、私はいつでも日本酒で乾杯なので、条例も税金も関係無いですけどね~

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は366人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.325日連続更新を達成しました。

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5代目と3代目

河路和香先生の長篇時代小説『どぜう屋助七』は、「駒形どぜう」さんの4代目を主人公にした小説です。文芸雑誌「Jノベル」に連載されてきて、9月号で無事最終回を迎えました。

この小説には、狆を売っていた頃の私の祖先・住吉やすも登場するのですが、やすはあくまで脇筋なので、いつかお話しするとしまして、今日は最終回の、4代目が亡くなる前後の、本筋の部分を読んで気づいたことをお話ししたいと思います。

さて、料理屋の店主としては破天荒な生涯を送った4代目が39歳の若さで亡くなったのは明治4年、明治維新の直後のことでした。

この時点で、「駒形どぜう」さんには、ご隠居すなわち3代目と、修行を終えて戻って来たばかりの若旦那すなわち新5代目がいました。

若旦那はまだ若くて父から充分な事業継承を受けておらず、しかし新時代の新しい発想だけは吸収しています。その5代目と3代目の対話の部分が、事業継承の物語として、興味深く読める部分です。

5代目は、4代目の四十九日を終えると店をぬけることが多くなり、いったい何をしているか、と申しますと、

不動産経営や、米の相場。

当然、その様子を見た3代目が苦情を言いますが5代目は独自の理論で反論します。曰く、

「金儲けは別のところでやって、(どぜう屋は)一種の道楽で、損をしてもいいように、安い値段で続けたい、っていうことなんだよ」

「だからどぜう汁も鍋も値上げはしない。世の中のために、安くてうまい店を続けたいんだ。だから、それを別のところでがっちり手堅く稼ぐんだ」

これには、真面目は3代目は「そんな・・・」と絶句してしまいます。

さらに5代目は、購入した農地で農業を始めてしまいます。「川上との統合」ですね。

材料は出入りの業者から買うもの、と考えている3代目から見たら、おそるべき発想です。

ダメ押しで「おじいさん、もう昔とは時代が違うよ」

「どぜう屋は一種の道楽」というのは、現当主6代目が言っておいでのことに近いですが、こんな昔から言っていたんですね。

もっとも6代目は不動産とか相場ではなく、外食産業を展開することで、利益を出しておられるようです。

さてさて、この5代目と3代目の対話、どちらにも理がありますが、皆さんはどう読まれましたでしょうか。

 追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

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大人の感想文

二条彪先生の「台東区若手経営者サポートセミナー」が始まり、宿題が出ました。

それは、小説を読んで気づいたことを書け、というもの。先生は以前から、小説を読んで人間の感情の機微を学ぶことが大事だ、と説いておられます。

以下↓その宿題です。

小説の題名:夜明けのハンター 文明開化物語

著者名:三条杜夫

内容説明:

近代日本の幕開けとともに英国から神戸へ来たE.H.ハンター。牛肉文化、造船、たばこといった事業を展開、国際結婚もして、日本の近代化に大きく貢献。彼のもたらした風は21世紀の今も現在に息吹く。鎖国の長い眠りから覚めた日本が大きく変貌を遂げた文明開化の時代。時の流れに翻弄されながらも、いのちの炎を燃やして産業、文化の道を切り開いた人たち。ハンターの生き様を縦糸に、彼と関わる人々の活躍ぶりを横糸に、現代日本の原点を綾なすエピソードの数々を綴る小説。

気づいたこと:

・とにかく登場人物たちの創業者精神・チャレンジ精神がスゴい。産業化できると思った事業には、次々に手を出す。一見「いい加減」にすら見えるが、勿論失敗した場合の責任は自分が負う。日本で自殺した英国人もいた。現代人にはマネできない行動力。

・登場人物たちは産業化できると思った事業のすべてに着手したわけではなく、社会貢献になると信じるものを選んで着手している。そうすると自然に人が集まってくるので、次々に事業に着手しても、人材が不足しない。応援してくれる外部の人にも恵まれる。

・登場人物たちは、退職者と険悪にならず人間関係を継続している。独立する時に別の商圏に移るなどマナーを守っている。

・「日本人以上に日本人らしい」外国籍の登場人物たち。生まれ出た土地でなくても、深く学べば、その土地の人に成れる。

・本を刊行することについて、地元神戸のスポンサーを募っている。つまり商業出版と自費出版の中間形態の本。本が売れず、本が出しにくい情勢の中で、なんとか刊行する手法として評価できる。

・地域活性化の手法として評価できる。実際、この本は地域活性化を目的として刊行された。現代の、地元の人間が開拓者の精神を学べるので、大変良い。下手にB級グルメを開発するより、よほど良い手法。

(以上)

えっ、その本は御所坊の御主人から貰ったものだろう って?

そ、そうですけど、何か?

「小説を購入して感想を書け」っていう宿題じゃないですからね。ふん。

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

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外国通

9/11の弊ブログで単行本『夜明けのハンター』について触れました。今日は、もう少しその話しを、と思います。

この本では、神戸ビーフを普及させた人物として、キルビー商会のキルビーと、その部下・ハンター、それから初代の兵庫県知事・伊藤博文(=後の総理大臣)が登場します。

ここで誰でも疑問に思うことは、伊藤が何故27歳と若いのに知事に成っているのか、ということです。

少し長くなりますが、説明しますと、明治維新で政権を獲った薩長方には外国通の人物が少なく、伊藤が、その数少ない外国通だったから、というのが、その理由です。兵庫が開港して、外国人居留地が建設されていましたので、外国通が起用されたのです。

なにしろ長州藩と言えば「尊皇攘夷」の総本山でしたから、外国のことを学ぶなんてトンデモなかったわけです。維新の前夜になって薩長同盟が成立して、それでようやく「攘夷」の旗を下した位ですから、外国通なんてほとんど藩内にいません。

そんな中、伊藤と井上馨は密航同然で英国に渡った経験があり、英語が話せたので外交通と看做されていた、という次第です。

薩長=国際的、幕府=守旧的というイメージは間違っておりまして、当時むしろ幕府方に外国通がたくさんいました。福沢諭吉先生がそうですね。

先生は適塾で学んだ後、咸臨丸の艦長・木村摂津守の従者としてアメリカへ渡り、帰国後は摂津守の推薦で、中津藩に籍を置いたまま幕府外国方に出仕することになりました。だから当然幕府方ですね。

徳川慶喜もフランス公使と親密で、フランス式の軍隊を新設したりしました。

このように幕府方には外国通がいましたが、長州藩には少なく、わずかな例外が伊藤・井上、それから大村益次郎でした。

大村は元々武士ではなく医者で、適塾で福沢先生と同門。蘭学を学ぶ内、西洋の兵術・砲術なども学び、その学問を活かして薩長方の実質的な参謀総長になります。

実に人生とは数奇なものです。

さて肉の話しに戻ります。そんな日ノ出の政治家・伊藤とキルビー・ハンターの出会いが、神戸ビーフを有名にした、というのが『夜明けのハンター』の筋です。

伊藤は27歳、ハンターは10代でアイルランドを出奔して来ていますから、伊藤よりも年下。そんな若い面々が神戸ビーフを推進した、というのが、この本が描く情景です。

小説の形態をとっておりまして、描かれていることの全てが史実ではありませんが、有馬温泉「御所坊」の御主人によりますと、

「だいたいは本当です」ということですので、皆さんも、是非どうぞ。

 

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.293日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。

 

 

 

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開園160周年

浅草の遊園地「花やしき」さんが開園160周年を迎え、記念セレモニーを開いたそうです。

そもそも「花やしき」さんは、江戸時代末期の嘉永6年(1853年)に、造園師・森田六三郎が牡丹や菊細工を見せるための、文字通り、花やしきとして開園したのが始まりです。

その後、浅草奥山が流行の地になるにつれ、珍獣・猛獣を飼育・展示する動物園のような施設に変貌、五階建てのランドマークタワー「奥山閣」も建設したりして、なかなか華やかだったようです。

「奥山閣」は最上階に鳳凰を載せていたので「鳳凰閣」とも言われ、「ちんや」が所蔵する開化絵で、その姿を見ることができます。

その後、関東大震災や戦争で一時閉園。戦後の昭和24年に娯楽機メーカー経営の遊園地として再開されました。

いったん経営危機に陥りますが、親会社が変って最近はご盛業です。

今の体制になってからは、「夜間貸し切り」といった、斬新な商売のアイデイアが出て来るようになってきました。

これに目をつけたのが茨城県酒造組合さん。

「夜間貸し切り」で「地酒祭り」を開催したのです。

30社以上の酒蔵が出品し、フードも多少ありまして、園内のそこここで、700人もの人々が酔態を繰り広げる、という催しが、既に2回開催されています。今年の10/11にも、その第3回があるというので、私は非常に楽しみにしています。

「花やしき」さんの、ますますの御盛業を記念します。

 追伸①

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21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

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「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.256日連続更新を達成しました。

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高談娯心

ある日、例によってツイッターに「すき焼き」と入れて検索していたところ、@goshoboさんという方のツイートを発見しました。

由緒ありげな書の画像が付けられていて、

「御所坊の客室のひとつに掲げられている伊藤博文の書「高談娯心」。高い志の話をすれば、お互い気持ちが良くなる・・・という意味の言葉。」

「神戸の文化人たちはこの書の下で、すき焼きを食べることを習慣にしていた。」

とありました。

御所坊と聞いて私は、

「ひょっとして、あの有名な旅館?!」と思い、もう少し調べましたら、間違いありませんでした。有馬温泉の老舗旅館『御所坊』のご主人でした。

『御所坊』さんは、鎌倉時代の1191年創業といいますから、気が遠くなりますね。伊藤博文、谷崎潤一郎が通った宿でもあります。

実は初代の兵庫県知事は伊藤博文です。

神戸に外国人居留地が在ったので、英国に渡航経験のある伊藤公が起用されたのでしょう。在任期間は、わずか1年ほどでしたが、その後も神戸・有馬を愛したそうです。

さて、その伊藤公に愛された『御所坊』の当代の御主人は、ツイッターのプロフィールによりますと、

「本業の他地域活性化の手伝いをしている。現在神戸ビーフの里を手掛けている。カフェド・ボウ、花小宿等。また有馬活性化に有馬サイダーや有馬玩具博物館等。今後「健康」をテーマにした事業を行っていきたい。」

・・・ということで精力的な方のようです。

私の知人というわけではゼンゼンないのですが、すき焼き繋がりということで、リツイートさせていただき、FBでもシェアしました。

そうしましたらFBで、

「住吉さん 良いですね 今後ともよろしくお願い致します。」

とコメントを返して下さいました。

いつかお訪ねするのが楽しみです。

 

追伸①

単行本『東京百年老舗』に載せていただきました。

21人のフォトグラファーたちが、歴史と伝統を現在に伝える「老舗」の魅力を余すことなく写しだした写真集です。

時代が変わっても、変わることのない老舗の魅力が、ここにあります。

くわしくはこちら↓です。

追伸②

「日本国復興元年~1千人の笑顔計画」を実行中です。

この「計画」では、まず「ちんや」で東北・北関東の牛を食べていただきます。そして食後の飛びっきりの笑顔を撮影させていただきます。

その笑顔画像をこちらのサイトにUPして、北の産地の方に見ていただきます。

現在の笑顔数は361人です。笑顔数が1千人に達するまで継続してまいります。

皆様も、是非御参加下さい!

本日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。御蔭様にて1.246日連続更新を達成しました。

毎度のご愛読に感謝いたします。浅草「ちんや」六代目の、住吉史彦でした。